4 / 5
第4話 葡萄色の午後
しおりを挟む
第4話 葡萄色の午後(前半)
匂い:インクと陽だまり
温度:26℃
色:葡萄紫(えびいろ)
⸻
週の半ば、風は秋の匂いを含みはじめていた。
昼休みのチャイムが鳴っても、
教室の空気はどこかゆるやかで、眠気を誘う。
梨乃は今日もノートをまとめていた。
けれど、前みたいな明るさは少しだけ薄れている。
笑顔はある。けれど、瞳の奥が疲れていた。
「……大丈夫?」
声をかけると、梨乃はいつもの笑みで返した。
「うん。最近、ちょっと夜更かししてて」
「またノート?」
「ううん。ポスター。紫苑先輩にレイアウト手伝ってもらってる」
紫苑。
その名前を聞くと、胸のどこかが静かに反応した。
⸻
放課後。
広報委員の集まりが始まった。
図書室は、外の陽射しを柔らかく遮り、
紙とインクの香りが心地よい。
「今日は文化祭の特設ページ構成ね」
紫苑先輩がファイルを開く。
整った声。
その言葉ひとつで空気が引き締まる。
「記事のタイトル、何案か考えてきた?」
「“私たちの秋色文化祭”とか、“この瞬間を残したい”とか」
「いいね。藤白くんの方は?」
「“記憶の光”とか、“一秒先のきらめき”とか……」
「素敵。詩的だね」
紫苑は微笑んだ。
その瞬間、梨乃の視線が少しだけ動いた。
彼女は笑っていたが、
笑顔の輪郭が少しだけ硬かった。
⸻
作業の合間。
プリンターが紙を吐き出す音だけが響いていた。
藤白は机の上のペンを回しながら、
紫苑と梨乃のやりとりを眺めていた。
「ここ、文字を少し右に寄せた方がいいかも」
「はい。……あ、こうですか?」
「うん。そう、その方が視線が流れる」
紫苑は手元を覗き込みながら、
梨乃の髪にかかる光を気にせずに話している。
その自然さが、美しかった。
けれど、それを見ている梨乃の表情が少し曇る。
何かを比べるような目。
自分と、目の前の紫苑を。
⸻
作業が一段落したあと、
紫苑は窓際の光を見つめて言った。
「私ね、こういう時間が好きなんだ」
「こういう?」
「誰かと一緒に、何かを作る時間。
でも、ずっとは続かないんだよね」
梨乃が不思議そうに首を傾げた。
「どうしてですか?」
「“一緒に頑張る”って、どこかで必ず終わる。
卒業とか、進路とか、気持ちとか。
そういうのが、いつの間にか境界を作るから」
梨乃は少し黙って、それから微笑んだ。
「でも、終わっても残りますよね。思い出とか」
「残るよ。でもね、残るものほど痛いの」
紫苑の声には、ほんの少しの哀しみが滲んでいた。
梨乃はその意味を理解できずに、
静かに笑って頷いた。
⸻
作業が終わり、帰り道。
雲がゆっくりと流れていく午後の空。
陽射しは淡く、街が柔らかい葡萄色に染まっていた。
「紫苑先輩って、すごい人だね」
坂を下りながら梨乃が言った。
「うん、すごい。ちゃんと見てる人だと思う」
「うん……なんか、私とは違う」
「違うって?」
「あの人、誰かのこと助けるんじゃなくて、支えてる感じ」
梨乃の言葉に、僕は少し息を呑んだ。
彼女は、気づいている。
紫苑が自分の“理想の優しさ”を体現していることに。
⸻
夜。
机の上にポスターの下書きを広げながら、
藤白はペンを置いた。
手元のスマホには、
“色の記憶帳”の昨日のページが開かれている。
—色:淡い群青。
—一言:優しさの距離は、近すぎても見えなくなる。
その言葉を見つめながら、
紫苑と梨乃の姿が交互に浮かんでくる。
二人の“距離”は、似ているようでまるで違う。
梨乃は人の中に入っていく。
紫苑は少し離れたところから見つめる。
どちらも優しさだけれど、
どちらにも“孤独”があった。
⸻
翌日。
昼休みの教室。
