再会は甘い誘惑

真麻一花

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 思い出すと、今朝の自分が恨めしい。

 私はカチャリとスマホをいじくりながら自分の動揺を逸らせるように、今朝のことを思い返していた。
 あれが、今日の間違い全てのスタートだった。
 私は、あのときドアの前で待っていた彼を、完全に無視して行くべきだった。
 どうしてそうしなかったのだろうと思うと、悔やんでも悔やみきれない。



 今朝、車で送っていくと言った彼の言葉に、私は抵抗しながらも、結局流されて乗ることになった。

「一緒に行こう」

 あの時そう、まるで当たり前のように笑顔で言った彼に、私はバカみたいに突っ立って「え?」と、聞き返してしまっていた。
 その後は、もう、なし崩しだった。ああういうところが、本当に押しに弱いと、つくずく自分に嫌気がさす。それでなくても動揺して、まともに考えられる状態ではなかったのが情けない。

 私はあのとき、苦しくて泣きそうで、怖くてどうして良いか分からなくなっていたのに、彼のほうは、いとも簡単に笑って「会いたかった」とささやいてきた。
 動揺して、黙り込んだ私に、あの再会の日とは打って変わって、彼は明るくなんでもないような口調で、親しげに話しかけてきた。それは再会の日よりも私の知っている彼らしかった。

 明るく人なつっこい彼。あの頃より、言葉を選んで落ち着いた雰囲気はあるけれど、人の警戒心を解きやすい人なつっこさは、五年前を彷彿させるには十分だった。こみ上げる恐怖と同時に、幸せで楽しかった時間を思い出させた。
 当たり障りのない話を彼がするのを車の助手席で聞いている内に、つい、私は彼の軽口に答えてしまった。

「外にいる人を確かめずにドアを開けるなよ」

 からかうように言った彼に、少しだけ余裕が出来てきていた私は、すこしむっとして、小さくつぶやいた。

「……チェーンをかけてたもの」
「でも、ちゃんとのぞいてたら、あのとき、ドアを開けなかっただろ?」
「分かってるなら、どうしてくるの」

 彼が軽口を叩くから、つい気安く言葉を返してしまっていた自分に気付いたときは、もう遅かった。
 私が言葉を返したことに彼はうれしそうに笑っていて、私はほんの数分前までの緊張を更に解き始めていた。

「私の嫌なことはしないんじゃなかったの?」

 せめてもの抵抗に私が言うと、彼がうなずく。

「会ってくれるなら、な」
「……会うのが嫌なんだけど」
「だろうな。でも、そこだけは、譲れないんだ」

 ちょっと苦笑いを浮かべ、けれど軽く受け流すように彼が笑った。
 和やかになりかけた雰囲気を壊そうとする私を、穏やかに彼が取り繕う。
 彼に警戒を解いてしまいそうなこの状況が嫌だと思いつつ、取り繕った彼の言葉に、ほっとした自分もいる。重い空気は、苦手だった。
 その場を取り繕う力は天才的よね。
 なんて、わざと意地の悪い事を考えて、場の雰囲気に流されそうな自分をとどめようとした。

「それ以外で考えろよ」
「じゃあ、無理矢理車に乗せないで」
「人聞きの悪い事言うなよ。誘拐犯扱いかよ」

 彼が笑う。

「でも、それも却下。会う約束、こうでもしないと取り付けられないだろ? 留衣に会うために必要なことは、頼まれても聞けない。それ以外だよ、それ以外」

 軽口のように、軽い口調で言っているのに、なぜか、それが本心だろうと感じた。
 逃げられそうにない恐怖と同時に、心のどこかでそう言う彼にほっとしている自分がいる。
 このまま流されたらダメだと思うのに、彼の隣は、未だに居心地が良かった。
 挙げ句の果てに、明日の夜、食事の約束を取り決められた。



 それだけなら、まだ良かったのに。
 良くはないけど、でも、それだけなら、まだ良かったのだ。
 私は、スマホを握りしめて、溜息をつく。自分一人だけしかいない自室で、その音は、やけに大きく自分の耳に響く。

 私はあのとき彼の車に、スケジュール帳を落としていたかもしれなかった。
 そのことが大きくのしかかってきている。
 今、私がどうしようもなく苦しくなっているのは、取り付けられた約束のせいでも、スケジュール帳を落としたことでもなかった。

 問題なのは落としたスケジュール帳が、明日、会社でどうしても必要な事だった。
 正しくは、その中に書き込んだメモ内容なのだけれど。

 本当は今日必要な物だった。会社でないことに気付き、仕方なく確認は明日にしましょうという話になった。それで帰ってから家の中を探しても、どこにもない事に気付き、現在に至る。
 今朝は、彼のことがあって、慌てて準備をしたけれど、確かにスケジュール帳はバッグに入れた。なのに、会社に着いたときはなかったし、確かに車の中でスケジュール帳を出して明日の予定を確認したりと、身に覚えもある。

 私は、泣きたい気持ちで今朝のことを思い返す。
 どうして車に乗ったりしたんだろうと、今更ながらのことを、何度も何度も後悔する。

 明日の夜会うときに確認するのでは遅い。
 私は、出来るだけ早く彼に連絡を取らなければいけなくなっていた。

 スマホを片手に、私は惨めな気持ちで、深く息を吐く。
 私の目の前にあるのは、ゴミ箱だった。十日ほど前に、名刺を捨ててそのままになっているゴミ箱。その中に、彼の携帯の番号を書いた名刺がある。
 十日も前に捨てた物がまだ入っている、未練ばかりが詰まったゴミ箱。

 今、私は捨てることも出来ていなかった惨めさに唇を噛む。自分の未練がましさを突きつけられているようだった。嫌いだ、嫌だと言いながら、名刺一つ捨てられないほど、結局彼にしがみついているのは自分じゃないかと、そう言われているように思えた。
 惨めだ、と、もう一度思う。彼のことを捨てきれない自分が情けない。

 私は、ゆっくりとゴミ箱に手を入れる。
 トン、とゴミ箱の底に指が当たって、カサリ、と名刺がこすれて音を立てる。
 それを拾い上げて、彼の名前が印刷された紙面をじっと見つめる。印刷された文字は、私の目に入ってくるのに、ぼんやり見つめる私の脳には、意味をなさない絵のようにただ目に映るだけ。代わりに、彼の書いた携帯の番号の文字が、ひどいインパクトでもって、私に訴えかけてくる。

 苦しい。
 電話なんて、かけたくない。かけたくなんかない。

 なのに、私は電話番号を見ながら、心臓が高鳴るのを感じる。怖いのとも、不快なのとも違う、期待のような緊張感。かけたくないと思う理性は本当なのに、電話をかければ彼の声が聞こえる、彼を身近に感じることが出来る、そんな期待感がわき上がって、私の胸は高鳴る。

 嫌なのに、私の心は、私の理性を裏切る。
 電話をかけるしかないと思う理性と、かけたくないと思う理性と、電話をかけたい私の心。
 私は、彼の番号を、震える手で押した。

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