30 / 34
弐拾伍b You're going to reap just what you sow 後
しおりを挟む
4.
「こんばんは、お迎えに上がりました」
「おっ。榊さん、こんばんは」
先日、山辺邸に赴いた際に話をした運転手の榊が敦のアパートの部屋をノックしたのは火曜の夕刻、17時の事だった。
「今回も来てくれるとは知らなかった。指定の場所と日時を聞いてたので自分でそこに向かうつもりだったんだ」
「お酒も出る席との事ですので」
バイクで店に向かうつもりだった敦の考えを察した様に榊は穏やかに口を添える。
「そか。どんな店? フォーマルでないと入れない店だと困るんだけど?」
「どの様なお召し物でも大丈夫ですよ。奥様がよく使われるお店ですので、気心も知れています」
「あれ?」
敦は漸く一つの可能性に気付いた。
「榊さんがここにいるって事は? マユのママ、どうやってその店に行くの?」
「お気になさらないで大丈夫です。奥様は買い物先からご自身で店に向かう手筈となっております」
「そ? んじゃ、お言葉に甘えて世話になるよ」
部屋から出ると鍵を掛けながら榊を振り返って微笑む。この実直そうな男は好きだ。榊が運転する車の後部座席は本日も非常に座り心地が良かった。但し、その交通ルールを100%守った「超」安全運転には欠伸を噛み殺すしかなかった。
店は銀座の外れに位置し、築地市場もそれほど遠くない細い路地裏に面していた。小さい門の前に横付けされた車から降り立った敦は、メニューさえも表に出ていない高級感漂う店構えに少し眉を顰めた。
「それでは、私はこれでお暇致します。ごゆっくり楽しんでください。こちらのお店は吟味されたお魚料理で有名です」
「榊さん、今日はありがとね」
運転席側に近寄って低い声で榊と会話をする敦に背後から店の者が声を掛ける。
「いらっしゃいませ、旦那様。お名前を伺えますでしょうか?」
「広田敦様です」
「かしこまりました。伺っております。どうぞこちらへ」
敦が答える前に榊が返答した。敦は肩を竦め、軽く会釈した榊が車を発進させるのを見送ると、店に足を踏み込んだ。
「山辺様は既にお越しです」
「そう? 薫さん?」
「はい、奥様だけでございます。ご予約も山辺様と広田様の二名様にて承っております」
思ったより長い廊下を歩きながら、窓ガラスの外に見える冬枯れて寂しい和風の庭園に感心する。非常によく手入れされており、箱庭の美しさを呈している。
案内の者から薫が既に到着している旨を聞きながら、二人だけの会見に敦は少々驚いた。薫の方は夫婦か、または第三者を伴ってくると考えていたのだ。この店は俗に言う「高級料亭」で、案内される部屋は完全な個室だろう。その様な閉鎖された空間に気心が知れない男と2人きりで会うとは、度胸がある女だ。
やがて、1階の一番奥の部屋にたどり着いた。
「こちらです」
案内の者が障子の脇に座り、中に声を掛けて障子を開けた。想像した通りの和風な部屋の中に女が1人座っている。敦は少々驚いたが、表情にそれを極力出さないよう心掛けた。
薫は洋装で、先日は結い上げていた髪の毛を垂らしていた。そうすると、益々若く見え、同時に恐ろしく真由に似ている事に気付かされた。彼女は身軽に立ち上がると、間にある小卓を避けるように回り込んでくると、さっと右手を差し出した。先日同様、躊躇の無い所作だった。真っ直ぐに敦の目を覗き込んでくる。
