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第1章
1-6 母親の説得
しおりを挟む夏の太陽の残像は、熱をため込んだ都会を、粘り強く照らし続けていた。
俺の気持ちは、そんな暑さをものともせず、清々しくもわくわくしている。だけど美那のほうは、風景に溶けてしまうかのようにどんよりしている。なんでだ?
「ミナ、ありがとう。ミナの一言で、アレを買えそうだよ。もう、マジ、理想の一台なんだ。ほんと、ありがとな」
「ああ、うん。どういたしまして」
「なんか、機嫌悪い?」
「べつに」
「バスケはやるからさ」
「うん」
「なんだよ。その、素っ気ない返事」
「まあ、当然でしょ」
「腹減ったな。マックでも寄ってく? おごるよ」
「モスがいい」
「わかった」
「やっぱ、スタバがいい」
「わかったよ」
腹減ったし、スターバックスで食事まですると高そうだけど、この際、しかたない。こんな形でZ250を手に入れられるのは、ほとんど美那のおかげだからな。
夕方のスタバは混んでいたけれど、なんとかテーブル席を確保できた。
美那は、ストロベリー系のフラペチーノに、根菜チキンのラップサンドにスコーンの生クリーム添え、俺はアイスラテにハムとチーズの石窯なんちゃらを頼んだので、2000円を超えた。さすが体育会系部活少女は大食いだ。
お腹を満たせば少しはやわらぐはずの美那の表情は相変わらず険しい。微妙に。
「あのさ、さっきのバイトの話、ちょっとやばいんじゃない?」
ようやく美那がまともに言葉を発した。その件か。
「なんで? 一週間で10万とか、すげえ助かる」
「あんた、あんな大人の女性とふたりで旅行するんだよ。大丈夫なの?」
「まあ、話してみたら、案外話しやすかったし、撮影助手とか、興味深いし」
「ふーん」
「なにをそんなに心配してくれてんだよ」
「いや、別にいいんだけどさ、変なことにならないか、ちょっと心配」
「変なこと? え、俺が長谷部さんを襲っちゃうとか、そういうこと?」
「逆」
「いやー、それはないだろう。あんな、綺麗な人だし、きっと彼氏とかいるし」
「そんな人が、男の子を雇うかな? まあ、リユは、安パイぽいからかもしれないけど」
「そうだろ、きっと。それに、ミナのことを見て、俺のことを信用してくれたんじゃね?」
「そうかもしれないけど、わたしの説によると、母親に優しい男の子って、年上の女性に可愛がられるんだよね」
「俺はそんな優しくねえし」
「リユは優しいよ……やさしい」
「そうか? まあ、どっちかっていうと、年上の女性からはたしかに可愛がられるな。同じくらいの女子からは相手にされんけど」
「真由ちゃんは?」
「いや、ほんと、ちょっと言葉を交わす程度でさ、普通にありえんでしょ。香田さんに告って玉砕したモテ男、何人も知ってるし」
「そうかなぁ。まあわたしもかなりの男を粉砕してきたけど」
「そんなに香田さんと俺をくっつけたいのかよ。そりゃ、俺だって、そういうことになればいいと思うこともあるけど、無茶な希望を持っても虚しいだけだしな」
「ま、いいけど。じゃあ、明日の朝から練習ね。場所とかはあとで連絡する」
「あー、それか。わかったよ。それより問題は、かーちゃんの説得だよ」
「まさか、免許を取ったことも言ってないの?」
「いや、学校にも届けが必要だったし、それはもう言ってある。免許を取るときは頑張って試験場で直接取ったから言わずにできたけどな。ただ、バイクに乗ることは反対っぽいんだよな」
「そりゃ、たったひとりの息子がバイクで事故りでもしたら、後悔してもしきれないよね」
「だからといって、俺だって自分の夢を追求しないわけにはいかない。俺だって、小学校の頃からずっと我慢してきたんだぜ。かーちゃんに心配かけないように」
「うん。そうだよね」
