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第4話
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――おれと魔王アザゼルの出会いは、おおよそ三年前に遡る。
聖アナトリアム王国に召喚されたおれは、まずは魔法の仕組みと使い方や、聖アナトリアム王国における一般常識、野営の基礎知識や異種族に関する基礎知識を学んだ。それとあわせて戦闘の訓練も行ったが、こちらの方は前者よりも早く終わった。
異世界からきた転移者は、異なる世界を渡ってきた影響で、常人とは比べ物にならない量のマナ吸収率を持つ。そんな伝承の通り、おれはレベル1の段階ですでに聖アナトリアム国中の人間に勝るマナ吸収率があった。
マナというのは、大地の霊力のことだ。星の霊力と言い換えることもできる。
人間が魔法を行使する際には、大気や自然に溶け込んでいるマナを自身に取り込み、それを自身の魔力に変換する必要がある。これをマナ吸収率という。
このマナ吸収をどれほど効率良く行えるか、そして変換した魔力をどれだけ保有できるかによって、魔法使いとしての才は決まる。
おれはほとんど呼吸をするのと同じような自然さで、マナを自分に取り込んで、魔力に変換することが出来た。なので、召喚されて三日目で上級魔法を使いこなせるようになり、五日目には下級魔族の討伐に成功することができた。
召喚されてから一週間目には、聖アナトリアム王国の騎士や戦士はむしろ足手まといとなっていたため、おれは単身で討伐に赴いた。まぁ、聖アナトリアム王国も先の魔族との戦いで騎士を失っていて人手不足になっていたし。
そんなわけで、おれは王国の村々を蹂躙していた魔族たちを一人で狩り続けることになった。
魔族討伐の証拠として、討伐した魔族の首を持って王都に帰還するおれのことを、王国の民たちは次第に『首狩り』や『首狩り勇者』と呼ぶようになった。一応、彼ら的には純粋な誉め言葉のつもりだったらしいが、おれはちょっと反省した。
そして十日目――その日、おれは下級魔族の討伐のため、再び単身で王国の郊外に赴いていた。
村から子供を攫っていた下級魔族を討伐し終えて、王都へ戻るために街道を馬で走らせていた時だった。
突然、馬が甲高いいなないたかと思うと、どうと地面に倒れたのである。
馬が倒れる直前、おれは慌てて地面に飛び降りていたので怪我はなかった。だが、馬の方は口から泡を吹いてそのまま気を失ってしまった。
いったい何が起きたのかと周囲に目を走らせる――すると、いつの間にか近くに男が立っていた。
「こんにちはー、君が噂の勇者くんだよね?」
「…………」
にこにこと人好きのする笑顔を浮かべる男に、おれは半歩下がって剣を抜いた。
見ただけで分かった。こいつは魔族だ。
外見は人間とそっくりだが、放っているオーラが圧倒的だった。
どうやら、こいつは今まで自分が討伐した魔族たちとは比べ物にならないくらい強いようだ。
「お前、何者だ?」
「ああ、初めまして。私はアザゼル、いちおう魔王をやってるよ。今日は巷で噂の勇者くんに会いに来ました」
「お前が魔王……!?」
信じられない思いで、目の前の男をまじまじと見つめた。
アザゼルと名乗ったその男は、おれよりも頭一つ分背が高い。髪は金で瞳は血のように鮮やかな赤。
筋肉質の身体には金糸の刺繍が施された白い衣服を身にまとっている。すっと通った鼻梁と彫りの深い顔立ちは、まるで彫刻のように整っている。年齢は、だいたい二十代後半だろうか?
本当にこいつが魔王なのか、と疑わしい気持ちと警戒心をもって男を見つめた。
今まで自分が討伐してきた魔族は、皆、人間とはかけ離れた容姿を持っていた。
全身が触手だったり、肌が青白くて手が六本もあったり、まるで魚のような顔をしていたりと、かなり特徴的な容姿の者たちだった。
しかし、このアザゼルは外見はまるっきり人間だ。羽も角も生えていない。
強い魔族だとは思うが……本物の魔王が仲間も連れずにこんなところに来るだろうか?
「お前が本当に魔王なのか? 魔王って、魔族たちのボスなんだよな?」
「信じられない? まぁ、確かに私の外見は人間みたいだもんね」
「外見もだけれど、普通は敵の首魁が自分から勇者に会いに来ないだろ。すごい現場主義なんだな」
「あはは、そうだね。現場主義って言えばそうかも」
楽しそうに笑い声をあげる姿は、やっぱり人間にしか見えなかった。
先ほどは二十代後半くらいだろうかと思ったが、そうやって笑う姿は二十代前半にも同世代にも見える。不思議な雰囲気の男だった。
「お前が本当に魔王だっていうんなら、ここに何しに来たんだ? おれに倒されに来てくれたのか?」
「うん。勇者くんがどんな子なのかなぁって興味があってね」
アザゼルが柔和な笑みを浮かべたまま、右手の人差し指をおれの顔に向けた。
瞬間――その指から魔力を凝縮した弾丸が発射され、目にも止まらぬ速さで迫る。
おれは反射的に左手へステップを踏んで、すんでのところで弾丸をかわした。弾丸は右の前髪をわずかに散らして霧散する。
「……っ!」
おれは奥歯を噛みしめ、そのまま前に踏み込んだ。
アザゼルとの距離を詰めて、先ほど抜いていた剣を素早く前方へと突き出す。だが、アザゼルは身体をすっと後ろに引いて切っ先を難なくかわした。
おれはアザゼルが身体を後ろに引いたのを見たが、あえて深追いはしなかった。代わりにバックステップを踏んで距離をあけると、体勢を立て直して剣を握りなおす。
そして、相手の動向を注意深く伺いながら、素早く自分に肉体強化魔法“フィジカルブースト”と攻撃力増加魔法“アタックブースト”を重ね掛けした。
「あはは、反応早いね! じゃあこれはどうかな?」
おれが魔法をかけ終えるのと同時に、アザゼルが再び右手の人差し指を向けてきた。
すると今度は頭上に、何十本もの剣がずらりと現れる。剣はこちらに向かって一直前に降り注いできた。
「くっ!」
おれは思わず舌打ちをしながら、地面を踏んで右手へと逃げた。
フィジカルブーストによって強化された肉体は、地面を軽く踏んだだけで五メートルの距離を瞬時に跳躍する。しかし、アザゼルの呼び出した剣は追尾機能を付与されているらしく、こちらの背中を追いかけてきた。
背後に迫る剣を紙一重でかわしながら、新たに防御魔法の“マジックバリア”を唱えた。出現したマジックバリアは四辺がそれぞれ三メートルほどの正方形になっており、その透明な障壁にぶつかった剣は、先ほどの弾丸と同様に霧散した。どうやら弾丸と同じく、この剣もアザゼルが魔法によって生みだした産物らしい。
さらに“マジックバリア”を二回唱え、自身の左右と後方に障壁を展開する――瞬間、鳩尾にとてつもない打撃が叩きこまれた。
見れば、自分の腹部に向かってアザゼルの拳が向けられている。だが、その拳は手首から先が消失しており、拳だけが空中に浮かんでいる状態だった。
なんの防御態勢もしていなかった所に食らった一撃は、あまりにも致命的だった。
ぐらりと視界が暗くなり、胃液が込み上げてくる。
「ぐっ……」
「あはは、油断大敵だよー。こっちもちゃんと注意してないとね」
思わず膝をついてうずくまると、視界に靴のつま先が見えた。
顔を上げれば、アザゼルがいつの間にか目の前に近づいてきていた。そして、屈託のない笑顔を浮かべてこちらを見下ろしている。
そんな彼の背後には、先ほどの残りの剣が空中にずらりと浮遊して並んでいた。その切っ先は、一本残らずおれに向けられている。
「いい線は行ってたけれど、ま、こんなものか。異世界の勇者ともなれば、私に傷をつけることくらいできるかなって百年ぶりくらいにワクワクしてたんだけど……期待外れだったなぁ」
アザゼルは柔和な笑顔から一転して、つまらなさそうな表情に変わった。
いや、こちらがこの男の本性なのだろう。
その瞳に宿る冷酷な光には、なんの感情も浮かんでいなかった。自分の存在など、路傍の石や虫けら同然にしか思っていないらしい。
おれはぐっと唇を噛みしめて、瞳を伏せた。
(さっきの打撃は転移魔法か……くそ、どうする? 悔しいけれど、今のおれじゃあこいつには敵わない。でも、力の差がありすぎて逃げる方法も思いつかない……こんなところで、殺されるのか? 何もできないまま……!)
おれは必死に思考を巡らせた。戦う方法、反撃する方法、逃げる方法。
だが、何も思いつかない。
だから、とうとうアザゼルがその左手の人差し指をぱちんと鳴らした時――とうとう自分は殺されるのだと思った。
「……っ?」
しかし、予想に反して何も起きなかった。
それどころか、おれに向けられていた剣はすべて霧散し、跡形もなく消えてしまったのだ。
おれは呆然として目の前の男を見上げた。先ほど打撃をくらった腹が、思い出したようにずきずきと痛みを訴えてくる。
しかし、アザゼルはこちらと目を合わそうとはしなかった。それどころか、もはや興味がなくなったように、顔を別の方向に向けている。
思わず、その横顔に向かって問いかけた。
「何のつもりだ……? おれを殺すつもりで来たんだろう?」
「え、殺さないよ?」
アザゼルはきょとんした表情でおれを見た。
「勇者くんを殺しちゃったら、魔族を魔界に返してもらうことができなくなっちゃうし」
「え?」
「ここに来たのは、さっきも言った通り勇者くんがどんな子か興味があっただけ。異世界の勇者なんて五百年生きてる私ですら初めて見るし? だから、何かすごい子なのかなって期待してたんだけれど……はぁ、すごくガッカリ」
「待て、お前たち魔族がこの世界に侵攻してきたんだよな? なのに、おれが死んだら魔族を魔界に返してもらうことができない、ってのはどういう意味だ?」
おれは困惑しながら尋ねた。
しかし、アザゼルはそっけない態度で肩をすくめる。
「あ、勇者くんは国王にそういう説明されたんだ? まー、じゃあそれでいいよ、うん。こっちとしては、やることさえやってもらえたらそれでいいしね」
「お、おい、待て!」
そう言って立ち去ろうとするアザゼルに、おれは慌てて地面から立ち上がってその腕をつかんだ。同時に、鑑定魔法“アプレイザル”を発動させる。
アプレイザルは、接触している相手のステ―タスを確認できる魔法だ。使用者のレベルによって読み取れる情報が変動する。なお、鑑定される側が許可すれば、レベルが至っていなくともステータスを確認することもできる。
おれがアプレイザルを使用したのは、目の前の男が本当に魔王なのか確認するためだった。
本物の魔王が「魔族を魔界に返してもらうことができなくなると困るから、勇者を殺さない」なんて馬鹿なことを言うはずがない。
それが本当なら、そもそもどうして魔族がこの世界に侵攻してきたのか。
「……! な、なんだこれ」
しかし、鑑定魔法でアザゼルのステータスを読み取ったおれは、そんな疑念や今の状況も忘れて、あんぐりと口を開いた。
名前:アザゼル・
職業:魔族を統べる王、合成獣、魔界の支配者
レベル:999
パッシブスキル:不老、疲労無効、飲食不要、睡眠不要、性欲制御、魔法発動無詠唱、身体能力超強化、魔力生成増大、魔力自動回復、魔力最大値自動増加、体力自動回復、負傷自動回復、病気耐性、物理攻撃耐性強、魔法攻撃耐性強、魔法防御、物理防御、精神攻撃耐性強、状態異常完全耐性、物理攻撃無効化時の無効、魔法攻撃無効化時の無効、物理防御無効化時の無効、魔法防御無効化時の無効、精神攻撃耐性時の無効、魔法気配察知、攻撃気配察知、特殊魔法気配察知、即死無効……
(――おいおい、パッシブスキルが多すぎてもうそれだけでステータスがすごい長文になってるよ! 他の項目まで読んでられない! っていうかレベルがえぐい! ……え? これ、一体誰が勝てるの? 魔法攻撃、物理攻撃にくわえて状態異常すら無効化するパッシブスキル持ちって……)
自分で見たものがにわかには信じられず、呆然としてしまう。
そんなおれを見下ろして、アザゼルが冷めた笑みを浮かべた。
「これで勇者くんと私の実力差が分かったかな?」
「っ! 鑑定魔法に気づいてたのか?」
「うん。私のパッシブスキルに、特殊魔法気配察知っていうスキルがあったでしょ? このスキルがあると、今どんな魔法がどこで発動されたのか、大体分かるんだよねー」
パッシブスキルの羅列があまりにも長すぎてそんなところまで読んでられなかったよ、と思いはしたものの、それを言葉にはしなかった。代わりに、アザゼルを睨みつける。
「じゃあ、おれの質問に答えろ。おれを殺すつもりがないってのはどういう意味だ?」
「うーん? まぁ、言葉そのままの意味なんだけれど……私は、勇者くんの魔法で魔族のみんなを魔界に還してもらいたいんだ。“魔門の開錠”は異世界からきた勇者くんしか使えない魔法だからね」
そう言って、アザゼルはおれの顔をじっと見つめた。
「“魔門の開錠”を使ってもらうためにも、勇者くんにはレベルを上げて欲しいから、下級魔族を殺されるのは必要な犠牲として受け止めておくよ。低俗な下級魔族がいくら殺されようが、私は興味ないし?」
「…………」
おれは黙ったままでアザゼルの顔を見つめ返した。だが、どうも嘘をついている様子ではなさそうだ。
目の前の男は、本当におれを殺すつもりはないらしい。
「理解できたかな? じゃあ、私は帰るよ。勇者くんとはまた会う機会もあるだろうけれど、君を殺すつもりはないから安心して?」
アザゼルはつまらなさそうな表情になると、腕を掴んでいたおれの手を振り払った。
「……分かった。お前、本当におれを殺すつもりはないんだな」
「そうだよ、じゃあ私はこれで――」
「でも、それとこれとは別だ。おれはやっぱりお前が気に食わない。もう一度おれと勝負しろ!」
「……はい?」
アザゼルがぽかんと口を開けておれを見た。
そして、自分は何か盛大な聞き間違えをしたのだろうかいやきっとそうに違いない、というような怪訝そうな顔で唇を開く。
「いや、あの……私のステータス見たでしょ? 勇者くんは今はレベル20だよね? 私に絶対に敵わないのは分かり切ってるでしょ?」
どうやら先ほどおれが鑑定魔法を使ったのと同様に、アザゼルの方も鑑定魔法を使っていたらしい。
けれど、今、お互いのレベル差なんてどうでもよかった。
「ああ、分かってるよ。でも、勝てなくても、お前の顔に一発いれるくらいはできるだろ」
「はぁ、なにそれ? 私、五百年生きててマトモに攻撃を与えられたこと一度もないし、ましてや勇者くんには絶対無理だよ。さっきは手も足もでなかったじゃない。それとも冗談で言ってるのかな?」
理解しがたいものを目の当たりにしたように、アザゼルはまじまじとおれを見下ろした。おれはその赤い瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「自分の仲間が殺されてるのに“必要な犠牲”なんて言って、平然としてるのが気に食わないんだ。お前、仮にも魔族の王様なんだろう?」
「えー、殺してる勇者くんがそれを言うの?」
嘲笑うように、アザゼルが唇を歪めて笑った。
挑発には乗らず、おれは淡々と言葉を返す。
「こっちは魔族に女の人が攫われたり、遊び半分で村が焼かれたりしてるんだぞ。正当防衛の範疇だろ? でも、お前が魔族たちを必要な犠牲だなんて言って切り捨てるのは違う」
「…………」
アザゼルはその顔に浮かべていた薄ら笑いを消すと、無表情になった。
おれは今日初めて、ようやくこの男と視線が合ったような気がした。
「ふーん……この私に、そんな生意気なお説教をかましてきたのは君が初めてだよ」
「お前、友達いないのか? まぁ、性格悪そうだもんな」
おれがしみじみと呟いた言葉に、アザゼルがピシリと固まった。
なんだか辺りの温度がわずかに下がったように感じ、周囲を注意深く観察する。だが、この男が気温低下の魔法などを使ったわけではなさそうだ。
「……もしかして、私が君を殺さないって言ったから、図に乗ってるのかな。私、君は殺せないけれど――苛ついたから、代わりに今から王都で適当に百人くらい殺してこよっかな。勇者くんには止められないでしょ?」
アザゼルが数歩距離をとり、顔を王都の方角へと向ける。
おれはあえて余裕のある笑みを浮かべてみせた。
「なんだ、正論を言われたからって八つ当たりか? 五百年生きてるわりには意外と子供っぽいところがあるんだな」
「はぁ? 君、さっきからちょっと調子に乗りすぎ――」
さすがに聞き流せなかったようで、アザゼルがこちらに向き直る。それと同時に、おれは小さな声で「ワープゲート」と呟き、転移魔法を発動させた。
座標をおれの右拳のみに設定していたため、魔法が発動すると、おれの右の手首から先が瞬時に転移する。自分の右手がなくなるのは、分かっていてもちょっとホラーだ。
「ぐッ!?」
そして――転移した拳はアザゼルの顔の右側に転移。
その勢いのまま、彼の右頬を力強く殴打した。不意打ちの一撃を顎先に食らったアザゼルが、たまらず足をもつれさせて地面に膝をつく。
この方法は、先ほど、アザゼルがおれの鳩尾を殴ってきた時の転移魔法の使い方――アザゼルが右手だけを転移魔法で転移させたのを、そのまま丸パクリさせていただいた次第である。
先ほど、おれが腹を殴られた時――アザゼルとの距離ははるかに開いていた。手が届く距離ではなかった。
ではなぜ打撃を食らったのかというと、アザゼルが転移魔法を唱え、自分の拳だけをおれの鳩尾めがけて転移させていたからだ。
おれも転移魔法は習得していたが、“過去に訪れたことのある場所に移動できる魔法”という認識だったので、そんな風に攻撃に変える術があるとは知らなかった。
さっそく真似して使ってみたけれど、すごく便利だなコレ。転移魔法にこんな使い方があったとは。これからも使わせてもらおう。
ちなみに本来なら、アザゼルは攻撃気配察知のパッシブスキルを持っているはずなので、おれのグーパンなどその気になれば察知できていたはずだ。
けれど、散々おれが煽っておいたおかげで平静ではなかったようで、攻撃気配察知は働かなかったらしい。それともあえて無視したのか。まぁ、どちらにしても上手くいってよかった。
「ほら! 一発いれてやったぞ」
おれは胸をはってアザゼルに告げた。
とはいえ、おれも無傷ではない。殴った右手は赤く腫れて、じんじんと鈍い痛みを発していた。
「…………」
地面に膝をついたアザゼルの顔――その鼻骨は完全に折れて、形のいい鼻が曲がり血が出ていた。だが、それだけだった。
おれは渾身の力をこめて攻撃を叩きこんだ。今まで戦ってきた魔族たちなら、これで絶命していただろう。
だが、パッシブスキルに物理攻撃耐性を持っているアザゼルには致命傷にはならなかったようだ。
しかも、パッシブスキルに自動治癒を持っているアザゼルは、ヒールを唱えずとも、みるみるうちに怪我が治っていく。
うーん、マジでチートだなコイツ。
まぁ、アザゼルが怪我を治さずとも、おれは初めから追撃する気はなかった。
アザゼルが鼻の下に残る血の痕を手の甲で拭い、立ち上がってこちらに歩み寄ってきた時も、おれは黙ったままで彼を待っていた。
そして、怪我が完全に治ったアザゼルがおれの目の前に立った。
「今の攻撃……さっき、私が君の鳩尾にいれたやつを真似したのかい?」
「うん」
おれはこくりと頷いた。
怒ってるかな、怒ってるだろうな、と思っていのだが、意外にもアザゼルは平静だった。
「へぇ……あれを一度見ただけでやり方を理解して、真似できちゃうなんてすごいね」
「……どうも?」
「ところで、なんで追撃してこなかったの?」
物騒な質問に、おれは首を傾げて答えた。追撃されたかったんだろうか。
「? お前はおれを殺すつもりはないんだろ。なら、そんな奴を一方的に殴れないだろ。おれも一発やり返して満足したから、もういいかなって」
対して、アザゼルもまた不可解な面持ちで首を傾げてきた。
傍から見たら、男二人が首を傾げあってるんだから、不思議な光景だっただろう。
少なくとも、魔王と勇者が相対している光景には見えなかったはずだ。
「私、今から王都で百人くらい殺すつもりだって宣言したよね? それでもいいの?」
「んー……いや、さっきはお互いに売り言葉に買い言葉でああ言ったけれど、お前、あれ本気じゃなかっただろ? そもそもそんなことして、おれが罪悪感で自殺でもしたら困るのはそっちじゃないか?」
そう言った後で、ああいや、おれが自殺するのはおれが一番困るな……なんてことを考えていた時。
「ふふっ……あははは、あははははっ!」
目の前できょとんとした表情を浮かべていたアザゼルが、ふいに、楽しそうな笑い声を上げたのだ。それは、先ほどまでの作り笑いではない、本物の笑顔だった。
しかし、いきなり大声で笑いだした相手に、おれはびっくりして思わず後ろに飛びのこうとした。だが、逃げる前に右手をがっしりとアザゼルの両手で握りしめられた。
「お、おい、どうした? 大丈夫か?」
もしかして顔を殴った時に、頭もぶつけてしまったのだろうか。
ちょっと心配になりながら、恐る恐るアザゼルを見上げる。だが、アザゼルはおれの手を包み込むように握りしめたまま離そうとしない。
「あははっ、君、すごく面白いね! 私、五百年生きてきたけれど……お説教されたのも、こんな風に顔を殴られたのも、心を見透かされたのも、ぜんぶぜんぶ君が初めてだよ!」
「そ、それはどうも……?」
「ねぇ、君! まだ名前聞いてなかったよね。ねぇ、名前はなんていうの?」
おれは、正直に答えようかどうしようか迷った。
今、名前を教えたら、なんだかこの先とてつもなく面倒なことになりそうな予感がしたのである。
どうしようかとしばらく迷ったものの、結局、名前を教えることに決めた。
おばあちゃんに「挨拶やお礼はちゃんとしないとダメだからね」と言われていたことを思い出したからである。
「加賀見俊一だ」
「シュンイチくん……じゃあシュンくんだね! ねぇ、シュンくん」
アザゼルは嬉しそうに名前を繰り返し呼んだ。そしておれの手を握ったまま、おもむろに服が汚れるのもいとわずに地面に片膝をつく。
「私と、結婚前提にお付き合いしてください!」
「――は?」
聖アナトリアム王国に召喚されたおれは、まずは魔法の仕組みと使い方や、聖アナトリアム王国における一般常識、野営の基礎知識や異種族に関する基礎知識を学んだ。それとあわせて戦闘の訓練も行ったが、こちらの方は前者よりも早く終わった。
異世界からきた転移者は、異なる世界を渡ってきた影響で、常人とは比べ物にならない量のマナ吸収率を持つ。そんな伝承の通り、おれはレベル1の段階ですでに聖アナトリアム国中の人間に勝るマナ吸収率があった。
マナというのは、大地の霊力のことだ。星の霊力と言い換えることもできる。
人間が魔法を行使する際には、大気や自然に溶け込んでいるマナを自身に取り込み、それを自身の魔力に変換する必要がある。これをマナ吸収率という。
このマナ吸収をどれほど効率良く行えるか、そして変換した魔力をどれだけ保有できるかによって、魔法使いとしての才は決まる。
おれはほとんど呼吸をするのと同じような自然さで、マナを自分に取り込んで、魔力に変換することが出来た。なので、召喚されて三日目で上級魔法を使いこなせるようになり、五日目には下級魔族の討伐に成功することができた。
召喚されてから一週間目には、聖アナトリアム王国の騎士や戦士はむしろ足手まといとなっていたため、おれは単身で討伐に赴いた。まぁ、聖アナトリアム王国も先の魔族との戦いで騎士を失っていて人手不足になっていたし。
そんなわけで、おれは王国の村々を蹂躙していた魔族たちを一人で狩り続けることになった。
魔族討伐の証拠として、討伐した魔族の首を持って王都に帰還するおれのことを、王国の民たちは次第に『首狩り』や『首狩り勇者』と呼ぶようになった。一応、彼ら的には純粋な誉め言葉のつもりだったらしいが、おれはちょっと反省した。
そして十日目――その日、おれは下級魔族の討伐のため、再び単身で王国の郊外に赴いていた。
村から子供を攫っていた下級魔族を討伐し終えて、王都へ戻るために街道を馬で走らせていた時だった。
突然、馬が甲高いいなないたかと思うと、どうと地面に倒れたのである。
馬が倒れる直前、おれは慌てて地面に飛び降りていたので怪我はなかった。だが、馬の方は口から泡を吹いてそのまま気を失ってしまった。
いったい何が起きたのかと周囲に目を走らせる――すると、いつの間にか近くに男が立っていた。
「こんにちはー、君が噂の勇者くんだよね?」
「…………」
にこにこと人好きのする笑顔を浮かべる男に、おれは半歩下がって剣を抜いた。
見ただけで分かった。こいつは魔族だ。
外見は人間とそっくりだが、放っているオーラが圧倒的だった。
どうやら、こいつは今まで自分が討伐した魔族たちとは比べ物にならないくらい強いようだ。
「お前、何者だ?」
「ああ、初めまして。私はアザゼル、いちおう魔王をやってるよ。今日は巷で噂の勇者くんに会いに来ました」
「お前が魔王……!?」
信じられない思いで、目の前の男をまじまじと見つめた。
アザゼルと名乗ったその男は、おれよりも頭一つ分背が高い。髪は金で瞳は血のように鮮やかな赤。
筋肉質の身体には金糸の刺繍が施された白い衣服を身にまとっている。すっと通った鼻梁と彫りの深い顔立ちは、まるで彫刻のように整っている。年齢は、だいたい二十代後半だろうか?
本当にこいつが魔王なのか、と疑わしい気持ちと警戒心をもって男を見つめた。
今まで自分が討伐してきた魔族は、皆、人間とはかけ離れた容姿を持っていた。
全身が触手だったり、肌が青白くて手が六本もあったり、まるで魚のような顔をしていたりと、かなり特徴的な容姿の者たちだった。
しかし、このアザゼルは外見はまるっきり人間だ。羽も角も生えていない。
強い魔族だとは思うが……本物の魔王が仲間も連れずにこんなところに来るだろうか?
「お前が本当に魔王なのか? 魔王って、魔族たちのボスなんだよな?」
「信じられない? まぁ、確かに私の外見は人間みたいだもんね」
「外見もだけれど、普通は敵の首魁が自分から勇者に会いに来ないだろ。すごい現場主義なんだな」
「あはは、そうだね。現場主義って言えばそうかも」
楽しそうに笑い声をあげる姿は、やっぱり人間にしか見えなかった。
先ほどは二十代後半くらいだろうかと思ったが、そうやって笑う姿は二十代前半にも同世代にも見える。不思議な雰囲気の男だった。
「お前が本当に魔王だっていうんなら、ここに何しに来たんだ? おれに倒されに来てくれたのか?」
「うん。勇者くんがどんな子なのかなぁって興味があってね」
アザゼルが柔和な笑みを浮かべたまま、右手の人差し指をおれの顔に向けた。
瞬間――その指から魔力を凝縮した弾丸が発射され、目にも止まらぬ速さで迫る。
おれは反射的に左手へステップを踏んで、すんでのところで弾丸をかわした。弾丸は右の前髪をわずかに散らして霧散する。
「……っ!」
