戦乙女が望んだ人は、厨房係で偽名の男。

喜楽直人

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6.俺は殺ってない

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「三十六計逃げるに如かず、ってね」

 ついでに、腕に仕込んでいた暗器を撃ち出した。
 右手中指に嵌めた指輪と肘に取り付けたベルトで吊っている細い鍛鉄製の細い棒状のそれは、通常、防具として剣を受ける手甲の代わりとして身を守るのに用いるものだ。しかし、指輪の内側に仕掛けたボタンで引き金を外せば、そのまま矢のように飛び出す武器ともなる。
 ただし、殺傷能力はほとんどない。
 目くらまし的に相手の意識をそちらに持っていく、警戒させるなどの意味合いが大きい。
 どうせ避けられてしまうのだからと安心してリンデの瞳に向かってそれを撃つと、自身は高く飛び上がって騎士たちを飛び越える。

 いや。飛び越えようとした、その足首に何がが巻き付き引き寄せられた。

「ぐあっ」
 なんとか左手を着き無様に地へ落ちるのだけは阻止できたものの、そのままずささと足首に巻き付いた何かによって地を引き摺られ、リンデの前に戻された。
 完全に逃亡に失敗したハンスは舌打ちした。

「くそっ。痛てぇじゃねえか。これは攻撃だろう?!」
 それにしても、自分は一体なにによって拘束されたのだろうとハンスは背筋が寒くなった。
 いくら見つめてみても、さきほどまで確かにそこにあった自分をココに引き戻した何かを見つけることはできなかった。実際のところ、今は拘束されている感覚もないので更に判らないのかもしれないが。
「私はハンス(偽名)様を保護したのみです」
「なんだと?」
「あのままこの場から飛び出したのなら、弓兵部隊の一団からの一斉射撃を受けるところでしたので」
 そう言われて、ようやくハンスは自分が騎士団に睨まれていたことに思い至った。
 なるほど。元々が騎士団への戦勝褒賞授与式会場だったのだ。
 その騎士団は、さきほどの目の前に立っている圧倒的強者である美しい女性との会話により、ハンスを親の仇(実際に、彼等の多くにとって前将軍は親以上の存在であった)のごとく考えていたのだという事実に今更ながら今この会場にいるすべて、騎士団も貴族達もすべてが敵であるのだと思い足らなかった自分の迂闊さを呪った。
 視野が狭くなっていた。目の前に立っている、ハンスには理解不能の言動を繰り返している女性だけが、今のハンスの敵ではないのだ。
 周囲を取り囲んでいるすべての人間が、今のハンスの敵なのだと気が付いて、背中に走る寒気が止まらない。
 怖くて首を回すこともできなかったが、視界に見える分だけでも弓や剣の柄に手を掛けていない人間などいないような気がした。
 如何にも文官だと思われる人間以外のすべてが、自分の命を狙っている。
 ──しかも、まぎれもない冤罪で、だ。
 絶望感に今にも頽れそうだったが、それでもハンスはそれを自分に許すつもりはなかった。
 そうして。ようやく自分がここに連れてこられた本当の理由がわかったと得心してもいた。

「俺はやっていない。ジーク様を殺めて、俺に何の得がある?」

 そう申し開いてみたものの、その言葉に何の説得力もないことはハンス自身が一番わかっていた。
 なにしろ、つい先ほど逃亡する道を切り開けると場を読み違えて、これだけの人数の前で暗器を使ってみせてしまったのは自分だったのだから。
 しかも、どう考えても調理係にはありえない動きもしてみせてしまった。
 焦り過ぎたのだ。
 偽名ではないものの、本名を名乗っている訳でもない。
 なにより自分が英雄を死に至らしめたという誤解を受けているというその事についても。
 あまりにも一気に押し寄せてきた衝撃の数々に、冷静な判断ができなくなっていたのだ。

「本当だ。俺は無実……いや、少しは罪と呼べるものもしているかもしれないが、大恩のあるジーク様に対して仇なすようなことはしていない。絶対だ。神に、誓ってもいい」

 ただし、ハンスの祈る神はこの国の信仰の対象とは違うし、ハンス自身の祈りをその神に捧げることももう無いのだが。
 神へなど、いくら祈っても意味はないのだから。


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