「ごきげんよう、広田様。わざわざお越しいただき、誠に嬉しく存じます」
「いやいや。こちらこそ、ご招待頂きありがとうって言う場面かなと思うけどね。でも、心臓に悪いぜ」
握った彼女の手を引っ張ると、敦は至近距離で薫を舐める様に観察した。
「こうして見ると、本当にマユに似てるね。まじ、[お姉様の間違いじゃございませんこと?] って言いたくなっちゃう」
「強引な殿方ですわね、広田様は。握手を悪用されるのはルール違反ですわよ」
敦を軽く睨みつける目付きまで似ている。内心舌を巻きながら、敦は軽く笑って手を放した。
「悪い。育ちが卑しいのでね。非礼があったら、どんどん指摘してくれ」
「素直な面はポイントが高いですわね。どうぞ、こちらへお座りください」
上座を勧められ、敦は肩を竦めてそこに座り、胡坐をかいた。薫はまだ廊下に膝をついていた案内の者に目をやると、始めるよう伝えた。
「お料理は私の方で勝手に決めました。こちらの店は和食ですが、土地柄なのか良いお魚を仕入れられるのですよ。広田様はお食事の好き嫌いが無いと先日おっしゃっていました。間違いございませんか?」
「違いない」
「今の時期ですと美味しいのは黒マグロらしいのですが、今夜は美味なイシガレイが入ってるそうです。薄造りと空揚げにしてくださるという事ですわ」
屈託なく料理の話を振りながらも、彼女の眼差しは敦を窺っている。機嫌よく薫の話を聞きながら、注意深く彼女を見つめ返す男の態度に彼女は訝しげに首を捻った。
「先日とは雰囲気が違いますわね。私の気の迷いでしょうか?」
「いや、勘がいいと思うよ」
冷酒用のお猪口を受け取った敦は薫の酌で注がれた日本酒を一気に飲み干した。その上で彼女に対して同じ事を行う。彼女は飲まずに再度彼のお猪口に酌をした上で、自分の物を軽くぶつけて乾杯の動作をした上で飲み干した。
「山辺さんのお話を拝聴しようと思ってね」
「薫と呼んでくださいませ」
「マユのママを呼び捨てにするのも何だからな。薫ちゃんか薫さんでどう?」
「ホホ」
彼女は堪えきれずに笑った。
「さすがに[ちゃん] 付けは避けたいですわね。では、薫さんの方でお願い致しますわ」
「了解、薫さん。俺は敦でいいよ」
「それこそ、娘でさえも呼び捨ててないのに私がそれをすると角が立ちましょう。敦さんに致しますわ」
その様に話している合間に「先付け」が運ばれてきた。上品な小品を口に運びながら、酒を愉しむ。
「それで本日雰囲気が違うのは何故でしょうか? どなたかに入れ知恵でもされましたか?」
本当に勘がいい女だ。真由の話では父親の方が勘がよく、母親は鈍いとの事だったが到底それには同意しかねる。多分、この母親は普段は細かいところに気付かないのではなく、気にしない鷹揚な性格なのだろう。だがその気になれば、幾らでも人の心の機微に気付く事は出来よう。
「うん、俺はどうやら薫さんの事を誤解してたかもしれない。それを気付かされたんだよ」
「まあ? 正直ですわね。おっしゃらなければ、わからないのに」
薫が可笑しそうに笑った。敦も内心苦笑する。しかし、どうせ言わなくても薫は察しているのだ。あっさりとばらす方が自分の性に合っている。
5.
「敦さんは将来のビジョンは夫にお話くださらなかったとの事ですわね」
「そうだね。自分でもまだ未定の事を人に言えるもんでもなかろう?」
「私どもの娘とどの様な将来をお考えなのかも教えてくださらないのですか?」
「マユともまだ話し合っていない将来の事を? 無茶言うなよ」
敦は苦笑いと共に肩を竦めた。
「でもまあ元治君にも言ったけど、俺個人の希望としてマユを女房にするつもりではいる。あくまでもあいつが嫌がらないならだけどね」
薫は窓の外をガラス越しに眺めている。この部屋の正面には池の一部が見える。照明が少し当たるその水面に時折り見える赤い影は緋鯉かもしれない。
「貴方があの子を連れ出すのではなく、貴方が私どもの家に入るという選択肢は考えられませんか?」
視線を動かして、敦を眺める彼女の視線は非常に真剣なものだった。
「聞けば、ご実家の家業はお継ぎにならないとの事。充分に考えてみる価値はあるかと存じます」
「俺の様な馬の骨を家に入れると? はっきり言って止めた方がいいぞ。物笑いの種になる。元治君にも言ったけど、あんたら、まだ若いんだからもう一子こさえたらどうだい?」
「敦さん。臆病な姿勢はお止めください。見苦しいですわ」
薫の馬鹿にした風な物言いに一瞬敦はムッとした。
「あ? 何言ってる?」
「ご自身の事を卑下なさるのは見苦しいだけでなく、非常に聞き苦しい。心の底からその様に感じてはいらっしゃらない癖に」
敦は一呼吸で立ち上がり薫に一歩近づくと、彼女の胸倉を掴み上げた。
「生意気な奥様だな。誰に物言ってる?」
低い声で威す様に囁くと、目の前の小さな婦人が負けじと口を開いた。
「ほら、本音が出ましたわね。少し突っつくとすぐに激昂されて。底が浅いですわよ、敦さん」
「失礼いたします」
すっと障子が開き、店の者が2人、部屋に入ってきた。敦達の様子を見て、一瞬だけ動きが止まったが、すぐさま流れるように膳を配置していく。
「本日の焼き物は寒鰤照り焼きに丸十甘露煮、ホタテと銀杏焼きとなります。煮物はえび芋、蛸、小倉煮、湯葉、絹さやです。揚げ物は出来次第お持ちいたします」
「ご苦労様。お願いしますわ」
喉元を締め上げられ、少々苦しいだろうに、動じない薫が返答する。
「敦さん、お食事の続きをいたしますわよ。お放しなさい」
「わりー」
舌を巻いた敦は薫を放しながら頭を掻いた。非常に居心地が悪い。彼女が言う事が正しい事はわかっている。すぐに頭に血が昇り、腕力に訴えた自分は底が浅い。胸元を整えて、きちんと座りなおした薫が箸を取る。
「素直で自分の非に気付くと即反省する点は大変宜しい。お食事をどうぞ。店の者が一番美味しくいただけるタイミングで運んでくださったお料理です」
「そうだな」
自分も箸を取って、運ばれてきた料理を口に運ぶ。熱からず、冷たからず。確かに、今が一番美味しく食べられるタイミングであると理解出来た。
「こちらの店は、調理場から客室までの距離やその日の気温等、全てを考慮した上で料理を運んでくれます。その努力に出来るだけ報いる事は私達、食べる側の義務であると私は考えております」
単純な金銭のやりとり以外で提供する者とされる者の間にあるべき礼儀を説いているのだろう。その言葉は不思議と敦にも理解出来た。彼の実家が飲食業を営んでいるせいかもしれない。街の大衆食堂と高級料亭では出てくる品は違ってくるが、サービス業としてのベースとなる理念は然程違いは無いだろう。
「私が申し上げました提案は可能性としてお考え下されば幸いです。試す前から諦めないで下さいませ」
薫の真摯な言葉が聞こえてくる。考えてみたら、彼女は最初から敦を軽んじていない。何とか彼を理解しようと、調べ、話を聞くなりして努力をしている。敦を「馬の骨」呼ばわりして、軽んじている者は他ならぬ敦自身であった。その事に気付いた敦は目に見えて狼狽し、気まずそうに目を背けた。
「もう一度謝る。すまん」
敦は美しく焼けている魚を口に運び、それを味わうと言葉を続けた。
「薫さんが言うように俺は底が浅いな。ちょっとした事で我を忘れる」
「敦さんが反省された事はもうわかっております。何度も謝られる必要はございません」
彼女は仏頂面で料理を咀嚼している男の表情を面白そうに眺めながら笑った。
「そもそも、敦さんをわざと怒らせる為に言葉を選んだのは私の方です」
片眉を上げて薫に視線を戻した敦の目を眺め返しながら続ける。
「念の為に申し上げますが、自分の行為に対する報いという形で対価は既に支払いましたわよ」
「まいったね。俺みたいな若造では太刀打ちできないものを感じるね」
敦は両手を上げる。降参のポーズを取りながら、首を振った。
「下手に構えないでお話を伺いますよ、薫さん。さすが、マユのママだけあるわ」
簡単な話だ。子供を見ると、それを育てた親の資質もわかるというものだ。娘の真由は1人で勝手に育ったわけではない。あの稀有な娘に気付きながら、何故親も稀有な存在と思い至らなかったのだろう?
色眼鏡で彼らを見ていたのは自分の方だった。
「こんばんは、お迎えに上がりました」
「おっ。榊さん、こんばんは」
先日、山辺邸に赴いた際に話をした運転手の榊が敦のアパートの部屋をノックしたのは火曜の夕刻、17時の事だった。
「今回も来てくれるとは知らなかった。指定の場所と日時を聞いてたので自分でそこに向かうつもりだったんだ」
「お酒も出る席との事ですので」
バイクで店に向かうつもりだった敦の考えを察した様に榊は穏やかに口を添える。
「そか。どんな店? フォーマルでないと入れない店だと困るんだけど?」
「どの様なお召し物でも大丈夫ですよ。奥様がよく使われるお店ですので、気心も知れています」
「あれ?」
敦は漸く一つの可能性に気付いた。
「榊さんがここにいるって事は? マユのママ、どうやってその店に行くの?」
「お気になさらないで大丈夫です。奥様は買い物先からご自身で店に向かう手筈となっております」
「そ? んじゃ、お言葉に甘えて世話になるよ」
部屋から出ると鍵を掛けながら榊を振り返って微笑む。この実直そうな男は好きだ。榊が運転する車の後部座席は本日も非常に座り心地が良かった。但し、その交通ルールを100%守った「超」安全運転には欠伸を噛み殺すしかなかった。
店は銀座の外れに位置し、築地市場もそれほど遠くない細い路地裏に面していた。小さい門の前に横付けされた車から降り立った敦は、メニューさえも表に出ていない高級感漂う店構えに少し眉を顰めた。
「それでは、私はこれでお暇致します。ごゆっくり楽しんでください。こちらのお店は吟味されたお魚料理で有名です」
「榊さん、今日はありがとね」
運転席側に近寄って低い声で榊と会話をする敦に背後から店の者が声を掛ける。
「いらっしゃいませ、旦那様。お名前を伺えますでしょうか?」
「広田敦様です」
「かしこまりました。伺っております。どうぞこちらへ」
敦が答える前に榊が返答した。敦は肩を竦め、軽く会釈した榊が車を発進させるのを見送ると、店に足を踏み込んだ。
「山辺様は既にお越しです」
「そう? 薫さん?」
「はい、奥様だけでございます。ご予約も山辺様と広田様の二名様にて承っております」
思ったより長い廊下を歩きながら、窓ガラスの外に見える冬枯れて寂しい和風の庭園に感心する。非常によく手入れされており、箱庭の美しさを呈している。
案内の者から薫が既に到着している旨を聞きながら、二人だけの会見に敦は少々驚いた。薫の方は夫婦か、または第三者を伴ってくると考えていたのだ。この店は俗に言う「高級料亭」で、案内される部屋は完全な個室だろう。その様な閉鎖された空間に気心が知れない男と2人きりで会うとは、度胸がある女だ。
やがて、1階の一番奥の部屋にたどり着いた。
「こちらです」
案内の者が障子の脇に座り、中に声を掛けて障子を開けた。想像した通りの和風な部屋の中に女が1人座っている。敦は少々驚いたが、表情にそれを極力出さないよう心掛けた。
薫は洋装で、先日は結い上げていた髪の毛を垂らしていた。そうすると、益々若く見え、同時に恐ろしく真由に似ている事に気付かされた。彼女は身軽に立ち上がると、間にある小卓を避けるように回り込んでくると、さっと右手を差し出した。先日同様、躊躇の無い所作だった。真っ直ぐに敦の目を覗き込んでくる。
