シクレさんの呪い

KO

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本編

春の教室に潜む声【前編】

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 春の朝は、音がやけに遠くに思えた。椿ヶ丘高校二年三組の教室には、まだ冬の残り香が僅かに滲んでいる。窓際の列に座る蒼野響平は、手のひらを机に置き、冷たい木目を撫でていた。指先に細かな埃が付く。その埃の一粒が、封筒の中の墨と同じ匂いをまとっている気がした。弓田沙織の席は、誰も近寄らない。始業式から数日が過ぎても、その机だけが時間を拒むように存在している。黒板には新しい連絡事項が書かれていたが、沙織の席にはまだ、誰かが置き忘れた小さなシャープペンシルが横たわっていた。
 響平は、封筒をポケットに隠したまま、教室の空気の隙間を測っていた。どの机の下にも、誰かの囁きが潜んでいる気がする。それは足音に混ざり、教室の端で笑い声のふりをする。窓の外では、新入生らしい声が風に混じっていた。響平は息を吐き、机の奥をそっと叩いた。木目の奥に隠された影が、小さく鳴いたような気がした。
 放課後の廊下には、人の気配がすぐに薄くなる。授業を終えた生徒たちの笑い声が、階段の向こうで遠ざかっていく。残った埃が、昇降口へと這っていく。響平は、昇降口の影に一人立つ紅崎真菜を見つけた。真菜の指先には、一枚の白い封筒があった。校内の薄い蛍光灯が、封筒の縁をやわらかく照らす。
 「机の中に、入ってた。」
真菜は、それだけを呟いた。声は小さく、埃と同じ重さで足元に落ちた。響平は封筒を受け取り、封を切らずにポケットへ滑らせた。その一連の動作だけで、誰かに見られている気がした。
 「……怖いね。」
真菜はそう言って目を伏せた。校舎の奥で、誰かが笑う声がした気がしたが、すぐに廊下の風に紛れた。
 教室に戻ると、諸星奏が一人で窓際に腰掛けていた。スマホの画面を、光のない瞳で見つめている。指が滑る音だけが、教室に残った残響を切り裂いていた。
 「正義の味方さん、ご苦労さま。」
奏は顔を上げずに言った。響平は何も答えなかった。教室の奥で、埃が僅かに舞った。黒板の端に残った文字が、春の光に溶けていった。
 下校の時刻が迫っても、響平は机を離れなかった。机の奥に封筒を忍ばせたまま、誰の目にも触れないように息を潜めた。真菜の言葉が、頭の奥にひりついていた。机の中に入っていた。誰が置いたのか。いつ、どの瞬間に。誰も気づかずに封筒を滑り込ませる手。窓の外で、鉄柵が風に軋んだ音が微かに届いた。屋上のあの柵。沙織の最後の輪郭。
 教室のドアが僅かに軋んだ。東山充の声が、静かに響いた。
 「響平。帰るぞ。」
担任の声は穏やかだったが、その奥に何かを知っている色があった。響平は机を叩いて立ち上がった。封筒の紙がポケットの中で擦れた。教室を出ると、廊下の空気は思いのほか冷たかった。昼間のざわめきの名残が、壁に溶けて湿っている。昇降口に向かう足音が、遠い天井に反響していた。響平は歩幅をゆっくりと落とした。封筒の端がポケットの中で擦れるたびに、心臓がそこに移ったように思えた。窓ガラスに映る自分の顔が、廊下の蛍光灯に削られて青白く見えた。その背後に、一瞬だけ何かが映った気がした。振り返る。誰もいない。ただ、遠くの窓枠が軋む音が、誰かの咳払いのように聞こえた。
 階段を降りると、すでに下校する生徒たちの姿はほとんどなかった。真菜の背中が昇降口の前に立っていた。
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