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朝、エリックは王太子妃の私室へと向かった。
回廊の窓から差し込む光が、白く石壁を照らしている。
静かな空間に、自分の呼吸だけが鮮明に響く。
扉の前で立ち止まり、一瞬だけ目を閉じる。
握った拳の力が、思った以上に強いことに気づき、ゆるめた。
深く息を吸う。
「――エリックです」
入室の許可を得て足を踏み入れると、やわらかな春の光が室内を満たしていた。
窓辺に立つソフィは、薄絹のカーテン越しの陽射しをまとい、淡い金色に縁取られている。
その姿は穏やかで、これまであった影がどこにも見えない。
「エリック」
呼ぶ声は、驚くほど静かで温かい。
その落ち着きが、かえって胸に刺さる。
エリックは数歩進み、深く頭を下げた。
「妃殿下。昨夜の件につきまして――」
「私からの処罰はありません。ロラン様のご判断に従って」
きっぱりと告げられ、思わず頭をあげる。
「……この件を公にして、喜ぶのは王家の外の者だけでしょう?」
ソフィは皮肉な笑みを浮かべる。
彼女にしては珍しい表情だった。
「しかし――私は、越えてはならぬ無礼を」
「無礼?」
ソフィはわずかに眉を下げ、静かに首を振った。
「あなたがいなければ、私たちはあのまま意地を張り続けていたわ」
視線が窓の外へ流れる。庭では若葉が揺れている。
「処罰より……褒美をあげたいくらいよ」
冗談めかして笑う。
その笑みは、王太子妃として整えられたものではない。
幼いころから共に過ごした“ソフィ”の顔だった。
エリックは目を伏せる。
あの瞬間、彼女を押し倒した感触が手に焼きついている。
何度洗っても消えない気がした。
それを赦せるほど、器用ではない。
その頑なさを見て、ソフィは小さく息をついた。
「……それなら、お願いがあるわ」
声色が変わる。
王太子妃としてではなく、ひとりの妻として。
「これからも、ずっとロラン様を守って」
「……っ」
エリックは深く頭を下げた。
「……承知いたしました。……ただ、殿下のお許しをいただいてから」
ソフィは静かに頷いた。
「ええ。……行ってきなさい」
扉を出ると、エリックは大きく息をついた。
そのまま、ロランの執務室へ向かう。
回廊を渡るあいだ、胸の奥は重いままだった。
ソフィから赦しを与えられても、自らの罪は消えない。
朝の執務室。
差し込む淡い陽光が書類の山を照らし、いつもと変わらぬ静けさが広がっている。
まるで昨夜など存在しなかったかのように、二人の朝は始まった。
執務机を挟み、向かい合う主従。
「――以上が、本日の予定です」
「わかった」
淡々とした報告。淡々とした返答。
だが、その均衡を崩すようにロランが視線を上げた。
「エリック、頼みがある」
一瞬、空気が張りつめる。
「……その件であれば、別の者に。もう、私は……」
エリックの声は低く、すでに覚悟を終えた者のそれだった。
処罰を待つ罪人のように、感情を押し殺している。
そんな臣下を、ロランはまっすぐに見据えた。
「エリック。昨夜、お前は務めを果たしただけだ」
「しかし――」
「俺からの処分はない」
きっぱりと告げられた一言。
エリックの瞳が大きく揺れる。
「……そうはいきません。あれは越えてはならぬ一線でした。もっと、他にやり方があったはずです。私は……」
自責の念が滲む声。
ロランは小さく息を吐いた。
「あれくらいじゃなかったら、俺は動けなかった」
静かに、しかしはっきりと。
「俺は、あのまま意地を張っていた。ソフィも、きっと」
昨夜の光景が脳裏をよぎる。
エリックの挑発。ソフィの涙。そして、自分の醜い独占欲。
「……お前が、俺の背中を蹴ったんだ」
ふっと笑う。
「眠れなかったんだろ?」
エリックの目の下に浮かぶ薄い隈を指さす。
いつもなら軽口で返すはずの彼は、何も言わない。
納得できない顔に、ロランは苦笑する。
「……ソフィには?」
「先ほど、お会いしてきました。……処分はないと」
ロランはほっとしたように微笑み、そして言葉を選んだ。
「それなら命じる」
エリックがわずかに顔を上げる。
「これからも、俺の盾でいろ」
真剣な眼差し。
