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それぞれの午後7時
地獄への入り口
しおりを挟むside:咲
健康診断で、医師や看護師に痣を見られたことが気がかりで、何も考えたくなくて、帰るのが遅くなった。やることもなく、ふらふらと歩き回る。
気づけば辺りは真っ暗で、時刻はもうすぐ、夜7時になろうとしている。
帰る場所なんか、無くなればいいと思いながら、家の扉をゆっくりと開ける。
いつも思う。ここは地獄への入口だって。
玄関に入った瞬間、酒とタバコの臭いが立ち込めて、思わず口を手で覆う。
奥の部屋にいた男と目が合って、しまったと思い目を逸らしたときには遅かった。
焦点の合わない目でわたしのことを捉えて、千鳥足で近づいてくる。
今日は、大量に酒を飲んでいるようだった。
奥の部屋で散乱している安酒の缶が、ひと目で10本ほど転がっていた。
「……んだよ、遅かったじゃねぇか」
肩を強く押されて、よろめき、その場に転んだ。
大人の男の力には敵わない。
立ち上がらないと……
そう思うより先に、男が右足を、思いっきりわたしのお腹に振りかぶった。
衝撃に、息が止まる。
「あ? お前はいいよな、こんなに良い学校に、タダで通えてよ。俺の子どものころなんてな」
もう一発。
お腹から鈍い音が体中に響いた。
まずい、殺される。
いつもより強い力に、死の恐怖を感じた。
わたしの存在自体が、もう彼に十分な刺激を与えている。頭の片隅がどこか冷静で、カッとなって殺人を犯す人ってこういう思考なんだと思っていた。
「飯もまともに食えなかったよ」
わざと、制服を汚すように、男が唾を吐く。
制服を汚されることへの嫌悪感が、心の中に満ち溢れる。
わたしは、なんの努力もなしに学校へ行くことを勝ち取ったのではない。
家庭環境が劣悪でも、勉強がしたかった。
小学5年生の冬、わたしは母に、最初で最後と決めたお願いをした。私立の中高一貫校を受験させてほしい、と。
言った瞬間は、母にすら殴られた。
でも、この家にはお金がなかったから、入試1位だと学費が免除になることを話すと、掌を返すかのように態度が変わった。中学に入る前に猛勉強した1年間だけは、わたしに誰も手を出さなかった。
そんなことは生まれて初めてだったと思う。
子どもひとりを中学に行かせるお金が、この家には無かったのである。
生きるためにも、ちゃんと勉強しなくちゃ……
物心着いた時から母が男を取っかえ引っかえするのを見て、そう感じていた。
しかしその取り替えが効く男に、わたしはいま、殺されようとしている。
この男も、母も憎い。
そんな気持ちが湧いて、痛みに息ができなくなりながらも、男を睨みつけていた。
一瞬、気圧されたように身を引いたその隙に、立ち上がって玄関のドアノブに手をかける。
殺されたくない。逃げようと手に力を込めるも、
「んだよ、今の目は!」
後ろを向いた瞬間に、肩を捕まれ、またよろめく。相手の足元がふらふらしているのも同じだった。
酒を飲んで足元が覚束ないのであれば……
わたしはお腹の痛みに耐えながら、すぐさま体制を整えて、向かってくる男に、体当たりをかます。
思った通り、男はよろめいて、鈍い音をたてると、その場に倒れ込んだ。
いつもよりデタラメな力の強さだったが、酒が回ってきたのか一度倒れると立ち上がるのに時間がかかっている様子だった。
今なら出られる。
玄関の扉を押し開けると外へ出て、走り出した。
「おい!!ふざけんな!!クソガキ!!!」
酩酊して座ったまま、叫ぶことしかできない男の声。
わたしは振り返らずに、足を動かした。
行先もなく、走り出す。全力を出しているのに、全然スピードが上がらず、息だけが切れていく。
とにかく、学校の方へ。
あの家から離れなきゃ。
涙を堪えながら暗い夜道をひたすら走る。
学校が見えてきたところで、足がもつれて倒れ込んだ。
肩で息をしながら、体をもう動かせないことに悔しくて涙が出た。お腹から胸にかけて、痛みが広がり、苦痛に顔を歪める。
生まれた時から、わたしには既に父親がいなかった。しかし1度だけ、わたしの目の前に、わたしの父だという人物が姿を現したことがある。
優しそうな人だった。『笑って生きてね』と言っていた。
もし、父についていけるような人生だったら……。間違いなく、違った景色が見られたと思う。
死ぬ前には笑えないな。
遠くから、誰かがやってくる。
どことなく父に似ているその人は、わたしに「目を開けろ」と言っている。
わたしが意識を飛ばすのは、時間の問題だった。
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