17 / 91
第一章
見知らぬ女性
しおりを挟む
学院での広報活動は上手くいっているのですが、ヒューバート様との仲は特に進展もなく、婚約してちょうど一年経った頃の長期休みのことでした。
わたくしは懲りもせず、埃っぽいヘビントン領に降り立ちました。
いえ、反省はしました。
以前は休日のたびに「来ちゃった」作戦を決行していたのですが、王都に帰るのを渋ったことが多々あり、それをやんわりと叱られてしまったので……。
「めっ。悪い子だ。しばらく来てはいけないよ。学生はしっかり勉強しなさい」
……ええ、前回の訪問から、三ヶ月出禁になっていたのです。さらにヒューバート様も経営に必死で、王都に戻ってこなかったので、お会いするのは本当に久しぶりでした。
お顔を見ることができなくて死ぬのではないかと思いましたが、ミラベルの励ましのおかげで──ヒューバート様の服をお借りし、クンカクンカすることで──なんとか生き長らえることができたのです。
ですが今回は学院の長期休暇。ひと月近く、一緒に過ごせるのです!
ヘビントン侯爵領ではさらに羊が増え、領民より羊が多いのではないかというほど、休耕地が埋めつくされておりました。屋敷の敷地内でもウロウロしているのですもの……。
扉をノックすると、少しやつれた顔のヒューバート様が出迎えてくれました。疲れてはいるようでしたが、いつものように柔らかい笑みを浮かべて。
「やあ、シンシア。よく来たね」
ヒューバート様! 久しぶりすぎて涙が零れそうです。
飛びつくように抱き着くと、ヒューバート様の口からグフッと声が漏れ、よろけてひっくり返ってしまわれました。
「少し痩せたかい? 体の調子は大丈夫?」
尻をポンポン叩きながら、彼は注意深くわたくしを観察なさいました。体調を心配されているようです。
ちがうの、お兄様に隠れ食いが見つかって、ついには食品庫に鍵をかけられてしまったから……学院でしか、たくさん食べられなかったの。
「僕に会えなくて寂しかったからかな?」
「そうですわ! ヒューバート様に会えなくて寂しかったからですわ!」
でもヒューバート様に心配をかけるくらいなら、がんばって食べます!
「王都や学院や、ミラベルのこと、いっぱいお話したいですわっ」
「うん、夜にでも聞くよ。ごめんね、なかなか戻れなくて。来る前に速達で連絡をくれれば、もっと君と過ごす時間を取れたんだけど。あいにく今日は羊毛の仕入れ業者の選定を入れてしまっていて──」
ヒューバート様の言葉を消すように、絹を切り裂くような悲鳴が聞こえました。
「ヘビントン侯爵!」
女性の声でした。
それからわたくしの体が上に引っ張られました。後ろを振り返ろうとしましたが、首が回らず、そのまま床の上にひっくり返ってしまいます。
まるで亀のようにバタバタしてしまいましたが、それで初めて、その女性の存在に気づいたのです。
「圧死なさっているのかと思いましたわ。一体これは……」
じろりと睨んできたのは、栗色の髪の女性です。
ヒューバート様は差し伸べられた彼女の手を握って起きあがると、苦笑いしました。
わたくしを抱え起こして、その女性の方に向けました。
「ナディーン嬢、紹介しますね。こちらは僕の婚約者、シンシアです」
「え……」
わたくしはその女性がカクンと顎を落とすのを見て、彼女もヒューバート様に群がる鮫令嬢の一人なのだと確信いたしました。直感ですわ。
「こちらの方は?」
「彼女は──」
「わたくしは、ハートフィールド伯爵の娘ナディーンと申します」
その女性はヒューバート様の紹介を待たずに、自己紹介をなさいました。見た目は大人しそうなのに、はきはき物を言うタイプです。
落ち着いた褐色の髪は、くせっ毛のわたくしが歯軋りして羨ましくなるぐらいのストレートでした。
しかしながら、いつもヒューバート様に群がる鮫令嬢たちのような、華やかさはございません。
むしろ地味なくらいでした。おそらくドレスやアクセサリーが、控えめだったからでしょう。
「実はこのナディーン嬢、遠縁なんだ。北部のハートフィールド伯爵領から、お父上と一緒にはるばる訪ねて来てくださった」
ナディーン様は恥じるように俯きました。
「はっきりおっしゃっていただいてもよろしくてよ、ヒューバート様」
わたくしが首を傾げると、彼女は弱々しく微笑みました。
「資金援助のお願いに参ったと」
そうおっしゃった彼女は酷く自分を恥じているようでした。おそらくプライドがそうさせているのでしょう。
ヒューバート様が困ったように口を閉ざしました。
やがて、誠実さの溢れ出る声で彼はおっしゃいました。
「縁者が困っている時に助けるのは当たり前だよ、ナディーン嬢」
わたくしは懲りもせず、埃っぽいヘビントン領に降り立ちました。
いえ、反省はしました。
以前は休日のたびに「来ちゃった」作戦を決行していたのですが、王都に帰るのを渋ったことが多々あり、それをやんわりと叱られてしまったので……。
「めっ。悪い子だ。しばらく来てはいけないよ。学生はしっかり勉強しなさい」
……ええ、前回の訪問から、三ヶ月出禁になっていたのです。さらにヒューバート様も経営に必死で、王都に戻ってこなかったので、お会いするのは本当に久しぶりでした。
お顔を見ることができなくて死ぬのではないかと思いましたが、ミラベルの励ましのおかげで──ヒューバート様の服をお借りし、クンカクンカすることで──なんとか生き長らえることができたのです。
ですが今回は学院の長期休暇。ひと月近く、一緒に過ごせるのです!
