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第2話 〈わたし〉の名前
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お母さんの笑い声が、聞こえた気がした。
すくっと立ち上がると、膝の骨がポリっと鳴った。小走りでドアの前に立って、耳を澄ませる。
すると、やっぱりお母さんの笑い声だった。
わたしは嬉しくなった。きっと、お母さんに何かいいことがあったに違いない。それとも、誰かが家に来て楽しくお喋りしているのだろうか。
何にしても、今日はいい日だ。
わたしはドアに背中を預け、畳にお尻をぺたんと付けた。畳は柔らかくて、優しく全身を受け止めてくれる。
お母さん、今夜は美味しいものくれるといいなぁ。
もしかしたら、ご飯に塩がかかってたりして。
塩ご飯、前に一回だけ食べさせてくれたな。
想像するだけで笑みが零れた。
――ドアに寄りかかっているうちに、いつの間にか寝落ちしてしまったらしい。
背骨に当たるドアの感覚が突如なくなり、わたしはバランスを崩して後ろへ倒れてしまった。
一気に目が覚めて、倒れた姿勢のまま上を見たら、お母さんの顔が見えた。
「あんた、なんでここにいるのよ」
低い声だった。
わたしは手をついて急いで起き上がった。
そしてひらりと身体を回転させて、土下座の姿勢を作った。
「……ごめんなさい」
「もしかして、外に出ようとしたの?」
「違います」
「外は危険なことが沢山あるのよ。ここにいたら、あんたはお母さんに守られるのよ。生きていけるのよ」
外に出たら、わたしは生きていけないのだろうか。ぼんやり考えながら、私はひれ伏していた頭をゆっくり上げた。
その瞬間、頭の上に衝撃を受けた。
額が床にぶつかったが、畳に衝撃が吸収されてあまり痛くなかった。
上目遣いでお母さんを見ると、お母さんの足が私の頭の上に乗っているのが見えた。
「頭を上げるのが早い」
低い声に胸がキュッとなる。
「ごめんなさい……」
きっと、外の世界は頭を踏まれるより痛くて、苦しくて、悲しいに違いない。
今日で、せんきゅうひゃくにち。
キリのいい日なのに、お母さんを怒らせてしまった。
二千日記念日は、ちゃんとしてよう。
開かれたままのドアの奥から、美味しそうな匂いがした。
2
目が覚めると涙がこめかみを流れた。真っ暗な部屋を見回して――夢だったんだと息をつく。
あの頃の私は遠い昔のはずなのに、今でも鮮やかに夢に見る。
電気を点けて、ベッドサイドに置いてある水を一口飲んだ。冷たさが喉を通過するのを感じる。
母のことは、あのとき、笠井先生の前で殺したはずなのに――。
ゾンビのように殺しても殺しても蘇る。どうにか、母の残像に喰われないようにしないといけない。
額の汗を拭い、ベッドの上にあぐらをかいた。壁のカレンダーに目をやる。
三日後の日付の下に書かれた『十四時~ 田向』の文字を見たら、胸の鼓動が少し緩やかになった。
3
今日は、朝からそわそわしていた。
だって今日は二千日記念日。
何かが起きるかもしれない。お母さんの機嫌がいいといいな。部屋の真ん中で膝を抱えて、ドアの方に何度も目をやった。
やがて、ドアの向こうから光が入ってくる。
そこに立っていたのは、お母さんじゃなかった。
大きな男の人が三人、私を見ていた。
私は部屋の隅に逃げる。顔を壁に押し付けて、更に逃げようとした。
「春海さん。大丈夫だよ」
優しい声を出す男の人。久しぶりに名前を呼ばれて、私はかぶりを振った。
「違う、私はポチなの……!」
首の下のが鳴り響く。首輪つけられたタグの『ポチ』という赤字を見つめ、心を落ち着かせようとする。
「春海さん、僕たちはおまわりさんだよ。もう大丈夫だから」
おまわり、さん――?
私は動きを止めた。
「春海さん、ここから出られるよ。もう大丈夫だ」
ここから、出られる――?
私はゆっくりと振り向いた。
三人の男の人は、微笑を浮かべている。
――次の瞬間、私は首に爪を立てた。
首輪の下を一心不乱に掻きむしる。ひりつく痛みと、爪が剥がれる感覚がした。
「春海さん!」
男の人たちが駆け寄ってきて、私の手を掴む。私は抵抗した。
「わん! わん!」
私は鳴いた。こうすれば、私がポチだと分かってくれるかもしれない。
それでも、私を掴む手は緩まなかった。そのまま連れて行かれ、二千日ぶりにドアの向こうに降り立った。階段の木の匂いが、昔の記憶を蘇らせる。
初めて、お母さんにこの部屋に連れてこられたときのこと。
ラップに包まれたカピカピになったご飯と、首輪だけ与えられ、ドアの向こうで聞こえる鍵のカチリとする音。
裸電球の下で何度も泣いたこと。
やがて――泣かなくなったときのこと。
もう警察の人たちに抵抗はしなかった。後ろ前を挟まれて階段を降りていると、膝小僧がガクガク震えた。
下の階に、お母さんの気配はなかった。
一階は昔と細かなところが変わっていた。壁の色は緑になっているし、廊下の電気もおしゃれになっていた。
警察の人に促され、玄関に行った。開かれたままのドアからはさんさんと太陽が差し込み、私は目を細めた。
「とりあえず、病院に行こうか」
後ろからそう言われ日光の先を睨むと、大きな車の白いフォルムと赤い線、その上で赤色灯がゆらめいていた。
「春海さん。大丈夫だよ」
女の人が近付いてきて、私の身体を大きなタオルでくるむ。タオルは知らない匂いがした。
ポチになって二千日記念日の今日、私は『春海』と昔の名前を呼ばれた。
外に出たら沢山の人に身体を触られた。
やっぱり、外の世界は危ないところなのだろう。
私は「お母さんは?」と女の人に訊いた。
女の人は一瞬悲しそうな顔をすると、「心配いらないから」とだけ言った。
お母さん以外の大人は、やっぱり信用出来なかった。
救急車に横にされて、車が発進する。
私は目をつむり、首の鈴をりんと鳴らした。
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