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第5話 紫苑の真実と覚悟
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第5話 林檎坂の約束(第1部)
匂い:林檎と風
温度:23℃
色:紅霞(こうか)
⸻
秋が深まる。
校舎の屋上から見下ろす街は、
赤と金のモザイクのように輝いていた。
風が吹くたびに、
林檎坂の並木から落ち葉が舞い上がる。
その葉が空を横切り、陽の光を反射して、
まるで時間そのものが揺れているように見えた。
――梨乃は来ていない。
文化祭の準備が佳境に入っても、
梨乃の席だけが空いていた。
“家庭の事情”という理由で、
何日も休んでいる。
「お母さん、また倒れたんだって」
昼休み、三谷が言った。
「でも、見舞いにも行ってるみたいだし……大変だな」
僕はただ、
弁当の林檎を見つめていた。
梨乃がいつも分けてくれた、
小さく切られた果肉。
その甘酸っぱい香りが、
なぜか胸に刺さった。
⸻
放課後。
図書室では紫苑がひとり、広報誌の編集作業をしていた。
窓の外は夕暮れで、光が斜めに差し込む。
その横顔は、静かで美しかった。
「藤白くん」
「はい」
「梨乃ちゃん、最近連絡取ってる?」
「……昨日、メッセージだけ」
「返ってきた?」
「“大丈夫だよ”って」
紫苑は軽くため息をついた。
「“大丈夫”って言葉、便利だよね」
「そうですね」
「でも、あれは“助けて”の裏返しなんだよ」
紫苑の声は、どこか過去を見ていた。
藤白は問わなかった。
紫苑の“痛みの形”が、
梨乃と同じ匂いをしている気がしたから。
⸻
その夜。
“色の記憶帳”を開く。
—色:紅霞。
—匂い:林檎と風。
—温度:23℃。
—一言:大丈夫の裏に、誰かの沈黙がある。
画面を閉じると、
スマホに梨乃から通知が届いた。
「明日、少しだけ学校行くね」
胸の奥で、何かが動いた。
⸻
翌朝。
風が冷たい。
校門の前で、
梨乃が立っていた。
「おはよう」
そう声をかけると、
彼女はゆっくり微笑んだ。
「おはよう。……久しぶりだね」
その笑顔は弱く、
でも確かに前を向いていた。
「お母さん、少し落ち着いたの?」
「うん。昨日退院したよ」
「よかった」
「……でもね、病院にいる間、
自分がいなくても世界ってちゃんと動くんだなって思った」
その言葉に、藤白は息を詰めた。
梨乃は続ける。
「それが少し寂しくて、少し楽だった」
風が通り抜ける。
林檎坂の木々が揺れる。
彼女の言葉が、心のどこかを掴んで離さなかった。
⸻
授業中、梨乃は何度も窓の外を見ていた。
その横顔には、
昨日までの彼女ではない静けさがあった。
強くなろうとしているようで、
まだ何かを恐れているようにも見えた。
⸻
放課後。
広報委員会が終わると、
紫苑が梨乃に声をかけた。
「久しぶりだね」
「はい。ご迷惑おかけしました」
「そんなの気にしないで。
……無理しなくていいよ」
「大丈夫です。もう平気だから」
梨乃の笑顔に、
紫苑の瞳がわずかに揺れた。
「平気って言葉、私もよく使ってた」
「え?」
「本当は、何も平気じゃなかったけどね」
その言葉の重さに、
梨乃は何も返せなかった。
⸻
校舎を出ると、
夕陽が林檎坂を照らしていた。
地面が紅く染まり、
木々の間を抜ける風が、
林檎の香りを運んでくる。
梨乃が足を止めた。
「ここ、きれいだね」
「うん。……“林檎坂”って呼ばれてるらしいよ」
「へえ。名前まで素敵」
夕陽の中で、
梨乃の髪が光を受けて揺れた。
その色は、まるで熟れた林檎のようだった。
「藤白くん」
「ん?」
「もし、私がまた“平気だよ”って言ったら、怒っていい?」
「怒らないよ」
「なんで?」
「怒る代わりに、隣にいるから」
梨乃は少しだけ涙ぐんで笑った。
「ずるいな、それ」
「ずるくてもいい」
ふたりの影が、
紅い坂道に並んで伸びていった。
⸻
