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不誠実な男たち 3
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早朝の空に浮かんでいた薄い雲は、会社に着く頃には灰色の雨模様へと急変した。
今日は内勤の予定でよかったと、少しついてる気分で葵はビルの入口をくぐり抜ける。
「おはようございます、中西さん」
「おはようさん」
隣席の同僚へのいつも通りの挨拶の後、給湯室で入れたお茶を机に置くとメールチェックに取り掛かった。
就業時間前だというのに、取引先からはすでに連絡が入っている。この人たちは一体いつ寝ているのだろう……? そう思いながらも、ならば直接にと受話器へ手を伸ばす。
「ーーはい。それでは、内容変更をいたします。午後までに送付ですね……」
納入時期の確認を終えると流れで次の商談にまで話が弾み、しばらくしてから「失礼いたします」と電話を切った。平穏だったオフィスは、いつのまにか出勤してきた同僚たちの声でざわめいている。もうそんな時間かと壁時計を確かめたその視界に肩を落とした男の後ろ姿が目に入った。
元カレの石田……である。課長から書類不備を注意されたばかりの男は、キョロキョロと誰か手の空いている人~、といった感じで辺りを見渡している。
葵はとっさにパソコンのスクリーンに顔を引っ込めた。
彼が頼りなさそうにこちらを見ている視線は感じるものの、目を合わせず仕事に集中する。
「あの、植松さん。これ~」
それでも図々しく声をかけてくる男に呆れてしまうが、あくまで冷静な態度をつらぬいた。
「申し訳ないですけど。この書類を至急仕上げて、客先に送りますので」
ところがまるで葵の言葉など聞こえないように「ちょっとだけだから」と仕事を押しつけてくる姿を見て、隣席の中西が茶化すように助け舟を出してくれた。
「おいおい、課長から聞いただろ。前とは違うんだぜ? 営業アシはもうこの課にいないんだよ。自分で仕事回す事になってんだって。植松さんはアシスタントじゃないぜ~」
(中西さんっ、ありがとう~)
葵はそっと目線で礼を述べた。
営業のエースである中西は、人当たりよく気さくな性格だが気配りのできる男だ。元アシスタントである葵に何かにつけ頼ってこようとする石田の態度に思うところがあるらしく、やんわりとだが釘をサシつつこうして何回か助けてもらっている。
石田が帰国してから二ヶ月以上、季節もとっくに移り変わっていた。
葵の会社では海外事務所での経験を積んだ社員は、重要な案件を任されるのが恒例だ。だが、出世間違いなしと言われた石田は意外にもそのまま元の席に戻った。
課長はその理由を述べなかったが、結構な営業成績を築いたはずの男は今のところ絶不調、かなりミスが目立つ。その上、販売高も鳴かず飛ばずだ。となると皆が不思議に思い始めていた。たまたまスランプなだけ? それとも順調に見えた石田の半年前までの功績は、ただ運が良かったのかーー?
「植松さん。第二会議室を取ったから、先に行って準備始めてもらえる? 俺はこの資料をコピーしてから行く」
久々の大口顧客獲得に意欲を見せる中西は、ここは確実に取りに行きたいと葵と組んで近々客先でプレゼンテーションをすることになっていた。
「分かりました。先方から新フレーバー候補の資料が送られてきましたので、プリントアウトしていきます。二分下さい」
「マジか! オッケー」
葵も新しい人脈を得たと喜んでおり、話は順調に進んでいる。
「よし、これで資料はバッチリだな。来週のプレゼンが楽しみだぜ」
「中西さんがこまめに顔をつないで、手に入った資料さまさまです」
「謙遜しないでいいって。植松さんは熱心に要望を聞いてくれるってコメントされたじゃん」
中西とのコンビは順調だった。葵にとっては手がけた事がない規模の案件ではあったが、客先とのコミニュケーションもしっかり取れており、十分な手応えを感じている。
打ち合わせが済んでからも、外回りでたまったデスクワークで忙しく気がつけばとっくに終業時間を過ぎていた。窓に映る隣接ビルの明かりを見て今日はもう帰ろうと、残っている同僚たちに「お疲れ様です」と挨拶をして会社を出る。
(木曜だからーー、カフェに直行するかな……)
石田はいまだ諦めてくれず、葵はたびたび玄関前で待ち伏せをされていた。けれども現れる曜日にパターンがあると気づいたから、該当する日は直接家に帰るのをきれいに避けている。
駅から近道でカフェに着いた葵は、注文を済ませタンタンと階段を下りていった。と、コーヒの香りにかすかに混じる爽やかな香水に、やや意外感を覚えつつピアノに映った影に気軽に声をかける。
「こんばんは、鳳条さん。今日は珍しく早いんですね?」
「ああ、仕事が早く終わってね。今日もまたここに来たってことは、例の彼がいたのかい?」
手振りで同席を求めてくる鳳条に、葵は苦笑いを漏らした。
「会社で声をかけられたので、念のためです。ほんともう、しつこくって」
ここ何週間もラストオーダーまで粘ることが多かった葵は、たびたび鳳条と顔を合わせるようになっていた。
彼は閉店間際に訪れることが多かったが、葵を見ると、こっちにおいでと手招きしてくる。
気さくな態度で誘われるまま夕食を共にするうちに、葵はずいぶんと彼に打ち解けていった。
いつも紳士的な鳳条だが、意外と気軽にプライベートなことまで話題にする。すると葵も自然と石田のことまで口にしていて、最近は仕事のしがらみがないぶん、いい話し相手だと思っている。
「ふ~ん、一度話し合ってみてはどうだい? そうしたら、こんな面倒くさいことから解放されるんじゃないかな」
「あら、鳳条さんは常連客を一人、このカフェから減らしたいんですか?」
「……毎度のご利用アリガトウゴザイマス。ってそうじゃなくて、ほら、ストーカーとかになったら困るだろう?」
