この世界から消える前に、君の声が聞きたかった

ユニモン

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1巻

1-3

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 私はどうにか気持ちを落ち着かせると、ノートとペンを取り出し、文字を書き殴る。

【昨日の約束、覚えてます?】
「覚えてるよ。『歌って』って言わないっていう約束ね。僕、『歌って』とは言ってないよ。『練習行こう』って言ってるだけ」

 子供みたいにキラキラした目で言われ、そうきたか、と私は凍りついた。
 こういうとんち勝負、子供の頃に昔話で読んだことがある。とんちっていうか、もはや屁理屈だけど。

【同じことだと思うんですけど】
「同じじゃないよ。全然違う」
【とにかくもう構わないで、苦手だから】
「苦手って、僕がってこと? うわっ、きついなー」

 へらへらと笑う戸張は、どこまでが本気でどこまでが冗談なのか分かりにくい。
 ああ、やっぱり戸張には話が通用しない。
 私はひたすら彼を無視して、速足で帰ることにした。それでも戸張はしつこく追いかけてきたけど、気づくと途中でいなくなっていた。
 あきらめてくれたみたい。
 静寂が戻ってホッとしつつも、ずっと響いていた戸張の声が消えて、落ち着かない気分になる。私ひとりの、異様なまでの静けさを思い知らされた。
 ずっと楽しそうにしゃべっている戸張の世界は、すごく生き生きしている。
 ひと言もしゃべらない私の世界は、死んでいるみたいだ。
 正反対の私と戸張の世界は、やっぱりどう考えても、混じり合うわけがない。



 翌日の放課後も、そのさらに翌日も、戸張は私につきまとってきた。
 そのうち『練習しよう』とも言わなくなり、もはやただのストーカーだ。
 人気者の陽キャ男子と、声の出せない陰キャ女子。
 あり得ない組み合わせは自然と注目を浴び、いつもどこからか視線を感じた。
 存在すら忘れられるほど、ひっそりと残りの高校生活を送る計画だったのに、戸張のせいで台無しだ。
 私はずっと戸張を無視していた。
 だけどある日の放課後、ついに堪忍袋の緒が切れた。
 自転車を押しながら呑気のんきな足取りで後ろを追いかけてくる戸張に、バシッとノートを突きつける。

【毎日暇なの? 部活してないの? 塾は?】
「お、久々に話しかけてくれた! 部活は入ってないよ、塾も行ってない。僕、バカだから受験しないんだ」

 つっけんどんな態度にもかかわらず、戸張はまるで尻尾しっぽを振る犬みたいな勢いで答える。

【バカなのは知ってる】
「相変わらず、きっついなあ。白浜さんってしゃべらないから、余計に言葉が刺さるよね」

 ははは、と戸張が笑った。

「白浜さんは? 僕と同じで毎日家に直帰してるけど、塾行ってないの?」
【そんな難しいところ目指してないから、自分で勉強してる】
「へえ、すごいね」

 間延びした口調で答えたあとで、いつの間にか真横に並んでいた戸張が、じっと私の顔を見てくる。猫に似た茶色の瞳をすごく近くに感じて、不覚にもドキリとした。

「ねえ、ちょっと見ていい?」

 距離感の近さに戸惑っているうちに、ノートをひょいと取り上げられてしまう。

「……っ!」

 返してと言いたかったけど、もちろん声は出せない。
 仕方なく抗議の意味を込めて戸張の制服のすそを強く引っ張ったけど、彼は気にすることなくノートをパラパラとめくっている。

「なになに、【おばあちゃんは休んでて。洗い物は私がするから】か」

 感心したように戸張が言う。
 昨夜の祖母との会話を読まれたみたい。
 デリカシーのないやつだとは思っていたけど、これほどとは思わなかった。
 本当にサイテーだ。
 顔が熱くなるのを感じながら、なんとしてでもノートを奪い返そうと手を伸ばす。だけど戸張は高身長を利用して、ますますノートを高く掲げた。頑張っても私には手が届かない位置で、ノートをめくり続ける。

「ふうん、白浜さんはいつも、おばあちゃんのことを気遣ってるんだね。優しいなあ」

 私はますます恥ずかしくなって、ぎゅっと唇を噛んだ。早くノートを取り返して、【ほんとサイテー! 人間のクズ!】と書き殴りたい。

「で、これは昨日の僕との会話だね。うわ、辛らつだな」
【バカ、うざい、来ないで】

 そんな乱れた文字を見て、戸張が苦笑した。
 改めて考えると、たしかに酷い言葉の数々だ。だけど、わけの分からない理由でしつこく絡んでくる彼が悪いのだ。
 ピョンピョンとひたすら跳ね、やっとの思いで戸張の手からノートを取り返した。
 ひと安心している私を、戸張はうれしそうに眺めている。
 からかってるわけじゃない、純粋に幸せそうな顔。
 なにがそんなにうれしいのか、さっぱり分からない。
 腹は立つけど、戸張があんまりうれしそうだから、ノートに文句を書く気が失せてしまった。
 私は戸惑いつつ、ふいっと戸張から視線をらす。
 すると、視線の先に見馴れた後ろ姿を見つけた。
 灰色のショートカットに、紫のニットカーディガン。パンパンに中身の詰まった白いビニール袋を両手から提げたその人は、祖母だった。
 スーパーで買い物をしてきた帰りみたい。腰痛持ちなのに、あんな重い荷物を持って大丈夫なわけがない。『私が行くから無理しないで』っていつも伝えているのに、聞く耳を持ってくれないのだ。
 すぐに駆け寄って手伝ってあげたかったけど、今は戸張と一緒だ。
 男子と歩いているところを祖母に見られるのは恥ずかしい。

「あの人、白浜さんのおばあちゃん?」

 困惑していると、戸張が言った。ぎょっとして彼を見る。

「さっき、白浜さんの口が〝おばあちゃん〟って動いてたよ」

 戸張はおもしろがるように言うと、速足で自転車を押し、あっという間に祖母に追いついてしまった。

「白浜さんのおばあさんですよね? よかったら、荷物持ちますよ」

 なんの抵抗もなく初対面の相手に話しかけることのできる戸張は、やっぱり自分とは異なる種類の人間なんだとしみじみとする。
 祖母は驚いたように戸張を見上げ、後ろにいる私に気づき、また戸張を見た。

「あら。もしかして、凪ちゃんのお友達?」

 戸張はにこっと、いつもの人好きのする笑みを浮かべる。

「はい。凪さんと同じクラスの戸張って言います」
「まあ、それはありがたいわ。じゃあお言葉に甘えようかしらね」

 祖母は見たこともないほどうれしそうな顔で、戸張に買い物袋を渡す。

「重いっすね、大変だったでしょ?」

 戸張は軽い口調で言いながら、ビニール袋を自転車のカゴに入れた。もうひとつの袋はハンドルにかけて歩き出す。
 私を置いてけぼりにして、ふたりは並んで歩き始めた。ペラペラとひたすら話しかけてくる戸張に、祖母は早くも気を許したようだ。
 たしかに戸張には、誰でも打ち解けやすい不思議なオーラがある。
 それに、かわいい系の部類に入る顔だから、祖母のツボに入ったのだろう。祖母がひそかにとある男性アイドルグループを推していることは、前から知っていた。
 そんなふたりを眺めているうちに、祖母に男の子といるところを見られた恥ずかしさは消えていた。
 戸張は家の前に自転車を止め、玄関まで買い物袋を運んでくれた。

「ありがとう戸張くん、助かったわ。よかったら上がっていかない? 今朝お隣さんから、旅行のお土産のお饅頭まんじゅうをいただいたのよ。どうかしら?」
「本当ですか? 僕、饅頭まんじゅう大好きなんです。じゃあ、お言葉に甘えてお邪魔しまーす」

 戸張は、祖母の誘いに遠慮することなく応じた。それからスニーカーを脱ぐときちんと揃え、ウキウキした様子で祖母の背中を追う。

「さ、座って。すぐにお饅頭まんじゅうを用意するからね」
「なにかお手伝いできることありますか?」

 コタツ机の前に座った戸張が、十畳間を出ていこうとしている祖母に声をかける。

「いいのよ、ゆっくりしてて」

 祖母は戸張の行儀のよさにご満悦のようだ。
 私は仕方なく戸張の向かいに座り、彼のコミュ力の高さに感心していた。
 見馴れた十畳間に戸張がいる光景は、違和感しかない。

「この家、すごい落ち着く。ばあちゃんちみたい」
【私のおばあちゃんちだよ】
「あはは、そういえばそうだよね。僕のばあちゃんち、遠いからあまり行けないんだ。だから白浜さんがうらやましいよ」

 少しすると、祖母がカルピスとお饅頭まんじゅうをお盆に載せて戻ってきた。

「あ、この饅頭まんじゅう見たことある。京都のですよね」
「まあ、よく知ってるわね。お隣さん、京都に旅行に行かれてたみたいなの」
「この前テレビで紹介されてるの見たんです。江戸時代からあるらしいですよ、この饅頭まんじゅう
「まあ、そうなの? さすが京都ね~」

 初めて会ったとは思えないほど、戸張と祖母の会話は弾んでいる。
 私はカルピスをストローですすりながら、じっとふたりを観察していた。
 こんなに楽しそうな祖母を見るのは久しぶりだ。娘を亡くし、孫が声を失ってから、笑っていてもどこか寂しげだったのに。

「凪ちゃんがね、お友達と一緒にいるところを初めて見たから、すごくうれしかったのよ。ほら、この子しゃべれないでしょ?」

 だけどその話を持ち出したとたん、祖母は表情を曇らせた。

「本当はね、とってもきれいな声なのよ。歌うことが大好きで、中学校のときは合唱部でソロパートを任されるほどだったの」

 祖母が、壁にかけられた額縁に目をやる。
 中二の十月、合唱コンクールの帰り。今は顔すら見たくない友達数人と撮影した、私の大嫌いな写真。
 あのときまだ一緒に暮らしていなかった祖母は、わざわざ遠くの会場まで見に来てくれたのだ。そして、私がソロパートを担当したことをすごく喜んでくれた。
 輝かしい過去を思い出し、胸の奥がチクリとする。

