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1巻
1-2
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横向きに座った方がいいのかもしれないけど、カップルみたいだからやめておいた。私と戸張の関係は間違ってもそんなものではないし、縦向きに座った方が普通に考えてバランスを取りやすい。
「足、そこの出っ張りに置いてね。よし、じゃあ出発~」
戸張ははしゃいだように言うと、紺色のブレザーの背中を屈め、ペダルを漕ぎ始める。
頬に風を感じたとたん、男子と自転車でふたり乗りなんていう、青春ドラマの定番シーンみたいなことをしている自分に寒気がした。
陰キャ中の陰キャなのに、お門違いにもほどがある。
だけどもうあとには引けず、私は顎が喉につくほどうつむいた。
誰にも見られませんようにと、繰り返し心の中で願いながら……
片道四十分も歩いて学校に通っているのは、祖母に自転車を買ってほしいと言えないからだ。母を亡くし、父も消えた私を快く引き取ってくれた祖母に、これ以上負担をかけたくない。
バスに乗るのも抵抗がある。同じバスを、この先の女子校に通う中学時代の友達が使っているからだ。
私と彼女は、中二の頃、クラスで一番目立つ女子グループにいた。
移動教室も、合唱部も、休みの日に遊びに行くのも、いつもグループのみんなと一緒だった。
その頃の私は、言いたいことをハッキリと言うタイプの子だった。
ふたり暮らしだった父がどこか抜けた人だったから、自然とそういう性格になってしまったんだと思う。
『凪ちゃんはズバズバ言うから』
『凪、毒舌すぎ。マジこえ~』
みんなからはよく、そんなふうに言われていた。
私はハッキリ言うことが正しいと思っていたし、ときには先生に対しても遠慮がなかった。他人からのそういった評価は、褒め言葉のようにすら感じていた。
中二の十一月。
女子グループのひとりが、お母さんと一緒に焼いたというクッキーを学校に持ってきた。だけど私は、きれいにラッピングされたそれを拒絶した。
『ごめん。私、手作りのものって苦手なんだよね』
本当のところは、手作りが苦手というわけではなかった。
私はたんに、一緒にクッキーを作ってくれるお母さんがいるその子に嫉妬したのだ。
私のお母さんは、もうどこにもいないから。
私にはない幸せの中に当然のようにいる彼女が羨ましくて、自分が酷くみじめに思えた。
彼女は、あからさまに傷ついた顔をしていた。周りにいる同じグループの子たちの表情が強張ったのも、すぐに分かった。
浅はかな言動で彼女を傷つけてしまったことに気づいた私は、慌てて謝ろうとした。だけど露骨に避けられ、話しかける機会すら与えられなかった。
それをきっかけに、私は女子グループからハブられた。
クラス中が異変に気づき、誰も私と関わろうとしなくなった。
あっという間に私はひとりになった。
そのときに初めて、ズバズバと本音で接し続けた結果、たくさん敵を作っていたことを知った。クッキー事件なんか、ただのきっかけに過ぎなかったのだ。
それからは、オセロの石を引っくり返すように、すべてがガラリと変わった。
陰口なんてしょっちゅうだった。
グループ決めのときひとりだけ余ってしまうのも、いつものこと。
思い切って父に相談したけど『女子って大変だよね。大丈夫、きっと時間が解決してくれるよ』と取ってつけたような大人目線でやり過ごされただけだった。
誰にも必要とされない毎日は、苦しくて消えてしまいそうだった。誰かの話し声や笑い声がザクザクと胸を刺し、全部の景色が色を失って見えた。
やがて唯一の家族だった父にも捨てられ、私はどん底に突き落とされた。私は年のわりにしっかりしていたので、父は『自分がいなくても大丈夫』とでも思ったのだろう。
だから声が出せない今の状況は、実は私にとって好都合だった。
みんなとは違う存在でいれば、人に嫌われることも、仲間外れになることもない。それからきっと、捨てられることも……
向こうは関わるのを面倒だと思っているし、私も関わることを望んでいないし、蚊帳の外の平和な場所にいられる。
だから私は、声を出せない今の自分を、ある意味誇りにすら思っていた。
県庁所在地に近い海に面したこの街は、都会すぎず田舎すぎず、暮らすにはちょうどいい。言い方を換えれば、これといった取り柄がないということだけど。
戸張はペダルを漕ぎ、車がギリギリ通れるくらいの細道を進んでいく。
この界隈は昔は宿場町だったらしく、今もその名残があり、ところどころに古びた民宿や旅館が建っていた。たばこ屋や銭湯の看板も残されている。
最近は急速に開発が進み、高層マンションやショッピングモールが次々と建設されているけど、裏通りは昔のままみたい。この街で生まれ育ったのに、裏通りなんて使ったことがないから、物珍しさにきょろきょろしてしまう。
まるで、目まぐるしく変わる世の中から置いてきぼりにされたみたいな場所だった。
「僕、この道好きなんだよね」
立ち漕ぎをしながら、戸張が言う。
「…………」
その気持ちは、なんとなく分かった。
陽気な彼と陰キャの私の気持ちが一致するなんて、おかしいことだけど。
新築の建物はきれいとはいえ、浅くてペロンとしてる。だけど古い建物には、長い年月が育んだ奥深さがあった。私が生まれるずっと前にここで暮らした人々の思いが、今もふわふわとそこら中を漂っているみたいに。
潮の匂いがした。
裏通りを抜けたようだ。
風がザッと吹き、目の前にキラキラ輝く海と白い防波堤が現れる。
上空では、海鳥が優雅に旋回していた。
この場所に繋がるとは、知らなかった。
感心しているうちに、私はハッとした。
祖母の家に近づくどころか、離れてしまっている。
そういえば、戸張に家の場所を言ってなかった!
慌ててノートを取り出し、戸張に伝えようとしたところで、急に自転車のスピードが速くなった。下り坂に差しかかったようだ。
「……!」
手を離したら自転車から落ちてしまいそうで、私はサドルを持つ手にぎゅっと力を込める。
「シュ~!」と子供みたいに擬音語を口にしている戸張は、ブレーキを握るつもりがなさそう。戸張の柔らかい髪が風になびき、からかうように私の鼻先をくすぐった。
今すぐに文句を言いたかったけど、あいにく私は声を出せない。彼の背中をドンドンと叩いて抗議したけど、「なに? 楽しい?」と彼にはまったく通じなかった。
「はい、到着」
防波堤に着き、やっと自転車を止めた戸張に、怒りのメモを突きつける。
【ここどこ? 家に送ってくれるんじゃないの?】
「その前に、ちょっとした用事があってさ。僕んちそこだから、少し待っててくれない? お願いだからいなくならないでね、迷子になったら困るから。あとで家までちゃんと送るから心配しないで」
悪びれた様子もなく戸張は言うと、自転車と私をその場に残して、住宅街の方に走っていった。
帰り道が分からない私は、とりあえずは彼の言いなりになるしかなかった。
イライラしながら待つこと五分、戻ってきた戸張は、どういうわけか重そうなギターケースを肩から下げている。
「これ、中古で買ったギター。かっこよくない?」
戸張は自慢げに言うと、さっそくギターケースを開けた。出てきたのは、よくある雰囲気の茶色いアコースティックギターだった。
「よっと!」
戸張が、防波堤のブロック塀に飛び乗る。それからあぐらを組んでギターを構えると、自転車の横に立ち尽くしている私をじいっと見つめた。
何かを言いたげな彼の視線。
嫌な予感がして、サアッと顔から血の気が引いていく。
【まさか、歌えって言うつもり? だから無理だから!】
「知ってる、今は心の中でいいから。僕には聴こえるから大丈夫」
彼はどうやら、バカを超えた、本気でヤバイ類の人間のようだ。
今すぐ逃げ出したい……
そんな衝動に駆られていると、戸張がジャランとギターの弦をかき鳴らした。
夕暮れの茜色に染まる海景色に、緩やかなギターの音色が鳴り響く。
それは偶然にも、私の知っている曲だった。
中学のとき合唱部で歌った、とある英語の曲。
合唱部には、仲たがいしたグループの子たちがいたから、中二の終わりに辞めてしまった。歌うことは好きだったけど、その頃の私は彼女たちが怖くて、続けようとは思わなかった。
耳に染み入る音色に、全身が奮い立つ。
気づけば私は、戸張の言うように、その歌を心の中で歌っていた。
この歌には嫌な思い出しかないから歌いたくなんかないのに、何度も練習したせいか、頭が勝手に歌詞を呼び起こす。
強めの海風が、ザアッと吹いた。
桜の花びらが私たちを取り巻いている。
弥生山から運ばれてきた、花の嵐だった。
弥生山は近くにある山で、昔は城郭があったらしいけど、今では公園になっている。知る人ぞ知る桜の名所でもあった。
花びらは吹雪のように戸張の周囲を舞ったあと、役目を終えたとばかりに、ひらひらと力なく海に落ちていった。
水面が、薄桃色に染まっている。
潮風と、清々しい春の香りがした。
戸張はコードが変わるとき、よくぎこちなくなった。何度もミスしては「あ、やべ」と小声でつぶやいている。
このレベルで、よく動画サイトにアップしようと考えたよね……
ある意味感心しているうちに、下手くそなギターは鳴りやんだ。
「どう、どう?」
無邪気に感想を求める戸張。
【それで、動画サイトに投稿しようとしたの? すごい度胸】
「あれ、下手だった? でもほら、歌があるとギターの下手さが誤魔化せるって言わない? 僕歌下手だから、代わりに歌ってくれる人探してるんだよね。それで今、白浜さんを熱心にスカウトしてるわけ」
【私に声をかけるあり得ない神経は置いておくにしても、その下手さなら、歌があっても誤魔化せないと思うよ】
「うわっ、白浜さん意外と毒舌。いや、毒筆って言ったらいいのかな? あ、うまい言い方でしょ」
ニコニコしながら謎の自画自賛をしている彼に、白けた目を向ける。
「でも、今日はいつもよりうまく弾けたな。やっぱり白浜さんが歌ってくれたからだよ」
【私、立ってただけだけど】
「白浜さんの心の中の歌声、僕にはちゃんと聴こえてた。嘘くさいって思うかもしれないけど、本当だよ。ほら、世の中の常識が正しいとは限らないじゃん? だって常識は、人間が勝手に決めたものなんだから」
【ねえ、大丈夫? そんな変人で友達とうまくやってるの?】
「あはは、白浜さんに言われたくはないなー」
まあ、それはそうだけど。
クラスのはみ出し者の私に、人気者の彼が友達事情を心配されたくはないだろう。
嫌みともとれる発言だったけど、私は別に嫌な気分にはならなかった。
戸張はあまりにもあっけらかんとしているから、悪意を感じないのだ。
変な人だけど、きっと悪い人じゃない。
だけど、これ以上は関わりたくない。
その後、戸張は約束どおり私を家まで送ってくれた。
ブンブンと手を振りながらもと来た道を自転車で去っていく戸張を、最後まで見送ることなく家に入る。
変なのに絡まれたな……
住み慣れた祖母の家の匂いに包まれたとたん、どっと疲れが押し寄せた。
こんな日はもう、二度とごめんだ。
戸張は自転車で私を送る代わりに、もうしつこくしないと約束したのだから、大丈夫だと信じたい。
きちんとローファーを揃え、玄関から上がる。
すぐに、台所に立つあずき色の割烹着の背中を見つけた。
「おかえりなさい」
物音に気づいた祖母が、こちらを振り返る。
「今日は遅かったわね。洗濯もの入れておいたから、畳んでおいてくれる?」
それから祖母は私の顔をまじまじと見つめ、にこやかな笑みを浮かべた。
「凪ちゃん、今日はなんだか楽しそうだけど、いいことあった?」
「…………」
私は無言でかぶりを振ると、台所の前を通り過ぎた。
リビングとして使っている十畳間で、洗濯ものを畳み始める。
半開きの縁側の引き戸から、夕方の風がそよいでいた。
窓越しに見える、庭の樹木や小さな池、石灯籠。祖父がこだわって設計したらしい、小さいながらもなかなか豪華な庭だった。
祖父は、私が生まれる前に亡くなっている。
壁には年季の入った四角い壁掛け時計がかかっていて、その隣には私の写真が飾られていた。中二の十月、合唱コンクールの会場前で、友達と撮影したものだ。
見たくないから外してほしいのに、祖母には伝えられずにいる。
部屋の隅にある仏壇には、母の遺影が置かれていた。
記憶の中よりも若い母の笑顔は、いったい誰に向けられたものなんだろう?
