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「でも、貴女は許してくれるでしょう?」

 目線を合わせることすらせずその言葉を告げた婚約者の唇が艶めかしく動き弧を描く。
 この方の笑顔はまるで薔薇の花のようだ。
 その様に、セリーンは震えた。

『あぁ。どんなに下種なことを言っていても、私の婚約者は、今日もお顔が素晴らしい』

 頭の中でブラボーと喝采を上げてはいても、顔の表情だけは硬く貼り付けたままのセリーンと彼は、ただ猫足の錬鉄製のテーブルを挟んで向かい合わせで座っていた。
 広い庭園を一望できるよう設けられたサロンにふたりだけでいるのに、まるで各々別の次元に存在しているかのようだ。
 大人しく座りながらもカップに手を伸ばすこともできないほどの激情を胸に抱え込んだセリーンとは違い、それほど静かな様子でいつも通りユリウスは口元へと紅茶を運んでいた。

 ハーバー伯爵家の庭は、ひとつふたつと咲き始めた薔薇が放つ香気でいっぱいだった。
 すこしだけ花開いた状態であっても、薔薇の花は濃厚な香りを放つ。
 まだ葉の色の方が目立つ庭ではあったが、だからこそ、その庭先に座るユリウス・ハーバーという男が咲き誇っているようにセリーンには見えた。


 夕べ行われた舞踏会。予てよりの約束通りエスコートはしてくれたものの入場から僅か数秒で、ユリウスは婚約者であるセリーンとは違う美しい伯爵令嬢の手に口づけを贈っていて、そのままボールルームの真ん中へとふたりで歩いて行ってしまったのだ。

 置き去りにした婚約者である男爵令嬢へなど、一瞥もくれないままだった。

 セリーンが貴族になったのはつい最近だ。ダンスは一応踊れるけれどあくまで資産家の平民レベルでしかなく、貴族しか参加していない正式な舞踏会で伯爵家の令息の婚約者として堂々と披露できるほどの名手ではない。
 だからといって「みなさんの視線を浴びながら転んだりしないで、恥をかかなくて済んでよかったでしょう」と言われても納得できる訳はない。

 結局その後も婚約者は一度もセリーンのもとへと戻ることもなく、知り合いのいない舞踏会で最後まで壁の花になり続けていたのだ。
 婚約者と踊っていないのに他の男性からのダンスへの誘いを受けることなどできる訳もない。
 かといって、美味しそうなオードブルを見ても正式なコルセットはとにかく苦しくて、余計なものなど口を湿らせる程度の水分以外を受け入れられもせず味見すらする気になれなかった。
 親しい友人がいる訳でもなく、婚約者の男性と踊っても貰えないで立ち尽くす姿を晒していたのだ。恥なら十分すぎるほど掻かされた。


 先祖代々、平民地主ジェントリでしかなかったラートン家の所有する山から銀が採れることが判明したのは、祖父の代でのことだった。
 その産出量はかなりのもので国庫を豊かにした報奨として、父が事業を継いだことに合わせて、半年ほど前に男爵位をいただいたのだ。
 つまり、ラートン家は成金である。出たのは銀だったが。
 そして、男爵位を頂いたのとほぼ同時に受けたのが、目の前にいるハーバー伯爵家の次男であるユリウス様との婚約。それも男爵家への婿入りの申し入れだ。
 ちなみに、セリーンはひとり娘ではない。
 2つ下の嫡男たる弟が存在しているが、書状に書いてあったのは伯爵家から男爵家への婿入りの申し入れだった。

 目が覚めるような、すがすがしいまでの金目当ての政略結婚だ。

 貴族として、貴族たるべく暮らしていくことを矜持としているハーバー伯爵家であったが、ここ数年、領地経営は難航していたらしい。
 それは天候不良が続いて農作物や畜産物の収穫量が減ったことで税収が減ったにも関わらず、それまでと同じレベルの暮らしを続けたことが原因かもしれないし、領民の収入も減りすぎて生活費を稼ぐためにとこっそりと働き盛りの男たちが出稼ぎに出てしまうことが増えたせいもあるのかもしれない。女子供に老人ばかりでは農地は広がらないし、崩れて通れなくなった道や橋は直せないのだ。そうしてそれが続けば、収穫量はどんどん右肩下がりに落ちていき、ハーバー伯爵家自身の収益も落ちていくことになった。

 それでも貴族らしい派手な生活を送り続けることをやめられずに、国へ納める税金の減免処置まで受けておきながら自身は借金で生活をしていたようだが、そうして作った借財のすべてを自力で返さなくともすむ方法を彼らは見つけたようだ。


