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第六章 もう一回、転
以心伝心
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彼女は、玉手箱の中で、なにもかも拒絶するように目をつぶった。眦から小さな雫がこぼれ落ちる。
「あの」
お詩さん、と呼びかけようとして、勝手につけてしまった名前で呼んでいいものかと逡巡した。
いや、もう、彼女はお詩さん以外の何者でもないって感じがムンムンするから、確定されたのは間違いないのだけど。
たったあれだけのことで、何がどうなったのかカラクリはわからないのに、その結果の現象だけは疑いようもなくわかるという不思議。そして、それを自分がやっちゃった、という事実。ここに至って、空恐ろしさを感じる。
名前を勝手に変えられてしまうって、どんな感じなんだろう。ただの主持ちさんは怒っていたし、八島さんは、そうすることによって支配下におけるのだと言った。される側にとって、愉快なこととは思えない。
もちろん、やったことは後悔していない。やってやるつもりでやった。でも、誰かを傷つけたいわけではなかった。痛々しい涙も見ていられない。
私は罵倒されるのを覚悟で、思いきって声を掛けてみることにした。
「あなたの『 』は、生きてますよ」
だけど、彼女はまったく反応しなかった。まるで、本物の人形になってしまったみたいだ。この前は、蓋が開いたら目を開けて動き出したというのに、今回はどうしてしまったのだろう。
「箱の中の時間は止まっています。中に入りこんでしまえば、千世様のお声も届いておらぬかと」
八島さんが教えてくれた。
なるほど。ならば、と私は、ただの主持ちさんを探して首をめぐらせ……るまでもなく、発見した。八島さんの腕の長さプラス肩幅分向こうに。またもや八島さんに顔面を鷲掴みにされ、お詩さんを取り返そうと頑張っていたのだ。
八島さんは涼しい顔で、そちらへ注意を払っている様子さえなかったから、顔を上げるまで気配も感じなかったよ。
八島さんの指の下で、ギチギチミチミチと不吉な音が当然のようにしている。けれど、とりあえずまだ頭は握り潰されていない。
私は玉手箱を取り上げて、八島さんに首を傾げてみせた。
「これをあげてしまってもいいですか?」
「どうぞお好きになさってください」
それを聞いて、ただの主持ちさんの方へとさしだす。玉手箱は目にも留まらぬ速さでひったくられていった。
そうして、一跳びで部屋の隅まで後退した彼は、玉手箱の中に手をつっこんで、お詩さんを引っ張りだした。一瞬で彼女の体が大きくなり、彼の胸にかき抱かれる。
「詩、詩、……っ、ちくしょう、元の名前がわからねえっ」
彼は怒りの形相を浮かべ、ぎり、と歯ぎしりした。
「当然だ。我が主が名付けたのだからな」
八島さーん、怒りを煽らないでくださーい! ほら、睨み殺しそうな視線をこっちに向けたじゃないですか! あと、私は思いついたことを口にしただけで、本当のところいろいろやってるのはあなた自身なので、さも私がすごいかのように吹聴するのはやめてください。
と思ったけれど、黙っておいた。私を両腕で大切そうに抱えこみ、どうだと言わんばかりの微笑みで、こちらを睨み殺しそうな緑色の瞳に対峙しているのが、……そのう、微笑ましくて、こんな時に何馬鹿なこと考えてんのって思いつつも、水を差しちゃいけないかなあと……。
「萌黄?」
ぼうっとしたお詩さんが手を伸ばし、ただの主持ちさんの頬に触れた。
「そうだ、俺だ。おまえは大丈夫だぞ。だるいのは、少し生気を多く貰ってしまったせいだからな、気をしっかり持て」
彼女は、半信半疑という感じで、確かめるように彼の頬をさすっている。
「怪我もしてないし、病気もない。体の調子も上々だ。次の排卵予定日は十六日後だから、その時には」
ぺしっ。
お詩さんの瞳に突然力が宿り、頬に触れていた手を勢いよく彼の口に打ちつけた。
「萌黄!? 本当におまえなんだな!? 生きて帰ってきたと思ったら、まずそれか!? いらんぞ! おらは子種なんか欲しくないからな!!」
