シクレさんの呪い

本編

春の影､墨の声【後編】

　関谷天が低く息を吐いた。その息が雨に溶けた。
　「沙織は、全部を暴くつもりだった。」

《あの夜、誰がいた》

胸の奥の紙片の問いが、響平の鼓動に重なった。
　「お前は何を知ってた。」
響平の声が天を刺した。天は一歩だけ後ずさり、柵の向こうに視線を滑らせた。
　「俺は……。」
言葉が途切れた。何かが軋んだような音がしたのは、屋上の隅だったのか、それとも胸の奥だったのか。
　響平の背後に小さな足音が近づいた。振り返ると、真菜が立っていた。髪が濡れ、制服の肩が雨に沈んでいる。
　「響平……。」
声は小さく、しかし真菜の目は何かを決めた光を宿していた。
　誰が、誰の声を背負っているのか。封筒の墨は、まだ乾かないまま指先に残っていた。真菜の瞳が、雨に濡れた屋上の灰色にひそやかに光っていた。響平は何かを問いかけようとしたが、その言葉は雨に散った。
　「沙織は……自分だけじゃ終われなかった。」
真菜の声は小さいが、誰よりも遠くを見ていた。
　「誰かに、全部を残したかった。だから……。」
言葉の先を探すように、真菜の指先が封筒をなぞる仕草をした。
　遠くで奏がスマホを閉じた音が聞こえた。関谷天は柵の奥で黙っていた。雨はなおも鉄を叩き、墨の匂いを湿気の奥に混ぜていく。
　響平はポケットの紙片を握りしめた。

《あの夜、誰がいた》

問いはもう、自分自身に向いていた。
　誰かを疑い続けるのか。誰かと繋がるのか。封筒の声は、雨に溶けながらも、まだ胸を撫でていた。
　「響平。」
真菜が、ほんの少し笑った。その笑みが、封筒の白さよりも静かに滲んだ。
　鉄柵の向こうに春の街が霞んでいた。屋上の床には、雨と埃が交じった小さな跡が残った。
　響平は封筒をポケットに押し込んだまま、誰の声も聞かずに屋上を後にした。春の風が背を押した。その冷たさが、まだ何かを残していた。（終）