美那はそう言うと、妙に柔らかい瞳で俺を見た。やっぱ、こいつ可愛いよな。口を開かなければ。
「それより、お前のほうは大丈夫なのか? 親の離婚」
「まあ、わたしがどうこうできることじゃないし、もう決定的みたいし」
「なんかあれば、言えよ。話を聞くくらいはできるからさ、先輩として」
「うん、ありがと。まあ、ヤなことがあったら、リユをしごいて、発散する」
「おい、おい」
「冗談。でも厳しくはするよ。大会まで2カ月くらいしかないから」
その点は覚悟するしかないらしい。それに少しは美那の力になってやりたいしな。
今日の夜空はやけにきれいだ。
美那の家から歩いてほんの3分の道のり。もういまは家に帰ることは苦痛ではなかった。
「ただいま」
「あら、遅かったのね。もうすぐ夕飯できるから」
「ああ。着替えてくる」
俺はうがいをして、顔を洗って、気合を入れた。これから、かーちゃんを説得だ。
正直に言って、かーちゃんはあまり料理が上手くない。そのせいもあって、俺は料理が上手くなった。離婚後はしばらくパートの仕事にでかけていたから、自分で作らなければならない日も多かったしな。
今日はハンバーグとサラダとワカメの味噌汁。ハンバーグはかーちゃんの得意料理のひとつだ。ちょっとホッとする。
「あのさ、美那のとこ、ついに離婚秒読みらしい」
「そうなの……」
かーちゃんは残念そうに俺の目を見る。
「なんか親父さんが浮気相手とまた戻っちゃったらしくて」
「いち時期はだいぶ良くなった感じだったのにね」
「今日、美那がそう言ってた」
「ふぅん。この間、美那ちゃんに会ったけど、たしかにあんまり元気そうじゃなかったわね。話しかけたら、いつもの笑顔だったけど」
「そうなんだよな。あいつはいつも他人に弱みを見せようとしない」
「でも、里優には違うでしょう?」
「いや、どうなんかな。まあ、毒は吐き出してくるな」
かーちゃんがハハと声を出して笑う。
「あなたたち、ほんといつまでもいいともだちよね」
「それ、どういう意味だよ」
「不思議なくらい恋愛に発展しないわよね」
「そりゃそうだろ。幼稚園のころからだぜ。しかも、美那は超イケてるけど、俺は極めて地味だしな」
「あんたもねぇ……」
かーちゃんが何を言いたいのかはわかる。俺だってなにかの才能はある。自分でもそう信じている。だけどそれがなにかわからない。ときどき妙な才能を発揮する。バスケもそう。学業のほうも、突然ある科目でクラストップの点数を取ったりする。だけどだいたいは平均よりもちょっと上程度。時には赤点スレスレのときもある。自分でもよくわからない。先生たちも俺をどう分類していいかわからないらしい。
「ところでさ、バイクを買おうと思ってて、親の承諾書が必要なんだけど、お願いできるかな」
「バイク、買うの?」
「やっぱ、ダメ?」
「うーん。危ないわよねぇ」
「それはもう、安全運転に徹するからさ」
「そうはいってもね、万が一ってこともあるし、もらい事故だってあるし」
「でもそれを言ったら何にもできないじゃん」
「だけど、そんなお金あるの?」
「それがさ、美那のいとこの紹介で、いちばん欲しかったやつが買えそうなんだ。まだ予算は足りないけど、その人が仕事を手伝ってくれれば足りない分はOKだって言ってくれてるんだよ」
「なによ、そんなオイシイ話、ヤバいんじゃないの? 美那ちゃんのいとこの紹介っていってもね……」
「いや、ちゃんとした人。建築関係のカメラマンで、夏の撮影旅行で雑用をしてくれる人間を探してたんだって」
「まさかゲイとかじゃないわよね。あんた、狙われやすそうだから」
「ちがう。オンナの人」
「女性か。それはそれでどうなのかしら。なんていう人?」
「長谷部有里子さん。名刺ももらった」
俺は急いで部屋から有里子さんの名刺を持ってきて、かーちゃんに渡した。
「大丈夫だって。美那も今日、一緒に会ってるし、信用できそうな人だったよ」