梨乃が机に突っ伏していた。
周りではクラスメイトが談笑している。
「梨乃、大丈夫?」
「ん……ちょっと、頭痛くて」
「保健室行く?」
「ううん、すぐ治ると思う」
そう言いながら、彼女は顔を上げた。
その目は赤く、眠れていないことがすぐに分かった。
教室の隅で、三谷が囁いた。
「最近、梨乃ちょっとやばくね?」
「うん。広報も、家のこともあるらしいよ」
「家のこと?」
「母親が入院してるって聞いた」
その瞬間、時間が止まったように感じた。
⸻
放課後。
図書室に行くと、梨乃はいなかった。
紫苑がひとりでプリンターを動かしていた。
「藤白くん。梨乃ちゃん、今日は早退したよ」
「そうなんですか」
「うん。ちょっと無理してたみたい」
紫苑はプリントを束ねながら続けた。
「……私、あの子を見てると昔の自分を思い出すの」
「昔の?」
「中学のときね。部活で全部背負い込んで、
気づいたら誰も頼らなくなってた」
「それで?」
「壊れたよ。あのとき」
紫苑の指が、一枚の紙を強く握る。
白い紙に、指の跡が残った。
⸻
放課後の光が、図書室のガラスに反射していた。
窓の外では雨雲が少しずつ近づいている。
その群青色の空が、まるで紫苑の瞳の中に映っているようだった。
「藤白くん」
「はい」
「梨乃ちゃんのこと、見ててあげて」
「……はい」
「あの子、優しさを“使いすぎてる”から」
紫苑の言葉は静かで、けれど深かった。
その響きが、図書室の空気に残る。
⸻
了解しました。
──ここからは第4話「葡萄色の午後」の後半です。
物語は一気に情緒と心理が交錯する“午後の光”へ。
梨乃の「限界」と藤白の「覚醒」、そして紫苑の“成熟した優しさ”が重なり、
この第1期最大の感情転換点を迎えます。
⸻
夕方のチャイムが鳴るころ、
空の色は淡い紫に変わり始めていた。
グラウンドでは部活の声が遠くに響き、
風が少し冷たくなってきた。
教室の窓から外を眺めていると、
ふと、梨乃の姿が見えた。
校門の方へ向かって走っていく。
手には傘がない。
空はもう、暗い雲で覆われていた。
胸がざわついた。
嫌な予感がした。
⸻
下駄箱の前で、
藤白は傘立てにあった透明の傘を取り、
雨の降り始めた校庭を駆け出した。
坂の下にある小さなバス停。
そこに梨乃がいた。
白いシャツが濡れて、
肩までの髪が頬に張りついている。
「梨乃!」
声をかけると、彼女はゆっくり顔を上げた。
「……お母さん、病院に呼ばれたの」
「今から行くの?」
「うん。でも、バスが遅れてて」
彼女の声は震えていた。
雨脚が強くなり、
地面を叩く音が一層大きくなる。
藤白は迷わず傘を広げた。
「行こう。送るよ」
「でも、藤白くんまで濡れるよ」
「いい。行こう」
梨乃は一瞬ためらってから、傘の中へ入った。
狭い空間。
雨の音。
息の音。
それらが混ざり合って、世界が少し遠くに感じた。
⸻
バス停から駅までの坂道。
傘を持つ藤白の右手に、梨乃の肩が触れる。
体温が伝わる。
「藤白くん、私ね、ずっと怖かった」
「何が?」
「“優しくされること”が」
彼女の声は小さかった。
それでも、雨音よりもはっきり聞こえた。
「優しくされると、期待しちゃうから。
あ、この人はずっと隣にいてくれるんだって。
でも、そんなことって、ないんだよね」
藤白は息をのんだ。
梨乃の言葉には、どこか痛みのような確信があった。
「それ、紫苑先輩に言われた?」
「ううん。自分で気づいたの」
「気づかなくていいこともあるよ」
「でも、気づかないと壊れるから」
梨乃の目が濡れていた。
雨か涙か、もう分からなかった。
⸻
駅に着くころには、
空は完全に夜になっていた。
プラットホームの明かりが濡れた地面を照らして、