了解しました。
──では続けて、第5話「林檎坂の約束」第2部:紫苑の真実と覚悟をお届けします。
ここから物語は、静かな「対話」と「覚悟の継承」によって、登場人物の軸が一段深く掘り下げられます。
トーンは秋の午後の光のように穏やかで、しかし心の奥に熱を宿すように。
⸻
第5話 林檎坂の約束(第2部)
匂い:紙と珈琲
温度:22℃
色:藤紫
⸻
翌日、空は少し曇っていた。
林檎坂の木々はまだ紅い実を残していて、
遠くの空気がどこか霞んで見えた。
文化祭まであと三日。
校内は浮き立った空気に包まれている。
けれど、その中で藤白の心だけは静かだった。
梨乃は笑うようになった。
けれど、それはまだ“癒えた笑顔”ではない。
何かを守るための、
薄い膜のような笑顔。
その笑顔を見るたびに、
藤白は心のどこかが少し痛んだ。
⸻
放課後、図書室。
紫苑が広報誌の表紙デザインを直していた。
机の上には、珈琲の香りが漂っている。
藤白は資料を持って近づいた。
「藤白くん、これ、見てみて」
紫苑が差し出したデザインには、
“この瞬間を、未来に残す”というキャッチコピーが入っていた。
「どう思う?」
「すごくいいです。……紫苑先輩っぽい」
「私っぽい?」
「“今を掴む”って感じがして」
「なるほど。悪くないね」
紫苑は笑って、マグカップを手に取った。
その仕草に、どこか大人びた静けさがあった。
⸻
「梨乃ちゃん、少し元気になったね」
「はい。でも、まだ無理してる気がします」
「そうだね。あの子、ほんとに頑張り屋だから」
紫苑はマグを見つめながら、
ふと声のトーンを落とした。
「ねえ、藤白くん。
人のために何かをしてるときって、
一番孤独な瞬間だと思わない?」
「……わかります」
「私も、あの子みたいな時期があったの」
紫苑の瞳が、少しだけ遠くを見る。
「中学の頃、私は生徒会やっててね。
誰かのためにって頑張ってた。
でも、気づいたら、
“私がいなくても回る世界”の中に取り残されてた」
「……」
「そのとき初めて、
“誰かを助けたい”って気持ちは、
自分を守るためのものでもあるんだって気づいたの」
紫苑の声には、後悔と穏やかさが混ざっていた。
それは、もう痛みではなく、
痛みを越えた場所から出てくる静かな言葉だった。
⸻
「梨乃ちゃん、あの坂道のこと話してた?」
「林檎坂ですか? 少しだけ」
「そう。あそこね、昔、私もよく行ってたの」
「え?」
「二年の時の先輩と一緒に。……その人、もう転校しちゃったけど」
紫苑は少しだけ笑った。
「だから、林檎坂って聞くと胸が少し痛いんだ」
「……思い出、ですか?」
「ううん。置き去りにした時間」
藤白は黙って頷いた。
紫苑は続ける。
「藤白くん。
君、梨乃ちゃんのこと、見てるだけじゃダメだよ」
「……」
「優しさは、距離を置くことじゃない。
本当の優しさは、踏み込む勇気だから」
その言葉が胸に刺さった。
藤白は机の角を指でなぞりながら、
静かに息を整えた。
⸻
夜。
“色の記憶帳”を開く。
—色:藤紫。
—匂い:紙と珈琲。
—温度:22℃。
—一言:優しさは、見つめることではなく、届くこと。
指先が小刻みに震えた。
何かが変わり始めている。
昨日までの“観測者”としての自分が、
もうこの場所に居られない気がした。
⸻
翌日。
梨乃が登校してきた。
制服の襟元に赤いリボンが見える。
秋風がその端を揺らしていた。
「おはよう」
「おはよう、藤白くん」
彼女の声には、
昨日よりも力があった。
けれどその奥に、まだ少し迷いがあった。
「ねえ、藤白くん。文化祭、もうすぐだね」
「うん。ポスター、めちゃくちゃ評判いいよ」
「ほんと? ……よかった」
梨乃の笑顔は柔らかかった。
でも、紫苑の言葉が頭を離れない。
――“見てるだけじゃダメ”。
⸻
放課後。
図書室に戻ると、紫苑がいなかった。
机の上に置かれていたマグカップは、
もう冷めきっていた。
代わりに一枚のメモがあった。
