【完結】真実の愛に気付いたと言われてしまったのですが

入多麗夜

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旗を掲げる者として

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 視察から戻ったレティシアは、午後の執務机に向かいながら、静かに思考を巡らせていた。

 あの広場の賑わい。人々の笑顔と声。そして、子どもたちが見せた、あの無邪気な瞳。

 ――確かに、変わり始めている。

 だが、それと同時に、見えてしまったものもあった。

 ひび割れた石畳。崩れかけた軒先。露店に群がる子どもたちの後ろで、所在なげに壁にもたれる老人。再整備が行き届かず、古い区画に残る不安定な生活の痕跡――。

 エディンが先頭に立って整備を進めているのはわかる。住居区画の再編、許可制市場の導入、交通動線の見直し。すべては順調に進んでいるように見えた。

  当のレティシア――この自治領の頂点に立つ者が、実務の全体像には関わっておらず、街の“中”に足を踏み入れたのも昨日が初めてだ。
 視察という短い時間では、街の温度も、民の本音も、掬いきれるはずがない。

 下から整える努力は凄まじいものだったが、エディンの動きには限界があった。
    
 レティシアの関与なくして制度は深く根を下ろさない。

 いくら数多の書類をこなしても、それが“この街の意思”として機能するには、象徴たる存在が旗を掲げなければならない。民が信じ、従うのは、紙に書かれた法令だけではない。“誰がそれを掲げるか”が、常に問われるのだ。

「……逃げていたつもりはなかったけれど」

 レティシアはふっと目を伏せる。これまでの判断が、決して誤っていたとは思っていない。優先すべき案件は山ほどあったし、密偵事件の対応は命にも関わる重要な事案だった。

 けれど――今、目の前にある“街”を見ずして、何を守るというのか。

 書類の山では拾いきれない生活の温度。規則では届かない声。そして、その一つひとつが形づくるこの土地の“未来”。

 レティシアは椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。

「エディンの言う通り、分業はさせないといけないわね…」

 静かに呟きながら、レティシアは視線を再び書類に戻す。

 分業――その響きは軽やかで効率的なようにも聞こえる。だが実際には、ひとつの決断に他ならない。自らの手を離れるということは、その分だけ他者に“責任”を託すということ。つまり、信じるということだ。

 仕事を割り振るというのは、ただ負担を減らすためではない。その人に権限を預け、判断を任せること。それは同時に、その人の判断が自治領の“方針”となり、結果となって跳ね返ってくることを意味する。

 レティシアは手帳を開き、エディン、カイル、ミリア――それぞれの名前に視線を走らせた。

 彼女は何ヶ月も、彼らと共に過ごしてきた。人によっては、王都時代からの長い付き合いだ。

 エディンは几帳面で真面目。だが、それだけではない。理論と理想の間で揺れながらも、現実の中に“希望”を織り込もうとする姿勢を持っている。書類の行間に込めた熱意、民を案じる言葉の端々。レティシアは、それをずっと見ていた。

 カイルは実直で慎重。時に不器用にも見えるが、仲間や民に対して真っ直ぐな忠誠を向ける男だ。戦う力と同じくらい、彼には“守る”覚悟がある。レティシアにとって、それは何より信頼のおける資質だった。

 ミリアは感情豊かで奔放に見えるが、誰よりも人の心に寄り添う力を持っている。場の空気を読む繊細さもあれば、場を和ませる柔らかさもある。その明るさが、どれほど周囲の心を救ってきたか、レティシアはよく知っている。

 ――任せられる。

 それが、自然と浮かんだ結論だった。
 彼らが持つ資質は、単に“優れている”というだけではない。それぞれが、ローゼンという土地と、そこに生きる人々に向き合う姿勢を持っている。それが、今この地で何より必要とされる力だった。

「……きっと、できるわね」

 手帳を閉じ、レティシアは静かに席を立った。分業とは信頼の証であり、覚悟の分け合いでもある。

 その思慮の余韻がまだ胸に残るうちに、扉の向こうから軽やかなノック音が響いた。

「レティシア様、時間です。面談の準備が整っております」

 外から控えの侍女の声が聞こえる。

 レティシアはわずかに目を伏せ、すぐに応じた。

「ええ。すぐに参ります」

 今日の面談は、隣国ヴァルドリア公国との定例交渉のひとつだった。すでに数度の意見交換を重ねており、建設的なやり取りを続けていた。

 もっとも、ヴァルドリア側の関心は並々ならぬものがあった。

 ――特に、使節として派遣されているフェルナーの存在は、交渉の中でも際立っていた。

 ヴァルドリアがローゼン自治領に注目している理由は、ローゼンが目指す体制に、明確な“国家ビジョン”を見たからだ。

  ローゼンは州ごとに強い自治を許されている。そういった体制は他の国を見ても珍しかった。

 州ひとつひとつが、国に匹敵する行政体と経済圏を持ち、独立した方針と機能を備えて自立していく――その構想は、中央集権に頼らない“連邦制”の在り方を示していた。

 フェルナーが惹かれたのは、まさにその柔軟性と先見性だった。

 国土が狭く、外圧に晒されやすいヴァルドリアにとって、硬直した中央集権国家モデルは限界を迎えつつある。だからこそ、ローゼンが提示するこの“連携による国家形成”の姿は、未来の自国の在り方とも重なって見えたのだ。

 そして何より、そうした体制の中で、確かな民意と統治を両立させている若き領主――レティシア・ノーグレイブの存在は、ヴァルドリアだけでなく、他の国でも静かな注目を集めていた。

 そんな中での面談だ。レティシアにとっても、気を抜ける相手ではない。

「……さて、切り替えないとね」

 彼女はそう言い、机上の手帳を閉じると、椅子を静かに引いた。
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