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9 金の姫君の決意
しおりを挟む漏れる吐息も、息を吸う時でさえ、小刻みに揺れて、体全体が震えていることに気づく。かちかちと歯がなるのをかみしめてこらえる。
まずは、現状を把握しなければならない。
必死に思考を張り巡らせ、今起こったことに動揺している自身を冷静にしようと奮い立たせる。
よろめく体を何とか支えながら震える足取りで自室にたどり着くと、姫は鏡を見た。
そこに映る己の姿を見て、彼女は息を呑んだ。
まず見えたのは顔を覆うようにのびた呪術の鎖。肌の見える胸元から顔に至るまで、びっしりと文様が刻まれている。
「……ひっ」
漏れそうな悲鳴を必死にかみ殺した。
どうする。どうすれば良い。白竜様……白竜様!!!
とっさに助けを求めたのは、誰よりも愛しく、誰よりも信頼する竜の姿だ。
けれどそのまま名を叫んでしまいそうな口元を必死に押さえる。
だめだ、呼んではだめだ。
それをしてしまえば、どうなる。
混乱した頭で必死に考えて、……姫は絶望した。
白竜は、おそらく姫の呪術を解くために動くだろう。
白竜は、人の世のはかなさを受け入れている。争いがなくならぬことも、国がいくら繁栄しようともいつかは衰え滅びていくことも、それに好んで介入することはなくとも、己が介入することで衰退が起こったところで、単にその時が早まっただけのことと割り切っていることも。
だからこそ、白竜は不介入でいることにためらいを持たぬ。介入すれば助かる命があろうとも、白竜にとっては、今起こらなくともいつかほかの誰かに降りかかる物であるとしか認識していないのだ。すべてを助けることは不可能。故に何か一つを切り捨てることを割り切っている。
姫を助けるために国が衰退してゆくことを、おそらく白竜はいとわない。そのために人命に被害が出ようとも。苦しむ者が出ようとも。国が、滅びようとも。
白竜にその覚悟があることを、姫は知っている。その覚悟をさせたのは、ほかならぬ姫自身であったのだから。姫のためだけに白竜は人間の世界に戻ってきた。それゆえ姫を守るための犠牲は厭わないであろう。
姫が嘆くことを憂うことはあっても、それは白竜にとって、天秤にかけるまでもないことである。
けれど、姫は違う。
姫は王の娘であった。国を捨てることはできても、国を陥れることはできない。
自身の命と、多くの命を天秤にかけるようなまねをさせるわけにはいかないと考えた。白竜がそれを天秤にかければ、姫の命が選ばれる。姫の命が選ばれれば国は混乱し、おそらく最終的に多くの命が失われる。
東の侯爵家が潰れるということは、そういうことだ。
場合によっては国が傾く。
その混乱に乗じて、あの組織は何をするつもりなのかと考えると血の気が引いた。国の根幹まで組織の力が蔓延するのか、それともこの国を別の何者かが牛耳ろうとするのか、場合によっては他国からの侵略もあり得る。白竜が警戒するからには、それだけの組織力があるということだ。
自分はとんでもないところに目をつけられたのだと気付く。
彼女を助けることができるのは、白竜だけだ。
けれど白竜に知られるわけにはいかない。
それだけは、姫の中で確かなことだった。白竜を、この国の争いに巻き込むようなまねをしてはいけない。
いつからか、思うようになっていた。
白竜の立場は、とても危うい、と。
人の及ばない力を持っているが、白竜は人間が好きだ。竜であって竜でない。人でありたいという気持ちをおそらくまだ持っている。なのに、彼女の行為によって、白竜は、人間から敬い恐れられる立場になった。
こんな状態で、もし何か白竜に都合の悪いことが起これば、それはまたたく間に白竜を迫害する動きになるだろう。人間に近い場所で生きているのだからなおさら、人は白竜を恐れ迫害するだろう。
人間が束になったところで殺されることはあるまい。しかしあらゆる人間から厭われるということは、人間でありたい白竜にとってどれほどの苦痛を与えるか、考えるだけで恐ろしい。
姫の存在は、何か一つ間違えれば、白竜の持つ人間の心を殺してしまいかねないのだ。
白竜が姫のためにした覚悟を、彼女はとても苦しく思っていた。
躊躇わぬからといって心が痛まぬ訳ではない。覚悟をしていたからといって苦しまぬ訳ではない。
