この世界から消える前に、君の声が聞きたかった

ユニモン

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1巻

1-1

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 拝啓
 げんきにしてますか




 春の嵐



「ねえ、僕のために歌ってくれない?」


 無邪気な笑みを浮かべ、そう声をかけてきた目の前の男子を、私はポカンとして見返した。
 彼は私の机に手をついているし、思い切り目も合ってるけど、たぶん聞き間違いだろう。
 ていうか、あり得ない。
 聞き間違いって思いたい。
 無視してうつむくと、彼が下から私の顔を覗き込んできた。真っすぐな茶色い瞳から本気が伝わってきて、背筋がヒヤリとする。

「聞いてる? 白浜しらはまなぎさん。僕、ギター弾けるようになったからさ、歌ってほしいんだ。それを動画サイトにアップして、有名人になりたい」

 高三の始業式から二日経った朝の教室は、生徒たちの話し声で騒がしい。
 洗いたてのワイシャツの匂いに似た爽快感の中に漂う、そこはかとない緊張感。
 新学期特有の空気の中、私は彼を、信じられないものを見る目でまじまじと観察した。
 薄茶色の柔らかそうな髪に、猫っぽい目元、八重歯が覗く唇。
 幼い印象を受ける顔だけど、身長はそこそこだし、見た目は整っている。
 名前は知らないけど、なんかいつもニコニコして目立ってる、前からたまに見る男子――彼は私の中で、そういう立ち位置の人だった。

「あ、ごめん。僕の名前知らないよね? 三日前から同じクラスになった、ばりきょうっていうんだけど」

 にへら、とどこまでも屈託くったくのない笑い方をして、戸張は続けた。
 私はたしかに、彼の名前を知らなかった。
 だけど返事に困っているのは、話したことのないクラスメイトが突然話しかけてきたからっていうわけじゃない。

「あ、もしかして、僕みたいな奴が動画サイト扱えるかって心配? 大丈夫、そういう分野なられいが得意だから、どうにかしてもらうよ」

 彼は私の反応をどう勘違いしたのか、まったく見当はずれのフォローをしてくる。

「おい響、お前何やってんだよ! そして勝手に俺を巻き込むな!」

 慌てた様子で戸張の肩に手をかけてきた黒髪の彼は、どうやらたった今話に出てきた玲二のようだ。

「お前、知らないのかよ? 白浜さん、しゃべれないんだよ。ほら、先生と話すときも、いつも筆談してるだろ?」

 玲二が戸張の耳元でヒソヒソとささやいた。
 私はようやくホッと胸を撫で下ろす。
 私がしゃべれないことは、学年中が知っていると思っていたけど、なぜか戸張は知らなかったらしい。だけど知ったからには、焦ってすぐ私の前から立ち去るだろう。
 しゃべれない人間に『歌え』なんて、デリカシーがないにもほどがある。
 いろいろな意味で完全にアウトだ。
 ……と、思ったのに。
 彼は焦るどころか、表情ひとつ変えなかった。

「知ってるよ、玲二。でもさ、もう白浜さんしかいないんだよ。クラス中の奴に断られたから」
「おい! いくらお前でも、言っていいことと悪いことがあるだろ? 白浜さんにそんなこと言うのは、どう考えても失礼だ」

 うん、そう。本当にそう思う。
 玲二とやらが常識人でよかった。
 だけど目の前の非常識人は、それでも引き下がる様子がない。

「ねえ、白浜さん。もう授業始まっちゃうから行くけど、考えておいて」

 最後にとびきりの笑顔を見せると、戸張は玲二に引きずられるようにして私の前からいなくなった。
 自分の席に戻った戸張の周りに、あっという間にクラスの女子たちが集まってくる。

「何やってんのよー」
「ああいうの、ほんと信じられない」

 どの女子もスカートが短めで、同じような黒髪ロング。
 新学期早々あっという間に編成された、クラスの女子のカーストトップ集団だった。そんなトップ女子たちに早くも慕われている戸張は、やっぱり私とは別次元の人間だと再認識する。

「そう? 僕は、悔いのないように生きてるだけだけど」
「戸張が偉人みたいなこと言ってる」
「戸張、偉人だったの?」

 ギャハハ、という女子たちの笑い声が響く。

「あ、戸張。いたいた!」

 すると、教室の入り口からそんな声がした。弾むような足取りで戸張の方に近づいてきたのは、他クラスの女子ふたりだった。

が戸張に会いたいって言うから来ちゃった。美奈、戸張とクラス分かれてすごくがっかりしてるんだよ」
「ちょっと! 戸張とクラス離れたねって言っただけでしょ!? がっかりはしてないから!」

 美奈と呼ばれたポニーテールの女子が慌てている。

「おー久しぶり、元気?」

 戸張は乙女の複雑な心理に気づく様子もなく、呑気のんきに笑いかけていた。美奈ちゃんは顔を赤らめつつも「うん、元気」とほんの少しうれしそうにしている。

「戸張は相変わらずバカそう」
「バカそうじゃなくて、れっきとしたバカなんだよ、コイツ。さっきもさー……」

 玲二が声をひそめ、他クラスの女子たちが驚いたように私に視線を向けた。
 さっき、戸張が私に声をかけたことを話しているんだろう。
 何をするでもなく無表情で座っている私を見て、彼女たちがそそくさと目をらす。関わりたくない、と思っているのが丸分かりだ。
 まるでこの教室の光と影――戸張と私は、そんな逆の立場にいる。
 戸張を取り巻くにぎやかな声は、同じ教室の中だというのに、はるか遠い世界から聞こえるみたいだった。
 さっきのはなんだったんだろう?
 なんであんな人が、私なんかに話しかけてきたんだろう?
 あの人、本当にバカなんだろうか?
 しゃべれないから歌えない――そんな当たり前のことが、理解できないの?
 それとも、こんなこと白浜凪に言える自分はすごいだろって、周りにアピールしたいとか?
 なんにせよ、私が一番嫌いなタイプの人間なのはたしかだ。
 いつもは教室の備品みたいに存在を忘れられているのに、戸張が話しかけてきたせいで、変に注目を浴びてしまったし。
 うんざりしながら、私はスカートのポケットから小さなノートを取り出した。パラリとめくると、昨日の夜、祖母に見せた走り書きが目に飛び込んでくる。

【明日からは通常授業だから、お弁当用意しなくて大丈夫だよ】

 その隣に、忘れないようにと書き留めた。

【戸張響は、頭のネジが足りていない】

 コミュニケーション手段としていつも持ち歩いているこのノートは、ときにメモ代わりにもなって、とても便利なのである。


 声が出なくなったのは、中三の秋だった。
 きっかけは、父の失踪しっそうだ。
 小四の頃に母を亡くしてから、私は父とふたりで暮らしてきた。男手ひとつで私を育ててくれた父は、ズボラで頼りないところもあったけど優しい人だった。
 だけどある日、そんな父が帰ってこなくなった。ダイニングテーブルの上には、私の教育費が入った通帳と書き置きが残されていた。
 父には結婚を考えている恋人がいるけど、彼女が私と暮らしたがらなかったため、出ていくことにしたようだ。
 手紙を読んでいるとき、私は意外と平気だった。
 ふうん、と頭の中で漠然と思っただけ。
 その後、私は近くに住む母方の祖母の家で暮らし始めた。
 気ままに年金暮らしをしていた七十代の祖母は、年のわりに元気でアグレッシブな人で、父のことを根掘り葉掘り聞くことなく私を受け入れてくれた。私の気持ちをおもんぱかってくれたのか、生活が激変したにもかかわらず、祖母からは苦言ひとつなかった。
 それからの暮らしは、意外にも穏やかだった。
 それなのに、突然声が出なくなった。
 病名は、心因性失声症。
 平気だと思っていたけど、実際はストレスを感じていたらしい。
 医師が言うには、心因性失声症は突発的なもので、声帯の機能に異常があるわけではないから、時間が経てば治る場合が多いとのこと。
 声の出せなくなった私は、この病気が治るまでのコミュニケーションツールとして、ノートとペンをいつも持ち歩くようになった。
 人と会話しなきゃいけないときは、筆談で済ませばどうにかなる。
 そんな変わり者の私を、同級生はまるでれ物に触るように扱った。
 同じクラスにいるのに、ひとりだけ透明な壁を隔てた別の世界にいるみたいな学校生活。
 だから、戸張があっけらかんと壁をぶち破り、話しかけてきたときには本当に驚いた。
 ああいう分をわきまえない変人も、世の中にはいるらしい。


 放課後。
 昇降口で上靴からローファーに履き替え、外に出た私は、ピロティの柱にもたれるようにしてこちらを見ている人物に気づく。
 ひょろりとした体型に、茶色い頭。
 変人、戸張だった。

「やあ」

 目が合うなり、彼が私に笑いかけてきた。
 嫌な予感しかなかったから、私は見て見ぬフリをして前を横切ろうとした。
 だけど戸張は、飄々ひょうひょうとした足取りで私についてくる。

「さっきの話、考えてくれた? 僕のギターに合わせて歌ってよ、白浜さん」

 どうやら、また朝の話を蒸し返すつもりらしい。
 想像以上に頭のネジが緩いようだ。
 私は立ち止まると、ポケットからノートとペンを取り出した。いつもより筆圧強めに文字を書く。

