戦乙女が望んだ人は、厨房係で偽名の男。

喜楽直人

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7.熱いベーゼ

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「……ハンス(偽名)様の仰っている事の意味がわかりかねるのですが。まぁいいです。ひとつずつ解決していけばいいですよね」

 ずっと薄く笑ったままだったその美しい人が、その朝焼け色をした瞳に蕩けそうな輝きをのせて満面の笑みを浮かべた。
 全身に走る悪寒めいた衝動に突き動かされるようにしてハンスがリンデのいる方向と逆に走った。
 つまりは背中を見せて走って逃げ廻る。
 ジグザグに避ける度に、ハンスの避けた後から派手な土埃が立つ。
「くそっ。どうやって攻撃しているのかすらわかんねぇとか」
 ドゴオッ
 一段と派手な音と土埃が立った時、ハンスが避けた先にいた騎士にぶつかった。
 リンデの細い腕とは全く違う、鍛え上げられた太い筋肉質の腕にハンスは捕らえられた。

 ──しまっ、た。

 憎い仇に一発だけでも制裁を加えてやろうと考えたらしい、すぐ横にいた騎士が拘束されたいるハンスに向けて拳を振り下ろす。
 ぶん、とどう見ても避けられそうにない軌道と勢いて迫っていた拳が、ハンスの瞳のすぐ目の前で止まっていた。
 その拳は、今すぐにでも憎い男へ制裁を加えたいのだと、それを邪魔するものを引きちぎろうとするかのようにぶるぶると震えている。
 視界にいっぱいになって肉薄していたそれが勢いよく後ろへと引き戻され、「うぎゃっ」といううめき声が聞こえると共にハンスの視界から男そのものごと消えた。

 否。その代わりにハンスの目の前に立ち塞がったのは、煌びやかな白い正軍服と、金色の髪。

 後ろ姿でも判る。その人は。

「リンデ、将軍」

 リンデが左腕を斜め横へと動かすと、微かにしゅるりと何かが巻き取られる擦過音がした。
 透明なそれは、ゲルト領でもごく限られた森の奥深くにしか生息しないアラーニェと呼ばれている蜘蛛が吐き出す糸だった。
 一本でも大人の体重を掛けても切れることがないとされるその糸を、何本も撚り合わせて作ってあるそれはどこまでもしなやかで細い。
 そこにあると言われなくては視認できないほど細いそれはしかし、見た目と違ってかなりの重量がある。
 その重さがあるからこそ、自在に操れもしたし、武器としても成立できた。
 しかし、今この時においてリンデがそれを武器であると認めることは、ない。

「ハンス(偽名)様は、私のものだと伝えた筈です。私事ではありますが、何度も言い聞かせなければならないというのは不快ですね」
 ぐりりと、完全に背中に乗って踏みつけにしている存在にむけて宣告を告げる。
 その後ろ姿の圧倒的な存在感に、そこにいるすべてのものが声を失い、視線をすべて奪われた。


『うふふ。捕まえましたわ』

 多分、ハンスはそう言われたのだと思う。が、それをきちんと聞き取ることはできなかった。

 頬をくすぐる金色の長い髪とほっそりとした指。
 なによりも。ハンスが告げようとした反論をすべて封じている、柔らかく温かなそれが、ハンスの思考を奪っていた。

「ふう。こんなにも熱いくちづけをこれだけの観衆の前で披露しておいて、その女を振ったりされませんわよね、ヨハネス・ペテルソン閣下?」



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