白竜の覚悟は、白竜自身を傷つけるものだ。
だからこそ、姫は決意する。白竜には、知らせないことを。
この事態を白竜が知れば、白竜は迷いなく国にとって悪しき選択をする。
そのようなことをすれば、白竜は悪しき竜として、この国のみならず世界から恐れられ、場合によっては討伐の対象ともなり得るかもしれない。好意的に受け入れられている今でさえ、竜の存在をよく思わない者もいるのだ。存在を亡き者にしたいと願う者たちも多数いるのだ。そして何より、恐れている者も。
恐れる者が一番恐ろしい。害されることを恐れて、何をせずとも攻撃をしてくる。ただそこにいるだけで、何をせずとも疑心暗鬼にとらわれ、悪心ある者であると勝手に確信する。そこに悪い噂が一つ舞い込めば、あっという間にその心は爆発する。そういう者は多いはずだ。
東の侯爵に手を出したとなれば、白竜があの善の者を襲う狂った存在と思う者もいるかもしれない。
だからこそ、この呪術を白竜に知られてはならない。解呪の法を知られてはならない。
白竜をこの場所に縛り付けたのは彼女自身だ。白竜は姫の身勝手さに巻き込まれた。今度のことは白竜をここに縛り付けた自身でその落とし前はつけるべきだろう。
白竜をこれ以上人の世に巻き込むようなことはしてはならない。
身を隠さねば。
姫は頭を働かせた。明後日まで身を隠し、白竜に呪術の存在を知られないようにせねばならない。明後日になれば自分は死んでしまうだろう。けれど自分が死んでしまえば、白竜はこの人の世にとどまる理由はなくなる。縛られることはなくなる。
きっととても寂しい想いをさせるけれど、悪い竜だと嫌われることは避けられる。
そうだ。決して悪いことばかりではないではないか。
姫は悲しげにほほえんだ。
共に生きていくつもりだった四十年……それがたった四年になってしまったのは残念だけれど。
あの美しい存在を、解放する日が来たのだ。
姫は崩れ落ちそうになる体を、力を振り絞り奮い立たせる。隠れなければ。
できれば、さよならを言いたかった、その姿を最後に見たかった。
できれば、その暖かな存在のそばで長き時を過ごし、年老いて寄り添って別れを告げたかった。けれど、もはや叶うことのない望みだ。
せめてこの命が散るのなら、白竜の呪いを解くように使えればよかったのに。
ふとそこまで考えて、そうだ、と希望が胸に宿る。
そうだ、これで呪いが解ければ良い。これが白竜を守ることになるかどうかまではわからないけれど。……あなたを人の世の業から解放するのは、あなたを守ることになるかしら……?
姫はうっすらと笑みを浮かべた。
白竜様、わたくしはあなたのために命をかけましょう。
思い上がりとあなたはののしるでしょう。身勝手だと怒るでしょう。二人で決めて二人でここで生きる決意をした。なのにわたくし一人で今回の決断を下したことを、あなたはきっと怒るでしょう。
でも、わたくしはいやなのです。どうしても、あなたがわたくしのために悪しきざまに言われるのは、いやなのです。そして、結果国も守れるのなら、それに越したことはないと思うのです。わたくし一つの命でそれらが守られるのであれば、たとえ解呪に至らなくても、悔いはないと、思うのです。
ここまでわたくしのために来てくれたのに、勝手に決めてごめんなさい。わたくしの人生に、あなたを巻き込んでごめんなさい。あなたを傷つけるとわかっているのに、ごめんなさい。
それでも、白竜様。あなたに会えて、わたくしは幸せだったのです。
あなたを傷つけるというのに、出会いを、そして共に過ごした時間を、わたくしは悔いてすらいないのです。
姫はゆったりとした足取りで、しっかりと歩いて行く。
刻まれた文様が、じくり、じくりと締め付けるように痛む。姫が白竜に告げぬ意志を固めるたびに、一歩一歩踏み出すたびに、呪いの鎖がじくり、じくりと締め付けてゆく。
白竜様も、この痛みを抱えているのかしら。普段気にした様子のない様を思い浮かべながら、首をかしげる。
だとしたら、大丈夫。この文様も、痛みも、白竜様とおそろいね。だから、大丈夫。
姫はうっすらと笑みを浮かべ、静かに城を抜け出すと、誰も近寄らぬ森の奥へと去って行った。
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