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第8章
アニス、地下街へ行く①
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二一一四年 十月某日 王の日記より
あの朝、目を覚ましたスイレンはしきりに謝っていた。むしろ、謝罪するのはわたしのほうだというのに。彼女は、もしかしたらわたしの思いを知っていたのかもしれない。
スイレンも、何も言わずわたしの前から姿を消した。
澄みわたる天気だったアケイシアとは一転、スクラップは灰混じりの雨模様だった。
「ふう、ただいまー」
呑気なかけ声で工場の入り口をくぐった瞬間、ツバキは強烈なパンチに見舞われた。頭に上げたゴーグルも、ベルトがはずれふっ飛ぶ。
「……てめっ、何すんだ、いきなり!」
切れた口の端をぬぐい体勢を立て直すと、アカザが仁王立ちになって、パキポキと指を組み鳴らしながらツバキを見下ろしている。
「そこへ直れ……」
「とんだ出迎えじゃねェか。なんのつもりだ!」
息巻くツバキに、ヒノキが黙って一枚の手紙をわたした。
「お前宛ての書き置きだ。アニスは今朝早く、我々も気づかんうちに出て行ってな」
「な!?」
「新しい石けんを置いて行ったよ」
ヒノキが小さなガラス瓶を棚から取り出す。
薄い木のスプーンが添えられたまっ白なそれは、今までの固形石けんとは違う洗料だった。手に取るとアイスクリームのようになめらかで、思わずなめてみたくなる。
「あんたと取材に行った緋ノ島の白砂で作ったと、我々への手紙には書いておった」
そう、緋ノ島のオレンジ農家の老人は、きめの細かい白砂を洗料に使っていたのだ。それをヒントに、アニスは商品を開発した。
「これで工場は安泰だ。おまけにあの子は、灰干しや灰を使った染色法まで残していきおった。やっかいな火山灰が役に立つ日が来るなど誰が考えた? わしも夢にも思わなかったわい」
ヒノキが鼻をすすり、うれしさに涙ぐむ作業員の姿もある。巨漢のカシすら無表情のまま、だらだらと涙を流していた。
ツバキも、思わず感嘆の声をもらす。
「新商品、できたのか……よかったな、アニス博士」
(わたしが作りたいのは、製作側も消費者も幸せになる石けん──)
アニスが目を輝かせて語ったあのプレゼンは、今現実のものになろうとしている。ツバキは我に返り、アカザに向かって敢然と反駁した。
「おい、おれたちは工場に貢献したじゃねェか。なんで殴られなきゃいけねェんだよ!」
「その手紙を読んでみろ、この脳筋が」
にぎってぐしゃぐしゃになった紙面に気づき、あわててそっと開く。そこには、数行ほどの文面が、きれいな文字でしたためられていた。
ツバキはざっと目を通すと、手紙をつかみ急いで工場から飛び出した。文字がアニスの声で甦る。
──リクドウさんへ
短い間でしたが、お世話になりました。
わたしは桜城へ行き、DNA鑑定を受けてみようと思います。
国王のいない国で、神の加護のない国で、わたしができることなんて本当にちっぽけ。もしもわたしが王女だったとしても、何も変わらないかもしれません。リクドウさんに、賞与をわたせるかもわかりません。
それでも、塾考欠乏体質のリクドウさんを見ていたら、わたしも無謀なことに挑戦してみたくなりました(笑)
リクドウさんの夢が叶うことを願って──アニス
行く手を遮るように灰雨が叩きつける。通常の豪雨より灰が混じっているぶん重く濁っており、それは泥が降るような状態だ。
ゴーグルなしでは数歩も進むことができず、瞬く間に泥だらけになりツバキはつまずいて転んだ。転倒したまま、ぐしゃりと手紙をにぎりしめる。
「なんだよ(笑)って。笑えねーよ。塾考が欠乏してて悪かったな。さりげなくけなしてんじゃねーよ。おれだっていちおう考えたんだよ。でも、なんで自分はいつも勝手に行っちまうんだ。そんなのずりィじゃねーか」
雨といっしょに灰の粒が目に入り、痛さに泣けてきた。いつかのトウガラシスプレーより激しい痛みに、後から後から涙が出た。
うずくまるツバキの前で、黒のアーミーブーツが砂利を踏む。
「悪いが手紙は読ませてもらった。おれが殴ったのは、お前の姿勢が気に入らねえからだ。ツバキ・リクドウ二等兵、お前は自分の昇格の手段にアニスを使おうとした。本当にどうしようもない男だな」
アカザが、ツバキの胸ぐらをつかんで起き上がらせる。されるがままになりながら、ツバキはぼんやりと思った。
(……こいつ、初めからおれの名前知ってた。指名手配されてたから? でも、じゃあなんで工場に招き入れた。いったい、いつから素性を知ってた?)
だが、今はそんなことはどうでもいい。
蔑する目つきで、アカザが力の抜けたツバキに顔を近づける。
「ふん、もう少し骨があるかと思ったが、所詮この程度──」
──カチ。
「動くな」
脇腹に当てられた銃口の感覚に、アカザがぴくりと片眉を上げた。抑揚のない声でツバキが告げる。
「サンドバイクのキィをよこせ」
「……これ以上罪を重ねると、近衛連隊から除名されるぞ」
「わたさねェと撃つ」
銃口をおし当てたままアカザを睨むツバキのまなざしは、磨いた水晶のように硬質で精悍な光を宿していた。脅されているというのに、アカザはニヤリと口角を上げる。
キィを受け取るとツバキはバイクにまたがり、札束の半分をアカザに投げた。
「──チビのことは悪かったな、オッサン」
バイクは爆音を立て工場の敷地を出て行き、作業員たちがわらわらと出て来る。
「オッサン……」
こめかみを引きつらせるアカザのとなりに、ヒノキもやって来た。
「リクドウのやつ、行ったんですか」
「ああ、ようやくな。馬鹿め、おれが水鉄砲と銃の区別もつかねえと思ってやがる」
アカザは忌々しげに、だが楽しげに、遠ざかるバイクを見やった。
あの朝、目を覚ましたスイレンはしきりに謝っていた。むしろ、謝罪するのはわたしのほうだというのに。彼女は、もしかしたらわたしの思いを知っていたのかもしれない。
スイレンも、何も言わずわたしの前から姿を消した。
澄みわたる天気だったアケイシアとは一転、スクラップは灰混じりの雨模様だった。
「ふう、ただいまー」
呑気なかけ声で工場の入り口をくぐった瞬間、ツバキは強烈なパンチに見舞われた。頭に上げたゴーグルも、ベルトがはずれふっ飛ぶ。
「……てめっ、何すんだ、いきなり!」
切れた口の端をぬぐい体勢を立て直すと、アカザが仁王立ちになって、パキポキと指を組み鳴らしながらツバキを見下ろしている。
「そこへ直れ……」
「とんだ出迎えじゃねェか。なんのつもりだ!」
息巻くツバキに、ヒノキが黙って一枚の手紙をわたした。
「お前宛ての書き置きだ。アニスは今朝早く、我々も気づかんうちに出て行ってな」
「な!?」
「新しい石けんを置いて行ったよ」
ヒノキが小さなガラス瓶を棚から取り出す。
薄い木のスプーンが添えられたまっ白なそれは、今までの固形石けんとは違う洗料だった。手に取るとアイスクリームのようになめらかで、思わずなめてみたくなる。
「あんたと取材に行った緋ノ島の白砂で作ったと、我々への手紙には書いておった」
そう、緋ノ島のオレンジ農家の老人は、きめの細かい白砂を洗料に使っていたのだ。それをヒントに、アニスは商品を開発した。
「これで工場は安泰だ。おまけにあの子は、灰干しや灰を使った染色法まで残していきおった。やっかいな火山灰が役に立つ日が来るなど誰が考えた? わしも夢にも思わなかったわい」
ヒノキが鼻をすすり、うれしさに涙ぐむ作業員の姿もある。巨漢のカシすら無表情のまま、だらだらと涙を流していた。
ツバキも、思わず感嘆の声をもらす。
「新商品、できたのか……よかったな、アニス博士」
(わたしが作りたいのは、製作側も消費者も幸せになる石けん──)
アニスが目を輝かせて語ったあのプレゼンは、今現実のものになろうとしている。ツバキは我に返り、アカザに向かって敢然と反駁した。
「おい、おれたちは工場に貢献したじゃねェか。なんで殴られなきゃいけねェんだよ!」
「その手紙を読んでみろ、この脳筋が」
にぎってぐしゃぐしゃになった紙面に気づき、あわててそっと開く。そこには、数行ほどの文面が、きれいな文字でしたためられていた。
ツバキはざっと目を通すと、手紙をつかみ急いで工場から飛び出した。文字がアニスの声で甦る。
──リクドウさんへ
短い間でしたが、お世話になりました。
わたしは桜城へ行き、DNA鑑定を受けてみようと思います。
国王のいない国で、神の加護のない国で、わたしができることなんて本当にちっぽけ。もしもわたしが王女だったとしても、何も変わらないかもしれません。リクドウさんに、賞与をわたせるかもわかりません。
それでも、塾考欠乏体質のリクドウさんを見ていたら、わたしも無謀なことに挑戦してみたくなりました(笑)
リクドウさんの夢が叶うことを願って──アニス
行く手を遮るように灰雨が叩きつける。通常の豪雨より灰が混じっているぶん重く濁っており、それは泥が降るような状態だ。
ゴーグルなしでは数歩も進むことができず、瞬く間に泥だらけになりツバキはつまずいて転んだ。転倒したまま、ぐしゃりと手紙をにぎりしめる。
「なんだよ(笑)って。笑えねーよ。塾考が欠乏してて悪かったな。さりげなくけなしてんじゃねーよ。おれだっていちおう考えたんだよ。でも、なんで自分はいつも勝手に行っちまうんだ。そんなのずりィじゃねーか」
雨といっしょに灰の粒が目に入り、痛さに泣けてきた。いつかのトウガラシスプレーより激しい痛みに、後から後から涙が出た。
うずくまるツバキの前で、黒のアーミーブーツが砂利を踏む。
「悪いが手紙は読ませてもらった。おれが殴ったのは、お前の姿勢が気に入らねえからだ。ツバキ・リクドウ二等兵、お前は自分の昇格の手段にアニスを使おうとした。本当にどうしようもない男だな」
アカザが、ツバキの胸ぐらをつかんで起き上がらせる。されるがままになりながら、ツバキはぼんやりと思った。
(……こいつ、初めからおれの名前知ってた。指名手配されてたから? でも、じゃあなんで工場に招き入れた。いったい、いつから素性を知ってた?)
だが、今はそんなことはどうでもいい。
蔑する目つきで、アカザが力の抜けたツバキに顔を近づける。
「ふん、もう少し骨があるかと思ったが、所詮この程度──」
──カチ。
「動くな」
脇腹に当てられた銃口の感覚に、アカザがぴくりと片眉を上げた。抑揚のない声でツバキが告げる。
「サンドバイクのキィをよこせ」
「……これ以上罪を重ねると、近衛連隊から除名されるぞ」
「わたさねェと撃つ」
銃口をおし当てたままアカザを睨むツバキのまなざしは、磨いた水晶のように硬質で精悍な光を宿していた。脅されているというのに、アカザはニヤリと口角を上げる。
キィを受け取るとツバキはバイクにまたがり、札束の半分をアカザに投げた。
「──チビのことは悪かったな、オッサン」
バイクは爆音を立て工場の敷地を出て行き、作業員たちがわらわらと出て来る。
「オッサン……」
こめかみを引きつらせるアカザのとなりに、ヒノキもやって来た。
「リクドウのやつ、行ったんですか」
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