おれは奥歯を噛みしめ、そのまま前に踏み込んだ。
アザゼルとの距離を詰めて、先ほど抜いていた剣を素早く前方へと突き出す。だが、アザゼルは身体をすっと後ろに引いて切っ先を難なくかわした。
おれはアザゼルが身体を後ろに引いたのを見たが、あえて深追いはしなかった。代わりにバックステップを踏んで距離をあけると、体勢を立て直して剣を握りなおす。
そして、相手の動向を注意深く伺いながら、素早く自分に肉体強化魔法“フィジカルブースト”と攻撃力増加魔法“アタックブースト”を重ね掛けした。
「あはは、反応早いね! じゃあこれはどうかな?」
おれが魔法をかけ終えるのと同時に、アザゼルが再び右手の人差し指を向けてきた。
すると今度は頭上に、何十本もの剣がずらりと現れる。剣はこちらに向かって一直前に降り注いできた。
「くっ!」
おれは思わず舌打ちをしながら、地面を踏んで右手へと逃げた。
フィジカルブーストによって強化された肉体は、地面を軽く踏んだだけで五メートルの距離を瞬時に跳躍する。しかし、アザゼルの呼び出した剣は追尾機能を付与されているらしく、こちらの背中を追いかけてきた。
背後に迫る剣を紙一重でかわしながら、新たに防御魔法の“マジックバリア”を唱えた。出現したマジックバリアは四辺がそれぞれ三メートルほどの正方形になっており、その透明な障壁にぶつかった剣は、先ほどの弾丸と同様に霧散した。どうやら弾丸と同じく、この剣もアザゼルが魔法によって生みだした産物らしい。
さらに“マジックバリア”を二回唱え、自身の左右と後方に障壁を展開する――瞬間、鳩尾にとてつもない打撃が叩きこまれた。
見れば、自分の腹部に向かってアザゼルの拳が向けられている。だが、その拳は手首から先が消失しており、拳だけが空中に浮かんでいる状態だった。
なんの防御態勢もしていなかった所に食らった一撃は、あまりにも致命的だった。
ぐらりと視界が暗くなり、胃液が込み上げてくる。
「ぐっ……」
「あはは、油断大敵だよー。こっちもちゃんと注意してないとね」
思わず膝をついてうずくまると、視界に靴のつま先が見えた。
顔を上げれば、アザゼルがいつの間にか目の前に近づいてきていた。そして、屈託のない笑顔を浮かべてこちらを見下ろしている。
そんな彼の背後には、先ほどの残りの剣が空中にずらりと浮遊して並んでいた。その切っ先は、一本残らずおれに向けられている。
「いい線は行ってたけれど、ま、こんなものか。異世界の勇者ともなれば、私に傷をつけることくらいできるかなって百年ぶりくらいにワクワクしてたんだけど……期待外れだったなぁ」
アザゼルは柔和な笑顔から一転して、つまらなさそうな表情に変わった。
いや、こちらがこの男の本性なのだろう。
その瞳に宿る冷酷な光には、なんの感情も浮かんでいなかった。自分の存在など、路傍の石や虫けら同然にしか思っていないらしい。
おれはぐっと唇を噛みしめて、瞳を伏せた。
(さっきの打撃は転移魔法か……くそ、どうする? 悔しいけれど、今のおれじゃあこいつには敵わない。でも、力の差がありすぎて逃げる方法も思いつかない……こんなところで、殺されるのか? 何もできないまま……!)
おれは必死に思考を巡らせた。戦う方法、反撃する方法、逃げる方法。
だが、何も思いつかない。
だから、とうとうアザゼルがその左手の人差し指をぱちんと鳴らした時――とうとう自分は殺されるのだと思った。
「……っ?」
しかし、予想に反して何も起きなかった。
それどころか、おれに向けられていた剣はすべて霧散し、跡形もなく消えてしまったのだ。
おれは呆然として目の前の男を見上げた。先ほど打撃をくらった腹が、思い出したようにずきずきと痛みを訴えてくる。
しかし、アザゼルはこちらと目を合わそうとはしなかった。それどころか、もはや興味がなくなったように、顔を別の方向に向けている。
思わず、その横顔に向かって問いかけた。
「何のつもりだ……? おれを殺すつもりで来たんだろう?」
「え、殺さないよ?」
アザゼルはきょとんした表情でおれを見た。
「勇者くんを殺しちゃったら、魔族を魔界に返してもらうことができなくなっちゃうし」
「え?」
「ここに来たのは、さっきも言った通り勇者くんがどんな子か興味があっただけ。異世界の勇者なんて五百年生きてる私ですら初めて見るし? だから、何かすごい子なのかなって期待してたんだけれど……はぁ、すごくガッカリ」
「待て、お前たち魔族がこの世界に侵攻してきたんだよな? なのに、おれが死んだら魔族を魔界に返してもらうことができない、ってのはどういう意味だ?」
おれは困惑しながら尋ねた。
しかし、アザゼルはそっけない態度で肩をすくめる。
「あ、勇者くんは国王にそういう説明されたんだ? まー、じゃあそれでいいよ、うん。こっちとしては、やることさえやってもらえたらそれでいいしね」
「お、おい、待て!」
そう言って立ち去ろうとするアザゼルに、おれは慌てて地面から立ち上がってその腕をつかんだ。同時に、鑑定魔法“アプレイザル”を発動させる。
アプレイザルは、接触している相手のステ―タスを確認できる魔法だ。使用者のレベルによって読み取れる情報が変動する。なお、鑑定される側が許可すれば、レベルが至っていなくともステータスを確認することもできる。
おれがアプレイザルを使用したのは、目の前の男が本当に魔王なのか確認するためだった。
本物の魔王が「魔族を魔界に返してもらうことができなくなると困るから、勇者を殺さない」なんて馬鹿なことを言うはずがない。
それが本当なら、そもそもどうして魔族がこの世界に侵攻してきたのか。
「……! な、なんだこれ」
しかし、鑑定魔法でアザゼルのステータスを読み取ったおれは、そんな疑念や今の状況も忘れて、あんぐりと口を開いた。
名前:アザゼル・
職業:魔族を統べる王、合成獣、魔界の支配者
レベル:999
パッシブスキル:不老、疲労無効、飲食不要、睡眠不要、性欲制御、魔法発動無詠唱、身体能力超強化、魔力生成増大、魔力自動回復、魔力最大値自動増加、体力自動回復、負傷自動回復、病気耐性、物理攻撃耐性強、魔法攻撃耐性強、魔法防御、物理防御、精神攻撃耐性強、状態異常完全耐性、物理攻撃無効化時の無効、魔法攻撃無効化時の無効、物理防御無効化時の無効、魔法防御無効化時の無効、精神攻撃耐性時の無効、魔法気配察知、攻撃気配察知、特殊魔法気配察知、即死無効……
(――おいおい、パッシブスキルが多すぎてもうそれだけでステータスがすごい長文になってるよ! 他の項目まで読んでられない! っていうかレベルがえぐい! ……え? これ、一体誰が勝てるの? 魔法攻撃、物理攻撃にくわえて状態異常すら無効化するパッシブスキル持ちって……)
自分で見たものがにわかには信じられず、呆然としてしまう。
そんなおれを見下ろして、アザゼルが冷めた笑みを浮かべた。
「これで勇者くんと私の実力差が分かったかな?」
「っ! 鑑定魔法に気づいてたのか?」
「うん。私のパッシブスキルに、特殊魔法気配察知っていうスキルがあったでしょ? このスキルがあると、今どんな魔法がどこで発動されたのか、大体分かるんだよねー」
パッシブスキルの羅列があまりにも長すぎてそんなところまで読んでられなかったよ、と思いはしたものの、それを言葉にはしなかった。代わりに、アザゼルを睨みつける。
「じゃあ、おれの質問に答えろ。おれを殺すつもりがないってのはどういう意味だ?」
「うーん? まぁ、言葉そのままの意味なんだけれど……私は、勇者くんの魔法で魔族のみんなを魔界に還してもらいたいんだ。“魔門の開錠”は異世界からきた勇者くんしか使えない魔法だからね」
そう言って、アザゼルはおれの顔をじっと見つめた。
「“魔門の開錠”を使ってもらうためにも、勇者くんにはレベルを上げて欲しいから、下級魔族を殺されるのは必要な犠牲として受け止めておくよ。低俗な下級魔族がいくら殺されようが、私は興味ないし?」
「…………」
おれは黙ったままでアザゼルの顔を見つめ返した。だが、どうも嘘をついている様子ではなさそうだ。
目の前の男は、本当におれを殺すつもりはないらしい。
「理解できたかな? じゃあ、私は帰るよ。勇者くんとはまた会う機会もあるだろうけれど、君を殺すつもりはないから安心して?」
アザゼルはつまらなさそうな表情になると、腕を掴んでいたおれの手を振り払った。
「……分かった。お前、本当におれを殺すつもりはないんだな」
「そうだよ、じゃあ私はこれで――」
「でも、それとこれとは別だ。おれはやっぱりお前が気に食わない。もう一度おれと勝負しろ!」
「……はい?」
アザゼルがぽかんと口を開けておれを見た。
そして、自分は何か盛大な聞き間違えをしたのだろうかいやきっとそうに違いない、というような怪訝そうな顔で唇を開く。
「いや、あの……私のステータス見たでしょ? 勇者くんは今はレベル20だよね? 私に絶対に敵わないのは分かり切ってるでしょ?」
どうやら先ほどおれが鑑定魔法を使ったのと同様に、アザゼルの方も鑑定魔法を使っていたらしい。
けれど、今、お互いのレベル差なんてどうでもよかった。
「ああ、分かってるよ。でも、勝てなくても、お前の顔に一発いれるくらいはできるだろ」
「はぁ、なにそれ? 私、五百年生きててマトモに攻撃を与えられたこと一度もないし、ましてや勇者くんには絶対無理だよ。さっきは手も足もでなかったじゃない。それとも冗談で言ってるのかな?」
理解しがたいものを目の当たりにしたように、アザゼルはまじまじとおれを見下ろした。おれはその赤い瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「自分の仲間が殺されてるのに“必要な犠牲”なんて言って、平然としてるのが気に食わないんだ。お前、仮にも魔族の王様なんだろう?」
「えー、殺してる勇者くんがそれを言うの?」
嘲笑うように、アザゼルが唇を歪めて笑った。
挑発には乗らず、おれは淡々と言葉を返す。
「こっちは魔族に女の人が攫われたり、遊び半分で村が焼かれたりしてるんだぞ。正当防衛の範疇だろ? でも、お前が魔族たちを必要な犠牲だなんて言って切り捨てるのは違う」
「…………」
アザゼルはその顔に浮かべていた薄ら笑いを消すと、無表情になった。
おれは今日初めて、ようやくこの男と視線が合ったような気がした。
「ふーん……この私に、そんな生意気なお説教をかましてきたのは君が初めてだよ」
「お前、友達いないのか? まぁ、性格悪そうだもんな」
おれがしみじみと呟いた言葉に、アザゼルがピシリと固まった。
なんだか辺りの温度がわずかに下がったように感じ、周囲を注意深く観察する。だが、この男が気温低下の魔法などを使ったわけではなさそうだ。
「……もしかして、私が君を殺さないって言ったから、図に乗ってるのかな。私、君は殺せないけれど――苛ついたから、代わりに今から王都で適当に百人くらい殺してこよっかな。勇者くんには止められないでしょ?」
アザゼルが数歩距離をとり、顔を王都の方角へと向ける。
おれはあえて余裕のある笑みを浮かべてみせた。
「なんだ、正論を言われたからって八つ当たりか? 五百年生きてるわりには意外と子供っぽいところがあるんだな」
「はぁ? 君、さっきからちょっと調子に乗りすぎ――」
さすがに聞き流せなかったようで、アザゼルがこちらに向き直る。それと同時に、おれは小さな声で「ワープゲート」と呟き、転移魔法を発動させた。