「梨乃ちゃんを、林檎坂に連れて行ってあげて。
きっと、あの子にとって大切な場所になるから。」
その文字は穏やかで、
けれど確かな決意を感じた。
⸻
その夕方。
藤白は梨乃に声をかけた。
「帰り、一緒に歩かない?」
「うん。いいよ」
ふたりは校門を抜けて、
坂道を下り始めた。
風が少し冷たい。
空の端に沈む陽が、
ゆっくりと紅く滲んでいく。
梨乃がぽつりと言った。
「この坂、昨日夢に出てきたの」
「どんな夢?」
「誰かと手を繋いでた。顔は見えなかったけど」
藤白は言葉を失った。
坂道の両脇で林檎の木が揺れる。
その赤い実が、光を反射して小さく瞬いていた。
⸻
坂の途中で梨乃が立ち止まった。
「ねえ、藤白くん」
「ん?」
「もし、明日世界が終わるってわかったら、どうする?」
不意の問いだった。
藤白は少し考えて答えた。
「誰かに、ありがとうって言うかも」
「ふふ、優しいね」
「梨乃は?」
「私はね――“ごめんね”って言う」
その言葉が風に溶けた。
秋の空気が、
少しだけ冷たく感じた。
⸻
了解しました。
──ここからは、第5話「林檎坂の約束」最終章(第3部)。
第1期前半の「果実三部作(梨・葡萄・林檎)」の締めくくりにして、
物語全体の“精神的覚醒”を象徴する場面です。
梨乃と藤白、それを見守る紫苑。
「優しさ」というテーマが「覚悟」へ、「思いやり」が「約束」へと変化する。
ここで物語は初めて“恋と人生の境界線”を越えます。
⸻
第5話 林檎坂の約束(第3部)
匂い:林檎の皮と夕焼け
温度:21℃
色:茜空
⸻
風の音が、静かに耳を撫でていく。
坂道の上に立つと、
眼下の街がゆっくりと夕陽に染まっていくのが見えた。
陽が沈むたびに、
空が林檎の果肉みたいに赤く染まっていく。
その美しさが、なぜだか少し切なかった。
梨乃は立ち止まり、
手すりの上に手を置いた。
「ねえ、藤白くん。
この坂、ほんとに林檎の匂いがするね」
「うん。たぶん、風に乗ってるんだよ」
「……いい匂い」
梨乃は目を閉じた。
その横顔が、光を受けて柔らかく輝いた。
頬の輪郭、まつげの影。
どれも穏やかで、
だけど壊れそうなほど繊細だった。
⸻
「お母さんね、退院したけど、
もう前みたいに働けないかもって言ってた」
「……そうなんだ」
「うん。でも、不思議と怖くなかったの」
「どうして?」
「“守らなきゃ”って思うより、
一緒に笑える時間が大事なんだなって思ったから」
梨乃は空を見上げる。
紅い雲が流れていく。
その中に、ひとつだけ残った光が、
彼女の髪に映りこんだ。
「でもね、藤白くん」
「うん」
「人のために頑張ることって、
本当は“自分を失う覚悟”なんだと思う。
それでも、私は……それを選びたい」
その言葉に、藤白は胸の奥が熱くなった。
言葉が出ない。
ただ、風の音だけが二人の間を流れていた。
⸻
ふと、梨乃が笑った。
「ごめんね。重い話ばっかり」
「いいよ。……話してくれて嬉しい」
「ほんと?」
「うん。梨乃が話してくれるなら、なんでも」
彼女は少し俯いて、
小さく息を吐いた。
「ねえ、藤白くん」
「ん?」
「この坂、約束の場所にしてもいい?」
「約束?」
「うん。今日のこと、忘れたくないから」
梨乃はポケットからペンを取り出して、
手すりの裏に小さく文字を書いた。
“忘れない、優しさの色。”
「……いい言葉だね」
「でしょ? ここ、誰にも見つからない場所にしたいの」
梨乃は笑った。
その笑顔は、これまででいちばん自然だった。
⸻
そのときだった。
坂の下から声が聞こえた。
「藤白くん、梨乃ちゃん!」
振り向くと、紫苑が傘を持って立っていた。
小さな雨が落ち始めている。
茜色の空の下に、淡い雨の粒。
「……先輩」
「空、泣き出しそうだよ」
「ほんとだ」
紫苑は二人のもとに来ると、
少し息を整えて笑った。
「林檎坂、懐かしいな」
「昔、ここによく来てたって言ってましたよね」
「うん。あの頃の私には、見えなかったものがある」
紫苑の瞳が、梨乃と藤白を交互に見つめた。