『爵位を受けてしまった以上、高位貴族である伯爵家からの申し入れを、男爵家でしかない我が家からお断りするのは難しいと思う』
 逆に言えば、爵位さえ受けていなければこんな家の乗っ取りでしかない婿入りの話を受けることもなかったのだとセリーンの母は嘆き、父からは謝られた。
 いまだ貴族らしい横の繋がりも縦の繋がりも、まったくラートン家は持っていなかった。
 商いにおける繋がりとはまったく違う、爵位という厳格な枠組みに怖気づいてしまったこともある。
 断る手立てがわからない。完全にお手上げだった。

 では家督を奪われそうになっている弟はどうしているのかというと、実は喜んでいた。

 弟シリルは、長女であるセリーンほどの商才はなかった。機を見ることもできなかったし、商いの為に人との繋がりを得るための方策についてもまったく興味が持てなかった。
 ついでにいえば家を継ごうという気概もなく、『せっかく爵位を得たからには騎士になってこの身体ひとつで身を上げてみせる!』と口にして憚らない、筋肉バカである。
 爵位を受ける前から、『アイツにできない訳はないと思うんだがな。やる気のない奴の下で働く者たちが可哀想だ』と父はよく言っていた。
 かといって女であるセリーンに任せるつもりがあったとは誰も思わなかった。
 だから結局は、シリルは騎士になることを諦めさせられて父と一緒に事業を営むことになるのだとセリーンも思っていたのだが、ここにきての大転換となってしまった。

 ただし、上位貴族である伯爵家に楯突くことになろうとも、ラートン家にはどうしても譲れないものはあった。

『婿入りしても家業については口を出さない』唯一、この一点だ。

 金目当ての相手に対して飲ませることが難しいと思われる条件だった。
 しかし、話し合いの席でハーバー伯爵はあっさりとそれを飲んだ。
 そう。ハーバー家としては、あくまで金目当てなのだ。
 面倒くさい事業のあれこれについて口出しをするつもりはなかった。貴族たるもの汗水たらして働くべきではないと考えていたのだ。
 高位貴族がするべきなのは、領地を統治すること。
 労働は、せいぜい下級貴族までの者がするべきあれこれなのだそうだ。
 融資という名の上納金を納めろという契約なのだと理解したラートン家というよりセリーンの割り切りは早かった。
 
 令嬢らしくないと言われようと、つい先日まで平民だったセリーンはお金が好きだった。
 お金そのものも好きではあったが、それ以上に稼ぐことにゲーム性を見出していた。
 効率よく、よそにはない新しい着眼点で商売の目を見つける。それが喜びだった。
 本当ならこの手で経営に携わってみたいと何度も夢みた。
 跡取りとしては弟がいたので取引先のどこかへ嫁入りして、ラートン家と業務提携するのもありだなどと夢を見ていた。
 幼い頃から祖父の後ろをどこでもついて廻っていたセリーンは、鉱山という荒くれ者の集まりの中で、まるで孫娘のように可愛がられて育ってきた。
 ラートン家の銀山は富を生む場所というだけではなく、セリーンにとって大切な場所であり、これからもっと発展させていきたいと願っていた場所であった。
 お金があればもっと効率よく産出できるし、精錬できるし、加工もできるようになるはずで、輸送路の整備など、手を付けたい場所はいくらでもある。

 その経営に携わるチャンスを手に入れたのだ。
 上納金は出ていくことになるが、上位貴族である伯爵家と繋がりを持つことは、新興の男爵家として新規販路を求めるよりもやり易い場合もあるだろう。
 だからこの婚約自体にセリーンはそれほど嫌悪感はなかった。
 まぁ正直なところこの強引な婿入り話がなかったとしても弟自身が放棄してセリーンの手元へと転がり落ちてきそうではあったのだが。



「セリーン?」
 返事を催促するように名前を呼ばれて顔を上げると、そこには今日、初めて視線が合った婚約者の笑顔があった。

 ユリウス・ハーバーは、控えめに言って屑男である。

 学園を卒業し、成人してから5年間、一度も働いたことはない。
 浮気についても、ラートン家に確認できているだけでご令嬢といわれる相手が2人、未亡人が3人、商売女は片手では足りないほどの人数がご贔屓を名乗っている。
 昼過ぎに起きて、午後のお茶を令嬢と過ごし、夕方~夜を未亡人と過ごすか紳士クラブでカードゲームに励んで、深夜に自宅へと帰らず商売女のところへと転がり込む。そんな生活をしているのだ。
 まさに絵にかいたような屑男だが、それだけではない。
 それだけの女が金を持っていない彼に纏わりつくのには勿論理由がある。
 そうしてそれは、セリーンに対しても有効だった。そう、とても。

「……えぇ、そうですわね。勿論ですわ、ユリウス様」

 セリーンがそう答えると、ユリウスはその美しい顔に満足そうな笑みを浮かべて小さく頷くのであった。


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