呼吸

ゆずる

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 祖母は、厳格な人であったと同時に、きっとひどく小心者だったに違いない。

 誰かが社会に引いたレールを踏み外すことが恐ろしくて、一歩も歪まないように、常に姿勢を正してまっすぐに歩くことで彼女は身を守っていたのだ。
 ほんの少しのほころびで、人生が台無しにならぬよう。
 周囲の期待に背く意思のかけらを持つことさえ、彼女には論外だったはずだ。

 だから今にして思えば、祖母が一片の甘さもなく、孫たちに時代錯誤な厳しさを強いたのも、もしかしたら孫が誰かに後ろ指を刺されぬよう育つための愛情だったのかもしれない。

 祖母には4人の子供がいて、父は末っ子次男だった。
 その頃にはきっと祖母も母親業に少し疲れていたのだろう、上3人に比べて若干甘やかされた彼は、進学と就職先は祖母の望みを満足させたけれど、どうにも捻くれた性格に育った。

 仕事人間かといえばそうでなく、かといって家族を愛するわけでもない。
 仕事以外では自分の趣味や予定を優先させ、子供のために時間を割くこともなかった。
 視線を向けることさえ、ほとんどなかったと言っていい。

 子供にそれぞれ孫が生まれて、祖母が一安心したのも束の間、そんな父の元から母は逃げ出した。
 後日とある事情で知ってしまったのだが、母は第2子を産むつもりはなかったのだという。
 しかしそれを察した父が、長女の育児で疲れ果てていた母を強引に抱いて妊娠させた。

 もしそれが母にとっての初産だったならば、堕胎を選択していたのかもしれない。
 しかし母はそのときすでに赤子を持つ喜びを知ってしまっていて、望まぬ子とはいえ、自分の胎に宿った命を捨てることはできなかった。

 生まれた子に初乳を含ませたのは、母なりの精一杯の愛情だったのだろう。
 愛情と、贖罪と、自分を正当化させるための言い訳。
 
 もっとも、何をどう言い繕おうとしたところで、子供本人からしてみれば、自分が望まれぬ捨て子であった事実は変わりない。

 こうして、祖母が捨てられた2人の子供の母親代わりになった。
 はっきりいって、苦手だった。
 何をしても叱られるし、何をしても笑いかけることさえない。
 父親は祖母に育児と家庭を任せきりにしてますます奔放に振舞い、家族の誰も知らぬ間に海外に行くことさえあった。

 長女は反発し、次女は沈黙を選択した。

 長女は名前を書けば入れると評判の高校に入り、優秀な妹との差に勝手に苛立ち、家に帰ってくることもまれになって、警察沙汰を起こすこともあった。

 次女は――祖母からの無言の期待に、同じく無言で応え続けた。
 姉とは違い、難関校と呼ばれる高校に進学し、そのまま国内でも指折りの大学に入学した。

 外国語学部という選択。ロシア語専攻という選択。
 初めて、次女が自分で選んだ進路に、祖母は何も言わなかった。

 しかしそれは祖母が次女の意思を尊重したからではなく、単に「わからなかった」ためだ。
 中学を出て、1年間のお茶汲みOLからそのまま家庭に入った彼女には、理解の及ばぬ領域であったのだ。
 説明を求めても、理解できぬ回答が返ってくると想像に難くない。
 祖母の矜持は、まだ成人もしてない小娘の口から、そんな言葉を聞くことを許さなかった。

 祖母の呪縛は、長女が22歳、次女が19歳になる年に、突然終わった。
 ゆっくりと空に上っていく煙を見ていた次女の口に、初めて煙草を突っ込んだのは、当時の交際相手だ。今思い返しても、悪趣味なことをしてくれる。

 家族の崩壊、といえばドラマティックに聞こえるけれど、それで何かが一気に変わった。
 長女はかねてから交際していたという20歳年上の男と突如入籍し、次女は自分の心が男であると告白した。
 祖母のであった2人は、このとき初めて、彼女の引いたレールから自らの意思をもって足を踏み外したのだ。

 さて、この場面において、次女はようやく長女の賢さを理解した。
 長女は、20年以上家庭に無関心であった父親が、母親の喪失を機に精神的な拠り所をも失い、今さら家族に支配権を向けるであろうことを察していた。だから、入籍を済ませた後に、夫を連れて父に挨拶をしにきた。
 父の怒ることまいか。

 もっともそこまで含めて長女は予想していたようで、孤独に弱い父は半年で陥落し、収入の低い長女夫婦との同居まで承諾した。

 次女は――多分、祖母にとっては十分満足のいく作品であった次女は、勉強だけはできても、人間の心の機微には疎いまま大人になった。
 父が何故怒っているのかも、姉が何故顔をゆがめているのかも、彼女には何もわからなかった。
 もしかしたら、心のどこかで家族が理解してくれることを期待していたのかもしれない。

 自分のような存在が世間から嫌悪されることは、知識としては知っていたけれど、初めて生々しい感情を向けられて、次女の心は頑なになった。

 体を壊す寸前までアルバイトをして、必死にかき集めた金を持って海を渡った。

 祖母がもし生きていたら、こんな自分を見てどう思うだろうか、と思うことがたまにある。

 祖母はきっとショックを受けて、父と同じように絶縁を言い渡してくるかもしれない。
 もしくは、こんなふうに自分を生んだ両親へ怒りの矛先を向けるかもしれない。
 いや、あの背筋のぴんとした女性は、自分の育て方が悪かったのだと、自らを責めることさえやるかもしれない。

 だけど、もしかしたら――よき理解者になったかもしれない、とふと思うことがある。

「自分の口を自分で養えるようになりなさい。そして、家と家族を持ちなさい。男にすがってばかりの女に、生きる場所はありません」

 次女が大学に進学したいと祖母に打ち明けたとき、祖母から出された唯一の条件だ。
 祖母は小心者で、前時代の遺物で、女が一人で生きることの厳しさを理解していた。
 彼女は、一人で生きられなかったのだから。

 体を変えて、戸籍を変えて、それでも自分ひとりで生きていけるだけの収入と技術を手に入れて、ローンはまだあるけど家も持っていて、変則的だが家族と呼んでもいいような存在も受け入れた。

(……案外、褒めてくれるかもしれないなぁ)

 短い仮眠から目を覚ました優希は、ベランダで煙草の煙を吐き出しながらふとそう思う。
 悪夢を見たのは覚えているが、その内容を思い出そうとしているうちに、なんとなく実家のことを考えてしまった。そろそろ祖母の命日が近いせいだろうか。
 実家のことを思い起こすたびにしつこく起こる頭痛が、眠る前に飲んだ薬が効いているせいか、今だけはおとなしい。
 あれから20年ほどが過ぎ、優希自身も知らぬ間に振り返る余裕が少しだけできたのかもしれない。

 時計は21時を指している。
 ふと視線を下げると、目の前の道を康太郎が歩いているのが見えた。

(しまった。帰りに珈琲買ってきてって頼めばよかった)

 ぼさぼさの頭に指を突っ込みながらあくびをし、優希はエアコンの効いた室内へと戻った。
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