「じゃあ、ちょっとだけ考えさせて」
「バイクを買い換える予定で、できれば今日、返事がほしいんだって」
かーちゃんは壁の時計を見た。
「一時間、そうね8時半まで待って」
「わかった。お願いします」
かーちゃんはちょっと難しい顔で自分の部屋に入っていった。俺はそわそわした気持ちで夕飯の後片付けをした。それにしても今日はなんども宙ぶらりんな時間を味わっている。
自室のノートパソコンで、何回となく読んだZ250の試乗記事を読んでいると、美那からスマホにメッセージが入った。
――>明日は6時半に迎えにいくから。当然、バスケができる格好でね。とりあえずテニス・シューズでもいい。
<――早えな。でもわかった。
ドアがノックされた。
「里優、来て」
「ああ」
俺はドア越しに返事を返す。
ダメと言われようが、意地でも主張を通すしかない。
綺麗に拭いておいた食卓の上に何枚か重なった紙を置いて、かーちゃんが待っていた。
俺はちょっと緊張して、向かいの椅子に座った。
一番上の紙は、おそらくどこかのサイトからダウンロードした、記入されていない親権者の承諾書だった。
「長谷部さんってひと、ちゃんとした仕事をしているみたいね。ホームページを見たわ。なかなか個性のある素敵な写真だった。バイトはどのくらいの期間で、どのくらいの収入なの? あと、バイクの値段とかは?」
俺は、かーちゃんに納得してもらえるように、丁寧に説明した。
「わたしはバイクの値段はわからないけど、妥当な金額なのね?」
「うん。大切に乗ることを条件に、むしろ安くしてくれている。中古バイク屋で買ったら、たぶんあと10万か15万は高いと思う」
「わかった。バイトは出張7日で10万か。1日1万5000円弱ね。高校生のバイトとしては高いけど、拘束時間は長いしね」
お、なんか、認めてくれそうな感じ。
「とりあえず、アルバイトの件はわかった。認める。でも長谷部さんにちゃんとした契約書を作ってもらうわ。バイクのほうは……」
かーちゃんはそう言いながら、一番上の紙を脇によけて、何枚かの紙を俺に差し出した。
1枚目は誓約書だ。
「里優は、ちゃんと教習所にいかずに、運転免許試験場で直接試験を受けて、免許を取ったんだったわよね?」
「うん。ただ一応、何時間かだけど試験対策の実技講習は受けたけど」
「自分のバイクの技量についてはどう思ってるの?」
「そりゃまだ初心者だし、友達の兄貴のバイクで、その友達と一緒に、その人から河原の駐車場で教わって、あと短時間の実技講習で練習しただけだから、不安といえば不安。でも厳しいって言われている試験場の試験には合格したんだから、最低限の運転技術はあるとは思ってるけど……」
かーちゃんは困ったような顔で俺を見る。
「あんたはいままでいろいろと我慢してきてくれたし、わたしの想像以上にわたしを支えてくれてきたから、できれば、あなたの願いを叶えてあげたい。でもね、事故であなたを失ったりしたくもない。怪我もして欲しくない。それはわかってくれるよね?」
「うん」
俺は殊勝な気持ちでうなずく。
「免許を取った以上、いつかはバイクを買って、乗るようになることは覚悟してたんだけど、大学に入ってからかなとか、希望的観測をもっていたわけ。ちょっと甘かったわね。それで、その誓約書の内容を守ってもらいたいの。それが、バイクの購入を認める条件。声に出して読んでみて」
誓約書
① 安全運転に努めること。
② 交通法規は守ること。ただし周りの交通の流れもあるから、ある程度それに合わせることはよい。
③ もし事故を起こしたり、交通違反で捕まったりした場合は、警察の処分とは別に、しばらくは運転をしないこと(期間などは、状況次第で母親が決める)。