「そうなんですね。それは聴いてみたいな」

 戸張がボソッと言った。
 いつもとはどこか違う声だった。
 写真を見上げる彼の横顔も、妙に真面目だ。
 ひょっとしたら、声が出せなくなった私を、今さらあわれんでるのかもしれない。
 歌うことが大好きだったのに、歌えなくなったわけだから……
 変人戸張にも、ちゃんと同情心があったらしい。
 やるせない気持ちになったけど、彼が声の出ない私をあわれんでくれるのは本望だ。
 これでもう、今までのようにしつこくはしなくなるだろうから。
 今後は他のクラスメイト同様、一線を引いて私と接してほしい。
 それからも祖母と戸張は、私そっちのけでずっと会話をしていた。
 七十歳を過ぎている祖母と、しゃべれない私がふたりで住んでいるこの家は、いつもは時計の針の音がやたらと耳につくくらい静かだ。
 だけど戸張がいる今は、違う家みたいに騒々しかった。
 戸張は、存在そのものがにぎやかなのだ。
 溌剌はつらつとしている祖母を眺めていると、だんだん私の気分もなごんでいく。
 窓の外がすっかり暗くなってから、戸張はやっと帰ると言い出した。
 門の前まで戸張を見送りに出たところで、私はポケットからノートを取り出すと、街灯の明かりを頼りに文字を書いた。

【今日はありがとう。おばあちゃん、喜んでたみたい】

 無理やりついてこられてお礼を言うなんて変だけど、祖母の楽しそうな姿が見られたのは感謝したい。
 のんびりと老後を送っていた祖母のもとに転がり込むような形で居候いそうろうしている私は、いつも罪悪感でいっぱいだから。祖母は、父のことも私のことも絶対に悪く言わない人なので、なおさらだった。
 街灯の薄明かりのもとで、戸張は照れたように頭の後ろをいた。

「白浜さんにお礼言われたの初めてだから、照れるな。だっていつも、ウザイとかバカしか言われてないからさ。あ、そうだ」

 戸張が、何かがひらめいたようにニッと笑う。

「お礼に、今度は僕の用事に付き合ってよ。ひとりで行きたくても行けなかったところがあってさ。白浜さんが一緒なら行けると思うんだ」

 相変わらずの脈絡のない話の流れに、『は?』と出ないはずの声がまた漏れかけた。
 そうだった、彼はこういう人だった。
 いいところもあるけど、基本は常識がなくて図太いのだ。

【そんなこと、私がする義理はないよ。それとこれとでは話が別】

 暗がりでも読み取れるよう、大きめの文字を書く。
 戸張は首をかしげ、「そっかあ」と残念そうな顔をした。


「じゃあ、白浜さんのおばあちゃんに言おっかな。白浜さんが本当はしゃべれること」


 ――え?
 頭の中が真っ白になった。
 不意打ちでパンチをくらったような感覚。
 居心地のいい私の静寂の世界が、終わってしまう恐怖に襲われる。
 吐息が震える。息苦しさすら覚えた。
 ……だけど、ここで引き下がるわけにはいかない。
 バクバク鳴る心臓の音を感じながら、できるだけ平静を装って、ノートにペンを走らせる。

【何言ってるの? いくら戸張くんでも、そういうでたらめ言うのよくないと思う】

 怒り顔でノートを突きつけると、戸張は不満そうに眉根を寄せた。
 納得のいっていない雰囲気だけど、このまま押し切るしかない。
 どうすれば、この危機を切り抜けられるだろう?
 焦りながらも必死に考えを巡らせていると、軽い衝撃とともに、視界が暗転した。
 ノートとペンが手から離れ、鈍い音をたてて地面に落下する。
 体全体が、自分のものとは違うぬくもりに包まれていた。
 ドクドクという鼓動を肩の上辺りに感じたけど、私の心臓はそんなところにない。
 戸張が私を抱きしめたのだとハッキリ分かるまで、数秒かかった。

「ぎゃっ!」

 反射的に、のどから悲鳴が飛び出す。
 私は精いっぱいの力を込めて戸張を突き放した。
 他人に抱きしめられる違和感から解放され、ホッと息をついたのも束の間、自分のやらかしに気づく。
 悲鳴を上げたばかりの口元を、震えながら押さえた。
 ――やってしまった。
 恐る恐る戸張を見ると、彼はこのうえないほどしたたかにほほ笑んでいた。

「白浜さんの声が聞けてうれしいよ」

 もう、誤魔化ごまかしようがない。
 私は腹をくくると、どうにか息を整えて口を動かす。

「……どうして知ってるの?」

 家の中にいる祖母に聞こえないよう、気をつけて声を出した。

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