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58.がばす!?

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 だいぶ落ちてきた陽がゆらゆらと水面に反射してオレンジ色の世界を作る。

 永遠に時が止まってしまったのかと思った瞬間、勇者様は私の滑稽にしか聞こえない質問に落ち着いた声でこう答えた。

「我らは世代を重ねてきた勇者と魔王。言うなれば古からのライバルだ。見覚えがあるのは当然かと」
「……」

 ……やっぱり、そうだよね。『もしかしたら立谷先輩と記憶が繋がってるかも』なんて、そんな都合の良い話あるわけないんだ。

 じわりと滲みかけた涙を気合でひっこめ、笑顔を取り繕うため口の端を上げる。

「ごめんなさいヘンな事聞いて、今のは忘れて――」

 そこまで言った私は、思ったより彼との距離が近いことに驚いて息を飲む。

 いつの間にかすぐ目の前まで来ていたエリック様は、そっと手を上げると私の頬に触れた。すり、と優しく擦られる感覚が目の下をなぞり、後頭部へと回り込む。

(わ、わっ、わぁぁぁぁ!?)

 そのまま引き寄せられ思わずギュッと目をつむる。爆発しそうな心臓を抱え身を固くしていると、耳元のすぐ傍で深みのある声が響いた。

「だが、貴女とは、敵対関係ではない初めての勇者と魔王になれたらと思っている」

 状況にまったく頭が追いつかなくて、スッと離れた彼の微笑む顔しか目に入らない。

「また会おう、アキラ殿」

 ようやく言葉の意味をようやく理解した時にはもう、勇者様は橋を渡り終え、遠く彼方へ去っていくところだった。


 ***


 桟橋を渡り終えた勇者は、あえて振り向かずに帰途につく。

 後ろからパタパタと駆けてきた部下は、おそらく意外そうな顔をしているはずだ。声が戸惑っているのがわかる。

「ひゃー、オレちょービビりましたよ。魔王サマにあんなことするなんて、センパイってカタブツそうに見えて意外と大胆だったんスね」

 確かに、周囲から見れば自分が脈絡も無く彼女に迫ったように見えただろう。だが男の真の目的は別の箇所にあった。

(左耳の後ろにあったあの痣……間違いない)

 ともすれば見逃してしまいそうなほどうっすらとした、花のような幾何学模様。首都カイベルクで初めて彼女に出会った時に抱いた疑惑が確信に変わった。

 おそらく当の本人も気づいていないのだろう、だがこの事実は今回の事にどう影響してくるだろう。下手をすれば友好を結ぶどころか彼女の王としての立場すら危うくなるはずだ。

(しかし、なぜ魔族領に……)

 考えに没頭しすぎていたらしい、ふと気づけば両手で頬を横に引き伸ばした部下の顔が目の前にあった。器用に後ろ歩きをしながら舌を出している。

「がばす!?」

 ドスッと遠慮なくチョップしてやれば、奇妙な声を上げてルシアンは転がる。勇者は呆れたようにそれを見下ろした。

「いつどこで誰から見られてもいいように、騎士として品のある振る舞いを心掛けろと言っているだろう」
「だぁぁ~~ってえええ、センパイまるっきりオレの事ガン無視なんですもん! 傷ついた部下の忠告を、一刀両断とか!」
「む」

 言われてみれば、ぼんやりとしていた自分にも非はあるか。素直に反省したエリックは助け起こすため手を差し出した。

「無視したのは悪かった、すまん」
「素直か! いや、いいんスけど、いったい何をそんなに考え込んでたんスか?」

 よっこいしょと、それに掴まり立ち上がった彼はそのまま横並びに歩き出した。気づいてしまった真実は伏せ、口を開く。

「いや――その前にお前の意見も聞いておきたい。ハーツイーズ国を見てどう感じた?」

 質問を質問で返されたのを気にするでもなく、ルシアンはパッと表情を明るくさせ大げさな身ぶりで感情を表して見せた。

「オレ気に入りましたよー! 魔王サマは可愛いし、警戒してた魔族も人が変わったみたいに――いや、魔族が変わったみたいにみんな親切だし、めっちゃ良い国! お近づきになりたい!」

 トドメにビッ!と親指を立てる部下の素直さをほほえましく思いながらも、そこまで楽観的にはなれない勇者は声のトーンを落とす。

「俺も同じだ。だがあの国を応援したいが、そう上手くは行かないだろうな」
「えぇっ、なんでッスか!? あんなに裏の無さそうな良い人たちなのに」
「その、『いい人』なのが問題なんだ」

 彼の国を支援する前に、『魔族には悪役でいて貰わなければ困る』人種が己の国に一定数居ることに気づかなければいけない。そう教えてやると、ルシアンはポカンとした表情のまま、ポツリと呟いた。

「そんなヤベー考えの人が、ウチの国に居るんスか?」
「あぁ、しかも残念なことに、王に近い中枢基軸院の中にこそ、そういった考えが多い」
「うへぇ、陰険」

 自分が擁護することで、表面上は友好国として受け入れられる事だろう。だが悪意を持った誰かが裏で画策したとしたら――

「ハーツイーズ国は、まだまだ前途多難だな」

 しばらくは静観するのが良いだろうと結論づけた勇者の脳裏に、ズタズタに引き裂かれ変わり果てた少女の姿が浮かび上がる。遠い記憶だ、だがその時感じた痛みは今でも心を蝕み続けている。

(それに俺もまだ魔物を完全に信頼したわけでは……)


 ***


「主様っ!」

 駆け寄ってきたルカが、膝からストンと落ちた私の身体を支えてくれる。同時に左脇に駆けてきた赤い狼が、ぼふっと煙を出して人型に戻った。

「あの勇者に何言われた! まさか傷つけるようなこと言われたんじゃ――」


+++


手首です。わたくしも木陰から見守っていたのですが、勇者様の突然の行動にはドキドキいたしましたわ…! いったい何を言われたのかしら…
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