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第17話:サイレンス・トラップ
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そんな幸せな日々が、夢のように過ぎていった。
『サマーソニック・レジェンド』の開催を数日後に控えた、ある晴れた午後まで。
二人は、新曲『サイレンス・コード』の最終調整を終え、穏やかな達成感に包まれていた。
「樹、最高の曲ができたな。これも全て、お前のおかげだ」
玲が、心からの笑顔で樹に言った。樹も、照れくささを滲ませながら、どこか嬉しそうに微笑み返した。
その時だった。
「ああ、本当に素晴らしい。最高の『絶望』を歌うための、完璧な準備が整った」
玲の口から、氷のように冷たい言葉が紡ぎ出されたのは。
その笑顔は変わらない。だが、瞳の奥に宿る光だけが、先ほどまでの温かいものから、底なしの闇を湛えた、冷酷な光へと変貌していた。
樹の思考が、一瞬にして凍り付いた。
玲の言葉の意味を、脳が理解することを拒絶している。先ほどまでの、あの優しい時間は何だったのか。あの温かい眼差しは、慈しむような愛撫は、全てが幻だったというのか。
「…れ、い…?今、なんて…」
掠れた声で問い返す樹に、玲は変わらぬ穏やかな笑みを向けた。その笑みの奥で、瞳の光だけが冷たく、より鋭く細められていた。
「言っただろう、樹。最高の『絶望』を歌うための、完璧な準備が整った、と」
その声は、先ほどまで樹を包み込んでいた優しいバリトンではなく、地獄の底から響いてくるような、絶対零度の響きを帯びていた。
「お前が、俺の仕掛けたこの甘い罠にかかり、偽りの幸福感に満たされ、そして俺への信頼と愛情を取り戻した、まさにこの瞬間に叩き落とすことこそが、お前の魂から真の、純粋な絶望を引きずり出すための、唯一無二の方法だと確信していた」
全身の血が、急速に引いていくのを感じた。手足の感覚がなくなり、呼吸が浅くなる。目の前にいる玲の姿が、ぐにゃりと歪んで見える。
「さく、せん…?罠…?」
「ああ、そうだ。お前のあの感情的な爆発も、俺の謝罪も、その後の蜜月も…全ては、この瞬間のためのお膳立てに過ぎない。お前が心から俺を信じ、愛し始めたと感じた、その絶頂から突き落とすことでしか、お前の歌声に宿る『本物の絶望』は覚醒しないのだからな」
玲は、まるで子供に言い聞かせるように、残酷な言葉を丁寧に紡いでいく。その顔には、微塵の後悔も、罪悪感も浮かんでいない。ただ、自らの完璧な計画が成就したことへの、倒錯的な満足感だけが浮かんでいた。
「嘘だ…そんな…だって、あんたは…優しかったじゃないか…!」
樹の目から、再び涙が溢れ出す。だが、それは先日のような、感情の奔流としての涙ではなかった。魂が、内側から砕け散っていく音を伴うような、静かで決定的な絶望の涙だった。
「優しさ?ああ、それは俺にとっても新しい発見だったよ。人間は、これほどまでに優しく振る舞えるものなのかと、自分自身に感心したほどだ。だが、それも全て、より深い絶望を生み出すためのスパイスに過ぎない。お前は、俺の音楽を完成させるための、最高の『素材』なのだからな、樹」
玲は、ゆっくりと樹に近づき、その震える肩に手を添えた。壊れ物を扱うような丁寧さの中に、拒絶も逃走も許さぬ圧が込められていた。
「さあ、樹。お前の魂が奏でる、最高の絶望の歌を聴かせてくれ。それが、お前が俺のそばにいる唯一の理由であり、お前が存在する唯一の意味だ」
樹は、もう何も感じることができなかった。怒りも、悲しみも、憎しみさえも、全てが巨大な虚無感の中に飲み込まれていく。ただ、目の前にいる男が、自分が信じ、愛しかけた男が、悪魔よりも冷酷な存在であったという事実だけが、鋭い刃となって心を抉り続ける。
『サマーソニック・レジェンド』の開催を数日後に控えた、ある晴れた午後まで。
二人は、新曲『サイレンス・コード』の最終調整を終え、穏やかな達成感に包まれていた。
「樹、最高の曲ができたな。これも全て、お前のおかげだ」
玲が、心からの笑顔で樹に言った。樹も、照れくささを滲ませながら、どこか嬉しそうに微笑み返した。
その時だった。
「ああ、本当に素晴らしい。最高の『絶望』を歌うための、完璧な準備が整った」
玲の口から、氷のように冷たい言葉が紡ぎ出されたのは。
その笑顔は変わらない。だが、瞳の奥に宿る光だけが、先ほどまでの温かいものから、底なしの闇を湛えた、冷酷な光へと変貌していた。
樹の思考が、一瞬にして凍り付いた。
玲の言葉の意味を、脳が理解することを拒絶している。先ほどまでの、あの優しい時間は何だったのか。あの温かい眼差しは、慈しむような愛撫は、全てが幻だったというのか。
「…れ、い…?今、なんて…」
掠れた声で問い返す樹に、玲は変わらぬ穏やかな笑みを向けた。その笑みの奥で、瞳の光だけが冷たく、より鋭く細められていた。
「言っただろう、樹。最高の『絶望』を歌うための、完璧な準備が整った、と」
その声は、先ほどまで樹を包み込んでいた優しいバリトンではなく、地獄の底から響いてくるような、絶対零度の響きを帯びていた。
「お前が、俺の仕掛けたこの甘い罠にかかり、偽りの幸福感に満たされ、そして俺への信頼と愛情を取り戻した、まさにこの瞬間に叩き落とすことこそが、お前の魂から真の、純粋な絶望を引きずり出すための、唯一無二の方法だと確信していた」
全身の血が、急速に引いていくのを感じた。手足の感覚がなくなり、呼吸が浅くなる。目の前にいる玲の姿が、ぐにゃりと歪んで見える。
「さく、せん…?罠…?」
「ああ、そうだ。お前のあの感情的な爆発も、俺の謝罪も、その後の蜜月も…全ては、この瞬間のためのお膳立てに過ぎない。お前が心から俺を信じ、愛し始めたと感じた、その絶頂から突き落とすことでしか、お前の歌声に宿る『本物の絶望』は覚醒しないのだからな」
玲は、まるで子供に言い聞かせるように、残酷な言葉を丁寧に紡いでいく。その顔には、微塵の後悔も、罪悪感も浮かんでいない。ただ、自らの完璧な計画が成就したことへの、倒錯的な満足感だけが浮かんでいた。
「嘘だ…そんな…だって、あんたは…優しかったじゃないか…!」
樹の目から、再び涙が溢れ出す。だが、それは先日のような、感情の奔流としての涙ではなかった。魂が、内側から砕け散っていく音を伴うような、静かで決定的な絶望の涙だった。
「優しさ?ああ、それは俺にとっても新しい発見だったよ。人間は、これほどまでに優しく振る舞えるものなのかと、自分自身に感心したほどだ。だが、それも全て、より深い絶望を生み出すためのスパイスに過ぎない。お前は、俺の音楽を完成させるための、最高の『素材』なのだからな、樹」
玲は、ゆっくりと樹に近づき、その震える肩に手を添えた。壊れ物を扱うような丁寧さの中に、拒絶も逃走も許さぬ圧が込められていた。
「さあ、樹。お前の魂が奏でる、最高の絶望の歌を聴かせてくれ。それが、お前が俺のそばにいる唯一の理由であり、お前が存在する唯一の意味だ」
樹は、もう何も感じることができなかった。怒りも、悲しみも、憎しみさえも、全てが巨大な虚無感の中に飲み込まれていく。ただ、目の前にいる男が、自分が信じ、愛しかけた男が、悪魔よりも冷酷な存在であったという事実だけが、鋭い刃となって心を抉り続ける。
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