血を流しながらも、生きていく

月森優月

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 光の反対は闇だと他人は言う。けれど僕は違うと思っている。光の反対は無だ。何も感じないことこそが、闇と呼ばれる感覚の真髄だと思う。そして無になってしまう原因は、心を殺されることだと思う。
 僕はお母さんに心を殺された。中学二年のあの夜に。
 お母さんはいわゆるシングルマザーだった。父親は中学一年のときに死んだ。仕事もまともにせず一日中お酒を飲んでいて、きっと肝臓やらに負担がかかっていたのだろう、病院にかかることもなく突然死んだ。奴はお酒がなくなるとお母さんに暴力を振るい、僕の家は完全に崩壊していた。
 だから奴が死んだときほっとした。もう、お母さんが殴られて血を流す光景を見なくていい。僕もお母さんも、もう殺される心配がない。
 でも奴は身体は死んでもまだ生きているかのようだった。奴は悪夢という形で死んでもなお僕を苦しめ続けた。
 お母さんが逃げる。奴が追いかける。お母さんが、奴に包丁で刺され、奴が、にやりと笑い、僕は悲鳴も出せずに息が苦しくなる。
 そこで目が覚める。真冬なのに身体が汗ばみ、身体のあちこちが痛む。奴はいない。包丁が刺さったお母さんもいない。朝日が部屋を照らし、鳥のさえずりが聞こえた。夢だったのだと理解するまで少し時間がかかった。
 奴が死んでも奴の呪いからは逃れられない。この苦しみは永遠に続くのかもしれないと思った。
 でも、その呪縛は突然終わった。より大きな『呪い』が日常を侵食していったから。
 お母さんが『あの人』を連れ込むようになり、僕の生活はがらりと変わった。あの人は、お母さんよりかなり年上に見えた。「朋樹ともきくん。学校はどうだい?」と声をかけてくるあの人。僕は笑顔を作り、「楽しいです」と言った。完璧なまでの正答だと思った。
 僕の家はワンルームだ。奴が死んでからお母さんは頑張って働いたが家計は厳しく、築六十年の安アパートを借りるしかなかった。なので、僕はお母さんの隣に布団を敷いて寝ていた。
 その夜、お母さんは隣の布団で『あの人』と同じ布団に寝ていた。聞こえてくる、あの人の低い声。そして、お母さんの聞きたくない声。早く、心を無にしなければいけないと思った。
 お母さんの声が高まり、そして静まる。このまま夜に呑み込まれてしまえばいいと思った。あの人も、お母さんも、僕も。
 僕はただ目を瞑っていた。何も感じていない。辛くなんて、ない。水の中にいるように、音も部屋の暗がりも遠のいていく。これが『無』なのだと思った。

 それから僕は何にも感じないままの期間が数年続いた。あの人が新しいお父さんになることはなかったし、お母さんの見たくない姿を数え切れないくらい目撃し続けた。
 突然に、僕の家にあの人が来ることはなくなった。二十歳くらいの頃だった。僕とお母さんの二人暮らしが再開される。
 けど、僕には喜びも安心感もない。いつからかそれこそ覚えてないけれど、僕は段々外へ出られなくなった。外の刺激が酷く痛く、徐々に自分の部屋に引きこもりがちになった。
 大学で嫌なことがあったわけでもない。バイトもしていなかったし辛いことなんて特になかった。あの人もいなくなったし、奴ももうこの世にはいない。
 なのに何故僕はこんなにも空虚なのだろう。思えば、中二のあの夜から僕は人形のようだったのかもしれない。
 お母さんは僕を心配してくれた。僕の好物を作ってくれたし、気分転換に買い物に一緒に行こうと誘ったりしてきた。その優しさが、ひりひりと火傷のように心を焦がした。
「朋希。お母さんが生きている限りは朋希の世話をし続けるから、何も心配しなくて大丈夫だからね」
 僕を気遣う言葉に、胸の奥がずきりと痛んだ。普通なら社会人になって親をやっと安心させることが出来る時期のはずなのに、僕は今までで一番お母さんに気苦労をかけている。そう考えると余計に食欲は落ち、外へはほとんど出られなくなった。
 やがて、精神科にかかり始めた。お母さんは通院日の度仕事を早退し、どんなに疲れていても具合悪そうでも僕を連れてってくれた。僕も頑張って病院に通った。薬がどんどん増え、動くのが更にしんどくなった。でも、心がほんの少しずつ、色を取り戻してきた。ご飯を食べて美味しいと感じることが出てきた。音楽を聴いて心を揺さぶられる感覚をちょびっとだけ取り戻せてきた。
 お母さんが作ってくれたハンバーグが美味しいと感じ、「美味しいね」と言うと、お母さんは俯いて唇を噛んだ。涙を堪えている姿を見ても、何故か僕は何にも感じなかった。
 カウンセリングも受けることになった。初回カウンセリングの日、幼少期のことからヒアリングされ、僕はとつとつと語った。奴のこと、あの人のこと、そしてお母さんのこと。話してても痛みは感じなかった。まるで他人事のように、話し続けた。カウンセラーはうん、うん、と聞いてくれた。
「……朋樹くんがやられてきたこと。実のお父さんのことも、お母さんと他の男の人のことも、お母さんがやったことは――虐待だったと思うよ」
 カウンセラーは僕をまっすぐ見て言った。『虐待』。その言葉が僕の心にずっしりと落ちて、心に波紋が広がる。意外な言葉だったはずなのに、そうだよな、と合点がいった感覚がした。
「今まで辛かったね」
 その言葉が僕の心にじわりと滲む。心をがんじがらめに縛りつけていた縄が、少しずつ、ほどけていく。
「あなたは、お母さんに心を殺されたんだよ。長い間そんな光景を目にし続けてたら、傷付いて当たり前だよ。今辛いのも、それが影響しているところは大きいと思う」
 ああ、そうか、と思う。お母さんは加害者だった。僕が無になったのは、お母さんの、虐待のせいだった。少しずつ、見ないようにしていたことが輪郭を帯びてゆく。
「あなたはもっと怒ってよかったんだよ」
 怒り。僕はそんな感情をお母さんに抱いたことがなかった。怒っていい。でも言えるわけがない。だって、お母さんは引きこもりがちになった僕を精神科まで連れてきてくれた。引きこもっていることを責めることもなく、何もしないでくれた。そう、何もしなかった。過去のことを謝ることも、辛かったよねって言ってくれることもなかった。ご飯を作るとか身の回りのことをしてくれるとか、そういうことじゃない。僕は、お母さんに謝ってほしかった。それ以上に、愛されたかった。
「昔のあなたは泣けなかったから、今泣いてもいいんだよ。怒ってもいいし、叫んでもいいし、辛かったって言っていいんだよ。私がちゃんと受け止めるから、吐き出していいんだよ」
 ずっと奥底に閉じ込めていた気持ちが、溢れ出してしまいそうになる。でも、カウンセラーの前なら出してしまってもいいと思えた。だから僕は、心の縄を全てほどいた。
「……助けて、ほしかった。僕はお母さんに助けてほしかったんです。好きだよって抱きしめてもらいたかった。僕を見てほしかったんです……」
 涙が零れ落ちる。自分が今泣いていることが信じられなかった。そういえば僕は長いこと泣いていなかった。涙はぽろぽろ零れ続け、小さい頃の僕が泣いているようだと思った。
 心が、少しずつ、息を吹き返す気配がした。
「そうだよね。よく言えたね。頑張ったね」
 カウンセラーは何度も頷き、僕の心を包み込んでくれた。
 僕はそれからも定期的にカウンセリングで気持ちを吐露し続けた。カウンセラーは受容してくれた。アドバイスでもなく、日常を変える提案をするわけでもなく、ただただ僕の言葉に耳を傾け、共感してくれた。心が少しずつ柔らかくなっていった。別にお母さんに気持ちを伝えたわけでも、お母さんが謝ってきたわけでもなかったけど、カウンセラーは僕にとっての第二のお母さんだった。――そうやって、お母さんにも受け入れてほしかったんだ。
 