街が淡い葡萄色に染まっていた。
「ありがとう、藤白くん」
「病院、気をつけて」
「うん。……藤白くん」
「なに?」
「もし私が泣いても、笑ってくれる?」
彼は少し迷ってから、うなずいた。
「笑うよ。梨乃が泣いても、世界はちゃんと動くから」
梨乃は小さく笑った。
その笑顔は、もう少しで壊れそうだった。
電車の到着音が響く。
彼女はホームの階段を上りながら、
何度も振り返った。
そのたびに、傘の透明な膜越しに、
藤白の姿が少しずつ滲んでいった。
⸻
帰り道。
藤白は坂を上りながら、
“色の記憶帳”を開いた。
—色:葡萄紫。
—匂い:インクと陽だまり。
—温度:26℃。
—一言:優しさの先には、覚悟がいる。
指先が震えていた。
心が何かを掴みかけているのに、
まだ言葉にならない。
⸻
翌日。
梨乃は学校を休んだ。
朝のHRで担任が「家庭の都合」とだけ言った。
教室の空気が静かになった。
紫苑は黙っていた。
放課後、図書室で藤白を呼び止める。
「藤白くん、梨乃ちゃんのこと聞いた?」
「入院してるお母さんが、容態悪化したみたいで」
「そう……」
紫苑は机の上の資料を指でなぞりながら言った。
「“優しさ”ってね、受け取る人がいないと意味がないんだよ」
「え?」
「梨乃ちゃんは、与えるばかりで、誰にも渡せなかったの。
それが一番、苦しい優しさ」
藤白は何も言えなかった。
紫苑は少し微笑んだ。
「でも、まだ間に合うよ。君が“受け取る側”になれば」
⸻
夜。
外は静かな雨。
窓際の机で藤白はペンを握っていた。
文化祭の広報原稿、
そのタイトル欄に文字を打ち込む。
『優しさの色』
指が止まった。
胸の奥で何かが熱くなった。
梨乃の言葉、紫苑の声、
雨の匂い、傘の中の距離。
全部が混ざって一つになっていく。
それは、きっと恋ではない。
でも、恋よりもずっと深い何か。
⸻
翌日。
梨乃は登校してきた。
制服の袖が少し濡れている。
目の下のクマが薄く、
どこか吹っ切れたような表情をしていた。
「お母さん、少し落ち着いたよ」
「よかった」
「うん。……でも、怖かった」
彼女はそう言って笑った。
その笑顔は、昨日よりも穏やかだった。
「藤白くん、傘ありがとう」
「どういたしまして」
「……あのね、私、もう少しわがままになってみる」
「うん」
「たぶん、それが“本当の優しさ”なんだと思う」
彼女の言葉は、風のように軽く、
けれど心の奥で強く残った。
⸻
放課後。
図書室で紫苑が微笑んだ。
「“優しさの色”、いいタイトルだね」
「ありがとうございます」
「梨乃ちゃん、元気になってたよ」
「はい。……先輩のおかげです」
「違うよ。君が動いたから、世界が少し変わったんだ」
紫苑は窓の外の夕空を見上げた。
淡い葡萄色の光がガラス越しに差し込み、
その瞳の中で静かに揺れていた。
⸻
その日の夜。
藤白は再び“色の記憶帳”を開いた。
—色:葡萄紫。
—匂い:陽だまりとインク。
—温度:26℃。
—一言:優しさとは、誰かを想う勇気。
そして、それを手放す覚悟。
スクリーンの光が柔らかく頬を照らす。
ページを閉じると、
外では雨が上がり、
遠くの空に淡い光が見えた。
⸻
📘 次回予告
第5話「林檎坂の約束」
――選ぶことは、手放すこと。
秋が深まり、三つの果実が少しずつ熟れ始める。
匂い:インクと陽だまり
温度:26℃
色:葡萄紫(えびいろ)
⸻
週の半ば、風は秋の匂いを含みはじめていた。
昼休みのチャイムが鳴っても、
教室の空気はどこかゆるやかで、眠気を誘う。
梨乃は今日もノートをまとめていた。
けれど、前みたいな明るさは少しだけ薄れている。
笑顔はある。けれど、瞳の奥が疲れていた。
「……大丈夫?」
声をかけると、梨乃はいつもの笑みで返した。
「うん。最近、ちょっと夜更かししてて」
「またノート?」
「ううん。ポスター。紫苑先輩にレイアウト手伝ってもらってる」
紫苑。
その名前を聞くと、胸のどこかが静かに反応した。
⸻
放課後。
広報委員の集まりが始まった。
図書室は、外の陽射しを柔らかく遮り、
紙とインクの香りが心地よい。
「今日は文化祭の特設ページ構成ね」
紫苑先輩がファイルを開く。
整った声。
その言葉ひとつで空気が引き締まる。
「記事のタイトル、何案か考えてきた?」
「“私たちの秋色文化祭”とか、“この瞬間を残したい”とか」
「いいね。藤白くんの方は?」
「“記憶の光”とか、“一秒先のきらめき”とか……」
「素敵。詩的だね」
紫苑は微笑んだ。
その瞬間、梨乃の視線が少しだけ動いた。
彼女は笑っていたが、
笑顔の輪郭が少しだけ硬かった。
⸻
作業の合間。
プリンターが紙を吐き出す音だけが響いていた。
藤白は机の上のペンを回しながら、
紫苑と梨乃のやりとりを眺めていた。
「ここ、文字を少し右に寄せた方がいいかも」
「はい。……あ、こうですか?」
「うん。そう、その方が視線が流れる」
紫苑は手元を覗き込みながら、
梨乃の髪にかかる光を気にせずに話している。
その自然さが、美しかった。
けれど、それを見ている梨乃の表情が少し曇る。
何かを比べるような目。
自分と、目の前の紫苑を。
⸻
作業が一段落したあと、
紫苑は窓際の光を見つめて言った。
「私ね、こういう時間が好きなんだ」
「こういう?」
「誰かと一緒に、何かを作る時間。
でも、ずっとは続かないんだよね」
梨乃が不思議そうに首を傾げた。
「どうしてですか?」
「“一緒に頑張る”って、どこかで必ず終わる。
卒業とか、進路とか、気持ちとか。
そういうのが、いつの間にか境界を作るから」
梨乃は少し黙って、それから微笑んだ。
「でも、終わっても残りますよね。思い出とか」
「残るよ。でもね、残るものほど痛いの」
紫苑の声には、ほんの少しの哀しみが滲んでいた。
梨乃はその意味を理解できずに、
静かに笑って頷いた。
⸻
作業が終わり、帰り道。
雲がゆっくりと流れていく午後の空。
陽射しは淡く、街が柔らかい葡萄色に染まっていた。
「紫苑先輩って、すごい人だね」
坂を下りながら梨乃が言った。
「うん、すごい。ちゃんと見てる人だと思う」
「うん……なんか、私とは違う」
「違うって?」
「あの人、誰かのこと助けるんじゃなくて、支えてる感じ」
梨乃の言葉に、僕は少し息を呑んだ。
彼女は、気づいている。
紫苑が自分の“理想の優しさ”を体現していることに。
⸻
夜。
机の上にポスターの下書きを広げながら、
藤白はペンを置いた。
手元のスマホには、
“色の記憶帳”の昨日のページが開かれている。
—色:淡い群青。
—一言:優しさの距離は、近すぎても見えなくなる。
その言葉を見つめながら、
紫苑と梨乃の姿が交互に浮かんでくる。
二人の“距離”は、似ているようでまるで違う。
梨乃は人の中に入っていく。
紫苑は少し離れたところから見つめる。
どちらも優しさだけれど、
どちらにも“孤独”があった。
⸻
翌日。
昼休みの教室。
梨乃が机に突っ伏していた。
周りではクラスメイトが談笑している。
「梨乃、大丈夫?」
「ん……ちょっと、頭痛くて」
「保健室行く?」
「ううん、すぐ治ると思う」
そう言いながら、彼女は顔を上げた。
その目は赤く、眠れていないことがすぐに分かった。
教室の隅で、三谷が囁いた。
「最近、梨乃ちょっとやばくね?」
「うん。広報も、家のこともあるらしいよ」
「家のこと?」