「そして――ソフィの盾にもなれ」
「……殿下」
「それが、俺からの処罰だ。――勝手に離れることは許さない」
静かな声だったが、それは命令だった。
「逃げるな。最後まで、俺の隣にいろ」
処罰と呼びながら、その実、最も重い信頼を差し出している。
王太子妃を守るということは、王家の未来を守ること。
その責を、改めて預けるという宣言だった。
やがてエリックはゆっくりと跪き、深く頭を垂れた。
「……承知いたしました。殿下の盾として。そして王太子妃殿下の盾として、この身を尽くします」
ロランは静かに頷く。
「頼んだぞ、エリック」
その声音には、信頼があった。
赦しよりも重い、預けられた未来の重み。
エリックは深く頭を垂れたまま、胸の奥でひとつ決意を固める。
離れる覚悟で踏み越えた一線。
だが今、与えられたのは追放ではなく――
共に歩む責務だった。
♢
侯爵家の離れの応接室。
厚い絨毯が足音を吸い込み、重たい緞帳が外光を遮っている。
昼だというのに、室内はどこか薄暗い。
ロランは一人、部屋の中央に立っていた。
ブランカを側室に迎えるという縁談を、白紙に戻す。
そのロランの独断が記された公式の書面は、数日前にすでに届けてある。
それでも――直接、言わなければならなかった。
向かいに座るブランカは、背筋を伸ばし、侯爵令嬢としての端正な顔を崩さずにいる。
「……君には、本当に申し訳ないことをした」
ロランは深く頭を下げた。
沈黙。
ブランカは、下げられたその頭をじっと見つめる。
――最初から、わかっていた。
自分に向けられることのない視線。
無意識に追ってしまう先に、いつも別の少女がいたことも。
幼い日、条件とともに軽く笑って渡された金の輪。
指輪だったから。
まだ、自分にも可能性があると思ってしまった。
視界が滲むのを堪える。
「……お話は、それだけですか」
声音は、驚くほど静かだった。
「ああ。……それと、指輪のことだが」
言い淀むロランを遮るように、
「お返しします」
ブランカは立ち上がり、卓上に指輪を置いた。
金色の指輪。
中心の紅石英が、わずかな光を受けてきらりと反射した。
――あの頃は、こんな艶はなかった。
幾度も磨かれ、大切に扱われてきた証に、胸の奥を鈍く刺される。
ロランはゆっくりとそれを手に取り、わずかに目を伏せた。
「……軽率だった」
幼い日の言葉が、誰かの未来を縛るなど思いもしなかった。
その無責任さが、ソフィを傷つけ、そして今、目の前の令嬢の尊厳を踏みにじった。
「ブランカ。……許しは請わない。ただ、怒りは俺にぶつけろ」
自嘲の混じった声は、自分の無力さを噛みしめるように吐き出された。
ブランカは何も言わず、彼の前まで歩み寄る。
立ち止まり、深く息を吸ったのを、ロランは見逃さなかった。
彼はまっすぐに顔を上げる。
逃げないと決めた目。
次の瞬間――
パンッと乾いた音が室内に響いた。
空気が凍りつく。
頬に走る、鋭い痛み。
ロランは動かず、顔を上げたまま耐える。
「……ひどい人」
震える声で、ブランカは言った。
「最初から、選ばないなら……指輪なんて渡さないでください」
ロランを叩いた手が、力なく下がり、やがて強く握られた。
涙は落ちていない。
侯爵令嬢としての矜持が、その表情からひしひしと伝わる。
「……お帰りください、殿下」
ロランはもう一度、深く頭を下げる。
「……すまなかった」
それ以上の言葉は、許されない。
重い扉が閉まる。
外で控えていたエリックが、赤く染まった頬をひと目だけ見た。
無言で後ろに続く。
主が受け取るべき痛みを、主が受け取った。それだけのことだった。
帰りの馬車。
車輪が石畳を軋ませる音だけが響く。
ロランは胸ポケットから指輪を取り出した。
掌の上で、紅石英が静かに光る。
「……これを、どうするべきだろうな」
独り言のような声。
「本来、王家の宝物庫へ納められるべき品です。宝物庫へお戻しします」
エリックは淡々と答える。
差し出された掌へ、指輪を落とす。
「すまない」
「謝る相手は、私ではありません」
声に感情はなかった。
「……ああ」
馬車が石に乗り上げ、小さく揺れる。
ロランは窓の外へ視線を向けた。