【正気ですか?】
「ん? まさきって何?」

 あ、この人、本物のバカなんだ。
 目の前の彼に、気の毒な視線を向ける。

「お、やっとこっち見てくれた」

 だけど彼は、よりいっそうニコニコと笑みを深めた。想像以上に残念な人のようだ。

【私、声が出せないんです】
「うん、知ってる」
【声が出せないから歌えないんです】
「普通はそうだよね。でも」

 ノートから顔を上げた戸張が、キラキラとした光が見えそうな無邪気な目をする。

「字がきれいだからきっと声もきれいだよ、白浜さん」

 口説き文句のような軽いセリフ。

「……!」

 しらじらしいにもほどがあって、私のイライラは頂点に達する。
 まるで話にならない。
 私はノートをポケットにねじ込み、戸張から逃げるように校庭をズンズン進んだ。それでも戸張はしつこく私を追いかけてくる。

「ねえねえ、待ってってば! おーい、白浜さーん」

 戸張がやたらと騒ぎ立てるものだから、下校中の生徒たちがちらちらとこちらを見てくる。中には耳打ちし合っている女子たちもいて、私は軽い息苦しさを覚えた。
 戸張は目立つから、きっと女子からもモテる。
 女子の嫉妬は何かと面倒だ。
 声が出せないことでそういう世界とは無縁だったのに、やめてほしい。
 どうやってこうかと考えていると、校門に差しかかったところで、いつの間にか戸張が消えていることに気づいた。あきらめて、どこかに行ってくれたみたい。
 やっとのことで肩の力を抜き、校門を抜ける。
 門前の桜の木は、ちょうど見頃のようで、薄桃色の花々が一面に咲いていた。
 ひねくれまくっている私でも、満開の桜を見てきれいだと思う感覚はまだあるみたい。
 ありのままの自然はきれいだ。
 それはきっと、きれいに見せてやろうという見栄みえも下心もないから。桜の花を見ていると、陽の光に包まれたみたいに、ギスギスした心が癒えていく。
 だけど。

「白浜さ~ん!」

 間延びした声が、私の安らぎのひとときをいとも簡単に壊した。
 緑色の自転車を押した戸張が、片手を振りながら私を追いかけてきている。
 いなくなったのは自転車置き場まで自転車を取りに行っていたからで、彼はまだ、私に絡むことをあきらめていなかったらしい。
 背中を冷や汗が伝う。
 追いつかれるものかと速足で門を出たけど、戸張はあっという間に後ろに迫っていた。

「家、どっち? 僕はこっちなんだけどさ」

 カラッとした笑顔を向けられ、耐えられなくなった私は、ノートにサラサラと文句を書き殴る。

【いい加減にしてください。迷惑なんです】
「あー、ごめんごめん。じゃあさ、自転車で家まで送らせて? そしたらもう『歌って』とは言わないから」

 何をどうやったら、そういう話になるんだろう?
 言っている意味が分からなくて、宇宙人に出くわしたみたいな怖さが込み上げる。
 他人に変な目で見られることには慣れてるけど、他人を変な目で見るのは久しぶりだ。
 ドン引きしている私に気兼ねする様子もなく、戸張は「ねっ」とどこまでも屈託くったくなく笑う。それから裏道に入る路地の前で足を止めると、自転車の後ろの荷台をトンと叩いた。

「ほら、乗ってよ。裏道通れば、ふたり乗りしてもバレないから」

 ブンブン頭を振って拒絶したけど、彼は引き下がる様子がない。

「乗ってくれないと明日も『歌って』って言うよ。それに白浜さん、徒歩通学だろ? 大変じゃない? 自転車だと楽に帰れると思うんだけどな~」
「……!」

 戸張の誘い文句に、私はついビクッと反応してしまった。
 私にとって、なかなか魅力的なセリフだったからだ。
 戸張の言うように、私は徒歩で四十分かけて学校に通っている。炎天下の日も雨の日もひたすら歩き続ける毎日は、思った以上に過酷で、どうにかして楽ができないかとばかり考えていた。
 徒歩通学三年目ともなれば、なおさらだ。一回でも楽できるものならしてみたい。
 それに、戸張の言うことを聞けば彼がもうつきまとわなくなるのなら、悪くない話だ。
 逡巡しゅんじゅんする私を、戸張はにこやかに見つめている。

【本当に、もう変なこと言わないですか?】
「うん、言わない。『歌って』なんて言わないから」

 迷ったあげく、私は半ばやけくそで自転車の荷台に手を置き、戸張にこくりとうなずいてみせた。

「いいってこと? よしっ」

 戸張は白い歯を見せると、サドルにまたがり、「ほら、乗って」と後ろを振り返る。私は恐る恐る荷台にまたがり、戸張の体に触れないよう、サドルの後ろをつかんだ。

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