「優しさってさ、
誰かを守ることだと思ってたの。
でも、違う。
本当の優しさは――誰かと一緒に変わることなんだ」
梨乃の目が少し潤んだ。
紫苑は静かに傘を開いた。
「この坂はね、
優しい人が強くなるための場所だよ」
⸻
三人で傘の下に入った。
透明な膜の中で、雨の音が微かに響く。
紫苑がぽつりと呟いた。
「人って、変わるのが怖い生き物だから。
だからこそ、こうして繋がれる時間が尊いんだよ」
梨乃は頷いた。
藤白はその言葉を胸に刻んだ。
小雨が上がるころには、
空がほんのり金色に変わっていた。
遠くで鐘の音が鳴る。
⸻
下校の道。
梨乃が空を見上げて言った。
「紫苑先輩、なんか先生みたいだね」
「ふふ、よく言われる」
「でも、紫苑先輩の言葉、心に残る」
「そう? それなら嬉しい」
藤白は歩きながら、
傘の水滴を指でなぞっていた。
――“一緒に変わること”。
それは、優しさの最終形。
“守る”でも“与える”でもない。
変化を受け入れながら、
隣にい続けるということ。
⸻
家に帰ると、
藤白は机に向かってスマホを開いた。
“色の記憶帳”の新しいページを開く。
—色:茜空。
—匂い:林檎の皮と夕焼け。
—温度:21℃。
—一言:優しさは変わる。
それでも、変わらない約束がひとつだけある。
指先が止まる。
少し考えて、最後にもう一行だけ打ち込んだ。
—補記:また、林檎坂で会おう。
⸻
翌朝。
教室の窓から差し込む朝日が眩しかった。
梨乃が席に着き、ノートを開く。
藤白の視線に気づくと、
少しだけ笑った。
その笑顔は昨日よりも柔らかく、
そして強かった。
⸻
📘 第6話「風を連れて、秋は行く」
――林檎坂の約束は、冬へと続く。
新しい風が、三人の心を少しずつ動かしていく。
匂い:林檎と風
温度:23℃
色:紅霞(こうか)
⸻
秋が深まる。
校舎の屋上から見下ろす街は、
赤と金のモザイクのように輝いていた。
風が吹くたびに、
林檎坂の並木から落ち葉が舞い上がる。
その葉が空を横切り、陽の光を反射して、
まるで時間そのものが揺れているように見えた。
――梨乃は来ていない。
文化祭の準備が佳境に入っても、
梨乃の席だけが空いていた。
“家庭の事情”という理由で、
何日も休んでいる。
「お母さん、また倒れたんだって」
昼休み、三谷が言った。
「でも、見舞いにも行ってるみたいだし……大変だな」
僕はただ、
弁当の林檎を見つめていた。
梨乃がいつも分けてくれた、
小さく切られた果肉。
その甘酸っぱい香りが、
なぜか胸に刺さった。
⸻
放課後。
図書室では紫苑がひとり、広報誌の編集作業をしていた。
窓の外は夕暮れで、光が斜めに差し込む。
その横顔は、静かで美しかった。
「藤白くん」
「はい」
「梨乃ちゃん、最近連絡取ってる?」
「……昨日、メッセージだけ」
「返ってきた?」
「“大丈夫だよ”って」
紫苑は軽くため息をついた。
「“大丈夫”って言葉、便利だよね」
「そうですね」
「でも、あれは“助けて”の裏返しなんだよ」
紫苑の声は、どこか過去を見ていた。
藤白は問わなかった。
紫苑の“痛みの形”が、
梨乃と同じ匂いをしている気がしたから。
⸻
その夜。
“色の記憶帳”を開く。
—色:紅霞。
—匂い:林檎と風。
—温度:23℃。
—一言:大丈夫の裏に、誰かの沈黙がある。
画面を閉じると、
スマホに梨乃から通知が届いた。
「明日、少しだけ学校行くね」
胸の奥で、何かが動いた。
⸻
翌朝。
風が冷たい。
校門の前で、
梨乃が立っていた。
「おはよう」
そう声をかけると、
彼女はゆっくり微笑んだ。
「おはよう。……久しぶりだね」
その笑顔は弱く、
でも確かに前を向いていた。
「お母さん、少し落ち着いたの?」
「うん。昨日退院したよ」
「よかった」
「……でもね、病院にいる間、
自分がいなくても世界ってちゃんと動くんだなって思った」
その言葉に、藤白は息を詰めた。
梨乃は続ける。
「それが少し寂しくて、少し楽だった」