「母親が入院してるって聞いた」
その瞬間、時間が止まったように感じた。
⸻
放課後。
図書室に行くと、梨乃はいなかった。
紫苑がひとりでプリンターを動かしていた。
「藤白くん。梨乃ちゃん、今日は早退したよ」
「そうなんですか」
「うん。ちょっと無理してたみたい」
紫苑はプリントを束ねながら続けた。
「……私、あの子を見てると昔の自分を思い出すの」
「昔の?」
「中学のときね。部活で全部背負い込んで、
気づいたら誰も頼らなくなってた」
「それで?」
「壊れたよ。あのとき」
紫苑の指が、一枚の紙を強く握る。
白い紙に、指の跡が残った。
⸻
放課後の光が、図書室のガラスに反射していた。
窓の外では雨雲が少しずつ近づいている。
その群青色の空が、まるで紫苑の瞳の中に映っているようだった。
「藤白くん」
「はい」
「梨乃ちゃんのこと、見ててあげて」
「……はい」
「あの子、優しさを“使いすぎてる”から」
紫苑の言葉は静かで、けれど深かった。
その響きが、図書室の空気に残る。
⸻
了解しました。
──ここからは第4話「葡萄色の午後」の後半です。
物語は一気に情緒と心理が交錯する“午後の光”へ。
梨乃の「限界」と藤白の「覚醒」、そして紫苑の“成熟した優しさ”が重なり、
この第1期最大の感情転換点を迎えます。
⸻
夕方のチャイムが鳴るころ、
空の色は淡い紫に変わり始めていた。
グラウンドでは部活の声が遠くに響き、
風が少し冷たくなってきた。
教室の窓から外を眺めていると、
ふと、梨乃の姿が見えた。
校門の方へ向かって走っていく。
手には傘がない。
空はもう、暗い雲で覆われていた。
胸がざわついた。
嫌な予感がした。
⸻
下駄箱の前で、
藤白は傘立てにあった透明の傘を取り、
雨の降り始めた校庭を駆け出した。
坂の下にある小さなバス停。
そこに梨乃がいた。
白いシャツが濡れて、
肩までの髪が頬に張りついている。
「梨乃!」
声をかけると、彼女はゆっくり顔を上げた。
「……お母さん、病院に呼ばれたの」
「今から行くの?」
「うん。でも、バスが遅れてて」
彼女の声は震えていた。
雨脚が強くなり、
地面を叩く音が一層大きくなる。
藤白は迷わず傘を広げた。
「行こう。送るよ」
「でも、藤白くんまで濡れるよ」
「いい。行こう」
梨乃は一瞬ためらってから、傘の中へ入った。
狭い空間。
雨の音。
息の音。
それらが混ざり合って、世界が少し遠くに感じた。
⸻
バス停から駅までの坂道。
傘を持つ藤白の右手に、梨乃の肩が触れる。
体温が伝わる。
「藤白くん、私ね、ずっと怖かった」
「何が?」
「“優しくされること”が」
彼女の声は小さかった。
それでも、雨音よりもはっきり聞こえた。
「優しくされると、期待しちゃうから。
あ、この人はずっと隣にいてくれるんだって。
でも、そんなことって、ないんだよね」
藤白は息をのんだ。
梨乃の言葉には、どこか痛みのような確信があった。
「それ、紫苑先輩に言われた?」
「ううん。自分で気づいたの」
「気づかなくていいこともあるよ」
「でも、気づかないと壊れるから」
梨乃の目が濡れていた。
雨か涙か、もう分からなかった。
⸻
駅に着くころには、
空は完全に夜になっていた。
プラットホームの明かりが濡れた地面を照らして、
街が淡い葡萄色に染まっていた。
「ありがとう、藤白くん」
「病院、気をつけて」
「うん。……藤白くん」
「なに?」
「もし私が泣いても、笑ってくれる?」
彼は少し迷ってから、うなずいた。
「笑うよ。梨乃が泣いても、世界はちゃんと動くから」
梨乃は小さく笑った。
その笑顔は、もう少しで壊れそうだった。
電車の到着音が響く。
彼女はホームの階段を上りながら、
