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第3話 透明傘の距離
しおりを挟む第3話 透明傘の距離
匂い:雨上がりの光
温度:25℃
色:淡い群青
⸻
朝の空気がまだ湿っている。
道路の隙間から立ち上がる水蒸気が、
坂道の上に薄く漂っていた。
昨日までの雨が残した匂いが、街全体を包んでいる。
光がそれを照らして、
まるで街そのものが呼吸しているように見えた。
登校途中、坂の上で梨乃の姿を見つけた。
彼女は傘を閉じたまま持っていて、
制服の袖口にはまだ水滴が残っていた。
「おはよう」
声をかけると、梨乃は少し驚いたように顔を上げた。
「……あ、藤白くん。おはよう」
その声は、少しかすれていた。
笑顔を作ろうとしているのがわかる。
でも、その笑みは昨日よりも薄かった。
「ちゃんと寝た?」
「うん、寝たよ。……二時間くらい」
「それ、寝たうちに入らないよ」
「はは、だよね」
彼女はそう言って、軽く肩をすくめた。
その仕草が、どこか守りのように見えた。
通学路の途中で風が吹いて、
金色の銀杏の葉がひとつ、
彼女の髪に引っかかった。
僕は指でそれを取ろうとしたけど、途中でやめた。
触れたら、何かが壊れてしまうような気がしたから。
⸻
学校に着くと、
文化祭の準備が本格的に始まっていた。
放送で広報委員の集合が告げられる。
図書室の扉を開けると、
陽の光が差し込んでいて、紙の匂いが広がっていた。
「おはよう、藤白くん」
葡萄原紫苑が振り向いた。
群青色のカーディガンが、光を受けて柔らかく光っている。
彼女の動きには無駄がなくて、
まるで空気の流れの中に自分を合わせているようだった。
「おはようございます」
「そんなかしこまらなくていいよ」
紫苑は微笑みながら机の上の資料をまとめる。
「写真、撮るセンスあるね。昨日の校舎のやつ、すごく良かった」
「あれ、たまたま光がきれいだっただけです」
「そういう偶然を掴めるのがセンスって言うんだよ」
彼女の言葉は穏やかで、
だけど芯がある。
梨乃とはまるで違う種類の“優しさ”だった。
紫苑は与える人ではなく、見抜く人だ。
彼女の視線はまっすぐで、
人の中にある矛盾さえも包み込んでしまうように思える。
「そういえば、梨乃ちゃんとも仲いいよね?」
突然の言葉に少し驚いた。
「え、まあ……帰る方向が一緒で」
「彼女、頑張りすぎるところあるから。
もし無理してたら、止めてあげてね」
その声は優しいけれど、
どこか“知っている人”の響きを持っていた。
「紫苑先輩、梨乃のこと知ってるんですか?」
「うん。去年、同じ委員会だったの」
「……そうなんですか」
「いい子だよ。でも、いい子すぎて心配になる」
紫苑は資料を閉じて、窓の外を見た。
そこにはまだ濡れたグラウンドと、
光を反射する水たまりがあった。
「ねえ、藤白くん」
「はい?」
「優しさって、時々距離を作ると思わない?」
僕は答えに詰まった。
昨日、梨乃が言っていたことと重なった。
“優しいって、時々痛い”――あの言葉。
紫苑は静かに続けた。
「近づきすぎると、相手の痛みまで背負っちゃう。
でも離れすぎると、もう届かなくなる。
その間を見極めるのが、きっと“思いやり”なんだと思う」
その言葉は、ゆっくりと心に沈んでいった。
⸻
放課後。
校舎の外はまた薄暗く、風が強くなっていた。
図書室の窓を閉めに行く途中、
梨乃が廊下の隅で立っているのを見つけた。
「どうしたの?」
「……広報のポスター、破けちゃってて」
彼女の手には、濡れた紙の端。
文化祭のポスターが、雨風にやられたらしい。
僕はタオルでそれを受け取り、
乾かすように広げた。
「大丈夫。印刷し直せばいい」
「でも、これ私が貼ったやつで……紫苑先輩に怒られるかも」
「怒らないよ。たぶん、笑って“次はテープ多めにしようか”って言うだけ」
「そう、かな……」
梨乃は俯いた。
その横顔を見て、僕は初めて気づいた。
彼女は“完璧であろうとする優しさ”の中に閉じ込められていた。
⸻
その夜、文化祭の広報チャットに連絡が入った。
紫苑が送ったメッセージ。
「雨で外ポスター破損した分、明日再印刷します。
梨乃ちゃんの分、私の方でフォローします。気にしないでね。」
その文章は短いのに、
梨乃の心をふっと軽くするような温度を持っていた。
僕は思わずスマホを握り直した。
“優しさ”にもいくつかの形がある。
梨乃の優しさは、寄り添うもの。
紫苑の優しさは、支えるもの。
どちらも正しい。
でも――どちらも孤独だ。
⸻
翌日。
朝から雨。
灰色の雲が空を覆い、街の輪郭が柔らかくぼやけていた。
校舎の前で、傘を差す梨乃がいた。
その横に紫苑が立っていて、
二人で新しいポスターを掲示している。
「テープは多めにね」
「うん、もう二重にした」
「よし、完璧」
紫苑の笑顔はあたたかかった。
梨乃の顔も、少しだけ明るい。
僕は廊下の窓からその光景を見て、
なぜだか少しだけ胸が痛くなった。
⸻
放課後、また雨。
今日は少し強い。
部活帰りの生徒たちが校舎の軒下で雨宿りしている。
梨乃はポスターの確認に行くと言って外に出た。
僕は気づけば、それを追っていた。
校門の前で、彼女は傘を閉じたまま空を見上げていた。
雨粒が髪を濡らしていく。
「風、強いよ」
「うん。でも、ほら」
彼女が指さした先で、ポスターがしっかりと貼りついていた。
「今度は、ちゃんと持った」
その笑顔を見て、僕は傘を開いた。
「ほら、入って」
「また?」
「いいから」
梨乃が小さく笑って、傘の中に入る。
ふたりの間に落ちた雨粒が、音を立てて消える。
「ねえ、藤白くん」
「ん?」
「傘の中って、安心するね」
「そうだね」
「でも……少しだけ怖い」
「どうして?」
「だって、外の音が聞こえなくなるから」
その言葉に、何かが引っかかった。
僕は一瞬、彼女を見つめる。
梨乃は傘の天井を見つめながら、
ぽつりと呟いた。
「前にね、雨の日にお母さんが倒れたことがあったの。
あのときも、傘の音で救急車の音が聞こえなかった」
静寂が、雨の音の中に溶けていく。
「それからかな。……傘の中にいると、息が詰まる感じがするの」
僕は何も言えなかった。
ただ、傘を少し傾けて、外の光が入るようにした。
「……これならどう?」
「うん、ちょっとマシかも」
梨乃が小さく笑う。
雨の中で、その笑顔が淡く光った。
⸻
その瞬間、後ろから声がした。
「藤白くん」
振り向くと、紫苑が立っていた。
群青の傘、整った姿勢。
まるで雨の中でも乱れない人。
「配布物、もう終わった?」
「はい。今、梨乃と確認してて」
「そっか。……優しいね」
その言葉に、昨日の会話がよぎる。
“優しさって、距離を作る”
紫苑は傘の中のふたりをじっと見つめて、
少しだけ笑った。
「傘の中って、近いようで遠いよね」
梨乃ははっとして、傘を少し下ろした。
雨の音が戻ってくる。
⸻
その夜。
家の窓を叩く雨音を聞きながら、
僕は“色の記憶帳”を開いた。
—色:淡い群青。
—匂い:雨上がりの光。
—温度:25℃。
—一言:優しさの距離は、近すぎても見えなくなる。
スクリーンの光が頬を照らす。
その白が、まるで誰かの涙みたいに淡かった。
⸻
📘 次回予告
第4話「葡萄色の午後」
――群青の傘を持つ先輩が見せる、もう一つの優しさ。
⸻
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