風が通り抜ける。
林檎坂の木々が揺れる。
彼女の言葉が、心のどこかを掴んで離さなかった。
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授業中、梨乃は何度も窓の外を見ていた。
その横顔には、
昨日までの彼女ではない静けさがあった。
強くなろうとしているようで、
まだ何かを恐れているようにも見えた。
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放課後。
広報委員会が終わると、
紫苑が梨乃に声をかけた。
「久しぶりだね」
「はい。ご迷惑おかけしました」
「そんなの気にしないで。
……無理しなくていいよ」
「大丈夫です。もう平気だから」
梨乃の笑顔に、
紫苑の瞳がわずかに揺れた。
「平気って言葉、私もよく使ってた」
「え?」
「本当は、何も平気じゃなかったけどね」
その言葉の重さに、
梨乃は何も返せなかった。
⸻
校舎を出ると、
夕陽が林檎坂を照らしていた。
地面が紅く染まり、
木々の間を抜ける風が、
林檎の香りを運んでくる。
梨乃が足を止めた。
「ここ、きれいだね」
「うん。……“林檎坂”って呼ばれてるらしいよ」
「へえ。名前まで素敵」
夕陽の中で、
梨乃の髪が光を受けて揺れた。
その色は、まるで熟れた林檎のようだった。
「藤白くん」
「ん?」
「もし、私がまた“平気だよ”って言ったら、怒っていい?」
「怒らないよ」
「なんで?」
「怒る代わりに、隣にいるから」
梨乃は少しだけ涙ぐんで笑った。
「ずるいな、それ」
「ずるくてもいい」
ふたりの影が、
紅い坂道に並んで伸びていった。
⸻
了解しました。
──では続けて、第5話「林檎坂の約束」第2部:紫苑の真実と覚悟をお届けします。
ここから物語は、静かな「対話」と「覚悟の継承」によって、登場人物の軸が一段深く掘り下げられます。
トーンは秋の午後の光のように穏やかで、しかし心の奥に熱を宿すように。
⸻
第5話 林檎坂の約束(第2部)
匂い:紙と珈琲
温度:22℃
色:藤紫
⸻
翌日、空は少し曇っていた。
林檎坂の木々はまだ紅い実を残していて、
遠くの空気がどこか霞んで見えた。
文化祭まであと三日。
校内は浮き立った空気に包まれている。
けれど、その中で藤白の心だけは静かだった。
梨乃は笑うようになった。
けれど、それはまだ“癒えた笑顔”ではない。
何かを守るための、
薄い膜のような笑顔。
その笑顔を見るたびに、
藤白は心のどこかが少し痛んだ。
⸻
放課後、図書室。
紫苑が広報誌の表紙デザインを直していた。
机の上には、珈琲の香りが漂っている。
藤白は資料を持って近づいた。
「藤白くん、これ、見てみて」
紫苑が差し出したデザインには、
“この瞬間を、未来に残す”というキャッチコピーが入っていた。
「どう思う?」
「すごくいいです。……紫苑先輩っぽい」
「私っぽい?」
「“今を掴む”って感じがして」
「なるほど。悪くないね」
紫苑は笑って、マグカップを手に取った。
その仕草に、どこか大人びた静けさがあった。
⸻
「梨乃ちゃん、少し元気になったね」
「はい。でも、まだ無理してる気がします」
「そうだね。あの子、ほんとに頑張り屋だから」
紫苑はマグを見つめながら、
ふと声のトーンを落とした。
「ねえ、藤白くん。
人のために何かをしてるときって、
一番孤独な瞬間だと思わない?」
「……わかります」
「私も、あの子みたいな時期があったの」
紫苑の瞳が、少しだけ遠くを見る。
「中学の頃、私は生徒会やっててね。
誰かのためにって頑張ってた。
でも、気づいたら、
“私がいなくても回る世界”の中に取り残されてた」
「……」
「そのとき初めて、
“誰かを助けたい”って気持ちは、
自分を守るためのものでもあるんだって気づいたの」
紫苑の声には、後悔と穏やかさが混ざっていた。
それは、もう痛みではなく、
痛みを越えた場所から出てくる静かな言葉だった。
⸻
「梨乃ちゃん、あの坂道のこと話してた?」
「林檎坂ですか? 少しだけ」
「そう。あそこね、昔、私もよく行ってたの」
「え?」
「二年の時の先輩と一緒に。……その人、もう転校しちゃったけど」
紫苑は少しだけ笑った。
「だから、林檎坂って聞くと胸が少し痛いんだ」
「……思い出、ですか?」
「ううん。置き去りにした時間」
藤白は黙って頷いた。
紫苑は続ける。
「藤白くん。
君、梨乃ちゃんのこと、見てるだけじゃダメだよ」
「……」
「優しさは、距離を置くことじゃない。
本当の優しさは、踏み込む勇気だから」
その言葉が胸に刺さった。
藤白は机の角を指でなぞりながら、
静かに息を整えた。
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夜。
“色の記憶帳”を開く。
—色:藤紫。
—匂い:紙と珈琲。
—温度:22℃。
—一言:優しさは、見つめることではなく、届くこと。
指先が小刻みに震えた。
何かが変わり始めている。
昨日までの“観測者”としての自分が、
もうこの場所に居られない気がした。
⸻
翌日。
梨乃が登校してきた。
制服の襟元に赤いリボンが見える。
秋風がその端を揺らしていた。
「おはよう」
「おはよう、藤白くん」
彼女の声には、
昨日よりも力があった。
けれどその奥に、まだ少し迷いがあった。
「ねえ、藤白くん。文化祭、もうすぐだね」
「うん。ポスター、めちゃくちゃ評判いいよ」
「ほんと? ……よかった」
梨乃の笑顔は柔らかかった。
でも、紫苑の言葉が頭を離れない。
――“見てるだけじゃダメ”。
⸻
放課後。
図書室に戻ると、紫苑がいなかった。
机の上に置かれていたマグカップは、
もう冷めきっていた。
代わりに一枚のメモがあった。
「梨乃ちゃんを、林檎坂に連れて行ってあげて。
きっと、あの子にとって大切な場所になるから。」
その文字は穏やかで、
けれど確かな決意を感じた。
⸻
その夕方。
藤白は梨乃に声をかけた。
「帰り、一緒に歩かない?」
「うん。いいよ」
ふたりは校門を抜けて、
坂道を下り始めた。
風が少し冷たい。
空の端に沈む陽が、
ゆっくりと紅く滲んでいく。
梨乃がぽつりと言った。
「この坂、昨日夢に出てきたの」
「どんな夢?」
「誰かと手を繋いでた。顔は見えなかったけど」
藤白は言葉を失った。
坂道の両脇で林檎の木が揺れる。
その赤い実が、光を反射して小さく瞬いていた。
⸻
坂の途中で梨乃が立ち止まった。
「ねえ、藤白くん」
「ん?」
「もし、明日世界が終わるってわかったら、どうする?」
不意の問いだった。
藤白は少し考えて答えた。
「誰かに、ありがとうって言うかも」
「ふふ、優しいね」
「梨乃は?」
「私はね――“ごめんね”って言う」
その言葉が風に溶けた。
秋の空気が、
少しだけ冷たく感じた。
⸻
了解しました。
──ここからは、第5話「林檎坂の約束」最終章(第3部)。
第1期前半の「果実三部作(梨・葡萄・林檎)」の締めくくりにして、
物語全体の“精神的覚醒”を象徴する場面です。
梨乃と藤白、それを見守る紫苑。
「優しさ」というテーマが「覚悟」へ、「思いやり」が「約束」へと変化する。
ここで物語は初めて“恋と人生の境界線”を越えます。
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第5話 林檎坂の約束(第3部)
匂い:林檎の皮と夕焼け
温度:21℃
色:茜空
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風の音が、静かに耳を撫でていく。
坂道の上に立つと、
眼下の街がゆっくりと夕陽に染まっていくのが見えた。
陽が沈むたびに、
空が林檎の果肉みたいに赤く染まっていく。
その美しさが、なぜだか少し切なかった。
梨乃は立ち止まり、
手すりの上に手を置いた。
「ねえ、藤白くん。
この坂、ほんとに林檎の匂いがするね」