 日曜の昼下がり、僕はキッチンに立つお母さんの後ろ姿をぼーっと見つめていた。僕のために昼食を用意してくれるお母さん。もしかしたら、ほんの少しだけでも、分かってくれるかもと期待した。僕の体調を日々心配し、年をとって昔より丸くなっている今のお母さんなら、僕の言うことをわずかにでも受け入れてくれるかもしれないと思った。
「……虐待、って言われたんだ。カウンセラーに。僕がされたこと」
 お母さんは振り向かなかった。キャベツを刻む手を止め、
「そうよね。お父さん、酷かったもんね」
 と言った。しばしの沈黙が訪れる。やがてお母さんは再び包丁の音を響かせた。何も分かっていない。何も通じない。そうだよね、と僕は両手で包み込むマグカップに視線を落とした。紅茶が血のように赤い。
 でも、お母さんの言葉はそこで終わりじゃなかった。
「……ごめんね」
 何を謝っているのか主語がなく、お母さんが本当に思っていることは図りかねた。僕が欲しかった謝罪とは全く違う。けれど、お母さんが僕に謝るのはすごく珍しいことだった。これで、いいと思った。もうこれ以上望む必要はない。謝ってもらったって、許すつもりはないし、お母さんはこれからも変わらないのだから。
 
 僕は部屋に戻り、窓を開けた。窓からは金木犀の香りがした。奴が生きていた頃、秋になると庭の金木犀が香りを放ち、僕のこわばった心をほぐしていた。家の中がどんなに凄惨でも、秋は必ず訪れ、金木犀が香ってくれる。それが僕のわずかな光だった。
 二十三歳になった今、再びその香りが僕を包む。湿った空気が抜けていき。甘ったるいその香りが部屋に入り込む。今なら外に出られるかもしれない、と思った。一人で外に出るのはまだ怖いけど、大丈夫、僕は少しずつ変わり始めている。自分の人生なのだから、もっと楽に生きていいって、カウンセラーが言ってくれた。だから、僕が無でいるのはそろそろ終わりにしたい。
 もうすぐ、奴が死んで十年になる。あの人が来なくなって三年くらいになる。お母さんは『女』の姿を見せなくなり、僕の、僕だけのお母さんになった。またいつ男性を連れ込むかなんて分からないけど、でも僕はそうなっても心を殺されないよう、自分の辛さを受け入れようと思っている。
 まだ薬は必要だしカウンセリングも必要だ。でも、僕は生きていかなければならない。お母さんの僕に向ける優しい眼差しは、きっと嘘ではない。それでもお母さんが虐待していたという事実を僕は忘れずにいてもいいって、今なら思えるんだ。
 ――僕の心は、血を流しながらも、今を生きている。
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