④ 定期的に別紙のライディング・スクールに通うこと(半年以内に最低4回、中級程度まで。費用は母親が負担する)。バイクの引き取りを除いて、バイクに乗り始めるのは、初中級コースを修了してから。長距離走行は中級コースを修了してから。
⑤ バイクで出かけるときは、必ず母親に告げてから家を出ること。もし泊りがけなどで長距離走行をする場合は、定期的に連絡を入れること(タイミング等は随時相談)。
⑥ 任意保険には必ず加入すること。
⑦ 当たり前だけど、学業を疎かにしないこと(成績が上位半分より下になったら、運転停止もありうる)。
以上のことを、森本里優は守ることを誓います。
年 月 日
署名
それは想像していたのとは違うものだった。特に4番目のライディングスクールは。
紙をめくると、オートバイメーカーが主催する日帰りのライディングスクールの内容やらスケジュールなどが印刷され、4つのコースに丸が付けてあった。
「自分に合わせてコースは変えていいけど、それでどう? 乗り始める前に最低2回」
「スクール、かーちゃんが出してくれるの?」
「いままでの感謝の気持ちと、息子を失う可能性を少しでも減らしたいからね」
か、かんしゃ? 俺も当たり前のように家のことを手伝っていたし、普段はわりとぶっきらぼうだから、そんな風に思っていてくれたなんて、驚いちまった。
胸がいっぱいで、頰を涙が伝うのがわかる。
「泣くほどのことじゃないでしょ」
「ああ。でも、なんかうれしくてさ」
「守ってくれなきゃ、何の意味もないからね」
「わかったよ……」
そうだ、にんいほけん! やば、すっかり忘れてた。俺は急に冷静になった。
「そういえば、任意保険のこと、忘れてた」
「あんたはそういう少し抜けているところが昔からあるわよね。いい加減、直しなさい。わかった、最初の一年だけは出してあげる」
「ほんと? 助かります。ありがとう」
かーちゃんは、すぐに親権者の承諾書への署名と捺印をしてくれた。
それから、明日の朝、美那のバスケの練習に付き合わされること――ほんとは俺がしごかれるのだが――を伝えた。かーちゃんはわりと素っ気なく、「あんたで役に立つなら、少しは美那ちゃんに恩返ししなさいよ」と言った。いつも愚痴を聞いてやってるのは俺のほうだが、少なくとも今日のことは美那のおかげと思い、「ああ」とだけ答えておいた。
俺はすぐに有里子さんに、少々迷惑かもしれないと思ったけど、メールではなく電話をかけた。スクールに通うなら、バイトのスケジュールも確認しておかないといけない。
有里子さんはZ250を俺に譲れることになったことを喜んでくれた。撮影助手のバイトは夏休みに入ってすぐがいいとのことだった。7月19日金曜日が終業式であると伝えると、「天気もあるけど、20日からのスケジュールを組んでみるから、それで予定しておいてね」と有里子さんは言った。
美那には明朝伝えればいいのだが、あまりに嬉しくて、バイクにOKが出た、とメッセージを送ってしまった。
――>よかったね。明日は寝坊すんなよ。覚悟しとけ!
と、優しいような乱暴なメッセージが帰ってきた。ま、美那なりに祝福してくれてるんだろう。
そういや、今日はなんか途中から女っぽい喋り方になっていたことに今、気がついた。喫茶店に入って、しばらくしてからだったかな? タカシ兄ちゃんと連絡を取った辺りか? ま、いいや。
それからすぐにライディング・スクールにネットで予約を入れた。うちの学校は土曜日も授業があるので、6月23日(日)の初級コースに申し込んだ。1万6000円だ。自分で出せといわれたらキツかった。
興奮して眠れそうもないが、とにかく明日のシゴキに備えて、早く寝よう。
そしてやっぱり、ベッドには入ったものの眠れず、免許を取るときに買ったヘルメットやグローブを眺め、Z250に乗る自分を想像したら、ますます目が冴えてきた。
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