侯爵家の屋敷が遠ざかっていく。
ロランはふと、まだ頬が熱いことに気づいた。
回廊の窓から差し込む光が、白く石壁を照らしている。
静かな空間に、自分の呼吸だけが鮮明に響く。
扉の前で立ち止まり、一瞬だけ目を閉じる。
握った拳の力が、思った以上に強いことに気づき、ゆるめた。
深く息を吸う。
「――エリックです」
入室の許可を得て足を踏み入れると、やわらかな春の光が室内を満たしていた。
窓辺に立つソフィは、薄絹のカーテン越しの陽射しをまとい、淡い金色に縁取られている。
その姿は穏やかで、これまであった影がどこにも見えない。
「エリック」
呼ぶ声は、驚くほど静かで温かい。
その落ち着きが、かえって胸に刺さる。
エリックは数歩進み、深く頭を下げた。
「妃殿下。昨夜の件につきまして――」
「私からの処罰はありません。ロラン様のご判断に従って」
きっぱりと告げられ、思わず頭をあげる。
「……この件を公にして、喜ぶのは王家の外の者だけでしょう?」
ソフィは皮肉な笑みを浮かべる。
彼女にしては珍しい表情だった。
「しかし――私は、越えてはならぬ無礼を」
「無礼?」
ソフィはわずかに眉を下げ、静かに首を振った。
「あなたがいなければ、私たちはあのまま意地を張り続けていたわ」
視線が窓の外へ流れる。庭では若葉が揺れている。
「処罰より……褒美をあげたいくらいよ」
冗談めかして笑う。
その笑みは、王太子妃として整えられたものではない。
幼いころから共に過ごした“ソフィ”の顔だった。
エリックは目を伏せる。
あの瞬間、彼女を押し倒した感触が手に焼きついている。
何度洗っても消えない気がした。
それを赦せるほど、器用ではない。
その頑なさを見て、ソフィは小さく息をついた。
「……それなら、お願いがあるわ」
声色が変わる。
王太子妃としてではなく、ひとりの妻として。
「これからも、ずっとロラン様を守って」
「……っ」
エリックは深く頭を下げた。
「……承知いたしました。……ただ、殿下のお許しをいただいてから」
ソフィは静かに頷いた。
「ええ。……行ってきなさい」
扉を出ると、エリックは大きく息をついた。
そのまま、ロランの執務室へ向かう。
回廊を渡るあいだ、胸の奥は重いままだった。
ソフィから赦しを与えられても、自らの罪は消えない。
朝の執務室。
差し込む淡い陽光が書類の山を照らし、いつもと変わらぬ静けさが広がっている。
まるで昨夜など存在しなかったかのように、二人の朝は始まった。
執務机を挟み、向かい合う主従。
「――以上が、本日の予定です」
「わかった」
淡々とした報告。淡々とした返答。
だが、その均衡を崩すようにロランが視線を上げた。
「エリック、頼みがある」
一瞬、空気が張りつめる。
「……その件であれば、別の者に。もう、私は……」
エリックの声は低く、すでに覚悟を終えた者のそれだった。
処罰を待つ罪人のように、感情を押し殺している。
そんな臣下を、ロランはまっすぐに見据えた。
「エリック。昨夜、お前は務めを果たしただけだ」
「しかし――」
「俺からの処分はない」
きっぱりと告げられた一言。
エリックの瞳が大きく揺れる。
「……そうはいきません。あれは越えてはならぬ一線でした。もっと、他にやり方があったはずです。私は……」
自責の念が滲む声。
ロランは小さく息を吐いた。
「あれくらいじゃなかったら、俺は動けなかった」
静かに、しかしはっきりと。
「俺は、あのまま意地を張っていた。ソフィも、きっと」
昨夜の光景が脳裏をよぎる。
エリックの挑発。ソフィの涙。そして、自分の醜い独占欲。
「……お前が、俺の背中を蹴ったんだ」
ふっと笑う。
「眠れなかったんだろ?」
エリックの目の下に浮かぶ薄い隈を指さす。
いつもなら軽口で返すはずの彼は、何も言わない。
納得できない顔に、ロランは苦笑する。
「……ソフィには?」
「先ほど、お会いしてきました。……処分はないと」
ロランはほっとしたように微笑み、そして言葉を選んだ。
「それなら命じる」
エリックがわずかに顔を上げる。
「これからも、俺の盾でいろ」
真剣な眼差し。
「そして――ソフィの盾にもなれ」
「……殿下」
「それが、俺からの処罰だ。――勝手に離れることは許さない」
静かな声だったが、それは命令だった。
「逃げるな。最後まで、俺の隣にいろ」
処罰と呼びながら、その実、最も重い信頼を差し出している。
王太子妃を守るということは、王家の未来を守ること。
その責を、改めて預けるという宣言だった。
やがてエリックはゆっくりと跪き、深く頭を垂れた。
「……承知いたしました。殿下の盾として。そして王太子妃殿下の盾として、この身を尽くします」
ロランは静かに頷く。
「頼んだぞ、エリック」
その声音には、信頼があった。
赦しよりも重い、預けられた未来の重み。
エリックは深く頭を垂れたまま、胸の奥でひとつ決意を固める。
離れる覚悟で踏み越えた一線。
だが今、与えられたのは追放ではなく――
共に歩む責務だった。
♢
侯爵家の離れの応接室。
厚い絨毯が足音を吸い込み、重たい緞帳が外光を遮っている。
昼だというのに、室内はどこか薄暗い。
ロランは一人、部屋の中央に立っていた。
ブランカを側室に迎えるという縁談を、白紙に戻す。
そのロランの独断が記された公式の書面は、数日前にすでに届けてある。
それでも――直接、言わなければならなかった。
向かいに座るブランカは、背筋を伸ばし、侯爵令嬢としての端正な顔を崩さずにいる。
「……君には、本当に申し訳ないことをした」
ロランは深く頭を下げた。
沈黙。
ブランカは、下げられたその頭をじっと見つめる。
――最初から、わかっていた。
自分に向けられることのない視線。
無意識に追ってしまう先に、いつも別の少女がいたことも。
幼い日、条件とともに軽く笑って渡された金の輪。
指輪だったから。
まだ、自分にも可能性があると思ってしまった。
視界が滲むのを堪える。
「……お話は、それだけですか」
声音は、驚くほど静かだった。
「ああ。……それと、指輪のことだが」
言い淀むロランを遮るように、
「お返しします」
ブランカは立ち上がり、卓上に指輪を置いた。
金色の指輪。
中心の紅石英が、わずかな光を受けてきらりと反射した。
――あの頃は、こんな艶はなかった。
幾度も磨かれ、大切に扱われてきた証に、胸の奥を鈍く刺される。
ロランはゆっくりとそれを手に取り、わずかに目を伏せた。
「……軽率だった」
幼い日の言葉が、誰かの未来を縛るなど思いもしなかった。
その無責任さが、ソフィを傷つけ、そして今、目の前の令嬢の尊厳を踏みにじった。
「ブランカ。……許しは請わない。ただ、怒りは俺にぶつけろ」
自嘲の混じった声は、自分の無力さを噛みしめるように吐き出された。
ブランカは何も言わず、彼の前まで歩み寄る。
立ち止まり、深く息を吸ったのを、ロランは見逃さなかった。
彼はまっすぐに顔を上げる。
逃げないと決めた目。
次の瞬間――
パンッと乾いた音が室内に響いた。
空気が凍りつく。
頬に走る、鋭い痛み。
ロランは動かず、顔を上げたまま耐える。
「……ひどい人」
震える声で、ブランカは言った。
「最初から、選ばないなら……指輪なんて渡さないでください」
ロランを叩いた手が、力なく下がり、やがて強く握られた。
涙は落ちていない。
侯爵令嬢としての矜持が、その表情からひしひしと伝わる。
「……お帰りください、殿下」
ロランはもう一度、深く頭を下げる。
「……すまなかった」
それ以上の言葉は、許されない。
重い扉が閉まる。
外で控えていたエリックが、赤く染まった頬をひと目だけ見た。
無言で後ろに続く。
主が受け取るべき痛みを、主が受け取った。それだけのことだった。
帰りの馬車。
車輪が石畳を軋ませる音だけが響く。
ロランは胸ポケットから指輪を取り出した。
掌の上で、紅石英が静かに光る。
「……これを、どうするべきだろうな」
独り言のような声。
「本来、王家の宝物庫へ納められるべき品です。宝物庫へお戻しします」
エリックは淡々と答える。
差し出された掌へ、指輪を落とす。
「すまない」
「謝る相手は、私ではありません」
声に感情はなかった。
「……ああ」
馬車が石に乗り上げ、小さく揺れる。
ロランは窓の外へ視線を向けた。
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