私といるとき、彼女はいつも母親の顔をしていた。
そんな母は、小四のとき、なんの前触れもなく亡くなった。
そして、父も私を置いて消えてしまった。
――凪ちゃん、今日はなんだか楽しそうだけど、いいことあった?
洗濯ものを全部畳み終えたところで、祖母のセリフを思い出す。さっきからずっと、胸の奥に引っかかってモヤモヤしていた。
どうして祖母は、あんなことを言ったんだろう?
変なクラスメイトに強引に連れ回されて、いつもの何倍も嫌な気分のはずなのに。
この私が誰かといて、楽しいと感じるわけがない。
そんな感情は、声とともに、遠い過去に置きざりにしてきたのだから。
「おーい、白浜さん。練習に行こう」
翌日の放課後。
門に向かって歩いているとそんな声がして、背筋がゾゾッとした。
そうっと振り返ると、今日も無邪気の塊みたいな笑みを浮かべた戸張が立っている。
『はあ?』と出ないはずの声が漏れかけた。
「足、そこの出っ張りに置いてね。よし、じゃあ出発~」
戸張ははしゃいだように言うと、紺色のブレザーの背中を屈め、ペダルを漕ぎ始める。
頬に風を感じたとたん、男子と自転車でふたり乗りなんていう、青春ドラマの定番シーンみたいなことをしている自分に寒気がした。
陰キャ中の陰キャなのに、お門違いにもほどがある。
だけどもうあとには引けず、私は顎が喉につくほどうつむいた。
誰にも見られませんようにと、繰り返し心の中で願いながら……
片道四十分も歩いて学校に通っているのは、祖母に自転車を買ってほしいと言えないからだ。母を亡くし、父も消えた私を快く引き取ってくれた祖母に、これ以上負担をかけたくない。
バスに乗るのも抵抗がある。同じバスを、この先の女子校に通う中学時代の友達が使っているからだ。
私と彼女は、中二の頃、クラスで一番目立つ女子グループにいた。
移動教室も、合唱部も、休みの日に遊びに行くのも、いつもグループのみんなと一緒だった。
その頃の私は、言いたいことをハッキリと言うタイプの子だった。
ふたり暮らしだった父がどこか抜けた人だったから、自然とそういう性格になってしまったんだと思う。
『凪ちゃんはズバズバ言うから』
『凪、毒舌すぎ。マジこえ~』
みんなからはよく、そんなふうに言われていた。
私はハッキリ言うことが正しいと思っていたし、ときには先生に対しても遠慮がなかった。他人からのそういった評価は、褒め言葉のようにすら感じていた。
中二の十一月。
女子グループのひとりが、お母さんと一緒に焼いたというクッキーを学校に持ってきた。だけど私は、きれいにラッピングされたそれを拒絶した。
『ごめん。私、手作りのものって苦手なんだよね』
本当のところは、手作りが苦手というわけではなかった。
私はたんに、一緒にクッキーを作ってくれるお母さんがいるその子に嫉妬したのだ。
私のお母さんは、もうどこにもいないから。
私にはない幸せの中に当然のようにいる彼女が羨ましくて、自分が酷くみじめに思えた。
彼女は、あからさまに傷ついた顔をしていた。周りにいる同じグループの子たちの表情が強張ったのも、すぐに分かった。
浅はかな言動で彼女を傷つけてしまったことに気づいた私は、慌てて謝ろうとした。だけど露骨に避けられ、話しかける機会すら与えられなかった。
それをきっかけに、私は女子グループからハブられた。
クラス中が異変に気づき、誰も私と関わろうとしなくなった。
あっという間に私はひとりになった。
そのときに初めて、ズバズバと本音で接し続けた結果、たくさん敵を作っていたことを知った。クッキー事件なんか、ただのきっかけに過ぎなかったのだ。
それからは、オセロの石を引っくり返すように、すべてがガラリと変わった。
陰口なんてしょっちゅうだった。
グループ決めのときひとりだけ余ってしまうのも、いつものこと。
思い切って父に相談したけど『女子って大変だよね。大丈夫、きっと時間が解決してくれるよ』と取ってつけたような大人目線でやり過ごされただけだった。
誰にも必要とされない毎日は、苦しくて消えてしまいそうだった。誰かの話し声や笑い声がザクザクと胸を刺し、全部の景色が色を失って見えた。
やがて唯一の家族だった父にも捨てられ、私はどん底に突き落とされた。私は年のわりにしっかりしていたので、父は『自分がいなくても大丈夫』とでも思ったのだろう。
だから声が出せない今の状況は、実は私にとって好都合だった。
みんなとは違う存在でいれば、人に嫌われることも、仲間外れになることもない。それからきっと、捨てられることも……
向こうは関わるのを面倒だと思っているし、私も関わることを望んでいないし、蚊帳の外の平和な場所にいられる。
だから私は、声を出せない今の自分を、ある意味誇りにすら思っていた。
県庁所在地に近い海に面したこの街は、都会すぎず田舎すぎず、暮らすにはちょうどいい。言い方を換えれば、これといった取り柄がないということだけど。
戸張はペダルを漕ぎ、車がギリギリ通れるくらいの細道を進んでいく。
この界隈は昔は宿場町だったらしく、今もその名残があり、ところどころに古びた民宿や旅館が建っていた。たばこ屋や銭湯の看板も残されている。
最近は急速に開発が進み、高層マンションやショッピングモールが次々と建設されているけど、裏通りは昔のままみたい。この街で生まれ育ったのに、裏通りなんて使ったことがないから、物珍しさにきょろきょろしてしまう。
まるで、目まぐるしく変わる世の中から置いてきぼりにされたみたいな場所だった。
「僕、この道好きなんだよね」
立ち漕ぎをしながら、戸張が言う。
「…………」
その気持ちは、なんとなく分かった。
陽気な彼と陰キャの私の気持ちが一致するなんて、おかしいことだけど。
新築の建物はきれいとはいえ、浅くてペロンとしてる。だけど古い建物には、長い年月が育んだ奥深さがあった。私が生まれるずっと前にここで暮らした人々の思いが、今もふわふわとそこら中を漂っているみたいに。
潮の匂いがした。
裏通りを抜けたようだ。
風がザッと吹き、目の前にキラキラ輝く海と白い防波堤が現れる。
上空では、海鳥が優雅に旋回していた。
この場所に繋がるとは、知らなかった。
感心しているうちに、私はハッとした。
祖母の家に近づくどころか、離れてしまっている。
そういえば、戸張に家の場所を言ってなかった!
