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第五章 | 樽廻船の女船長、商人の町へ行く
樽廻船の女船長、商人の町へ 其ノ玖
しおりを挟む海の上とは実に不安定な心持ちになるものである。ベタ凪の時はいいが、波が少しでも高くなってくれば、木造の船のあちらこちらが立てる音にビクついてしまう。
右も左も海、見渡す大海原!という状況において、ちょんまげ時代の木造船は実に心もとなかった(なおが泳げないから、というのもあるかもしれないが)。
しかし数日も経てば、すっかり船の上の生活にも慣れ、今や多少の高波では動じなくなっていた。船を漕ぐ姿も様になってきて、自分でも「海の男」っぽくなってきたのがわかる。
日が昇れば船を漕ぎ、3食山盛りの米を喰らう。そして日が暮れれば少しの日本酒を飲んで眠る。その繰り返しだったが、真っ青な空と海、船の上を通り抜けていく風がどうにも心地よく、日々全く飽きることはなかった。
「今日もいい天気だなあ」
なおが大きく伸びをしていると、喜兵寿が「おはよう」と言いながら甲板へとやってきた。髭をそっていないから、外見はだいぶワイルド。気崩した着物が様になっており、増々色気溢れる出で立ちになっているのが憎らしい。
それに対して、なおはぼさぼさの髪に、大きくはだけた着物。昨夜は熱帯夜で寝苦しかったため、上半身はほぼ裸だった。
「なお、お前寝起きとはいえ、着崩れすぎだろ。どうやったら着物がそんな風になるんだ?」
喜兵寿は上から下までじろじろとなおを見ていたが、途中でぎょっとした顔をした。
「お前へそに梅干しを貼ってるのか……!」
喜兵寿の言う通り、なおはへそに梅干しを貼っていた。「酔い止めになるから」と出発につるがこっそり持たせてくれたのだ。見るからに酸っぱそうな、真っ赤な梅干し。それはへそに貼りやすいようにとご丁寧に種まで抜いてあった。
「だってこうすれば、酔い止めになるんだろ?つるがくれたんだ、そりゃあ毎日ちゃんと張り替えてるよ」
「そうか……つるが……くくっ……張り替えてまで……いるのか」
喜兵寿が必死で笑いを堪えるようにして、後ろを向いた。
「おい、笑うとか失礼だろ。つるがせっかく用意してくれたのに」
「……そうだな……ふふっ……申し訳ない。いやしかし……いまどき本当に梅干しをへそに貼る奴がいるとはな……くくっ」
「古いんだかなんだか知らねえけど、いいんだよ!事実船酔いしてないんだし、梅干し様様だっつーの」
「そう……だな……」
へそ梅干しは喜兵寿のツボに入ってしまったのだろう、肩を震わせ必死で笑いを堪えている。
「……それで?使い終わった梅干しは、毎日どうしてるんだ?」
「ああ、それは食ってるよ!梅干しも喜兵寿が漬けてるのか?なかなかいい塩加減だよな」
それを聞いて喜兵寿はたまらず爆笑をした。
「あはははは!お前へそに貼った梅干しを!食ってるのか!『いい塩加減だ』とか言って、絶対自分の汗も一緒に食ってんだろ!あはははははは!捨てろよ」
「はあ?だって捨てたらもったいないだろ!酒問屋の店主が食べもの粗末にする発言していいんですかー」
喜兵寿はひとしきり笑い転げた後、「確かにその通りだな」と涙をぬぐった。
「悪い、梅干しをへそに本当に貼ってるやつを見るのは初めてだったから、ついつい取り乱してしまった。その梅干しは俺じゃなくて、つるが漬けたやつだよ。粗末にしないでくれてありがとう」
「なんだよ、みんな貼るわけじゃないのかよ」
「俺たちの祖父母の時代には貼ってたみたいだけどな。今はなかなかお目にかかれないよ。でもつるらしいっちゃ、つるらしいな。おおかた祖母に昔教えてもらったことを律義に守っているんだろう」
「ああ、そういう感じね。昔ながらの願掛けみたいなもんか」
そういうとなおはへそから梅干しを剥がし、ぱくりと口に放り込んだ。
「ひゅ~すっぱ!これへそに貼るより、食った方が酔わない気がするなと思ってたんだよな。へそに貼っとくと痒いし、これからは食って酔い止めにするわ」
「ああ、それがいい」
喜兵寿となおは顔を見合わせ、声を出して笑った。
「はあ、朝から笑った。そういえばつるで思い出したが、麦芽作りは大丈夫だろうか」
喜兵寿が少し心配そうな声を出す。家を出てから早1週間。予定ではそろそろ麦芽が完成しているころだ。
「あの几帳面なつるなら大丈夫っしょ。事細かに伝えてきたし、ほら、梅干し貼っちゃうようなまじめなところもあるわけだしさ」
「そりゃあ、そうだな」
そういってふたりは再び声を出し笑った。
「今日も暑くなりそうだ。気合いれるぞ」
「おうよ」
堺まであと半分。なおと喜兵寿を乗せた樽廻船は順調に目的地へと向かっていたのであった。そう、この時までは。
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