座標をおれの右拳のみに設定していたため、魔法が発動すると、おれの右の手首から先が瞬時に転移する。自分の右手がなくなるのは、分かっていてもちょっとホラーだ。
「ぐッ!?」
そして――転移した拳はアザゼルの顔の右側に転移。
その勢いのまま、彼の右頬を力強く殴打した。不意打ちの一撃を顎先に食らったアザゼルが、たまらず足をもつれさせて地面に膝をつく。
この方法は、先ほど、アザゼルがおれの鳩尾を殴ってきた時の転移魔法の使い方――アザゼルが右手だけを転移魔法で転移させたのを、そのまま丸パクリさせていただいた次第である。
先ほど、おれが腹を殴られた時――アザゼルとの距離ははるかに開いていた。手が届く距離ではなかった。
ではなぜ打撃を食らったのかというと、アザゼルが転移魔法を唱え、自分の拳だけをおれの鳩尾めがけて転移させていたからだ。
おれも転移魔法は習得していたが、“過去に訪れたことのある場所に移動できる魔法”という認識だったので、そんな風に攻撃に変える術があるとは知らなかった。
さっそく真似して使ってみたけれど、すごく便利だなコレ。転移魔法にこんな使い方があったとは。これからも使わせてもらおう。
ちなみに本来なら、アザゼルは攻撃気配察知のパッシブスキルを持っているはずなので、おれのグーパンなどその気になれば察知できていたはずだ。
けれど、散々おれが煽っておいたおかげで平静ではなかったようで、攻撃気配察知は働かなかったらしい。それともあえて無視したのか。まぁ、どちらにしても上手くいってよかった。
「ほら! 一発いれてやったぞ」
おれは胸をはってアザゼルに告げた。
とはいえ、おれも無傷ではない。殴った右手は赤く腫れて、じんじんと鈍い痛みを発していた。
「…………」
地面に膝をついたアザゼルの顔――その鼻骨は完全に折れて、形のいい鼻が曲がり血が出ていた。だが、それだけだった。
おれは渾身の力をこめて攻撃を叩きこんだ。今まで戦ってきた魔族たちなら、これで絶命していただろう。
だが、パッシブスキルに物理攻撃耐性を持っているアザゼルには致命傷にはならなかったようだ。
しかも、パッシブスキルに自動治癒を持っているアザゼルは、ヒールを唱えずとも、みるみるうちに怪我が治っていく。
うーん、マジでチートだなコイツ。
まぁ、アザゼルが怪我を治さずとも、おれは初めから追撃する気はなかった。
アザゼルが鼻の下に残る血の痕を手の甲で拭い、立ち上がってこちらに歩み寄ってきた時も、おれは黙ったままで彼を待っていた。
そして、怪我が完全に治ったアザゼルがおれの目の前に立った。
「今の攻撃……さっき、私が君の鳩尾にいれたやつを真似したのかい?」
「うん」
おれはこくりと頷いた。
怒ってるかな、怒ってるだろうな、と思っていのだが、意外にもアザゼルは平静だった。
「へぇ……あれを一度見ただけでやり方を理解して、真似できちゃうなんてすごいね」
「……どうも?」
「ところで、なんで追撃してこなかったの?」
物騒な質問に、おれは首を傾げて答えた。追撃されたかったんだろうか。
「? お前はおれを殺すつもりはないんだろ。なら、そんな奴を一方的に殴れないだろ。おれも一発やり返して満足したから、もういいかなって」
対して、アザゼルもまた不可解な面持ちで首を傾げてきた。
傍から見たら、男二人が首を傾げあってるんだから、不思議な光景だっただろう。
少なくとも、魔王と勇者が相対している光景には見えなかったはずだ。
「私、今から王都で百人くらい殺すつもりだって宣言したよね? それでもいいの?」
「んー……いや、さっきはお互いに売り言葉に買い言葉でああ言ったけれど、お前、あれ本気じゃなかっただろ? そもそもそんなことして、おれが罪悪感で自殺でもしたら困るのはそっちじゃないか?」
そう言った後で、ああいや、おれが自殺するのはおれが一番困るな……なんてことを考えていた時。
「ふふっ……あははは、あははははっ!」
目の前できょとんとした表情を浮かべていたアザゼルが、ふいに、楽しそうな笑い声を上げたのだ。それは、先ほどまでの作り笑いではない、本物の笑顔だった。
しかし、いきなり大声で笑いだした相手に、おれはびっくりして思わず後ろに飛びのこうとした。だが、逃げる前に右手をがっしりとアザゼルの両手で握りしめられた。
「お、おい、どうした? 大丈夫か?」
もしかして顔を殴った時に、頭もぶつけてしまったのだろうか。
ちょっと心配になりながら、恐る恐るアザゼルを見上げる。だが、アザゼルはおれの手を包み込むように握りしめたまま離そうとしない。
「あははっ、君、すごく面白いね! 私、五百年生きてきたけれど……お説教されたのも、こんな風に顔を殴られたのも、心を見透かされたのも、ぜんぶぜんぶ君が初めてだよ!」
「そ、それはどうも……?」
「ねぇ、君! まだ名前聞いてなかったよね。ねぇ、名前はなんていうの?」
おれは、正直に答えようかどうしようか迷った。
今、名前を教えたら、なんだかこの先とてつもなく面倒なことになりそうな予感がしたのである。
どうしようかとしばらく迷ったものの、結局、名前を教えることに決めた。
おばあちゃんに「挨拶やお礼はちゃんとしないとダメだからね」と言われていたことを思い出したからである。
「加賀見俊一だ」
「シュンイチくん……じゃあシュンくんだね! ねぇ、シュンくん」
アザゼルは嬉しそうに名前を繰り返し呼んだ。そしておれの手を握ったまま、おもむろに服が汚れるのもいとわずに地面に片膝をつく。
「私と、結婚前提にお付き合いしてください!」
「――は?」
応援ありがとうございます!
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