「ごきげんよう、広田様。わざわざお越しいただき、誠に嬉しく存じます」
「いやいや。こちらこそ、ご招待頂きありがとうって言う場面かなと思うけどね。でも、心臓に悪いぜ」
握った彼女の手を引っ張ると、敦は至近距離で薫を舐める様に観察した。
「こうして見ると、本当にマユに似てるね。まじ、[お姉様の間違いじゃございませんこと?] って言いたくなっちゃう」
「強引な殿方ですわね、広田様は。握手を悪用されるのはルール違反ですわよ」
敦を軽く睨みつける目付きまで似ている。内心舌を巻きながら、敦は軽く笑って手を放した。
「悪い。育ちが卑しいのでね。非礼があったら、どんどん指摘してくれ」
「素直な面はポイントが高いですわね。どうぞ、こちらへお座りください」
上座を勧められ、敦は肩を竦めてそこに座り、胡坐をかいた。薫はまだ廊下に膝をついていた案内の者に目をやると、始めるよう伝えた。
「お料理は私の方で勝手に決めました。こちらの店は和食ですが、土地柄なのか良いお魚を仕入れられるのですよ。広田様はお食事の好き嫌いが無いと先日おっしゃっていました。間違いございませんか?」
「違いない」
「今の時期ですと美味しいのは黒マグロらしいのですが、今夜は美味なイシガレイが入ってるそうです。薄造りと空揚げにしてくださるという事ですわ」
屈託なく料理の話を振りながらも、彼女の眼差しは敦を窺っている。機嫌よく薫の話を聞きながら、注意深く彼女を見つめ返す男の態度に彼女は訝しげに首を捻った。
「先日とは雰囲気が違いますわね。私の気の迷いでしょうか?」
「いや、勘がいいと思うよ」
冷酒用のお猪口を受け取った敦は薫の酌で注がれた日本酒を一気に飲み干した。その上で彼女に対して同じ事を行う。彼女は飲まずに再度彼のお猪口に酌をした上で、自分の物を軽くぶつけて乾杯の動作をした上で飲み干した。
「山辺さんのお話を拝聴しようと思ってね」
「薫と呼んでくださいませ」
「マユのママを呼び捨てにするのも何だからな。薫ちゃんか薫さんでどう?」
「ホホ」
彼女は堪えきれずに笑った。
「さすがに[ちゃん] 付けは避けたいですわね。では、薫さんの方でお願い致しますわ」
「了解、薫さん。俺は敦でいいよ」
「それこそ、娘でさえも呼び捨ててないのに私がそれをすると角が立ちましょう。敦さんに致しますわ」
その様に話している合間に「先付け」が運ばれてきた。上品な小品を口に運びながら、酒を愉しむ。
「それで本日雰囲気が違うのは何故でしょうか? どなたかに入れ知恵でもされましたか?」
本当に勘がいい女だ。真由の話では父親の方が勘がよく、母親は鈍いとの事だったが到底それには同意しかねる。多分、この母親は普段は細かいところに気付かないのではなく、気にしない鷹揚な性格なのだろう。だがその気になれば、幾らでも人の心の機微に気付く事は出来よう。
「うん、俺はどうやら薫さんの事を誤解してたかもしれない。それを気付かされたんだよ」
「まあ? 正直ですわね。おっしゃらなければ、わからないのに」
薫が可笑しそうに笑った。敦も内心苦笑する。しかし、どうせ言わなくても薫は察しているのだ。あっさりとばらす方が自分の性に合っている。
5.
「敦さんは将来のビジョンは夫にお話くださらなかったとの事ですわね」
「そうだね。自分でもまだ未定の事を人に言えるもんでもなかろう?」
「私どもの娘とどの様な将来をお考えなのかも教えてくださらないのですか?」
「マユともまだ話し合っていない将来の事を? 無茶言うなよ」
敦は苦笑いと共に肩を竦めた。
「でもまあ元治君にも言ったけど、俺個人の希望としてマユを女房にするつもりではいる。あくまでもあいつが嫌がらないならだけどね」
薫は窓の外をガラス越しに眺めている。この部屋の正面には池の一部が見える。照明が少し当たるその水面に時折り見える赤い影は緋鯉かもしれない。
「貴方があの子を連れ出すのではなく、貴方が私どもの家に入るという選択肢は考えられませんか?」
視線を動かして、敦を眺める彼女の視線は非常に真剣なものだった。
「聞けば、ご実家の家業はお継ぎにならないとの事。充分に考えてみる価値はあるかと存じます」
「俺の様な馬の骨を家に入れると? はっきり言って止めた方がいいぞ。物笑いの種になる。元治君にも言ったけど、あんたら、まだ若いんだからもう一子こさえたらどうだい?」
「敦さん。臆病な姿勢はお止めください。見苦しいですわ」
薫の馬鹿にした風な物言いに一瞬敦はムッとした。
「あ? 何言ってる?」
「ご自身の事を卑下なさるのは見苦しいだけでなく、非常に聞き苦しい。心の底からその様に感じてはいらっしゃらない癖に」
敦は一呼吸で立ち上がり薫に一歩近づくと、彼女の胸倉を掴み上げた。
「生意気な奥様だな。誰に物言ってる?」
低い声で威す様に囁くと、目の前の小さな婦人が負けじと口を開いた。
「ほら、本音が出ましたわね。少し突っつくとすぐに激昂されて。底が浅いですわよ、敦さん」
「失礼いたします」
すっと障子が開き、店の者が2人、部屋に入ってきた。敦達の様子を見て、一瞬だけ動きが止まったが、すぐさま流れるように膳を配置していく。
「本日の焼き物は寒鰤照り焼きに丸十甘露煮、ホタテと銀杏焼きとなります。煮物はえび芋、蛸、小倉煮、湯葉、絹さやです。揚げ物は出来次第お持ちいたします」
「ご苦労様。お願いしますわ」
喉元を締め上げられ、少々苦しいだろうに、動じない薫が返答する。
「敦さん、お食事の続きをいたしますわよ。お放しなさい」
「わりー」
舌を巻いた敦は薫を放しながら頭を掻いた。非常に居心地が悪い。彼女が言う事が正しい事はわかっている。すぐに頭に血が昇り、腕力に訴えた自分は底が浅い。胸元を整えて、きちんと座りなおした薫が箸を取る。
「素直で自分の非に気付くと即反省する点は大変宜しい。お食事をどうぞ。店の者が一番美味しくいただけるタイミングで運んでくださったお料理です」
「そうだな」
自分も箸を取って、運ばれてきた料理を口に運ぶ。熱からず、冷たからず。確かに、今が一番美味しく食べられるタイミングであると理解出来た。
「こちらの店は、調理場から客室までの距離やその日の気温等、全てを考慮した上で料理を運んでくれます。その努力に出来るだけ報いる事は私達、食べる側の義務であると私は考えております」
単純な金銭のやりとり以外で提供する者とされる者の間にあるべき礼儀を説いているのだろう。その言葉は不思議と敦にも理解出来た。彼の実家が飲食業を営んでいるせいかもしれない。街の大衆食堂と高級料亭では出てくる品は違ってくるが、サービス業としてのベースとなる理念は然程違いは無いだろう。
「私が申し上げました提案は可能性としてお考え下されば幸いです。試す前から諦めないで下さいませ」
薫の真摯な言葉が聞こえてくる。考えてみたら、彼女は最初から敦を軽んじていない。何とか彼を理解しようと、調べ、話を聞くなりして努力をしている。敦を「馬の骨」呼ばわりして、軽んじている者は他ならぬ敦自身であった。その事に気付いた敦は目に見えて狼狽し、気まずそうに目を背けた。
「もう一度謝る。すまん」
敦は美しく焼けている魚を口に運び、それを味わうと言葉を続けた。
「薫さんが言うように俺は底が浅いな。ちょっとした事で我を忘れる」