「いつもそう言うが、いざその時になれば、おまえの体は欲しが……っ」
ごすっ。
一度引かれた拳が、今度は口元から鼻へかけて振り抜かれた。
「あれは、おまえがしつこいからだろうが、この色魔があっ!!」
彼は殴られたのに、痛みを感じてないかのような満面の笑みになって、ぎゅうとお詩さんを抱きしめた。
「ああ、それでこそ詩だ! 詩! 詩! 俺の詩!」
対するお詩さんは、頬ずりする彼の顔を両手でつかみ、本気で遠ざけようと必死になっているようだ。
……これは、痴話喧嘩なんだろうか? なにか、ずいぶん赤裸々な聞いてはいけない会話を聞いている気がするのだけれど……。
ここにいていいのだろうか。そっと部屋を出ていって、二人きりにしてあげた方がいいのかもしれない。なにしろ感動の再会なわけだし。
でも、彼の方は大喜びだけど、どう見てもお詩さんは迷惑がっているように見える。判断に迷うから、もう少し様子を見守りたいのだけど、頬ずりついでに降るようなキスが始まって、見るに見られないどころか、いたたまれなくなってきた。
「こ……らっ、萌黄っ、やめっ、やめと言うとるにっ」
「詩がキスしてくれたらやめてもいい」
「な、なにをっ、いったいここはどこで、」
あたりを見回していたお詩さんが、はた、と止まった。ばっちりと視線が私と絡んでいる。驚愕に目が見開かれていき、同時に顔色もみるみる赤く染まっていく。
……うん。気持ちはわかる。
「なあ、詩、キス」
お詩さん呼ぶところの萌黄、女神様言うところのただの主持ちさんは、まったく空気を読まず、それどころか、どこ見てんの、なあ、俺だけを見てなよ、と囁きつつ、彼女の頬の唇に近い所にチュウッとやった。
彼女はますますどす黒くなるほど顔を赤くしていき、きゅっと唇をへの字にした。かと思うと、キッと彼を睨み、両手を握り拳にして、ボカボカボカと彼の顔を連打しはじめた。ものすごい勢いで。太鼓を叩くみたいに。最早涙声で。
「この、慎みを知らぬ破廉恥男が、傍若無人もいいかげんにしろー!!」
……どこの『 』の主も同じ苦労をしているんだなあ。
私は同情と共感に感慨を深くせずにはおれなかった。
「あの」
お詩さん、と呼びかけようとして、勝手につけてしまった名前で呼んでいいものかと逡巡した。
いや、もう、彼女はお詩さん以外の何者でもないって感じがムンムンするから、確定されたのは間違いないのだけど。
たったあれだけのことで、何がどうなったのかカラクリはわからないのに、その結果の現象だけは疑いようもなくわかるという不思議。そして、それを自分がやっちゃった、という事実。ここに至って、空恐ろしさを感じる。
名前を勝手に変えられてしまうって、どんな感じなんだろう。ただの主持ちさんは怒っていたし、八島さんは、そうすることによって支配下におけるのだと言った。される側にとって、愉快なこととは思えない。
もちろん、やったことは後悔していない。やってやるつもりでやった。でも、誰かを傷つけたいわけではなかった。痛々しい涙も見ていられない。
私は罵倒されるのを覚悟で、思いきって声を掛けてみることにした。
「あなたの『 』は、生きてますよ」
だけど、彼女はまったく反応しなかった。まるで、本物の人形になってしまったみたいだ。この前は、蓋が開いたら目を開けて動き出したというのに、今回はどうしてしまったのだろう。
「箱の中の時間は止まっています。中に入りこんでしまえば、千世様のお声も届いておらぬかと」
八島さんが教えてくれた。
なるほど。ならば、と私は、ただの主持ちさんを探して首をめぐらせ……るまでもなく、発見した。八島さんの腕の長さプラス肩幅分向こうに。またもや八島さんに顔面を鷲掴みにされ、お詩さんを取り返そうと頑張っていたのだ。
八島さんは涼しい顔で、そちらへ注意を払っている様子さえなかったから、顔を上げるまで気配も感じなかったよ。
八島さんの指の下で、ギチギチミチミチと不吉な音が当然のようにしている。けれど、とりあえずまだ頭は握り潰されていない。
私は玉手箱を取り上げて、八島さんに首を傾げてみせた。
「これをあげてしまってもいいですか?」
「どうぞお好きになさってください」
それを聞いて、ただの主持ちさんの方へとさしだす。玉手箱は目にも留まらぬ速さでひったくられていった。
そうして、一跳びで部屋の隅まで後退した彼は、玉手箱の中に手をつっこんで、お詩さんを引っ張りだした。一瞬で彼女の体が大きくなり、彼の胸にかき抱かれる。
「詩、詩、……っ、ちくしょう、元の名前がわからねえっ」
彼は怒りの形相を浮かべ、ぎり、と歯ぎしりした。
「当然だ。我が主が名付けたのだからな」
八島さーん、怒りを煽らないでくださーい! ほら、睨み殺しそうな視線をこっちに向けたじゃないですか! あと、私は思いついたことを口にしただけで、本当のところいろいろやってるのはあなた自身なので、さも私がすごいかのように吹聴するのはやめてください。
と思ったけれど、黙っておいた。私を両腕で大切そうに抱えこみ、どうだと言わんばかりの微笑みで、こちらを睨み殺しそうな緑色の瞳に対峙しているのが、……そのう、微笑ましくて、こんな時に何馬鹿なこと考えてんのって思いつつも、水を差しちゃいけないかなあと……。
「萌黄?」
ぼうっとしたお詩さんが手を伸ばし、ただの主持ちさんの頬に触れた。
「そうだ、俺だ。おまえは大丈夫だぞ。だるいのは、少し生気を多く貰ってしまったせいだからな、気をしっかり持て」
彼女は、半信半疑という感じで、確かめるように彼の頬をさすっている。
「怪我もしてないし、病気もない。体の調子も上々だ。次の排卵予定日は十六日後だから、その時には」
ぺしっ。
お詩さんの瞳に突然力が宿り、頬に触れていた手を勢いよく彼の口に打ちつけた。
「萌黄!? 本当におまえなんだな!? 生きて帰ってきたと思ったら、まずそれか!? いらんぞ! おらは子種なんか欲しくないからな!!」
「いつもそう言うが、いざその時になれば、おまえの体は欲しが……っ」
ごすっ。
一度引かれた拳が、今度は口元から鼻へかけて振り抜かれた。
「あれは、おまえがしつこいからだろうが、この色魔があっ!!」
彼は殴られたのに、痛みを感じてないかのような満面の笑みになって、ぎゅうとお詩さんを抱きしめた。
「ああ、それでこそ詩だ! 詩! 詩! 俺の詩!」
対するお詩さんは、頬ずりする彼の顔を両手でつかみ、本気で遠ざけようと必死になっているようだ。
……これは、痴話喧嘩なんだろうか? なにか、ずいぶん赤裸々な聞いてはいけない会話を聞いている気がするのだけれど……。
ここにいていいのだろうか。そっと部屋を出ていって、二人きりにしてあげた方がいいのかもしれない。なにしろ感動の再会なわけだし。
でも、彼の方は大喜びだけど、どう見てもお詩さんは迷惑がっているように見える。判断に迷うから、もう少し様子を見守りたいのだけど、頬ずりついでに降るようなキスが始まって、見るに見られないどころか、いたたまれなくなってきた。
「こ……らっ、萌黄っ、やめっ、やめと言うとるにっ」
「詩がキスしてくれたらやめてもいい」
「な、なにをっ、いったいここはどこで、」
あたりを見回していたお詩さんが、はた、と止まった。ばっちりと視線が私と絡んでいる。驚愕に目が見開かれていき、同時に顔色もみるみる赤く染まっていく。
……うん。気持ちはわかる。
「なあ、詩、キス」
お詩さん呼ぶところの萌黄、女神様言うところのただの主持ちさんは、まったく空気を読まず、それどころか、どこ見てんの、なあ、俺だけを見てなよ、と囁きつつ、彼女の頬の唇に近い所にチュウッとやった。
彼女はますますどす黒くなるほど顔を赤くしていき、きゅっと唇をへの字にした。かと思うと、キッと彼を睨み、両手を握り拳にして、ボカボカボカと彼の顔を連打しはじめた。ものすごい勢いで。太鼓を叩くみたいに。最早涙声で。
「この、慎みを知らぬ破廉恥男が、傍若無人もいいかげんにしろー!!」
……どこの『 』の主も同じ苦労をしているんだなあ。
私は同情と共感に感慨を深くせずにはおれなかった。
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