何度も振り返った。
そのたびに、傘の透明な膜越しに、
藤白の姿が少しずつ滲んでいった。
⸻
帰り道。
藤白は坂を上りながら、
“色の記憶帳”を開いた。
—色:葡萄紫。
—匂い:インクと陽だまり。
—温度:26℃。
—一言:優しさの先には、覚悟がいる。
指先が震えていた。
心が何かを掴みかけているのに、
まだ言葉にならない。
⸻
翌日。
梨乃は学校を休んだ。
朝のHRで担任が「家庭の都合」とだけ言った。
教室の空気が静かになった。
紫苑は黙っていた。
放課後、図書室で藤白を呼び止める。
「藤白くん、梨乃ちゃんのこと聞いた?」
「入院してるお母さんが、容態悪化したみたいで」
「そう……」
紫苑は机の上の資料を指でなぞりながら言った。
「“優しさ”ってね、受け取る人がいないと意味がないんだよ」
「え?」
「梨乃ちゃんは、与えるばかりで、誰にも渡せなかったの。
それが一番、苦しい優しさ」
藤白は何も言えなかった。
紫苑は少し微笑んだ。
「でも、まだ間に合うよ。君が“受け取る側”になれば」
⸻
夜。
外は静かな雨。
窓際の机で藤白はペンを握っていた。
文化祭の広報原稿、
そのタイトル欄に文字を打ち込む。
『優しさの色』
指が止まった。
胸の奥で何かが熱くなった。
梨乃の言葉、紫苑の声、
雨の匂い、傘の中の距離。
全部が混ざって一つになっていく。
それは、きっと恋ではない。
でも、恋よりもずっと深い何か。
⸻
翌日。
梨乃は登校してきた。
制服の袖が少し濡れている。
目の下のクマが薄く、
どこか吹っ切れたような表情をしていた。
「お母さん、少し落ち着いたよ」
「よかった」
「うん。……でも、怖かった」
彼女はそう言って笑った。
その笑顔は、昨日よりも穏やかだった。
「藤白くん、傘ありがとう」
「どういたしまして」
「……あのね、私、もう少しわがままになってみる」
「うん」
「たぶん、それが“本当の優しさ”なんだと思う」
彼女の言葉は、風のように軽く、
けれど心の奥で強く残った。
⸻
放課後。
図書室で紫苑が微笑んだ。
「“優しさの色”、いいタイトルだね」
「ありがとうございます」
「梨乃ちゃん、元気になってたよ」
「はい。……先輩のおかげです」
「違うよ。君が動いたから、世界が少し変わったんだ」
紫苑は窓の外の夕空を見上げた。
淡い葡萄色の光がガラス越しに差し込み、
その瞳の中で静かに揺れていた。
⸻
その日の夜。
藤白は再び“色の記憶帳”を開いた。
—色:葡萄紫。
—匂い:陽だまりとインク。
—温度:26℃。
—一言:優しさとは、誰かを想う勇気。
そして、それを手放す覚悟。
スクリーンの光が柔らかく頬を照らす。
ページを閉じると、
外では雨が上がり、
遠くの空に淡い光が見えた。
⸻
📘 次回予告
第5話「林檎坂の約束」
――選ぶことは、手放すこと。
秋が深まり、三つの果実が少しずつ熟れ始める。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム
ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。
けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。
学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!?
大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。
真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる