44 / 89
3
43
しおりを挟む
2月に大雪が降った反動なのかどうか優希にはわからないが、ともあれ、3月は例年よりも気温の上昇が早かった。
都内の桜の開花情報がニュースで流れるようになったのは、まだ3月の2週目も始まったばかりの頃だった。
「お花見に行こう、お花見」
テレビを見た康太郎が朝食をとりながらはしゃいでいるのを、優希は目の下にくまを浮かべた顔で眺めた。
先週から生活リズムを整えることを始めた優希は、夜遅くに寝ることがあっても、必ず8時までには起床するようにしていた。
おかげさまで寝不足がたたり、どうにも疲れが抜けきらない。
「開花したばかりで、まだ花見をするほどは咲いてないと思うよ」
換気扇を回しながら煙草をくわえた優希の言葉に、康太郎は神妙な顔をする。
康太郎の生まれ育った地元では、桜の開花がこちらよりも早く、恐らく今くらいの時期にはもう花見真っ盛りだったのだろう。
彼の中では、3月の上旬というのは花見をする時期だと刷り込まれているのかもしれない。
(もしくは、単に出歩きたいだけか)
3月に入ってから、康太郎が単独で出かけることが増えたので、外出したいという欲求はある程度満たされているのかと思っていた。
康太郎が優希と出かけたがっているということを、優希自身は残念ながら想像もしていない。
「……まあ、満開の時期になれば、人が多くなって面倒だから、今のうちに行くのも悪くないのかもね」
「なんか趣旨違ってない、それ」
やや不服そうな口調ではあるが、顔は緩んでいる。
「優希さん、今日仕事は?」
「……休みにするつもりだったよ」
だから休ませてくれ、という言外の気持ちを察してくれるほど、康太郎は成熟していない。きらきらと光が浮かんで見えそうな目でこちらを見てくる。
優希は、今日は家で眠っていたいという言葉を飲み込んで、さてこの子供をどこに連れて行こうかと考え始めた。
「やっぱり、桜といえば上野だと思って」
そんな理由で、電車で1時間近くかけて上野恩賜公園まで康太郎を連れ出した優希だったが、案の定、公園中の桜はまだほとんどがつぼみの状態だった。
家の近くにも、砧公園や多摩川河川敷など、それなりのお花見スポットはあるのだが、せっかくだから東京らしい場所にも連れて行ってやろうと思ったのである。
広い公園を歩いてるとときたま花を咲かせた樹もあり、その周囲にはスマートフォンを構えた人が群れている。たった一枝の花に人だかりを作るなど、どうにも滑稽だ。
もっとも、康太郎もその滑稽な観光客の1人である。
枝先に数輪開いた花を、懸命に腕を伸ばして写真に収めようとしている。
もう数週間もすれば、そんなことをしなくとも、このあたりは空を埋め尽くすほどの桜に覆われるというのに。
(……眠い)
桜の満開はもっと早くに訪れるかもしれない。
3月上旬にしては温暖な気温に、優希のまぶたが重たくなる。ここが公園内のベンチでなければ、つい居眠りをしてしまったかもしれない。
10分ほど人だかりと格闘した康太郎が、ようやく満足したように戻ってきた。
「見て見て、綺麗だった」
なんのてらいもなく桜の写真を見せてくる康太郎の顔を、優希はまじまじと見た。
この少年は、なんだかんだいって、家族以外には愛されて育ったのかもしれない。
綺麗だと思うものを素直に綺麗だと言い、誰かにそれを見せてやりたくなる。まっとうに育った人間の感性だ。
「どしたの?」
「いや――綺麗だね」
さて、とベンチから腰を浮かす。
「これからどうしようか」
「え、優希さんまさかのノープラン?」
「うん」
マジか、と笑いながら康太郎が隣を歩く。
もしかしたら少し背が伸びたのかもしれないと、優希は少年の横顔をちらりと見上げた。
「もしかして、まだ成長期?」
「何が? 俺?」
「うん」
「もう終わったと思うよ。関節痛いのもなくなったし」
(じゃあ、私のほうが縮んでるのかな)
少々ショックを受けながら、優希はぐいっと背筋を伸ばす。
常に机仕事をしているせいで硬くこわばった腰が、音を立てた気がした。
「もう少しぶらぶらしていく? それとも買い物?」
時計を見れば、昼食というにはまだ早い。
「ここって公園だけ?」
「うん?」
康太郎の視線の先には、公園の敷地に建てられたいくつかの建築物がある。
「ああ、美術館や博物館もあるよ。見ていく?」
「いく」
即答だ。あまりそういうものに興味のあるほうでもないと思っていたが、実は好きだったのだろうか。
「何か見たいものはある? 絵とか、化石とか」
「うーん、優希さんは何が好き?」
「そうだね……じゃあ、博物館のほうに行こうか」
実は若い頃、優希は国立科学博物館の年間パスポートを持っていた。
子供の頃は考古学者になってみたかった優希である。
「特別展は何やってるんだろう。常設展だけでも面白いけど、康太郎の興味に合うものがあるかな」
「俺、博物館って初めてだからわかんない。楽しみ」
ぽろりとこぼした言葉に、優希の動きが止まる。
「小学校の社会科見学で行ったりしなかった?」
「喘息が出るからって、校外学習にはほとんど行かなかったよ」
「喘息?」
それは初耳だ。優希は思わず彼との共同生活を振り返り、いくら換気扇を回していたからとはいえ、同じ室内で煙草を吸っていた自分を思い出して、頭を抱えたくなる。
「そういうことは早めに言っておきなさい……」
「あ、でももう治ったよ。全然平気」
「とはいってもね、まったく、姉さんもそういうことは伝えてくれたらよかったのに……」
「喘息ってすごい苦しいんでしょ? 俺、全然覚えてないんだけど、苦しくなりたくなかったらなるべく家にいろって言われてたから、よくわかんないんだよね」
(……よくわからない……?)
幼い頃、優希の身近にも、小児喘息の同級生がいた。
彼女は吸入器を持たされていたし、たまに発作を起こしたときにはひどく苦しげに見えた。
「……まあ、一度姉さんに確認をするよ。色々話さなきゃいけないこともあるし」
ところで、と優希は公園内に営業中のコンビニに視線を向けた。
「ちょっと寄ってくる。飲み物いる?」
「ううん、大丈夫」
真偽はともかく、喘息のあるかもしれない子供のそばで、喫煙などできるわけもない。優希はガムを買うべく、急いで店に入った。
都内の桜の開花情報がニュースで流れるようになったのは、まだ3月の2週目も始まったばかりの頃だった。
「お花見に行こう、お花見」
テレビを見た康太郎が朝食をとりながらはしゃいでいるのを、優希は目の下にくまを浮かべた顔で眺めた。
先週から生活リズムを整えることを始めた優希は、夜遅くに寝ることがあっても、必ず8時までには起床するようにしていた。
おかげさまで寝不足がたたり、どうにも疲れが抜けきらない。
「開花したばかりで、まだ花見をするほどは咲いてないと思うよ」
換気扇を回しながら煙草をくわえた優希の言葉に、康太郎は神妙な顔をする。
康太郎の生まれ育った地元では、桜の開花がこちらよりも早く、恐らく今くらいの時期にはもう花見真っ盛りだったのだろう。
彼の中では、3月の上旬というのは花見をする時期だと刷り込まれているのかもしれない。
(もしくは、単に出歩きたいだけか)
3月に入ってから、康太郎が単独で出かけることが増えたので、外出したいという欲求はある程度満たされているのかと思っていた。
康太郎が優希と出かけたがっているということを、優希自身は残念ながら想像もしていない。
「……まあ、満開の時期になれば、人が多くなって面倒だから、今のうちに行くのも悪くないのかもね」
「なんか趣旨違ってない、それ」
やや不服そうな口調ではあるが、顔は緩んでいる。
「優希さん、今日仕事は?」
「……休みにするつもりだったよ」
だから休ませてくれ、という言外の気持ちを察してくれるほど、康太郎は成熟していない。きらきらと光が浮かんで見えそうな目でこちらを見てくる。
優希は、今日は家で眠っていたいという言葉を飲み込んで、さてこの子供をどこに連れて行こうかと考え始めた。
「やっぱり、桜といえば上野だと思って」
そんな理由で、電車で1時間近くかけて上野恩賜公園まで康太郎を連れ出した優希だったが、案の定、公園中の桜はまだほとんどがつぼみの状態だった。
家の近くにも、砧公園や多摩川河川敷など、それなりのお花見スポットはあるのだが、せっかくだから東京らしい場所にも連れて行ってやろうと思ったのである。
広い公園を歩いてるとときたま花を咲かせた樹もあり、その周囲にはスマートフォンを構えた人が群れている。たった一枝の花に人だかりを作るなど、どうにも滑稽だ。
もっとも、康太郎もその滑稽な観光客の1人である。
枝先に数輪開いた花を、懸命に腕を伸ばして写真に収めようとしている。
もう数週間もすれば、そんなことをしなくとも、このあたりは空を埋め尽くすほどの桜に覆われるというのに。
(……眠い)
桜の満開はもっと早くに訪れるかもしれない。
3月上旬にしては温暖な気温に、優希のまぶたが重たくなる。ここが公園内のベンチでなければ、つい居眠りをしてしまったかもしれない。
10分ほど人だかりと格闘した康太郎が、ようやく満足したように戻ってきた。
「見て見て、綺麗だった」
なんのてらいもなく桜の写真を見せてくる康太郎の顔を、優希はまじまじと見た。
この少年は、なんだかんだいって、家族以外には愛されて育ったのかもしれない。
綺麗だと思うものを素直に綺麗だと言い、誰かにそれを見せてやりたくなる。まっとうに育った人間の感性だ。
「どしたの?」
「いや――綺麗だね」
さて、とベンチから腰を浮かす。
「これからどうしようか」
「え、優希さんまさかのノープラン?」
「うん」
マジか、と笑いながら康太郎が隣を歩く。
もしかしたら少し背が伸びたのかもしれないと、優希は少年の横顔をちらりと見上げた。
「もしかして、まだ成長期?」
「何が? 俺?」
「うん」
「もう終わったと思うよ。関節痛いのもなくなったし」
(じゃあ、私のほうが縮んでるのかな)
少々ショックを受けながら、優希はぐいっと背筋を伸ばす。
常に机仕事をしているせいで硬くこわばった腰が、音を立てた気がした。
「もう少しぶらぶらしていく? それとも買い物?」
時計を見れば、昼食というにはまだ早い。
「ここって公園だけ?」
「うん?」
康太郎の視線の先には、公園の敷地に建てられたいくつかの建築物がある。
「ああ、美術館や博物館もあるよ。見ていく?」
「いく」
即答だ。あまりそういうものに興味のあるほうでもないと思っていたが、実は好きだったのだろうか。
「何か見たいものはある? 絵とか、化石とか」
「うーん、優希さんは何が好き?」
「そうだね……じゃあ、博物館のほうに行こうか」
実は若い頃、優希は国立科学博物館の年間パスポートを持っていた。
子供の頃は考古学者になってみたかった優希である。
「特別展は何やってるんだろう。常設展だけでも面白いけど、康太郎の興味に合うものがあるかな」
「俺、博物館って初めてだからわかんない。楽しみ」
ぽろりとこぼした言葉に、優希の動きが止まる。
「小学校の社会科見学で行ったりしなかった?」
「喘息が出るからって、校外学習にはほとんど行かなかったよ」
「喘息?」
それは初耳だ。優希は思わず彼との共同生活を振り返り、いくら換気扇を回していたからとはいえ、同じ室内で煙草を吸っていた自分を思い出して、頭を抱えたくなる。
「そういうことは早めに言っておきなさい……」
「あ、でももう治ったよ。全然平気」
「とはいってもね、まったく、姉さんもそういうことは伝えてくれたらよかったのに……」
「喘息ってすごい苦しいんでしょ? 俺、全然覚えてないんだけど、苦しくなりたくなかったらなるべく家にいろって言われてたから、よくわかんないんだよね」
(……よくわからない……?)
幼い頃、優希の身近にも、小児喘息の同級生がいた。
彼女は吸入器を持たされていたし、たまに発作を起こしたときにはひどく苦しげに見えた。
「……まあ、一度姉さんに確認をするよ。色々話さなきゃいけないこともあるし」
ところで、と優希は公園内に営業中のコンビニに視線を向けた。
「ちょっと寄ってくる。飲み物いる?」
「ううん、大丈夫」
真偽はともかく、喘息のあるかもしれない子供のそばで、喫煙などできるわけもない。優希はガムを買うべく、急いで店に入った。
0
あなたにおすすめの小説
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。
カレンと晴人はその後、どうなる?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
Zinnia‘s Miracle 〜25年目の奇跡
弘生
現代文学
なんだか優しいお話が書きたくなって、連載始めました。
保護猫「ジン」が、時間と空間を超えて見守り語り続けた「柊家」の人々。
「ジン」が天に昇ってから何度も季節は巡り、やがて25年目に奇跡が起こる。けれど、これは奇跡というよりも、「ジン」へのご褒美かもしれない。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる