呼吸

ゆずる

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 カウンセリングのあと、今後の受講予定について説明を受け、康太郎はやや熱っぽくなってしまった頭を振りながら、塾を出て自転車をこぎだした。
 今月はまだバイトが始まらないので、中学の内容のおさらいを集中的に受けることになる。
 4月からは週4日のバイトの合間で高校の内容を受講し、進捗によっては8月の試験に挑戦してもよいかもしれない、そうだ。

(……そういえば、大輔さんの家ってこの近くだっけ)

 確か、通り沿いのバス停から入ったところだ、と言っていたのを思い出す。
 時計を見るとまだ15時前で、今から帰っても優希は仕事に熱中して構ってくれないし、食事の用意をするにも早い。
 なんとなく暇を持て余して、康太郎は家へとは反対方向に自転車を向けた。

 もっとも、特徴的なバス停名は覚えていても、具体的な住所を聞いたわけではない。
 適当にうろうろするうちに飽きてしまい、バス通り沿いにスーパーを発見して、結局そこに買い物に行くことにい決めた。

 だが、偶然にも康太郎はそのスーパーで見知った後ろ姿を発見した。

「大輔さん、こんちは」

 ぎょっと肩を跳ねさせてこちらを振り向いたのは、やはり徳田大輔だった。
 不精髭が生えているせいか、それとも前髪を下ろしているせいか、いつもとは印象が違っている。
 だが、康太郎の顔を見て笑み崩れた目元の優しさは、いつもの大輔と変わりなかった。

「びっくりした。なんでここにいるの?」
「予備校の申し込みした後、ぶらぶらしてたの」

 興味本位で大輔の家を探していたとは、さすがの康太郎も言えない。

「ああ、うちからすぐだもんな……」
「大輔さん、今日は休み?」

 訊ねてから、今日が土曜だったことを思い出す。

「ああ、休みだから久しぶりに飲もうと思って」

 大輔の手にしたカゴには、ウィスキーとビールがごろごろ入っていた。

「お酒っておいしいの?」
「あれ、康太郎くん九州男児なのに酒飲んだことないのか」
「未成年だもん」
「そりゃそうか」

 軽く笑ったのち、大輔が悪そうな目をして見せた。

「康太郎くん、よかったら今夜はうちで一緒に飲まないか。というか、泊まっていきなよ」
「……未成年だってば。それに、優希さんほっといたらご飯食べないし」

 そう答えつつ、そわそわしながら酒の棚を眺めてしまう。
 興味はあるが、根が真面目だけに、そんなことは公共の場で口にもできない。

「いいんだよ、あいつは。多少飯を抜いたくらいじゃ死なないし、たまには康太郎くんのありがたみを思い知ればいいと思う」
「大輔さん、優希さんと喧嘩でもしたの?」
「……そのへんも聞いてください」

 がっくりとあからさまに肩を落としながら、大輔がアルコール度数の低い酒を――恐らく康太郎用にカゴに放り込んだ。


 康太郎の養い親でもあった「やすひこおじちゃん」は酒を飲まなかった。数年前に病を患ってから、禁酒をしていたという。
 母と西島は多少たしなむ程度だったが、家で飲むというより、康太郎を置いて店に行くことが多かった。

 というわけで、康太郎の中に「おつまみレシピ」はほとんどない。

「まあ、今日は俺に任せてテレビでも見てなよ」

 キッチンに立つ大輔の言葉に甘えて、康太郎はありがたくクッションに腰を下ろし、改めて周囲を見回した。
 いわゆる独身男の一人住まいにしては、すっきりとした部屋だ。5階建てマンションの3階、1DKで広さはさほどない。
 細長い間取りで、玄関を入ってすぐに風呂とトイレがあり、扉を開いた先にはダイニングキッチン、恐らくその先のドアの向こうに寝室がある。

 床にはホットカーペットが敷かれ、その上に足を折り畳むタイプのローテーブルとクッション。やたらと周辺機器の充実したテレビ。
 壁に沿って置かれた本棚には、優希にはとても及ばないが、あふれる寸前まで本が詰め込まれている。

 つい先ほどまで、康太郎と大輔は、テレビを見ながら予備校の話で盛り上がっていた。
 17時の鐘が鳴ったのと同時に康太郎の腹の虫も鳴き、ようやく食事の用意を大輔が始めたわけだ。

 今日の大輔は、不自然なほど優希の話題を出さなかった。
 康太郎が優希に「今日は大輔の家に泊まる」と連絡を入れると、あちらからも妙な空気が漂ってきたので、やはり2人は本気で喧嘩したのかもしれない。
 少々心配になる康太郎である。

「大輔さんって料理するんだ」
「そりゃ、独り身が長いからね。学生の頃は、飯屋でバイトもしてたんだ」

 キッチンからいい匂いが漂ってくる。思わず背伸びをして様子を伺うと、大輔が慣れた手つきで包丁を扱うのが見えた。

「とりあえず、腹の膨らむものからいくか」

 大輔がテーブルに皿を並べていく。どんぶり飯の上に肉と卵黄が乗ったものは、康太郎用のようだ。
 作り置きと思しきポテトサラダに、枝豆の蒸し焼き、じゃこと水菜のサラダ。
 綺麗な照りのある手羽先のグリル焼きが出てきて、テーブルの上はいっぱいになる。

「ほら、きみもいくだろ」

 小さなグラスに、大輔がビールをなみなみと注いで康太郎に寄こした。

「はい、お疲れ様」
「お疲れ様です」

 かちんとグラスをぶつけて、大輔がビールを一気飲みした。

「あーーー、しみるわ」

 いかにもうまそうなその顔を見て、康太郎も意を決してグラスに口をつける。

「う、わ、無理!」
「ははは。甘いほうがいいか」

 舌を刺すビールの苦みに、康太郎はひと舐めでギブアップした。ほぼ残したビールは、大輔がこちらも一息に飲み干してしまう。

「……何がいいかわかんない」
「じゃあ、こっちいってみな」

 今度は白い炭酸飲料のようなものが出てきた。恐る恐る舐めてみると、確かに乳酸飲料なのだが、後味が妙に苦い。しかしビールよりはまだ飲める代物だった。

「ビールとか、煙草とか、珈琲とか、本当になんでそんなに喜べるんだろ。美味しくなくない?」
「これを美味しいと思ったときには、味覚が老化してるってことだよ」
「あ、それ、優希さんも同じこと言ってた」

 思わず、名前を出してしまった。大輔が硬直する。
 その様子をじっと観察してから、康太郎は枝豆をつまみながらぼそりとつぶやいた。

「で、喧嘩したの?」
「その話はもう少し酒が進んでからにしようか……」

 ああこれは大輔がやらかしたに違いないぞと、康太郎はめんどくさくなりそうな空気を肌に感じた。
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