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しおりを挟む「何しに家へ?」
「あなたが、どうしても会いたくないと言うから」
愚かにもメールを返信した私は、その際、二度とホテルには行かないと伝えてあった。当然だ。置き去りにされるは真っ平ごめんだ。それを言える立場でもないのに、私はどこまでの我侭が通るか試そうとしている自分に気づいていた。
「帰ってください。今日は」
「今日も明日もないでしょう」
私の言葉尻を食って、殿下はぴしゃりと言い捨てる。微笑みが崩れ、真面目な顔になった。深い紫色の瞳が、魔法をかけるように私に降り注ぐ。いや、突き刺さると言うほうが正しい。これがまた、馬鹿みたいに美しかったりする。息を呑んだ。
「このあいだはすみませんでした。どうか許して」
私はこの瞬間、怒気を挫かれた。
気が済んだのではなく、妙な違和感で胸がざわつき、そちらに気を取られたのだ。だっておかしい話だ。殿下は確かに酷い奴だと思うが、向こうはお客で私が品物、謝ってもらう必要はない。
私の心まではお金で買えないんだぞと思うが、正しい範囲内では権限を使っていいのだ。謝ってもらっても、どちらも得にはならない。本気でそう考えているのに、私は、口に出せずにいた。
代わりにまた、こんなふうに拗ねる。
「私は蕎麦食って帰るって言ったんですよ。それを殿下が無理やり……」
言い出してみて、別に無理やり連れて行かれたわけじゃなかったと思い直す。セックスする気で行ったのだ。だから傷ついた。それに、家族の話という口実を二人とも強調していた。まるで重要な会議に臨む上司と部下みたいに。今思えばこれも馬鹿な話だった。殿下と私は客と娼婦なのだから、互いの生い立ちを深く知る必要はない。
口ごもった私に何を感じたのか、殿下は深い溜め息にのせて言った。
「言い訳をしたくなかった。お願いです、あなたに償いをさせて」
「つグないっ?」
重ねて驚きだ。声がひっくり返った。
そんなものは求めていない。私は構って欲しいのだ。
しばらく固まっていると、殿下は次に私が何を言い出すか聞き漏らすまいとでも言うように、こちらを凝視していた。償われるのは未知の感覚だが、妥当な線で言うと、お金だろう。でも、いくら払えば許してくれますかと聞かれたわけじゃなさそうだった。そんな雰囲気じゃなかった。
「何についてですか?」
観念して訊ねる。殿下は心持ち首を傾げ、私の顔をのぞき込んだ。
「淋しい思いをさせて、傷つけてしまったでしょう。すみませんでした」
「──」
私は唇を引き結び、歯を食いしばる。
まずいことになった。殿下に理解されていることが嬉しくて、気持ちがほぐれる。これはまずい。お客に対して必要ない感情まであふれそうになっている。そんなことありません別に仕事ですから、それくらいさらっと言わなきゃだめだ。せめて、これからは気をつけてくださいねと涼しい顔で笑え。大切にしてくれなきゃ泣いちゃうとか、媚を売って見せろ。
そういうルイの進言をすべて無視して、私は、甘えん坊の昴に屈した。
苛立ちを肯定した瞬間、霧が晴れた。
「まったくですよ」
清々しい。
「私は殿下に抱かれるためにシャワーを浴びたんです」
殿下が目を瞠る。表情の変化にどきっとして、眼力で呪われたんじゃないかと少しヒヤッともした。私は味をしめて続けた。
「それが出てみたら殿下いないし。ほかほかしたまま3万を握りしめて泣きましたよ、私は」
「ああ……」
胸が痛んだらしい。
しめしめ。私を泣かせるのは、さすがに本意ではなさそうだ。
「それでどうしてくれるって言うんですか。まきもどして、じゃあ今度はワタシがってシャワー浴びてきてくれるんですか」
我ながら子どもじみた駄々のこね方をしている。こんなしょうもないことを言われる男は気の毒とすら思う。そんな暴挙を繰り広げ調子に乗りかけた瞬間、私は、殿下の方が上手なんだったと思い知った。
両手で頬を包まれ、キスを受ける。あっという間の出来事だった。抵抗しなかったのは、不意打ちだったから、だけじゃない。大きなてのひらが頬にふれた瞬間、そのぬくもりに酔った。性懲りもなく殿下にときめく自分が情けない。
近すぎて、殿下の高い鼻を見つめる。絶対により目になっているけど、視線から逃れるにはそこを見るか目を閉じるしかなかった。目を閉じるのは危険だ。
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