慌ててノートを取り出し、戸張に伝えようとしたところで、急に自転車のスピードが速くなった。下り坂に差しかかったようだ。
「……!」
手を離したら自転車から落ちてしまいそうで、私はサドルを持つ手にぎゅっと力を込める。
「シュ~!」と子供みたいに擬音語を口にしている戸張は、ブレーキを握るつもりがなさそう。戸張の柔らかい髪が風になびき、からかうように私の鼻先をくすぐった。
今すぐに文句を言いたかったけど、あいにく私は声を出せない。彼の背中をドンドンと叩いて抗議したけど、「なに? 楽しい?」と彼にはまったく通じなかった。
「はい、到着」
防波堤に着き、やっと自転車を止めた戸張に、怒りのメモを突きつける。
【ここどこ? 家に送ってくれるんじゃないの?】
「その前に、ちょっとした用事があってさ。僕んちそこだから、少し待っててくれない? お願いだからいなくならないでね、迷子になったら困るから。あとで家までちゃんと送るから心配しないで」
悪びれた様子もなく戸張は言うと、自転車と私をその場に残して、住宅街の方に走っていった。
帰り道が分からない私は、とりあえずは彼の言いなりになるしかなかった。
イライラしながら待つこと五分、戻ってきた戸張は、どういうわけか重そうなギターケースを肩から下げている。
「これ、中古で買ったギター。かっこよくない?」
戸張は自慢げに言うと、さっそくギターケースを開けた。出てきたのは、よくある雰囲気の茶色いアコースティックギターだった。
「よっと!」
戸張が、防波堤のブロック塀に飛び乗る。それからあぐらを組んでギターを構えると、自転車の横に立ち尽くしている私をじいっと見つめた。
何かを言いたげな彼の視線。
嫌な予感がして、サアッと顔から血の気が引いていく。
【まさか、歌えって言うつもり? だから無理だから!】
「知ってる、今は心の中でいいから。僕には聴こえるから大丈夫」
彼はどうやら、バカを超えた、本気でヤバイ類の人間のようだ。
今すぐ逃げ出したい……
そんな衝動に駆られていると、戸張がジャランとギターの弦をかき鳴らした。
夕暮れの茜色に染まる海景色に、緩やかなギターの音色が鳴り響く。
それは偶然にも、私の知っている曲だった。
中学のとき合唱部で歌った、とある英語の曲。
合唱部には、仲たがいしたグループの子たちがいたから、中二の終わりに辞めてしまった。歌うことは好きだったけど、その頃の私は彼女たちが怖くて、続けようとは思わなかった。
耳に染み入る音色に、全身が奮い立つ。
気づけば私は、戸張の言うように、その歌を心の中で歌っていた。
この歌には嫌な思い出しかないから歌いたくなんかないのに、何度も練習したせいか、頭が勝手に歌詞を呼び起こす。
強めの海風が、ザアッと吹いた。
桜の花びらが私たちを取り巻いている。
弥生山から運ばれてきた、花の嵐だった。
弥生山は近くにある山で、昔は城郭があったらしいけど、今では公園になっている。知る人ぞ知る桜の名所でもあった。
花びらは吹雪のように戸張の周囲を舞ったあと、役目を終えたとばかりに、ひらひらと力なく海に落ちていった。
水面が、薄桃色に染まっている。
潮風と、清々しい春の香りがした。
戸張はコードが変わるとき、よくぎこちなくなった。何度もミスしては「あ、やべ」と小声でつぶやいている。
このレベルで、よく動画サイトにアップしようと考えたよね……
ある意味感心しているうちに、下手くそなギターは鳴りやんだ。
「どう、どう?」
無邪気に感想を求める戸張。
【それで、動画サイトに投稿しようとしたの? すごい度胸】
「あれ、下手だった? でもほら、歌があるとギターの下手さが誤魔化せるって言わない? 僕歌下手だから、代わりに歌ってくれる人探してるんだよね。それで今、白浜さんを熱心にスカウトしてるわけ」
【私に声をかけるあり得ない神経は置いておくにしても、その下手さなら、歌があっても誤魔化せないと思うよ】
「うわっ、白浜さん意外と毒舌。いや、毒筆って言ったらいいのかな? あ、うまい言い方でしょ」
ニコニコしながら謎の自画自賛をしている彼に、白けた目を向ける。
「でも、今日はいつもよりうまく弾けたな。やっぱり白浜さんが歌ってくれたからだよ」
【私、立ってただけだけど】
「白浜さんの心の中の歌声、僕にはちゃんと聴こえてた。嘘くさいって思うかもしれないけど、本当だよ。ほら、世の中の常識が正しいとは限らないじゃん? だって常識は、人間が勝手に決めたものなんだから」
【ねえ、大丈夫? そんな変人で友達とうまくやってるの?】
「あはは、白浜さんに言われたくはないなー」
まあ、それはそうだけど。
クラスのはみ出し者の私に、人気者の彼が友達事情を心配されたくはないだろう。
嫌みともとれる発言だったけど、私は別に嫌な気分にはならなかった。
戸張はあまりにもあっけらかんとしているから、悪意を感じないのだ。
変な人だけど、きっと悪い人じゃない。
だけど、これ以上は関わりたくない。
その後、戸張は約束どおり私を家まで送ってくれた。
ブンブンと手を振りながらもと来た道を自転車で去っていく戸張を、最後まで見送ることなく家に入る。
変なのに絡まれたな……
住み慣れた祖母の家の匂いに包まれたとたん、どっと疲れが押し寄せた。
こんな日はもう、二度とごめんだ。
戸張は自転車で私を送る代わりに、もうしつこくしないと約束したのだから、大丈夫だと信じたい。
きちんとローファーを揃え、玄関から上がる。
すぐに、台所に立つあずき色の割烹着の背中を見つけた。
「おかえりなさい」
物音に気づいた祖母が、こちらを振り返る。
「今日は遅かったわね。洗濯もの入れておいたから、畳んでおいてくれる?」
それから祖母は私の顔をまじまじと見つめ、にこやかな笑みを浮かべた。
「凪ちゃん、今日はなんだか楽しそうだけど、いいことあった?」
「…………」
私は無言でかぶりを振ると、台所の前を通り過ぎた。
リビングとして使っている十畳間で、洗濯ものを畳み始める。
半開きの縁側の引き戸から、夕方の風がそよいでいた。
窓越しに見える、庭の樹木や小さな池、石灯籠。祖父がこだわって設計したらしい、小さいながらもなかなか豪華な庭だった。
祖父は、私が生まれる前に亡くなっている。
壁には年季の入った四角い壁掛け時計がかかっていて、その隣には私の写真が飾られていた。中二の十月、合唱コンクールの会場前で、友達と撮影したものだ。
見たくないから外してほしいのに、祖母には伝えられずにいる。
部屋の隅にある仏壇には、母の遺影が置かれていた。
記憶の中よりも若い母の笑顔は、いったい誰に向けられたものなんだろう?
私といるとき、彼女はいつも母親の顔をしていた。
そんな母は、小四のとき、なんの前触れもなく亡くなった。
そして、父も私を置いて消えてしまった。
――凪ちゃん、今日はなんだか楽しそうだけど、いいことあった?
洗濯ものを全部畳み終えたところで、祖母のセリフを思い出す。さっきからずっと、胸の奥に引っかかってモヤモヤしていた。
どうして祖母は、あんなことを言ったんだろう?
変なクラスメイトに強引に連れ回されて、いつもの何倍も嫌な気分のはずなのに。
この私が誰かといて、楽しいと感じるわけがない。
そんな感情は、声とともに、遠い過去に置きざりにしてきたのだから。
「おーい、白浜さん。練習に行こう」
翌日の放課後。
門に向かって歩いているとそんな声がして、背筋がゾゾッとした。
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『はあ?』と出ないはずの声が漏れかけた。
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