ヘビントン侯爵領ではさらに羊が増え、領民より羊が多いのではないかというほど、休耕地が埋めつくされておりました。屋敷の敷地内でもウロウロしているのですもの……。
扉をノックすると、少しやつれた顔のヒューバート様が出迎えてくれました。疲れてはいるようでしたが、いつものように柔らかい笑みを浮かべて。
「やあ、シンシア。よく来たね」
ヒューバート様! 久しぶりすぎて涙が零れそうです。
飛びつくように抱き着くと、ヒューバート様の口からグフッと声が漏れ、よろけてひっくり返ってしまわれました。
「少し痩せたかい? 体の調子は大丈夫?」
尻をポンポン叩きながら、彼は注意深くわたくしを観察なさいました。体調を心配されているようです。
ちがうの、お兄様に隠れ食いが見つかって、ついには食品庫に鍵をかけられてしまったから……学院でしか、たくさん食べられなかったの。
「僕に会えなくて寂しかったからかな?」
「そうですわ! ヒューバート様に会えなくて寂しかったからですわ!」
でもヒューバート様に心配をかけるくらいなら、がんばって食べます!
「王都や学院や、ミラベルのこと、いっぱいお話したいですわっ」
「うん、夜にでも聞くよ。ごめんね、なかなか戻れなくて。来る前に速達で連絡をくれれば、もっと君と過ごす時間を取れたんだけど。あいにく今日は羊毛の仕入れ業者の選定を入れてしまっていて──」
ヒューバート様の言葉を消すように、絹を切り裂くような悲鳴が聞こえました。
「ヘビントン侯爵!」
女性の声でした。
それからわたくしの体が上に引っ張られました。後ろを振り返ろうとしましたが、首が回らず、そのまま床の上にひっくり返ってしまいます。
まるで亀のようにバタバタしてしまいましたが、それで初めて、その女性の存在に気づいたのです。
「圧死なさっているのかと思いましたわ。一体これは……」
じろりと睨んできたのは、栗色の髪の女性です。
ヒューバート様は差し伸べられた彼女の手を握って起きあがると、苦笑いしました。
わたくしを抱え起こして、その女性の方に向けました。
「ナディーン嬢、紹介しますね。こちらは僕の婚約者、シンシアです」
「え……」
わたくしはその女性がカクンと顎を落とすのを見て、彼女もヒューバート様に群がる鮫令嬢の一人なのだと確信いたしました。直感ですわ。
「こちらの方は?」
「彼女は──」
「わたくしは、ハートフィールド伯爵の娘ナディーンと申します」
その女性はヒューバート様の紹介を待たずに、自己紹介をなさいました。見た目は大人しそうなのに、はきはき物を言うタイプです。
落ち着いた褐色の髪は、くせっ毛のわたくしが歯軋りして羨ましくなるぐらいのストレートでした。
しかしながら、いつもヒューバート様に群がる鮫令嬢たちのような、華やかさはございません。
むしろ地味なくらいでした。おそらくドレスやアクセサリーが、控えめだったからでしょう。
「実はこのナディーン嬢、遠縁なんだ。北部のハートフィールド伯爵領から、お父上と一緒にはるばる訪ねて来てくださった」
ナディーン様は恥じるように俯きました。
「はっきりおっしゃっていただいてもよろしくてよ、ヒューバート様」
わたくしが首を傾げると、彼女は弱々しく微笑みました。
「資金援助のお願いに参ったと」
そうおっしゃった彼女は酷く自分を恥じているようでした。おそらくプライドがそうさせているのでしょう。
ヒューバート様が困ったように口を閉ざしました。
やがて、誠実さの溢れ出る声で彼はおっしゃいました。
「縁者が困っている時に助けるのは当たり前だよ、ナディーン嬢」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
1,395
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる