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6 優しい侯爵令息
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絶望して怯えていると、兄の怒号と扉を叩く音が唐突に止んだ。
罠?
それとも、脅威は去った……?
兄は昔から、私の事を目の敵にしている。
私を貶す事を趣味として、私を活き活きと侮辱する人だ。結婚さえすれば兄から逃げられる。そんな情けない希望も、完全に打ち砕かれた。
それにしても、イヴェットは兄との婚約を破棄したのか。
彼女は意地悪だけれど、その強さには、ある意味、憧れる。
──コンコン
「!?」
扉が、とても正しい音を奏でた。
ノックだ。
続いて優しい声がした。
「大丈夫かい?」
「……」
私は呆然と扉を見つめ、無意識に洟をすすった。
「僕はドミニクだ。よければ鍵を開けてほしい」
「ドミニク……」
小さな呟きは当然、扉の向こうの人物には届かない。
聞いた事がある名前だと思って考えてから、ハッとした。
ロイエンタール侯爵令息ドミニク・ハイム。
ここの御令息。
「……!」
大変な人が来てしまった。
もし本当なのだとしたら、兄は、昼食会の主催であり格上の方でさえあるロイエンタール侯爵家の人の前で、ロイエンタール侯爵家の衣装室の扉に悲鳴をあげさせていたのだ。
血の気が引いた。
「ええと、ルシアだね? 君の兄上には退いてもらった。もう、ここにはいない。僕だけだ。恐くないから、出ておいで」
「……」
その声はそよ風のように軽やかで、泉のようになめらかで、それでいて、大地のようにゆるぎなく、耳に心地よい低さと静けさを纏っている。
怒っている様子は、感じない。
でも、体が動かなかった。
「そうか。そうだね」
「?」
その人は、なにかを納得したらしく、そういう独り言を私に聞かせた。
「君は慎重で、善い人だ」
「……」
それは違う。
臆病で、弱虫なだけ。
私を持ち上げて、言う通りにさせようとしているのだろうか。
その人は穏やかな口調で続けた。
「僕がもしドミニク・ハイムを騙る別人なら、君は君自身とロイエンタール侯爵家の宝石を守るべきだ。べきと言ったら、強引かな。でも好ましいだろう? 君はとても賢明だ。素晴らしい。それでは、証明しよう。金縁の大きな鏡があるね?」
「……」
私はしゃがんだまま振り返り、先ほどから見惚れている大きな金縁の鏡を見た。そこには、みっともなくしゃがんで、ぐちゃぐちゃの泣き顔で困惑している私がいた。
「左の上の角を見て」
「……」
声に従う。
「最初に鏤めてあるのは、ルビーだ」
「……」
私は立ちあがって、少し痛い膝をさすって、美しい鏡の前に立ち見あげた。
蔦の文様を描く金縁の葉の影に、小さなルビーがはめ込まれている。
息を呑んだ。
「左下の角にはエメラルド。右上がサファイアで、右下はムーンストーンだ」
「……」
ゆっくりとした説明を追って確かめると、事実、その通りだった。
「それぞれの角を繋ぐ中間には、ローズクォーツとトパーズが、7、3、間に薔薇の紋章を挟んで、3、7の順で並んでいる。アメジストは手鏡の柄の端に、花の形で埋め込まれているはずだ」
「……」
私はそれを確かめて、彼が本当にロイエンタール侯爵家の御令息、ドミニク卿その人なのだと理解した。私は、震える手で手鏡を元の位置に戻し、早足の扉の前まで向かった。
私には、この衣装室に立て籠もる権利なんてない。
お詫びしなければ。
それに……、そう。彼女の事。衣装係は私のせいで持ち場を離れたのだと、伝えなければ。
「……」
「確かめてもらえたかな。うーん……あとはそうだな、いちばん古そうな時代遅れのドレスは、薄紫と銀を混ぜたような色に変色していて、襟に刺繍がある。あと、そうだ。作業台には色のついた石が並んでいるはずだよ」
私は鍵を開け、扉を押した。
重たい扉だった。
ドミニク卿がゆるやかに、重い扉を引いてくれた。
「……」
「やあ、ルシア」
優しい微笑みが、私を見おろしていた。
罠?
それとも、脅威は去った……?
兄は昔から、私の事を目の敵にしている。
私を貶す事を趣味として、私を活き活きと侮辱する人だ。結婚さえすれば兄から逃げられる。そんな情けない希望も、完全に打ち砕かれた。
それにしても、イヴェットは兄との婚約を破棄したのか。
彼女は意地悪だけれど、その強さには、ある意味、憧れる。
──コンコン
「!?」
扉が、とても正しい音を奏でた。
ノックだ。
続いて優しい声がした。
「大丈夫かい?」
「……」
私は呆然と扉を見つめ、無意識に洟をすすった。
「僕はドミニクだ。よければ鍵を開けてほしい」
「ドミニク……」
小さな呟きは当然、扉の向こうの人物には届かない。
聞いた事がある名前だと思って考えてから、ハッとした。
ロイエンタール侯爵令息ドミニク・ハイム。
ここの御令息。
「……!」
大変な人が来てしまった。
もし本当なのだとしたら、兄は、昼食会の主催であり格上の方でさえあるロイエンタール侯爵家の人の前で、ロイエンタール侯爵家の衣装室の扉に悲鳴をあげさせていたのだ。
血の気が引いた。
「ええと、ルシアだね? 君の兄上には退いてもらった。もう、ここにはいない。僕だけだ。恐くないから、出ておいで」
「……」
その声はそよ風のように軽やかで、泉のようになめらかで、それでいて、大地のようにゆるぎなく、耳に心地よい低さと静けさを纏っている。
怒っている様子は、感じない。
でも、体が動かなかった。
「そうか。そうだね」
「?」
その人は、なにかを納得したらしく、そういう独り言を私に聞かせた。
「君は慎重で、善い人だ」
「……」
それは違う。
臆病で、弱虫なだけ。
私を持ち上げて、言う通りにさせようとしているのだろうか。
その人は穏やかな口調で続けた。
「僕がもしドミニク・ハイムを騙る別人なら、君は君自身とロイエンタール侯爵家の宝石を守るべきだ。べきと言ったら、強引かな。でも好ましいだろう? 君はとても賢明だ。素晴らしい。それでは、証明しよう。金縁の大きな鏡があるね?」
「……」
私はしゃがんだまま振り返り、先ほどから見惚れている大きな金縁の鏡を見た。そこには、みっともなくしゃがんで、ぐちゃぐちゃの泣き顔で困惑している私がいた。
「左の上の角を見て」
「……」
声に従う。
「最初に鏤めてあるのは、ルビーだ」
「……」
私は立ちあがって、少し痛い膝をさすって、美しい鏡の前に立ち見あげた。
蔦の文様を描く金縁の葉の影に、小さなルビーがはめ込まれている。
息を呑んだ。
「左下の角にはエメラルド。右上がサファイアで、右下はムーンストーンだ」
「……」
ゆっくりとした説明を追って確かめると、事実、その通りだった。
「それぞれの角を繋ぐ中間には、ローズクォーツとトパーズが、7、3、間に薔薇の紋章を挟んで、3、7の順で並んでいる。アメジストは手鏡の柄の端に、花の形で埋め込まれているはずだ」
「……」
私はそれを確かめて、彼が本当にロイエンタール侯爵家の御令息、ドミニク卿その人なのだと理解した。私は、震える手で手鏡を元の位置に戻し、早足の扉の前まで向かった。
私には、この衣装室に立て籠もる権利なんてない。
お詫びしなければ。
それに……、そう。彼女の事。衣装係は私のせいで持ち場を離れたのだと、伝えなければ。
「……」
「確かめてもらえたかな。うーん……あとはそうだな、いちばん古そうな時代遅れのドレスは、薄紫と銀を混ぜたような色に変色していて、襟に刺繍がある。あと、そうだ。作業台には色のついた石が並んでいるはずだよ」
私は鍵を開け、扉を押した。
重たい扉だった。
ドミニク卿がゆるやかに、重い扉を引いてくれた。
「……」
「やあ、ルシア」
優しい微笑みが、私を見おろしていた。
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