夜は嘘にふるえてる

小槻みしろ

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十三話 三つの言葉

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 それは、小学校三年くらいの頃からだった。
 制御できない感情に振り回された時や、母が不機嫌で苛々している時など、とにかく気がふさぐ時。
 私は、姉の部屋に「お見舞い」に行った。
 姉の楽しみになってしまえば母は何も言えない。そんな打算からの始まりだった。

 姉はいつでも私を歓迎してくれた。
 きっと、姉は私が部屋を訪れるのは「お見舞い」なんかじゃないことを知っていただろう。私も、姉が私の為に、いつでも歓迎してくれているのも知っていた。
 ずるい人間になったなと思った。
 けれど、ちゃんと姉の具合のいい日しか行かなかった。
 だからいいじゃんという思いもあった。
 私は姉の部屋で漫画を読んだり、姉と話したりした。けれど、その頃には私はもう、姉に対してどう気安く話せばいいのかわからなくなっていた。だから、会話も適当にぶつ切りで続けていた。

「由衣ちゃんの話は面白いね」

 それでも、姉は私にそう言って笑って聞いてくれた。姉の言葉はゆっくりと優しい響きだった。でも、その端々にいつもごめんね、私に対するそんな気持ちが、にじみ出ているように思えた。私は頃合いを見計らって部屋を出る時、手をふる姉の笑顔を見て、振り返す時、どうも恥ずかしいような、同時にとても優しい人間になれた気がした。

「お姉ちゃん」

 考えるより先に、言葉がこぼれていた。しまった、と思ったけれど、すぐにこのまま吐き出してしまうことにした。

「ありがとう」

 言い終わって少ししてから、姉の顔を見た。姉は微睡んでいる様な、穏やかな笑みを浮かべていた。頷く様に少し顎を動かしたような気がしたけれど、ただの目の錯覚の様な気もした。
 その時、風が吹いた。
 そよ風と言うには、ほんの少し強い。窓を閉めた方がいいだろう。そう思って立ち上がろうとした時、姉が口を開いた。

「え?」

 明らかに意思をもった動きに、私は止まる。
 そして、おずおずと覗き込んだ。姉の喉には今、穴が空いているせいで、声はもう出ない。代わりに、唇の形で音を表していた。
 母は、それでうまく会話をしていたけれど、私には自信がなかった。
 頑張って聞かなきゃという思いが、勘弁してよ、という気持ちも呼んできた。
 私なんかに、こんなことをやめて。

 姉はゆっくりと形をつくってくれた。
 そうして私がわかるまで、ゆっくりと何度も繰り返した。
 私はというと、そんな風に気遣われると余計にナースコールを押したい衝動にかられた。かられながら、できる限り早く解読しなきゃと躍起になっていた。
 姉と同じ唇の形をして謎解きの様に当てはめていく。母音とカンを頼りに繰り返していると、数回目かに、ようやくそれらしいものが浮かんだ。

「か・ん・で・い……」

 私が声に出すと、小さく頷いて、新しい形を作った。一度わかると、私も自信がついたのか、今度はそう時間はかからなかった。

「あ・め」

 姉がわずかに口角をあげた。そうして、疲れたのかもしれない。
 一度目を閉じてしばらく力をたくわえるみたいに静止した。
 しばらくして、姉はまた、、唇を動か始めた。

「ど・せ・い……」

 私の声に、正解だと、それまでと同じように笑って見せた。
 姉は本当に疲れたらしく、姉は枕に頭を預け直した。
 そうしてゆっくりと目を閉じた。咄嗟に顔を覗き込むと、どうやら寝ているらしかった。
 ナースコールを確認しながら、私も丸椅子に座り直した。中腰になっていたから、背中が痛かった。
 揺れるカーテンに、窓を閉めようとしていたことを思い出す。ちゃんと見舞い人としての行動をする。
 けれど、私は姉の唇の動きと、そこから生まれた言葉にずっと気をとられていた。

 かんでぃ。あめ。どせい。――キャンディ、あめ、土星。

 それは私の秘密だ。
 あの頃、姉の部屋に避難しながら、姉にそれを話したのだろう。
 いつ、どんな気持ちで? 問うてみても、答えは出ない。
 どこまで話したのだろう。
 ただ、チュッパチャップスが好きだって話をしただけかもしれない。
 何も、土星が丸くなる寂しさまで、話したとは限らない。
 ただ、話すことがなさすぎて、話したのかもしれない。
 そんなくだらないことを――そう、とてもくだらないことだ。
 窓を閉め、閉めようとしたカーテンを掴んだまま、私は外の景色をにらんでいた。

 泣く様なことじゃなかった。何も、泣くほどのことじゃない。
 ざわざわと感情に這寄る感覚を、唇をかんでこらえる。
 私は、絶対に泣いてはいけなかった。
 けれど、冷たい熱がじわじわと胸からしみ出して、心臓を握られるような心地に、体は末端までしびれが走るような気がした。
 頬が痙攣している。気持ちをうまくあらわし発散する行動が、思いつかなかった。地の味がする。
 ぴくぴくと震える手で、カーテンの触感を、窓に映る、しかめっ面のなりそこないみたいな自分の顔を見た。

 キャンディ、あめ、土星。言葉を反芻し、感情をぼかしていきながら、私はじっと窓を見つめていた。

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