寂しい街のとどころ旅館

吉沢 月見

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 その日も翌日も、小松さんは特に何もせずうちに滞在した。食材が終わりそうになって適当なものを作ったら、
「こういうのが食べたかったです」
 と煮魚を頬張った。最初から言ってくれ。こちらも楽だ。昼は洋食、夜は懐石料理ではないがそれなりの和食に決めてしまっていた。そうか。こんな家庭料理を求めてくる人もいるんだな。反対にこういうところでしか食べられないものがいい人もいれば、旦那さんと一緒に来る奥さんは、
「人が作ったものならなんでもおいしい」
 と言う人もいた。客と接するといろんなことを知る。

「ごはん、おかわりもらえますか」
 小松さんがおかわりなんて初めて。表情も違う。ちゃんとおいしいの顔。やっと彼の本質に触れられた気がした。今までお客さんとは表面上の付き合いに徹していたけれど、彼はなぜか特別。
「はい、もちろん」

「うまいな。自分じゃ作らないし」
 煮魚なんて魚を買ってきて煮るだけだ。そんなに手間じゃないと教えたい。
 しかし私たちはもう、人生にやり直しがきかないことを知っている頃合いだ。思い込んでしまっていること、私にもどれだけあるのだろう。それは年齢のせいだけではない。幾つになっても身軽な人はいる。私だって、家族もいないのだからここを売って移住してもいい。いいのだけれど、それが楽とは思わない。

 肉じゃがを作って次の日はそれをカレーにした。小松さんはそれをすごく喜んでくれた。旅館に来ることを特別と感じる人もいれば、家に帰って来る感覚の人もいる。

 うちは浴衣とルームウェアを用意しておくのだが、最終日は一日そのルームウェアで過ごしていた。
「口コミを見てここへ来て正解だったな。最初は何もないと思ったけど癒される」
 みたいなことを小松さんは珍しく饒舌に話した。癒されたから優しくなれるのだろうか。変な人。

 他の客同様、畑のラディッシュを収穫し、それを食べて感動していた。山菜は春だけのものではない。畑の隅ののびるを料理に紛れさせる。
「初めて食べました」
 小松さんがにっこり笑う。
 そうだ。みんな勝手に癒されて、元気になって帰ってゆくのだ。食材のおかげなのか、方角なのかはわからない。それを広めたい人が口コミを書いてくれたのだろう。でもこれからも取材などは受けないつもり。うちの良さは独特だ。好む人もいれば嫌な人もいる。

 帰る日の朝、小松さんのためにタクシー会社に電話をかける。別に彼のことが好きなわけじゃない。特別なことがあったわけでもない。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
 と言い合い、互いに一礼。
 10歳若かったら抱かれていたかもしれない。さすがにもうそういうのはいい。10年前だと親がいるし、小松さんは青年というよりまだ学生の小僧。運命の相手ではないのだ。

 客はうちに泊まって何かを得る。私はお金を得る。それだけの関係でいい。
 遠ざかるタクシーは道路を右折。そこまで私は見送った。
 寂しさは少なからずあった。他の客と違い、一晩共に恐怖と戦った。それだけであって、絶対に恋愛感情じゃない。でも私が人生で最後のセックスの上書きを免れたことは事実。

 泊り客が書いてゆくノートを開いた。滞在中に小松さんが読み込んでいたのを目撃したから。何も書いていない。残念。私はノートをぱたんと閉じた。

 程なくして田辺あずみさんからハシビロコウの大作が届く。今までで一番大きい。それをどこに飾ろうかと思案しながら小松さんに知らせようか悩んだ。絵手紙にして送ればきっと絵のファンである彼は予約を入れるだろう。私のことは特段考えなくていいので絵を見に来てほしい。

 メールのほうが早い。さらっと打った文章が彼に会いたいと読めて、幾度も修正。

 最近、とどころ旅館の口コミに新しい書き込みがあった。
『何もしなくても生きていることを実感できる宿』
 それを書いたのがどうか小松さんでありますようにと勝手に願った。
   おわり
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