分かっている。彼のいうことが正しいことは。
だけど石田の顔を見ると葵の本能がもう、生理的に受け付けないのだ。結婚を約束した相手がいながら二股を平気でかけられる男ーーというだけで軽蔑モノなのに。
そんな男の話を聞かなくてはならないと思うと、ほんと乗り気になれない。
「なんというかーーこう、あの男を見るとムシズが走るというか、会話するのも億劫といいますか……」
眉を寄せる葵に、鳳条はやれやれといった感じだ。
「元カレ、いや元婚約者なんだろう? ずいぶんな嫌いようだね」
「だからこそ、ですよ。自分と関係がない人なら割と平気です。そういう鳳条さんこそ、新しい彼女はどうしたんです? もう終わったとか言わないで下さいよ?」
「かろうじてまだ続いてるよ。明日会う……かな?」
たった二ヶ月で、鳳条の口から語られる女性が幾度変わったことか。もう名前を聞くのはとっくにやめていたし、日替わりメニューを聞く感覚で質問が口から出てくる。一度別れたら元サヤに戻ることはないそうだし、どんな女性も顔が同じに見えると言われては、いちいち覚えるのもバカらしく思えた。
結構な頻度で平日は鳳条に出会うが、金曜日はあの試飲をした日以外は一度も会わない。
「金曜はデートの日、なんですね……?」
葵が笑うと諦め混じりのため息をついている。
「金曜日に会いたがるのはどうしてかな。どうせ夜にホテルで別れるんだから、平日でもいいと思うんだけど」
「その言い分にはまったく賛成できませんね。だいたい、どうして週末に会わないんです? それこそ土曜も日曜もたっぷり時間があるじゃないですか?」
「だからだよ。週末はわずらわしいことから解放されて、のんびりと過ごしたいだろう? 朝寝坊もしなくちゃだし」
「……は?」
どういう意味だと聞いてみると。
「土日まで一緒にいるなんてとんでもない。貴重な休みを潰される上に、面倒でしかないからね」
会うのはごめんだと平然と言い放つその態度に呆れてしまう。
この人は一体ーー恋人をなんだと思っているのだろう? 平日限定のデートなんてーー。
「それって、付き合ってる意味あるんですか?」
「向こうがそれでいい、っていうんだから多分あるんだろう……? 僕の方はまあ、ない訳ではないしね」
目を細めておかしそうに笑う顔を、葵はジト目で見返した。
「最低です。ほんっとにどうして、世の女性はこんな人がいいんでしょうか……」
「この顔じゃないかな?」
しれっとした男に、葵は容赦しない。
「顔……顔がいいのは確かに認めます。ーーけど、それ以外は却下です」
だがそんな葵の態度を、鳳条は明らかに面白がっていた。
「それ以外はって、どうしてだろう? 付き合って欲しいと言うから、みんな公平に順番に付き合うんだけど。週末は会わないとはじめから言ってあるしね」
「それで皆、おとなしく待ってるんですか⁉︎」
「まあ、だいたいはーー」
「ぜったい間違ってる……」
嘆きのため息を葵は大袈裟についた。
「順番に付き合うって……もしかして、かけもちもアリなんですか……?」
「かけもちはない。一回だけの割り切った関係も多いし、長くは付き合わないからね。二股だけはしないよ」
珍しく熱のこもった鳳条の言葉に目を見張る。
「ーーそんなことをしたら、余計に手間がかかる。彼女たちにこれ以上貴重な時間を潰されたくないんだ」
「……っ! ちょっとはマシなところがあった、とうっかり見直しそうになりました。理由がゲスです。ザンネン過ぎ……」
憎まれ口を叩く葵も、本当は鳳条がいい人だということは分かっている。ズケズケと正直な意見を述べる葵を大人の寛容さで、はははと笑い飛ばすぐらいだ。浅い関係しか持たないため、情が薄いと思われがちかもだが、こうして話していると思いやりのある大人の包容力を所々で感じさせる。
「本音を言ったまでなんだが。そうだ、なんなら今度、その元カレとここで話をしたらどうだい? カフェなら人目もあるし、変なことはされないんじゃないかな。部屋に上げるのは嫌なんだろう?」
ほら、こんな風に言ってくれるからーー。嫌いになれない。
「考えておきます……」
(まあ、鍵も返してもらわないとだしね……。ーー仕方ないなあ。近々、話すかな)
食べ歩き資金もそろそろ心もとないのもあって、鳳条の言葉に渋々といった感じで頷いた葵だった。
そしてそんな葵を向かいで手を組んで眺めていた顔が、見守るように笑った。
✦ ✧ ✦
こうして迎えた次週の土曜の朝。月が変わりそろそろ空気もジメジメ感が増す梅雨時でもある。
空模様はともかく普段はコーヒーの香りを嗅ぐと心が浮き立つのに、向かいに座った相手のせいで葵の気分は台無しだった。
話があるのならと、カフェで会う時間を指定したが、二人きりの空気が嫌で今日はカウンター近くに座っている。
(ちょっと~、できれば話したくないのは私なのに、なんなのこの男……)
石田は遅れて来たあげくに黙ったままだ。ほんと気が滅入ってしまう。
ふと、目の前にいるのが鳳条ならーーと考えてから、そういえば週末は朝寝坊がどうとか言っていたなとクスッと笑い出しそうになった。現実逃避とばかり石田の存在を半分忘れかけていた耳に、ようやくか細い声が聞こえる。
「……だから、葵とやり直したい。浮気については謝る。俺が悪かった。二度としない」
いきなり、カフェのテーブルに乗せた手を握ってこようとする男に葵は眉を寄せた。
「そんな顔をするなよ、何か言ってくれ……」
手を払い退けた葵を、頭を下げたままの石田が見上げてくる。だけどその態度も目つきもどこか芝居じみたモノで、もう騙されはしなかった。
「……何がだからなの? だいたい浮気って、そんなこと言っていいわけ? 児島さんはあなたと近々結婚するようなことを言ってたわよ」
石田との付き合いを隠しもしない受付嬢の発言のせいで、会社では周知の事実だ。つい硬い口調になる。