「うん。たぶん、風に乗ってるんだよ」
「……いい匂い」
梨乃は目を閉じた。
その横顔が、光を受けて柔らかく輝いた。
頬の輪郭、まつげの影。
どれも穏やかで、
だけど壊れそうなほど繊細だった。
⸻
「お母さんね、退院したけど、
もう前みたいに働けないかもって言ってた」
「……そうなんだ」
「うん。でも、不思議と怖くなかったの」
「どうして?」
「“守らなきゃ”って思うより、
一緒に笑える時間が大事なんだなって思ったから」
梨乃は空を見上げる。
紅い雲が流れていく。
その中に、ひとつだけ残った光が、
彼女の髪に映りこんだ。
「でもね、藤白くん」
「うん」
「人のために頑張ることって、
本当は“自分を失う覚悟”なんだと思う。
それでも、私は……それを選びたい」
その言葉に、藤白は胸の奥が熱くなった。
言葉が出ない。
ただ、風の音だけが二人の間を流れていた。
⸻
ふと、梨乃が笑った。
「ごめんね。重い話ばっかり」
「いいよ。……話してくれて嬉しい」
「ほんと?」
「うん。梨乃が話してくれるなら、なんでも」
彼女は少し俯いて、
小さく息を吐いた。
「ねえ、藤白くん」
「ん?」
「この坂、約束の場所にしてもいい?」
「約束?」
「うん。今日のこと、忘れたくないから」
梨乃はポケットからペンを取り出して、
手すりの裏に小さく文字を書いた。
“忘れない、優しさの色。”
「……いい言葉だね」
「でしょ? ここ、誰にも見つからない場所にしたいの」
梨乃は笑った。
その笑顔は、これまででいちばん自然だった。
⸻
そのときだった。
坂の下から声が聞こえた。
「藤白くん、梨乃ちゃん!」
振り向くと、紫苑が傘を持って立っていた。
小さな雨が落ち始めている。
茜色の空の下に、淡い雨の粒。
「……先輩」
「空、泣き出しそうだよ」
「ほんとだ」
紫苑は二人のもとに来ると、
少し息を整えて笑った。
「林檎坂、懐かしいな」
「昔、ここによく来てたって言ってましたよね」
「うん。あの頃の私には、見えなかったものがある」
紫苑の瞳が、梨乃と藤白を交互に見つめた。
「優しさってさ、
誰かを守ることだと思ってたの。
でも、違う。
本当の優しさは――誰かと一緒に変わることなんだ」
梨乃の目が少し潤んだ。
紫苑は静かに傘を開いた。
「この坂はね、
優しい人が強くなるための場所だよ」
⸻
三人で傘の下に入った。
透明な膜の中で、雨の音が微かに響く。
紫苑がぽつりと呟いた。
「人って、変わるのが怖い生き物だから。
だからこそ、こうして繋がれる時間が尊いんだよ」
梨乃は頷いた。
藤白はその言葉を胸に刻んだ。
小雨が上がるころには、
空がほんのり金色に変わっていた。
遠くで鐘の音が鳴る。
⸻
下校の道。
梨乃が空を見上げて言った。
「紫苑先輩、なんか先生みたいだね」
「ふふ、よく言われる」
「でも、紫苑先輩の言葉、心に残る」
「そう? それなら嬉しい」
藤白は歩きながら、
傘の水滴を指でなぞっていた。
――“一緒に変わること”。
それは、優しさの最終形。
“守る”でも“与える”でもない。
変化を受け入れながら、
隣にい続けるということ。
⸻
家に帰ると、
藤白は机に向かってスマホを開いた。
“色の記憶帳”の新しいページを開く。
—色:茜空。
—匂い:林檎の皮と夕焼け。
—温度:21℃。
—一言:優しさは変わる。
それでも、変わらない約束がひとつだけある。
指先が止まる。
少し考えて、最後にもう一行だけ打ち込んだ。
—補記:また、林檎坂で会おう。
⸻
翌朝。
教室の窓から差し込む朝日が眩しかった。
梨乃が席に着き、ノートを開く。
藤白の視線に気づくと、
少しだけ笑った。
その笑顔は昨日よりも柔らかく、
そして強かった。
⸻
📘 第6話「風を連れて、秋は行く」
――林檎坂の約束は、冬へと続く。
新しい風が、三人の心を少しずつ動かしていく。
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