「敦さんが反省された事はもうわかっております。何度も謝られる必要はございません」
彼女は仏頂面で料理を咀嚼している男の表情を面白そうに眺めながら笑った。
「そもそも、敦さんをわざと怒らせる為に言葉を選んだのは私の方です」
片眉を上げて薫に視線を戻した敦の目を眺め返しながら続ける。
「念の為に申し上げますが、自分の行為に対する報いという形で対価は既に支払いましたわよ」
「まいったね。俺みたいな若造では太刀打ちできないものを感じるね」
敦は両手を上げる。降参のポーズを取りながら、首を振った。
「下手に構えないでお話を伺いますよ、薫さん。さすが、マユのママだけあるわ」
簡単な話だ。子供を見ると、それを育てた親の資質もわかるというものだ。娘の真由は1人で勝手に育ったわけではない。あの稀有な娘に気付きながら、何故親も稀有な存在と思い至らなかったのだろう?
色眼鏡で彼らを見ていたのは自分の方だった。
0
あなたにおすすめの小説
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
橘若頭と怖がり姫
真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。
その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。
高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
戸を開いたその先に。~捨てられ縫い姫は、貧乏進士(実は皇帝)に溺愛される~
若松だんご
恋愛
――すまない! 少し休ませてもらえないか!
今日は、門の前で訪れる男性を待つ日。「婿取りの儀式」
門を開け、招き入れた男性を夫とする。
そんなしきたりに従って、家の裏門で訪れる予定もない相手を待っていたのだけれど。
――すまない。連れの具合が良くないんだ。
やや強引に、ぐったりした連れの少年を抱えて入ってきた青年。
十のときに母が亡くなり、父が連れてきた義母と異母姉。
実の娘なのに、屋敷の隅に追いやられ、もっぱら縫い物ばかりさせられていた。
その上、幼い頃からの許嫁だった人からも婚約破棄され、彼は異母姉の夫となった。
「こんな男を夫にするのか!」
彼らに出会ったことで、父親から勘当されたリファ。
そんな彼女を助けてくれたのは、今日が婿取りの儀式だと知らず飛び込んできた青年。
――身の振り方が決まるまで。
妻にする気はない。自由にして構わない。
セイランと名乗った青年は、頼る先のないリファに、とりあえずの暮らすところを提供してくれた。
地方から省試を受けるため上京してきたというセイラン。彼の従者で、弟みたいな少年、ハクエイ。
彼らと暮らしながら、少しずつ自立のために縫い物仕事を引き受けたり、彼らのために家事に勤しんだり。
家族に捨てられ、婚約者からも見捨てられ。
悲しみに、絶望しかけていたリファは、彼らと暮らすことで、少しずつその心を癒やしていくけれど。
――自立。
いつかは、彼らと別れて一人で暮らしていかなくては。いつまでも厚情に甘えてばかりいられない。
そう思うのに。
ずっとここで暮らしていたい。ハクエイと、……セイランさんといっしょに。
――彼女の境遇に同情しただけ。助けたのは、ちょっとした義侠心。
自分の運命に、誰かを巻き込みたくない。誰かを愛するなんてことはしない。
そう思うのに。
ずっとここで暮らしていたい。ただの進士として、……彼女といっしょに。
リファとセイラン。
互いに知らず惹かれ合う。相手を知れば知るほど、その想いは深まって――。
門を開けたことで、門をくぐったことで始まる、二人の恋の物語。
バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました
美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる