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第一章
7:憂鬱な会食3
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しばし思案する様子を見せていたが、給仕の彼が「当然、旦那様は“過労で強く酔いが回ってしまったようだ”と、下男にはしかと周知させていただきます」と後押しすると、令嬢はやっと頷いた。
「いいでしょう。早く手配なさい」
そう言って令嬢は私のすぐ傍に歩み寄り、膝間に垂れていた私の両の手を取り握り締めた。そのまま膝を折れば、事実配偶者の体調を案ずる貞淑な女のように傍からは見える事だろう。もちろんそんな美談はここには有りようも無く、私からすれば悍ましいばかりだ。不愉快なこの存在を、早々に遠ざけてもらいたい。
「僭越ながら、奥方様は奥の間でお待ちくださいませ」
「……なぜわたくしが使用人ごときに指図されなければいけないのかしら」
「ペイトン中将に反意のある旦那様の口から、薬の件が外部に話される可能性は高いでしょう。その時、“旦那様が体調を崩された後に奥方様がこちらにいらした”と言う証言が下人からある方が、奥方様への不要な疑惑も幾分減るかと思われます。いかがでしょうか」
私が微動だにしない事で眠っているとでも勘違いしているのかもしれない。体面を保つ必要性を忘れているのか、令嬢は不躾に鼻で笑うと「そうね」と、握っていた私の手を滑り落としながら立ち上がった。
「雑音になりそうな事柄は減らしておきたいのも事実だわ。あなたの提案にのりましょう」
「ありがとうございます」
軽い靴音が奥の扉の中に納まるのを待ってから、彼が動き出す気配がした。個室の外に通じる扉を開放する音がした後、足音を忍ばせた彼が私の耳元に身を寄せた。
「俺うまくやったよ、ロードリックさん。今なら行けそうです」
顔を上げると満面の笑みを浮かべた彼がいた。こんな状況なのに、あまりに無邪気で満足気な表情に肩の力が抜ける。仮に彼の全てが罠だったのだとしても、これに騙されるならそれはそれでいいかもしれないとまで思う。
私が無言で頷き立ち上がると、すぐに私の肩下に体を滑り込ませて支えてくれた。奥の部屋に警戒しつつ個室を出ると、通路に人の気配が無く、どうやら人払いがされていたらしい。今でこそこちらとしても好都合な事ではあるが、周到な様子に吐き気すら覚える。そんな私の狭量を知ってか知らずか、「ひと気がなくて助かりますね。こっちから出られますよ」と嬉しそうな声に従って、搬入口の一つらしい簡素な扉から人定の暗い裏通りに出る事が出来た。
「痺れはどうですか?痛みとか違和感は?」
賑わう飲屋街の路地の片隅、積まれた空の木箱の上に私を座らせた彼は正面に膝をついて屈み込み、気遣わしげにじっと私を見上げてくる。
「問題無い。ありがとう」
事実、早くも薬が抜け始めたようで、手足の筋肉に血が巡るようなむず痒さがあるが、大きな違和感は無い。利き手を何度か握り込み手首を回していると、その様を見つめながら、彼は「やっぱり俺が注いだ葡萄酒に入ってたのかな」と今更妙な事を気に病んで悄気ているのが可笑しい。
「君は、私の手助けをして良かったのか?あの男は店の太客だろう。君が叱責される事があれば私が弁護してもいい」
至極真っ当な心配をしたつもりだが、彼にとってはそうではなかったらしく、大きな目を一瞬丸くした後、何故か嬉しそうに相好を崩した。そのまま、幼児のようにその場にぺたりと膝を抱えて座り込む。
「ロードリックさんはいい人ですね。そんなひどい目にあったのに、俺のことなんて心配しなくて大丈夫です」
先程の店での慇懃な仕事振りでもなく、馴染みの酒場で見掛ける時の色男然とした小洒落た振る舞いでもなく、今目の前の彼はあどけなく笑って「俺の本職はあの酒場なの知ってるでしょ?」と控えめにおどけた。そのあまりの天真爛漫さに目が眩みそうになる。
「人が良いのは君の方だろう。無関係な君を巻き込んでしまった事、本当に申し訳なく思っている」
私が改めて「ありがとう。君の不利益に対する償いは何でもする」と頭を下げると、彼は途端に「違うんです!」と慌てふためきもたつきながら立ち上がった。折り目正しかった黒服の膝に白っぽい砂汚れが付いている。きっと尻も似たような有り様だろう。
「無関係なんかじゃないんです。あの、俺、ほんとは少し前からロードリックさんがあの怖い女の子から狙われてること知ってて、後味悪いことになったら嫌だなって思ってあの店に潜りこんでたんです。でも、まさか痺れ薬まで使われてると思ってなくて、手間取っちゃってごめんなさい。だからね、勝手に首をつっこんだ俺は、巻き込まれたとかそういうんじゃないのでロードリックさんには気に病んで欲しくなくて、それで、ええと……………あの、もしかして、笑ってますか?」
顔を覆った手のひらの下で声を殺し、肩を震わせていた事に気付かれてしまった。堪え切れずに私が声を上げて笑うと、「なんで笑うんですか!」と羞恥からなのか、首筋まで真っ赤に染めた彼が詰め寄って来る。
「君がどうしようもないお人好しだと言う事はよくよくわかった。君が誰かの食い物にされないか心配だな」
「何言ってるんですか!心配なのは俺じゃなくてロードリックさんですよ!」
丁寧に撫で付けられていた髪を自ら無造作に掻き回して鳥の巣にしながら、「本当にロードリックさんが心配で仕方ないのに」と睫毛の縁に涙を滲ませて騒ぐ様すら愉快で、酷く好ましく思う。
「君の名前を教えてくれないか」
誰かを知りたいという感情がまだ自分の中にあった事に驚く。
私には勿体ない程お人好しの彼は、しばし躊躇った後に真っ赤な顔と子鼠のような小さな声で、「ユセ」と名乗った。
「いいでしょう。早く手配なさい」
そう言って令嬢は私のすぐ傍に歩み寄り、膝間に垂れていた私の両の手を取り握り締めた。そのまま膝を折れば、事実配偶者の体調を案ずる貞淑な女のように傍からは見える事だろう。もちろんそんな美談はここには有りようも無く、私からすれば悍ましいばかりだ。不愉快なこの存在を、早々に遠ざけてもらいたい。
「僭越ながら、奥方様は奥の間でお待ちくださいませ」
「……なぜわたくしが使用人ごときに指図されなければいけないのかしら」
「ペイトン中将に反意のある旦那様の口から、薬の件が外部に話される可能性は高いでしょう。その時、“旦那様が体調を崩された後に奥方様がこちらにいらした”と言う証言が下人からある方が、奥方様への不要な疑惑も幾分減るかと思われます。いかがでしょうか」
私が微動だにしない事で眠っているとでも勘違いしているのかもしれない。体面を保つ必要性を忘れているのか、令嬢は不躾に鼻で笑うと「そうね」と、握っていた私の手を滑り落としながら立ち上がった。
「雑音になりそうな事柄は減らしておきたいのも事実だわ。あなたの提案にのりましょう」
「ありがとうございます」
軽い靴音が奥の扉の中に納まるのを待ってから、彼が動き出す気配がした。個室の外に通じる扉を開放する音がした後、足音を忍ばせた彼が私の耳元に身を寄せた。
「俺うまくやったよ、ロードリックさん。今なら行けそうです」
顔を上げると満面の笑みを浮かべた彼がいた。こんな状況なのに、あまりに無邪気で満足気な表情に肩の力が抜ける。仮に彼の全てが罠だったのだとしても、これに騙されるならそれはそれでいいかもしれないとまで思う。
私が無言で頷き立ち上がると、すぐに私の肩下に体を滑り込ませて支えてくれた。奥の部屋に警戒しつつ個室を出ると、通路に人の気配が無く、どうやら人払いがされていたらしい。今でこそこちらとしても好都合な事ではあるが、周到な様子に吐き気すら覚える。そんな私の狭量を知ってか知らずか、「ひと気がなくて助かりますね。こっちから出られますよ」と嬉しそうな声に従って、搬入口の一つらしい簡素な扉から人定の暗い裏通りに出る事が出来た。
「痺れはどうですか?痛みとか違和感は?」
賑わう飲屋街の路地の片隅、積まれた空の木箱の上に私を座らせた彼は正面に膝をついて屈み込み、気遣わしげにじっと私を見上げてくる。
「問題無い。ありがとう」
事実、早くも薬が抜け始めたようで、手足の筋肉に血が巡るようなむず痒さがあるが、大きな違和感は無い。利き手を何度か握り込み手首を回していると、その様を見つめながら、彼は「やっぱり俺が注いだ葡萄酒に入ってたのかな」と今更妙な事を気に病んで悄気ているのが可笑しい。
「君は、私の手助けをして良かったのか?あの男は店の太客だろう。君が叱責される事があれば私が弁護してもいい」
至極真っ当な心配をしたつもりだが、彼にとってはそうではなかったらしく、大きな目を一瞬丸くした後、何故か嬉しそうに相好を崩した。そのまま、幼児のようにその場にぺたりと膝を抱えて座り込む。
「ロードリックさんはいい人ですね。そんなひどい目にあったのに、俺のことなんて心配しなくて大丈夫です」
先程の店での慇懃な仕事振りでもなく、馴染みの酒場で見掛ける時の色男然とした小洒落た振る舞いでもなく、今目の前の彼はあどけなく笑って「俺の本職はあの酒場なの知ってるでしょ?」と控えめにおどけた。そのあまりの天真爛漫さに目が眩みそうになる。
「人が良いのは君の方だろう。無関係な君を巻き込んでしまった事、本当に申し訳なく思っている」
私が改めて「ありがとう。君の不利益に対する償いは何でもする」と頭を下げると、彼は途端に「違うんです!」と慌てふためきもたつきながら立ち上がった。折り目正しかった黒服の膝に白っぽい砂汚れが付いている。きっと尻も似たような有り様だろう。
「無関係なんかじゃないんです。あの、俺、ほんとは少し前からロードリックさんがあの怖い女の子から狙われてること知ってて、後味悪いことになったら嫌だなって思ってあの店に潜りこんでたんです。でも、まさか痺れ薬まで使われてると思ってなくて、手間取っちゃってごめんなさい。だからね、勝手に首をつっこんだ俺は、巻き込まれたとかそういうんじゃないのでロードリックさんには気に病んで欲しくなくて、それで、ええと……………あの、もしかして、笑ってますか?」
顔を覆った手のひらの下で声を殺し、肩を震わせていた事に気付かれてしまった。堪え切れずに私が声を上げて笑うと、「なんで笑うんですか!」と羞恥からなのか、首筋まで真っ赤に染めた彼が詰め寄って来る。
「君がどうしようもないお人好しだと言う事はよくよくわかった。君が誰かの食い物にされないか心配だな」
「何言ってるんですか!心配なのは俺じゃなくてロードリックさんですよ!」
丁寧に撫で付けられていた髪を自ら無造作に掻き回して鳥の巣にしながら、「本当にロードリックさんが心配で仕方ないのに」と睫毛の縁に涙を滲ませて騒ぐ様すら愉快で、酷く好ましく思う。
「君の名前を教えてくれないか」
誰かを知りたいという感情がまだ自分の中にあった事に驚く。
私には勿体ない程お人好しの彼は、しばし躊躇った後に真っ赤な顔と子鼠のような小さな声で、「ユセ」と名乗った。
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