苺のクリームケーキを食べるあなた

喜楽直人

文字の大きさ
27 / 50
本編

第二十六話 エレナ侯爵夫人

しおりを挟む



「これなのだけれど、どうかしら。私の祖母から受け継いだウェディングドレスなの。母も着たのよ。私の婚姻式に使って欲しいと言われたのだけど、身長が違い過ぎてしまって。胸元に使っていたレースを一部だけ貰って私の式で着た衣装に使ってしまったのだけれど丁寧に解いて始末をし直してあるし、それ以外はまだまだ十分綺麗でしょ。お手入れも侯爵家の使用人たちが心を込めてしてくれているわ。年代物ではあるのだけれどまだ着れると思うのだけど、どうかしら」

 サリの目の前にあるのは、これまでサリが見た中でも別格に美しく緻密な刺繍が全面に施された美しいドレスだった。
 但しデコルテを縁取るように縫い付けれているレースが一部外されて代わりに絹で縫い目が解けないように処理がされている。

 ぱたぱたと胸元から袖へと手を通して振ってみせてくれるのだが、その頓着のない動きにサリの心臓が厭な軋みを立てる。

(これって、もしかして国宝級のドレスなのではないかしら) 

 サリの記憶が確かならば、アーベル侯爵家夫人の生家はペール伯爵家だ。そして先々代の伯爵夫人は、この国の王女殿下であった筈だ。大恋愛の末に伯爵家へ降嫁されたというのは有名な話だ。

 つまり、今、サリに貸し出されようとしているのは、王女殿下が降嫁された時に着用していたウェディングドレスのお下がりのお下がり。

 どっしりと厚い絹に施された、どこに針目があるのかも分からない複雑な刺繍はよく見れば王家の紋章がそれとはわかりにくいように簡略意匠化されたものがそこかしこに目立たぬように縫い取られていた。
 多分これは王女殿下個人の紋だったのだろう。
 その刺繍に散りばめられた小さなビジューはホワイトサファイアだ。水晶や硝子のそれとは別格の光の屈折率に目が眩みそうだった。
 そこにふんわりと重ねられている繊細なアンティークのレースは、デコルテの辺りのものが一部剥ぎ取られているが、代わりに絹で丁寧にかがられていた。
 その場凌ぎの補修をするよりも、実際に使う時に最もふさわしいものをあしらう為の処置だろう。
 レースの保管は難しい。ドレスの形になっていれば余計に難しくなる。
 敢えての継ぎ当てだ。

「でね、この開いちゃって間抜けな場所には、このレースとこの宝石をあしらうのはどうかしら。あぁ、でもここにシーラン伯爵家の家紋を刺繍で入れて貰うのもいいわね。ウチの子に任せて貰っても3カ月あれば縫い取れると思うわ。勿論私もひと針くらいは刺させて貰えると思うの。その、許しが出ればだけれど」

 恥ずかしそうに「実は私、刺繍が壊滅的に下手なのよ。内緒ね?」と告白された。
 母より年上の筈なのに、なんならクラスメイト達より段違いで可愛かった。
 
「あの、このドレスを、私が着ても、宜しいのでしょうか」
 不安と疑心で訊ねる声がちいさくなる。
「えぇ、勿論よ。フリッツから話を貰えて、とても嬉しかったわ。私はちゃんと着れなかったし娘に恵まれなかったから『あぁ、このまま持っているだけになるのかしら』って思っていたの。だから貴女に着て貰えるのが本当に嬉しいの。ありがとう、サリさん」

 その言葉に嘘は感じられなかった。
 サリを見つめる目は優しい。そしてこの場にドレスを運んできた侍女を含めて皆浮かれているようにも感じられた。空気が温かいのだ。

 生粋の貴族は腹芸というものに長けていて感情を偽る事など造作もないという。けれど、今サリの前に広げられたドレスは刺繍ひとつとっても素晴らしいのひと言である。このレベルでの仕事ができる職人はほんの一握りしかいない。それほど見事なものだった。当然生地も仕立ても最高級である。織物に対する人の皮脂によるダメージを考えれば、こんなに素晴らしいヴィンテージドレスをサリの前に広げて見せてくれるだけでもよほど好意がなければ無理だろう。

「それと婚姻式に身に着けるパリュールなのだけれど、シーラン家はフリッツが初代だからまだ全く何もないでしょう? よかったらアーベル家のモノを使ってはどうかしらと思って。それともお家の方で用意しているかしら。ヴォーン商会の宝飾品部門はとても素晴らしい職人が集まっているから、余り口出ししない方がいいかしらとは思うのだけれど、このドレスにピッタリだと思うの」

 パカリと開かれた天鵞絨張りの宝石箱に収められていたネックレスやイヤリングに使っている宝石の石の大きさとそのクラリティに、サリは眩暈がした。

 金細工の繊細さは勿論、そこに嵌められた宝石の見事さに目が釘付けになる。
 矢車草の鮮やかな藍の色そのもののブルーサファイア。ドレスの裾に散りばめられているホワイトサファイアとの相性もよい。
 更に純潔と貞節を示すサムシングブルーやサムシングオールドとサムシングボローも兼ねるのだろう。

「指輪だけは、これに合わせた新しい物を揃えるのがアーベル侯爵家の習わしなの」

 つまりシーラン伯爵家へ嫁入りするサリではあるが、きちんとアーベル侯爵家の一員としても認める、と言葉にせずとも夫人は伝えてくれているのだとサリは瞬時に理解した。

「ぱっと見でサイズに問題はなさそうだけれど、一度全部合わせて試着しましょうよ。ついでに採寸をしてしまったら良いと思うの」

 さきほどの会話で滲ませたものなど微塵も感じさせない明るさで夫人はそう宣言すると、部屋の隅で会話を聞くともなしに腕を組んで目を閉じていたフリッツをあっさりとミモザの間から追い出した。


 そうしておいて、夫人は表情を引き締めるとサリに向かって頭を下げた。

「お、奥様! お顔をお上げください」
 慌てたサリに、夫人は少し困ったような笑顔を向けた。

「今だけは、実家ペール伯爵家の人間として、ヴォーン商会のサリ・ヴォーン嬢へ頭を下げさせて欲しいの」
 夫人が切なる様子でサリに縋る。
「ペール領が今でも豊かでいられるのは、ヴォーン商会の先代会長が、我が領の金が採れなくなった鉱山から代わりに出てくるようになった厄介モノでしかなかった粘土状の鉱物、絹雲母の使い方を一緒に考えて下さったからです」

 絹雲母はまるで金のような煌きを持つ鉱石である。だが金とは違い細粒であり簡単に粉々になる。それもどこまでも小さく細やかな粒になる。
 粉になった絹雲母を水で練るとそれはあまりに滑らかで、つい手の指でその感触を確かめたところ、その指先の色が美しい透明感のある白い肌となったことから、今では貴婦人の肌を美しく魅せる為には欠かせないファンデーションの原材料として金にも劣らない価格で取引されるようになった。
 
「そして、このアーベル領にある小さな村に特産品を作り出して下さったことも感謝を。まさか畑から幾らでも出てくる臭い石が実は茸で、そこから香水が作れるなどとは思いもしなかったわ」

 どんな肥料をやっても作付けに対して収穫量が上がらない地区があった。
 耕しても耕しても何故か石コロが出てくるその土地に疑問を持ったエレナ夫人は実家のペール伯爵家で相談に乗ってくれた実績のあるヴォーン商会を頼った。
 そうして実は石コロだと思ったそれはこの地方特有の茸の一種で、独特の香りを持つそれをほんの少量足すことで、どんな花の香りもより蠱惑的な不思議と人を惹きつける香りにできることを発見したのだ。
 以来、その村では畑でその茸を生産・出荷するようになった。
「普通に作物作るとできるだけだがよぅ」と村人は笑っている。


 ふんわりと、年齢を感じさせない柔らかな笑みを浮かべて、エレナ夫人がサリの手を取った。

「別の家の当主となってしまったあの子に教える事は契約違反になってしまうとはいえ……ヴォーン家との繋がりを教えることができていれば、こんなことにはならなかったのに。ごめんなさいね。でも、あの子は融通は利かないし頑固で扱いにくい子だけれど、真面目よ。真面目すぎて一度『こうだ』と思い込むとなかなか情報が書き換えられないけれど、だからこそ二心があるなどと考えなくてもいいから上手に手の平の上で転がせる夫になると思うの。サリさんなら、フリッツの欠点を美点とすることが可能だと思うわ」

 思わずサリの口がぽかんと開く。
 ゆるゆると、エレナ夫人の言葉の意味がサリの頭の中に染みていくと、ゆっくりサリの頬が赤く染まっていく。

「ふふふ。人の縁って不思議ね。私、あなたがフリッツのお嫁さんで良かったわ」

 エレナ夫人は、ぽんぽんとサリの手を愛情を籠めてたたいてから手を離すと、少し大げさに声を張った。





しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました

桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。 言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。 しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。 ──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。 その一行が、彼の目に留まった。 「この文字を書いたのは、あなたですか?」 美しく、完璧で、どこか現実離れした男。 日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。 最初はただの好奇心だと思っていた。 けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。 彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。 毎日19時に更新予定です。

働かないつもりでしたのに、気づけば全部うまくいっていました ――自由に生きる貴族夫人と溺愛旦那様』

鷹 綾
恋愛
前世では、仕事に追われるだけの人生を送り、恋も自由も知らないまま終わった私。 だからこそ転生後に誓った―― 「今度こそ、働かずに優雅に生きる!」 と。 気づけば貴族夫人、しかも結婚相手は冷静沈着な名門貴族リチャード様。 「君は何もしなくていい。自由に過ごしてくれ」 ――理想的すぎる条件に、これは勝ち確人生だと思ったのに。 なぜか気づけば、 ・屋敷の管理を改善して使用人の待遇が激変 ・夫の仕事を手伝ったら経理改革が大成功 ・興味本位で教えた簿記と珠算が商業界に革命を起こす ・商人ギルドの顧問にまで祭り上げられる始末 「あれ? 私、働かない予定でしたよね???」 自分から出世街道を爆走するつもりはなかったはずなのに、 “やりたいことをやっていただけ”で、世界のほうが勝手に変わっていく。 一方、そんな彼女を静かに見守り続けていた夫・リチャードは、 実は昔から彼女を想い続けていた溺愛系旦那様で――。 「君が選ぶなら、私はずっとそばにいる」 働かないつもりだった貴族夫人が、 自由・仕事・愛情のすべてを“自分で選ぶ”人生に辿り着く物語。 これは、 何もしないはずだったのに、幸せだけは全部手に入れてしまった女性の物語。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

仕事で疲れて会えないと、恋人に距離を置かれましたが、彼の上司に溺愛されているので幸せです!

ぽんちゃん
恋愛
 ――仕事で疲れて会えない。  十年付き合ってきた恋人を支えてきたけど、いつも後回しにされる日々。  記念日すら仕事を優先する彼に、十分だけでいいから会いたいとお願いすると、『距離を置こう』と言われてしまう。  そして、思い出の高級レストランで、予約した席に座る恋人が、他の女性と食事をしているところを目撃してしまい――!?

虚弱体質?の脇役令嬢に転生したので、食事療法を始めました

たくわん
恋愛
「跡継ぎを産めない貴女とは結婚できない」婚約者である公爵嫡男アレクシスから、冷酷に告げられた婚約破棄。その場で新しい婚約者まで紹介される屈辱。病弱な侯爵令嬢セラフィーナは、社交界の哀れみと嘲笑の的となった。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...