「それはーー、彼女が勝手にどんどん話を進めてくるんだ。俺も迷惑してて……だから、葵とやり直して、別れてもいいかなって」
(はあ? 何を言ってるの、この人……)
身勝手なことを次々と述べてくる男に、葵は返事するのも嫌になってきた。
「なあ、俺たちうまくいってたじゃん?」
「……うまくいってたなら、浮気なんてしないと思うわ……」
「それはーー、一時の気の迷いっていうか……」
「なら、今あなたが私に言ってくることも、きっと気の迷いでしょう」
「俺ーー困ってるんだよ~、このままじゃあ、向こうの両親に会ってくれって言われててーー」
そんなことを二股かけていた元婚約者に、相談かけてくる神経が信じられない。困ってると訴えれば葵は動くーー過去がそうだったから。この男はいつもこうだ。そしてまだこの手が通じると思っているらしい。
その上、本人は都合よく忘れているが、葵も指輪をもらった時にじゃあ両親にと話を持ちかけたのだ。が、石田は挨拶は帰国してからと結局逃げきった。……今となっては会わせなくて正解だったと思うが。
おかげで、葵の両親には彼が帰国してからと伝えたままで、彼らはまだ知らないのだ。石田が帰国していることも、彼の浮気が原因で婚約が破談になったことも。
「会ってくれば? 私にはもう関係ないことだから」
話にならないと葵が立ち上がりかけると、石田はその手をひしっと掴んだ。生温かい感覚にサアーと全身が鳥肌立つ。
「離して。あ、そうだ。部屋の鍵は返して」
「そんなこと言わないでさあ。また一緒に仕事しよう」
必死な割には、このいかにも余裕がありそうな発言。そんな男の態度が葵の神経をさらに逆撫でしてくる。それに仕事の話を持ち出した時点で、彼の本音に気づいてしまった。
「手を離してっ」
「つれないなあ、だったら付き合ってくれるまで鍵はーー」
少し強い調子の声を出してしまったために、周りの客が異変に気づき、カフェがざわめきはじめた。
「ーー大変長らくお待たせしました」
榊がいつのまにか真横に立っていて驚いた。が、ニッコリ笑った顔を見るとホッとする。
どうやら窮地を察して来てくれたらしい。
「おや、もしや今日はそちらの方もご一緒に、相談に乗っていただけるのですか?」
「は? え、あの……?」
石田は店の人から声をかけられて、明らかに戸惑っていた。榊は笑ったままそんな石田を一瞬、見下ろした。見えない圧力が滲み出るその無言の姿は、店内での揉め事は許さんとばかりだ。
店長恐るべし……普段の穏やかな様子とはまるで違う迫力に、内心で感心した。みれば榊の隣には見知らぬ男性が立っている。シェフの格好をした体躯のいい人も、石田を見てニヤッと笑った。
「へえ、あなたもプロボノワーカーなんだ? 何、今日からプロジェクトに参加してくれるの?」
さり気なく一歩前に踏み出したその姿も迫力がある。
「い、いや、俺は……」
たじろいだ石田は慌ててテーブルから上体を引いた。手が自由になった隙を見て、葵は素早く立ち上がった。
「石田さん、あなたの要望には応じかねます。私は用事がありますのでここで失礼します」
二人の男性に守られるようにテーブルを後にした葵は、呆然としている石田に構わず店の奥の階段を目指した。
どうやら榊は葵が以前、「この店を訪れての試飲なんかは、プロボノ活動みたいなもの」と言ったことを覚えていたらしい。シェフの人にまでそんな話が伝わったのかと思うと、ちょっと気恥ずかしい。
ピアノのある安全地帯までくると、体格の良いシェフが無造作にチェーンスタンドを取り除きテーブルに座らせてくれる。が、その顔はなんとなく決まり悪そうだ。
「植松さん、そのなんだ。もし、邪魔をしたのなら悪かったな。だけど店長があんたが困っているようだって言うから」
鳳条の知り合いのシェフというのは、きっとこの人のことだ。
何となしにそう確信した葵は、心からの感謝を述べた。
「ありがとうございます。榊さんも、危ういところを助けていただき本当に助かりました」
「なになに、困った女性を助けるなんて名誉なことですよ」
もういつもの穏やかな店長だ。シェフの男性も人懐っこく笑っている。
「そういや、まだ名乗ってなかったな。俺の名は朝比奈だ。ここのシェフをやってる。気づいたと思うがこっちの足は義足だ」
そう言って朝比奈は屈託なくぽんぽんと片足を叩いた。
そんなことは言われるまで、ぜんぜん気がつかなかった。
「まあ、そうだったんですか。お気遣いありがとうございます」
疑問に思っても正面切っては聞きにくい質問に先回りで答えてくれたその爽やかな態度へ、葵は感謝の意を示した。
「朝比奈さん、声をかけていただいて本当に助かりました。カフェに迷惑をかけてしまったし、お仕事の邪魔をしてすみません」
丁寧にお礼を述べた葵を、へえといった風に見てから朝比奈は気にしないでいいと笑った。
そこへ、からかうような声が上から降ってくる。
「なんだ。美味しいところは全部、また朝比奈に持っていかれた後かい?」
「鳳条さんっ?」
ふわりと漂う爽やかな香りとともに、背の高いシルエットが階段を下りてきた。
「遅いんだよ、来るのが。植松さんを騎士のごとくかっさらった俺、格好よかったぜえ」
「30を過ぎた男が自画自賛なんかするんじゃない。ーー植松さん、大丈夫かい?」
「はい、私は平気ですが、お店に迷惑をかけてしまって……」
「気にしないでいいよ。店で会えばいいと勧めたのは僕だ」
鳳条は柔らかく笑った。そして、朝比奈に向き直る。
「それにまったく、ーー懲りない男だな。こんなことを続けてると、そのうちもう一本の足まで無くすぞ」
「その時はまた、懲りずに雇ってくれ。期待してるぜ親友よ」
「誰が親友だ。調子のいい奴め」
顔をしかめて肩に置かれた朝比奈の手を軽く叩き落とした鳳条は、目を見開いた葵を見て笑った。
「大丈夫。こいつはこれくらいでは、こたえないから。なにせ子供を助けるためにトラックの前に飛び出した挙げ句に、足一本無くしただけでピンピンしてるんだから」
「うわっ、繊細な俺は今のお前の一言で酷く傷ついた。てことで、休憩に行ってくるぜ」
「わたくしも、そろそろ戻ります」
そう言って朝比奈と榊は、じゃあと階段を上がっていった。
「あの調子だと、また何かやらかしそうだな。ーーそうだ。植松さん、何か飲むかい?」
「いえ、あの、ありがとうございます……お気持ちだけ頂戴します」
なんとなく沈んだ葵を見て、向かいに座った鳳条はスマホを取り出した。すると間も無く、榊がトレイを片手に現れる。
「朝比奈さんから伝言です。”休憩時にメッセージなんか送ってくるんじゃねえ”、だそうです」
コーヒより甘い香りだと思ったら、目の前に置かれたのはホットチョコレートだ。
「一口飲んでごらん、落ち着くから」
(あ、美味しい……)
濃厚な味のホットチョコレートは、可愛いピンクと白のマシュマロ入りで……、甘くてまろやかで身体の芯まで温まるようだった。付き合ってカップを手にした鳳条も満足そうな息をつく。
「おいしいですーー」
「うん、そうだね」
そのまましばらく黙って、二人で甘い飲み物を楽しんだ。カップの底に近づくほど濃厚なチョコレートをゆっくりスプーンでかき混ぜる。
「ーーもう大丈夫です。落ち着きました」
話し出せる気持ちになるまで、急かすでもなくゆったり待ってくれた彼に葵は店での会話を手短に話した。
「鍵は返してもらえそうにない……です……」
「ふうん。だったら、大家に言って変えてもらったら?」
「そうですね。そうしようかな……」
今日の石田の態度だと、簡単に引き下がりそうにない。彼の理由が身勝手の極みなだけにそう感じる。自腹になるとしても鍵は変えたほうがいいのかもしれない。
「せっかくの週末にすみません。もしかして、朝寝坊の邪魔をしました……?」
「もう十時過ぎてるよ、いくら僕でも起きてる」
やっといつもの調子がでてきたなと、鳳条は笑った。
「今日の予定は?」
「ーー今日はですね、コンサートの券をもらったので、行こうかなと思ってたんですけど……」
石田との話しを終えたら、いい気分転換になると思ったのだ。
「へえ、なんのコンサート?」
音大に勤める従姉妹からまわってくる券で、葵は定期演奏会を毎年聞きに行っている。今年はちょうどいいタイミングだった。
「でも、着替えに戻りたくないんですよね。さっきの感じだと、待ち伏せされてる気がして」
「ーーだったら、僕の買い物にちょっと付き合わないかい? 今セールだって案内がきてたから、ついでに何かあつらえむきな服が見つかるかもしれないよ」
意外な言葉に顔をあげた。
そういえば、普段の鳳条はどんな店で買い物をするのだろう? 好奇心を刺激された葵は、二つ返事で頷いた。
そしてそのまま早めのお昼までご馳走になり、タクシーで乗り付けた店は、葵にとってものすごく問題のある店だった。
「鳳条さん! ここって……」
いかにも客を選びそうな店構えと、ショーウィンドウに飾ってある洗練されたスタイルは、服装など大して気にかけず出てきた葵一人だと店に入るのも気後れしそうだ。
(これはどう見ても、ハイブランドのセレクトショップ……)
そうだった。うっかり忘れていたが、この人は大きなカフェのオーナーだ。生活スタイルが自分とは違うと推定済みだったのに……セールという響きのいい言葉に惑わされた。
いくら値引きされていようと、これはちょっと敷居が高すぎる……
「ここはメンズとレディース両方取り扱ってるから、ちょうどいいよ」
だが背の高い姿はさっさと店に入ってしまい、入り口でほらおいでと待っている。仕方ないと店に入った葵が鳳条について広い店内をぐるっと一周する頃には、なぜだか数着の服を更衣室で着替えする羽目になっていた。
「鳳条さん! なんで私、こんなところにいるんでしょうかーー?」
「もうちょっと明るい色が、いいかな」
「話、聞いてます?」
「そうだな。やっぱりワンピースの方が合うか」
鳳条のコメントに、ニッコリ頷いた店員は「では、次はこちらを」と、試着を促してくる。
(あ、これいい、好きかも……。だ、だけどーーこの値段~!)
ラックから取り出された服は葵好みのワンピースだ。けど、葵が普段、思いきって買っているワンピースなど軽く10着は買えてしまうその値段に内心で唸る。
「ああ、これにしよう」
ところが、誘惑に負けて試着だけと着替えた葵を見た鳳条は、あっさりこれだなとカードをさっさと取り出した。
「え? ちょっと待ったあ、鳳条さん⁉︎」
「コンサートの券は二枚あるんだろう? なら、僕も行こうかな」
「えぇっ! あのっ、はい、えっとっ……それは構いませんがーー」
「そろそろ開場時間が迫ってる。もう着替えてる暇などないから、さあ急ごう」
コンサートホールはここからそれほど離れていない。とはいえ、指摘されて確認をすれば確かにモタモタしている時間などない。
会話を交わしているうちにタグが外され、レシートと葵の着ていた服が収まるロゴ入り紙バッグが用意されていた。こんな高い服、どうしよう……と、興奮と戸惑いで葵の感情が入り乱れる。顔が赤くなったり青くなったりと落ち着かない。
纏ったワンピースは上品なピンク色の華やかな花柄で、柔らかい生地の感触に身につけて立っているだけでドキドキする。それでもさすがに店内では騒がなかったが、店を出て歩き出すと葵は隣を歩く背の高い姿を見上げた。
「……服っ、どうして? 買ってもらう理由がありません!」
「どうしてなんだろう……? 僕も女性に服をプレゼントなんて、したことないんだけど……。強いて理由を挙げるなら、僕がそうしたかったから……かな?」
「ーー何をとぼけたことを言ってるんです! ごまんといる元カノはどうしたんです⁉︎」
「僕はいつももらう側だからね」
「……女の敵だってこと、忘れてました。どうしてこんな人に、世の女性は貢いでるんでしょうか……」
身につけている数々の素敵な小物類は、もしかしてすべて、彼女たちからの貢物なのか……?
「世の中には、物好きな女性がたくさんいるんだよ」
「自分で言ってどうするんです。ああ、そこの角を右です」
コンサートホールへの坂道を歩いていると、言い返すのも息切れしてきた。
本当に、こんなことしてもらってーーいいのだろうか? 値段が値段だけにそう思ってしまう。
ーー予想外の高価な贈り物。それを受け入れることに折り合いをつけるのは大変だったが、鳳条が事実を述べているのも、なんとなく察知できた。彼の好意を踏みにじるような真似もしたくない。
「……いつも貢いでもらっている人に、貢がせたと思えばーーこれも一種の勝利なんでしょうか……」
「なんだい?」
「いえなんでも。……服、ありがとうございます」
「どういたしまして。よく似合ってるよ」
穏やかに笑うその顔は、憎たらしいほど余裕がある。
目が飛び出るほど高価な服をプレゼントされたのはこちらなのに、この敗北感はいったい……
「へえ、コンサートって弦楽アンサンブルなんだね」
会場のホールの入り口案内を読んだ鳳条は、少し嬉しそうだ。
「あ、はい。シンフォニーよりカルテットやソロ演奏の方が好きなものですから。鳳条さんは何がお好きなんですか?」
「僕はクラシックも聞くけど、……ジャズが一番、かな」
「ああ、そういえばーー最初にお会いした時のピアノ曲も素敵でした。あれもジャズなんですか?」
「フュージョン系のね」
何ですそれ、と続けて質問しようとした耳に、「葵!」と呼ぶ男女の声が聞こえた。途端に葵は真っ青になる。
(しまったーー! そういえば、このコンサートって家族全員にチケットが……)
恐る恐る振り向いた視線の先に、葵は見慣れた両親の顔を見つけてしまった。
今日は内勤の予定でよかったと、少しついてる気分で葵はビルの入口をくぐり抜ける。
「おはようございます、中西さん」
「おはようさん」
隣席の同僚へのいつも通りの挨拶の後、給湯室で入れたお茶を机に置くとメールチェックに取り掛かった。
就業時間前だというのに、取引先からはすでに連絡が入っている。この人たちは一体いつ寝ているのだろう……? そう思いながらも、ならば直接にと受話器へ手を伸ばす。
「ーーはい。それでは、内容変更をいたします。午後までに送付ですね……」
納入時期の確認を終えると流れで次の商談にまで話が弾み、しばらくしてから「失礼いたします」と電話を切った。平穏だったオフィスは、いつのまにか出勤してきた同僚たちの声でざわめいている。もうそんな時間かと壁時計を確かめたその視界に肩を落とした男の後ろ姿が目に入った。
元カレの石田……である。課長から書類不備を注意されたばかりの男は、キョロキョロと誰か手の空いている人~、といった感じで辺りを見渡している。
葵はとっさにパソコンのスクリーンに顔を引っ込めた。
彼が頼りなさそうにこちらを見ている視線は感じるものの、目を合わせず仕事に集中する。
「あの、植松さん。これ~」
それでも図々しく声をかけてくる男に呆れてしまうが、あくまで冷静な態度をつらぬいた。
「申し訳ないですけど。この書類を至急仕上げて、客先に送りますので」
ところがまるで葵の言葉など聞こえないように「ちょっとだけだから」と仕事を押しつけてくる姿を見て、隣席の中西が茶化すように助け舟を出してくれた。
「おいおい、課長から聞いただろ。前とは違うんだぜ? 営業アシはもうこの課にいないんだよ。自分で仕事回す事になってんだって。植松さんはアシスタントじゃないぜ~」
(中西さんっ、ありがとう~)
葵はそっと目線で礼を述べた。
営業のエースである中西は、人当たりよく気さくな性格だが気配りのできる男だ。元アシスタントである葵に何かにつけ頼ってこようとする石田の態度に思うところがあるらしく、やんわりとだが釘をサシつつこうして何回か助けてもらっている。
石田が帰国してから二ヶ月以上、季節もとっくに移り変わっていた。
葵の会社では海外事務所での経験を積んだ社員は、重要な案件を任されるのが恒例だ。だが、出世間違いなしと言われた石田は意外にもそのまま元の席に戻った。
課長はその理由を述べなかったが、結構な営業成績を築いたはずの男は今のところ絶不調、かなりミスが目立つ。その上、販売高も鳴かず飛ばずだ。となると皆が不思議に思い始めていた。たまたまスランプなだけ? それとも順調に見えた石田の半年前までの功績は、ただ運が良かったのかーー?
「植松さん。第二会議室を取ったから、先に行って準備始めてもらえる? 俺はこの資料をコピーしてから行く」
久々の大口顧客獲得に意欲を見せる中西は、ここは確実に取りに行きたいと葵と組んで近々客先でプレゼンテーションをすることになっていた。
「分かりました。先方から新フレーバー候補の資料が送られてきましたので、プリントアウトしていきます。二分下さい」
「マジか! オッケー」
葵も新しい人脈を得たと喜んでおり、話は順調に進んでいる。
「よし、これで資料はバッチリだな。来週のプレゼンが楽しみだぜ」
「中西さんがこまめに顔をつないで、手に入った資料さまさまです」
「謙遜しないでいいって。植松さんは熱心に要望を聞いてくれるってコメントされたじゃん」
中西とのコンビは順調だった。葵にとっては手がけた事がない規模の案件ではあったが、客先とのコミニュケーションもしっかり取れており、十分な手応えを感じている。
打ち合わせが済んでからも、外回りでたまったデスクワークで忙しく気がつけばとっくに終業時間を過ぎていた。窓に映る隣接ビルの明かりを見て今日はもう帰ろうと、残っている同僚たちに「お疲れ様です」と挨拶をして会社を出る。
(木曜だからーー、カフェに直行するかな……)
石田はいまだ諦めてくれず、葵はたびたび玄関前で待ち伏せをされていた。けれども現れる曜日にパターンがあると気づいたから、該当する日は直接家に帰るのをきれいに避けている。
駅から近道でカフェに着いた葵は、注文を済ませタンタンと階段を下りていった。と、コーヒの香りにかすかに混じる爽やかな香水に、やや意外感を覚えつつピアノに映った影に気軽に声をかける。
「こんばんは、鳳条さん。今日は珍しく早いんですね?」
「ああ、仕事が早く終わってね。今日もまたここに来たってことは、例の彼がいたのかい?」
手振りで同席を求めてくる鳳条に、葵は苦笑いを漏らした。
「会社で声をかけられたので、念のためです。ほんともう、しつこくって」
ここ何週間もラストオーダーまで粘ることが多かった葵は、たびたび鳳条と顔を合わせるようになっていた。
彼は閉店間際に訪れることが多かったが、葵を見ると、こっちにおいでと手招きしてくる。
気さくな態度で誘われるまま夕食を共にするうちに、葵はずいぶんと彼に打ち解けていった。
いつも紳士的な鳳条だが、意外と気軽にプライベートなことまで話題にする。すると葵も自然と石田のことまで口にしていて、最近は仕事のしがらみがないぶん、いい話し相手だと思っている。
「ふ~ん、一度話し合ってみてはどうだい? そうしたら、こんな面倒くさいことから解放されるんじゃないかな」
「あら、鳳条さんは常連客を一人、このカフェから減らしたいんですか?」
「……毎度のご利用アリガトウゴザイマス。ってそうじゃなくて、ほら、ストーカーとかになったら困るだろう?」
分かっている。彼のいうことが正しいことは。
だけど石田の顔を見ると葵の本能がもう、生理的に受け付けないのだ。結婚を約束した相手がいながら二股を平気でかけられる男ーーというだけで軽蔑モノなのに。
そんな男の話を聞かなくてはならないと思うと、ほんと乗り気になれない。
「なんというかーーこう、あの男を見るとムシズが走るというか、会話するのも億劫といいますか……」
眉を寄せる葵に、鳳条はやれやれといった感じだ。
「元カレ、いや元婚約者なんだろう? ずいぶんな嫌いようだね」
「だからこそ、ですよ。自分と関係がない人なら割と平気です。そういう鳳条さんこそ、新しい彼女はどうしたんです? もう終わったとか言わないで下さいよ?」
「かろうじてまだ続いてるよ。明日会う……かな?」
たった二ヶ月で、鳳条の口から語られる女性が幾度変わったことか。もう名前を聞くのはとっくにやめていたし、日替わりメニューを聞く感覚で質問が口から出てくる。一度別れたら元サヤに戻ることはないそうだし、どんな女性も顔が同じに見えると言われては、いちいち覚えるのもバカらしく思えた。
結構な頻度で平日は鳳条に出会うが、金曜日はあの試飲をした日以外は一度も会わない。
「金曜はデートの日、なんですね……?」
葵が笑うと諦め混じりのため息をついている。
「金曜日に会いたがるのはどうしてかな。どうせ夜にホテルで別れるんだから、平日でもいいと思うんだけど」
「その言い分にはまったく賛成できませんね。だいたい、どうして週末に会わないんです? それこそ土曜も日曜もたっぷり時間があるじゃないですか?」
「だからだよ。週末はわずらわしいことから解放されて、のんびりと過ごしたいだろう? 朝寝坊もしなくちゃだし」
「……は?」
どういう意味だと聞いてみると。
「土日まで一緒にいるなんてとんでもない。貴重な休みを潰される上に、面倒でしかないからね」
会うのはごめんだと平然と言い放つその態度に呆れてしまう。
この人は一体ーー恋人をなんだと思っているのだろう? 平日限定のデートなんてーー。
「それって、付き合ってる意味あるんですか?」
「向こうがそれでいい、っていうんだから多分あるんだろう……? 僕の方はまあ、ない訳ではないしね」
目を細めておかしそうに笑う顔を、葵はジト目で見返した。
「最低です。ほんっとにどうして、世の女性はこんな人がいいんでしょうか……」
「この顔じゃないかな?」
しれっとした男に、葵は容赦しない。
「顔……顔がいいのは確かに認めます。ーーけど、それ以外は却下です」
だがそんな葵の態度を、鳳条は明らかに面白がっていた。
「それ以外はって、どうしてだろう? 付き合って欲しいと言うから、みんな公平に順番に付き合うんだけど。週末は会わないとはじめから言ってあるしね」
「それで皆、おとなしく待ってるんですか⁉︎」
「まあ、だいたいはーー」
「ぜったい間違ってる……」
嘆きのため息を葵は大袈裟についた。
「順番に付き合うって……もしかして、かけもちもアリなんですか……?」
「かけもちはない。一回だけの割り切った関係も多いし、長くは付き合わないからね。二股だけはしないよ」
珍しく熱のこもった鳳条の言葉に目を見張る。
「ーーそんなことをしたら、余計に手間がかかる。彼女たちにこれ以上貴重な時間を潰されたくないんだ」
「……っ! ちょっとはマシなところがあった、とうっかり見直しそうになりました。理由がゲスです。ザンネン過ぎ……」
憎まれ口を叩く葵も、本当は鳳条がいい人だということは分かっている。ズケズケと正直な意見を述べる葵を大人の寛容さで、はははと笑い飛ばすぐらいだ。浅い関係しか持たないため、情が薄いと思われがちかもだが、こうして話していると思いやりのある大人の包容力を所々で感じさせる。
「本音を言ったまでなんだが。そうだ、なんなら今度、その元カレとここで話をしたらどうだい? カフェなら人目もあるし、変なことはされないんじゃないかな。部屋に上げるのは嫌なんだろう?」
ほら、こんな風に言ってくれるからーー。嫌いになれない。
「考えておきます……」
(まあ、鍵も返してもらわないとだしね……。ーー仕方ないなあ。近々、話すかな)
食べ歩き資金もそろそろ心もとないのもあって、鳳条の言葉に渋々といった感じで頷いた葵だった。
そしてそんな葵を向かいで手を組んで眺めていた顔が、見守るように笑った。
✦ ✧ ✦
こうして迎えた次週の土曜の朝。月が変わりそろそろ空気もジメジメ感が増す梅雨時でもある。
空模様はともかく普段はコーヒーの香りを嗅ぐと心が浮き立つのに、向かいに座った相手のせいで葵の気分は台無しだった。
話があるのならと、カフェで会う時間を指定したが、二人きりの空気が嫌で今日はカウンター近くに座っている。
(ちょっと~、できれば話したくないのは私なのに、なんなのこの男……)
石田は遅れて来たあげくに黙ったままだ。ほんと気が滅入ってしまう。
ふと、目の前にいるのが鳳条ならーーと考えてから、そういえば週末は朝寝坊がどうとか言っていたなとクスッと笑い出しそうになった。現実逃避とばかり石田の存在を半分忘れかけていた耳に、ようやくか細い声が聞こえる。
「……だから、葵とやり直したい。浮気については謝る。俺が悪かった。二度としない」
いきなり、カフェのテーブルに乗せた手を握ってこようとする男に葵は眉を寄せた。
「そんな顔をするなよ、何か言ってくれ……」
手を払い退けた葵を、頭を下げたままの石田が見上げてくる。だけどその態度も目つきもどこか芝居じみたモノで、もう騙されはしなかった。
「……何がだからなの? だいたい浮気って、そんなこと言っていいわけ? 児島さんはあなたと近々結婚するようなことを言ってたわよ」
石田との付き合いを隠しもしない受付嬢の発言のせいで、会社では周知の事実だ。つい硬い口調になる。
「それはーー、彼女が勝手にどんどん話を進めてくるんだ。俺も迷惑してて……だから、葵とやり直して、別れてもいいかなって」
(はあ? 何を言ってるの、この人……)
身勝手なことを次々と述べてくる男に、葵は返事するのも嫌になってきた。
「なあ、俺たちうまくいってたじゃん?」
「……うまくいってたなら、浮気なんてしないと思うわ……」
「それはーー、一時の気の迷いっていうか……」
「なら、今あなたが私に言ってくることも、きっと気の迷いでしょう」
「俺ーー困ってるんだよ~、このままじゃあ、向こうの両親に会ってくれって言われててーー」
そんなことを二股かけていた元婚約者に、相談かけてくる神経が信じられない。困ってると訴えれば葵は動くーー過去がそうだったから。この男はいつもこうだ。そしてまだこの手が通じると思っているらしい。
その上、本人は都合よく忘れているが、葵も指輪をもらった時にじゃあ両親にと話を持ちかけたのだ。が、石田は挨拶は帰国してからと結局逃げきった。……今となっては会わせなくて正解だったと思うが。
おかげで、葵の両親には彼が帰国してからと伝えたままで、彼らはまだ知らないのだ。石田が帰国していることも、彼の浮気が原因で婚約が破談になったことも。
「会ってくれば? 私にはもう関係ないことだから」
話にならないと葵が立ち上がりかけると、石田はその手をひしっと掴んだ。生温かい感覚にサアーと全身が鳥肌立つ。
「離して。あ、そうだ。部屋の鍵は返して」
「そんなこと言わないでさあ。また一緒に仕事しよう」
必死な割には、このいかにも余裕がありそうな発言。そんな男の態度が葵の神経をさらに逆撫でしてくる。それに仕事の話を持ち出した時点で、彼の本音に気づいてしまった。
「手を離してっ」
「つれないなあ、だったら付き合ってくれるまで鍵はーー」
少し強い調子の声を出してしまったために、周りの客が異変に気づき、カフェがざわめきはじめた。
「ーー大変長らくお待たせしました」
榊がいつのまにか真横に立っていて驚いた。が、ニッコリ笑った顔を見るとホッとする。
どうやら窮地を察して来てくれたらしい。
「おや、もしや今日はそちらの方もご一緒に、相談に乗っていただけるのですか?」
「は? え、あの……?」
石田は店の人から声をかけられて、明らかに戸惑っていた。榊は笑ったままそんな石田を一瞬、見下ろした。見えない圧力が滲み出るその無言の姿は、店内での揉め事は許さんとばかりだ。
店長恐るべし……普段の穏やかな様子とはまるで違う迫力に、内心で感心した。みれば榊の隣には見知らぬ男性が立っている。シェフの格好をした体躯のいい人も、石田を見てニヤッと笑った。
「へえ、あなたもプロボノワーカーなんだ? 何、今日からプロジェクトに参加してくれるの?」
さり気なく一歩前に踏み出したその姿も迫力がある。
「い、いや、俺は……」
たじろいだ石田は慌ててテーブルから上体を引いた。手が自由になった隙を見て、葵は素早く立ち上がった。
「石田さん、あなたの要望には応じかねます。私は用事がありますのでここで失礼します」
二人の男性に守られるようにテーブルを後にした葵は、呆然としている石田に構わず店の奥の階段を目指した。
どうやら榊は葵が以前、「この店を訪れての試飲なんかは、プロボノ活動みたいなもの」と言ったことを覚えていたらしい。シェフの人にまでそんな話が伝わったのかと思うと、ちょっと気恥ずかしい。
ピアノのある安全地帯までくると、体格の良いシェフが無造作にチェーンスタンドを取り除きテーブルに座らせてくれる。が、その顔はなんとなく決まり悪そうだ。
「植松さん、そのなんだ。もし、邪魔をしたのなら悪かったな。だけど店長があんたが困っているようだって言うから」
鳳条の知り合いのシェフというのは、きっとこの人のことだ。
何となしにそう確信した葵は、心からの感謝を述べた。
「ありがとうございます。榊さんも、危ういところを助けていただき本当に助かりました」
「なになに、困った女性を助けるなんて名誉なことですよ」
もういつもの穏やかな店長だ。シェフの男性も人懐っこく笑っている。
「そういや、まだ名乗ってなかったな。俺の名は朝比奈だ。ここのシェフをやってる。気づいたと思うがこっちの足は義足だ」
そう言って朝比奈は屈託なくぽんぽんと片足を叩いた。
そんなことは言われるまで、ぜんぜん気がつかなかった。
「まあ、そうだったんですか。お気遣いありがとうございます」
疑問に思っても正面切っては聞きにくい質問に先回りで答えてくれたその爽やかな態度へ、葵は感謝の意を示した。
「朝比奈さん、声をかけていただいて本当に助かりました。カフェに迷惑をかけてしまったし、お仕事の邪魔をしてすみません」
丁寧にお礼を述べた葵を、へえといった風に見てから朝比奈は気にしないでいいと笑った。
そこへ、からかうような声が上から降ってくる。
「なんだ。美味しいところは全部、また朝比奈に持っていかれた後かい?」
「鳳条さんっ?」
ふわりと漂う爽やかな香りとともに、背の高いシルエットが階段を下りてきた。
「遅いんだよ、来るのが。植松さんを騎士のごとくかっさらった俺、格好よかったぜえ」
「30を過ぎた男が自画自賛なんかするんじゃない。ーー植松さん、大丈夫かい?」
「はい、私は平気ですが、お店に迷惑をかけてしまって……」
「気にしないでいいよ。店で会えばいいと勧めたのは僕だ」
鳳条は柔らかく笑った。そして、朝比奈に向き直る。
「それにまったく、ーー懲りない男だな。こんなことを続けてると、そのうちもう一本の足まで無くすぞ」
「その時はまた、懲りずに雇ってくれ。期待してるぜ親友よ」
「誰が親友だ。調子のいい奴め」
顔をしかめて肩に置かれた朝比奈の手を軽く叩き落とした鳳条は、目を見開いた葵を見て笑った。
「大丈夫。こいつはこれくらいでは、こたえないから。なにせ子供を助けるためにトラックの前に飛び出した挙げ句に、足一本無くしただけでピンピンしてるんだから」
「うわっ、繊細な俺は今のお前の一言で酷く傷ついた。てことで、休憩に行ってくるぜ」
「わたくしも、そろそろ戻ります」
そう言って朝比奈と榊は、じゃあと階段を上がっていった。
「あの調子だと、また何かやらかしそうだな。ーーそうだ。植松さん、何か飲むかい?」
「いえ、あの、ありがとうございます……お気持ちだけ頂戴します」
なんとなく沈んだ葵を見て、向かいに座った鳳条はスマホを取り出した。すると間も無く、榊がトレイを片手に現れる。
「朝比奈さんから伝言です。”休憩時にメッセージなんか送ってくるんじゃねえ”、だそうです」
コーヒより甘い香りだと思ったら、目の前に置かれたのはホットチョコレートだ。
「一口飲んでごらん、落ち着くから」
(あ、美味しい……)
濃厚な味のホットチョコレートは、可愛いピンクと白のマシュマロ入りで……、甘くてまろやかで身体の芯まで温まるようだった。付き合ってカップを手にした鳳条も満足そうな息をつく。
「おいしいですーー」
「うん、そうだね」
そのまましばらく黙って、二人で甘い飲み物を楽しんだ。カップの底に近づくほど濃厚なチョコレートをゆっくりスプーンでかき混ぜる。
「ーーもう大丈夫です。落ち着きました」
話し出せる気持ちになるまで、急かすでもなくゆったり待ってくれた彼に葵は店での会話を手短に話した。
「鍵は返してもらえそうにない……です……」
「ふうん。だったら、大家に言って変えてもらったら?」
「そうですね。そうしようかな……」
今日の石田の態度だと、簡単に引き下がりそうにない。彼の理由が身勝手の極みなだけにそう感じる。自腹になるとしても鍵は変えたほうがいいのかもしれない。
「せっかくの週末にすみません。もしかして、朝寝坊の邪魔をしました……?」
「もう十時過ぎてるよ、いくら僕でも起きてる」
やっといつもの調子がでてきたなと、鳳条は笑った。
「今日の予定は?」
「ーー今日はですね、コンサートの券をもらったので、行こうかなと思ってたんですけど……」
石田との話しを終えたら、いい気分転換になると思ったのだ。
「へえ、なんのコンサート?」
音大に勤める従姉妹からまわってくる券で、葵は定期演奏会を毎年聞きに行っている。今年はちょうどいいタイミングだった。
「でも、着替えに戻りたくないんですよね。さっきの感じだと、待ち伏せされてる気がして」
「ーーだったら、僕の買い物にちょっと付き合わないかい? 今セールだって案内がきてたから、ついでに何かあつらえむきな服が見つかるかもしれないよ」
意外な言葉に顔をあげた。
そういえば、普段の鳳条はどんな店で買い物をするのだろう? 好奇心を刺激された葵は、二つ返事で頷いた。
そしてそのまま早めのお昼までご馳走になり、タクシーで乗り付けた店は、葵にとってものすごく問題のある店だった。
「鳳条さん! ここって……」
いかにも客を選びそうな店構えと、ショーウィンドウに飾ってある洗練されたスタイルは、服装など大して気にかけず出てきた葵一人だと店に入るのも気後れしそうだ。
(これはどう見ても、ハイブランドのセレクトショップ……)
そうだった。うっかり忘れていたが、この人は大きなカフェのオーナーだ。生活スタイルが自分とは違うと推定済みだったのに……セールという響きのいい言葉に惑わされた。
いくら値引きされていようと、これはちょっと敷居が高すぎる……
「ここはメンズとレディース両方取り扱ってるから、ちょうどいいよ」
だが背の高い姿はさっさと店に入ってしまい、入り口でほらおいでと待っている。仕方ないと店に入った葵が鳳条について広い店内をぐるっと一周する頃には、なぜだか数着の服を更衣室で着替えする羽目になっていた。
「鳳条さん! なんで私、こんなところにいるんでしょうかーー?」
「もうちょっと明るい色が、いいかな」
「話、聞いてます?」
「そうだな。やっぱりワンピースの方が合うか」
鳳条のコメントに、ニッコリ頷いた店員は「では、次はこちらを」と、試着を促してくる。
(あ、これいい、好きかも……。だ、だけどーーこの値段~!)
ラックから取り出された服は葵好みのワンピースだ。けど、葵が普段、思いきって買っているワンピースなど軽く10着は買えてしまうその値段に内心で唸る。
「ああ、これにしよう」
ところが、誘惑に負けて試着だけと着替えた葵を見た鳳条は、あっさりこれだなとカードをさっさと取り出した。
「え? ちょっと待ったあ、鳳条さん⁉︎」
「コンサートの券は二枚あるんだろう? なら、僕も行こうかな」
「えぇっ! あのっ、はい、えっとっ……それは構いませんがーー」
「そろそろ開場時間が迫ってる。もう着替えてる暇などないから、さあ急ごう」
コンサートホールはここからそれほど離れていない。とはいえ、指摘されて確認をすれば確かにモタモタしている時間などない。
会話を交わしているうちにタグが外され、レシートと葵の着ていた服が収まるロゴ入り紙バッグが用意されていた。こんな高い服、どうしよう……と、興奮と戸惑いで葵の感情が入り乱れる。顔が赤くなったり青くなったりと落ち着かない。
纏ったワンピースは上品なピンク色の華やかな花柄で、柔らかい生地の感触に身につけて立っているだけでドキドキする。それでもさすがに店内では騒がなかったが、店を出て歩き出すと葵は隣を歩く背の高い姿を見上げた。
「……服っ、どうして? 買ってもらう理由がありません!」
「どうしてなんだろう……? 僕も女性に服をプレゼントなんて、したことないんだけど……。強いて理由を挙げるなら、僕がそうしたかったから……かな?」
「ーー何をとぼけたことを言ってるんです! ごまんといる元カノはどうしたんです⁉︎」
「僕はいつももらう側だからね」
「……女の敵だってこと、忘れてました。どうしてこんな人に、世の女性は貢いでるんでしょうか……」
身につけている数々の素敵な小物類は、もしかしてすべて、彼女たちからの貢物なのか……?
「世の中には、物好きな女性がたくさんいるんだよ」
「自分で言ってどうするんです。ああ、そこの角を右です」
コンサートホールへの坂道を歩いていると、言い返すのも息切れしてきた。
本当に、こんなことしてもらってーーいいのだろうか? 値段が値段だけにそう思ってしまう。
ーー予想外の高価な贈り物。それを受け入れることに折り合いをつけるのは大変だったが、鳳条が事実を述べているのも、なんとなく察知できた。彼の好意を踏みにじるような真似もしたくない。
「……いつも貢いでもらっている人に、貢がせたと思えばーーこれも一種の勝利なんでしょうか……」
「なんだい?」
「いえなんでも。……服、ありがとうございます」
「どういたしまして。よく似合ってるよ」
穏やかに笑うその顔は、憎たらしいほど余裕がある。
目が飛び出るほど高価な服をプレゼントされたのはこちらなのに、この敗北感はいったい……
「へえ、コンサートって弦楽アンサンブルなんだね」
会場のホールの入り口案内を読んだ鳳条は、少し嬉しそうだ。
「あ、はい。シンフォニーよりカルテットやソロ演奏の方が好きなものですから。鳳条さんは何がお好きなんですか?」
「僕はクラシックも聞くけど、……ジャズが一番、かな」
「ああ、そういえばーー最初にお会いした時のピアノ曲も素敵でした。あれもジャズなんですか?」
「フュージョン系のね」
何ですそれ、と続けて質問しようとした耳に、「葵!」と呼ぶ男女の声が聞こえた。途端に葵は真っ青になる。
(しまったーー! そういえば、このコンサートって家族全員にチケットが……)
恐る恐る振り向いた視線の先に、葵は見慣れた両親の顔を見つけてしまった。
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