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グラナダ2
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駒の付いた引き戸に手をかけると、格子にはまり込んだ摺りガラスがカラカラと軽い音を立てた
暖簾と暗い行灯だけが存在を示すその小さな小料理屋は狭い店内にカウンター席しかない、名物女将が独特のイントネーションでいらっしゃい、とはんなり笑った
「いい店だな、良く来るのか?」
「一人の時は大概ここだな、カウンターでいいだろ?詰めて座れよ、そのうちいっぱいになる」
佐鳥を奥に座らせて隣の椅子を引くとお絞りが手渡された、厨房はなくカウンターの中では口を開いた事がない寡黙な大将が料理を作っている
「緑川と飲みに来るの久しぶりだな」
「忙しかったからな、暁彦、何飲む?ビールでいいか?」
仕事を離れると佐鳥の事は名前で呼んでいた、前に「佐鳥!」と大声で呼んだら社長が振り返って気不味い思いをしたからだが、今度は反対に仕事中「暁彦」が出てしまいそれはそれで困ってる
「俺は焼酎の水割りにする」
佐鳥の返事を聞いた女将は何も言わなくても目だけで注文を受けてくれた
新色塗料の手配を夕方のスケジュールに捩じ込み会社に帰ると佐鳥はまだ残っていた
仕事もしていないくせに何をしてるのか、窓に張り付いて帰ろうとしない佐鳥を連れ出して飲みに連れてきたが今日はど平日、夕飯ついでに一杯……のつもりだった
「あんまり飛ばすなよ、明日も仕事なんだからあんまり飲むと響くぞ、何をそんなに煮詰まってんだ」
「何だよ……飲みに来るの久し振りなのに変な説教聞きたくないからな」
「別に説教なんかしないけどね……」
プライベートな悩みなら無理に聞きはしないが仕事の話なら、せめて愚痴ってくれればいいのに、行動は素直なくせに妙な所でストイックさを発揮する佐鳥はこんな時、頑固で中々口を割らない
まあ……聞かなくても知ってるからいいけど……
手書きのメニューを眺める佐鳥から和紙を取り上げて勝手に注文した
佐鳥が食べ物を選ぶとコスト調整に置いてるポテトフライとか唐揚げとか無粋な子供メニューになる、絶対なる
「今見てたのに……」
「今日は俺に任せろよ、暁彦は俺だけ見てたら間違いないって何回も言ってるだろ」
「キモいな……見てろったってお前いないだろ」
「仕事が面白んだよ、つくづくTOWAに来て良かったと思ってる、好きにやらせてくれるからな」
「そう言えば………塗装色どうなった?」
先付に出てきたフキの小鉢から鮮やかな緑の枝を箸で摘んだ佐鳥はクンクン匂いを嗅いでチマっと先っちょを噛んだ
……同い年なのに仕草が子供で自然と笑ってしまう、佐鳥と飲みに来ればアテなんか無くても「佐鳥観察」だけで美味しく飲める
「ちゃんと開発に押し込んできたよ」
「文句言われたろ」
「いいや?…すぐに取り掛かって出来たら連絡貰えるようにしといた」
「でもあの納期……無理させるから……」
「開発の奴らもやらなきゃならない時はやるだろ、俺に文句言ったってしょうがないってわかってんだよ」
事も無げにサラリと言うが多分それは緑川だからできる事、他の誰かが開発に無理な仕事を捩じ込むとこうは行かない
お料理が出来るまでこれどうぞと出てきた頼んでないマグロの中落ちに緑川がにっこり微笑むと、男前二人揃ってドキドキするわ、と女将はニコニコしていた
「お前は持ってる容姿を存分に使いこなしてるな」
「暁彦が下手すぎるだけだろ」
「下手って……」
「なあ……暁彦……俺達まだ27だろ?なに肩肘張って色々背負おうとしてるんだよ」
「肩肘なんか張ってない」
「……いつまで経っても新入社員みたいにカチコチで遊びが無いから余裕がなくなるんだろ」
「俺のどこが……」
「木下はあれでお前の事ちゃんと認めてるぞ」
「………説教しないって言ったくせに……」
緑川はすっ惚けて同僚と拗れても何も介入してこなかったが、やけに目はしの効くこいつには多分最初から全部知られてる、我ながらくだらないとわかっているからこそ反論なんかしたくない
ムッと黙り込んで視線を外すと後頭部にブチュッと柔らかいものがくっついた
「また!すぐチューする……そんなんだからホモとか言われるんだよ、俺から見てもそのケがあるんじゃないかと思うじゃないか」
「関係ない奴に何言われてもいいだろ、俺は全部行けるからあながち嘘とも言えないしな」
「へ?全部って?…………」
にこりと笑った緑川はビールのグラスを空にしてマグロの欠片を摘んで食べた
飄々とした揶揄口調はいつもだが……全部って……会話の流れから行くととんでもない告白にも聞こえる
ふっと雪斗の顔が頭に浮かび、整理出来てないけど不思議と違和感を感じていないキスをどう捉えたらいいのか……
「じゃあ……さ緑川は……」
「ん?………」
「……男とキスしたことある?」
今しただろ?と笑った緑川は冗談を言っているにしろ何を考えているか分かりにくい
鯛の煮こごり、茄子の田楽に鮎の塩焼き
緑川の注文した料理はどれも絶品でメニューが大人っぽい
「旨いな」
「俺に撒かせて良かっただろ?ここは何食っても旨いよ」
料理はどれも薄味で出汁も素材の色を濁していない
話に割り込んだりはして来なかったが料理を褒めるとカウンターの中からおおきに、と笑った女将はどうやら京都の出身らしい
「お前本当に俺と同じ27?」
「戸籍抄本でも見せようか?何ならついでに入籍してもいいぞ」
「ちゃんとプロポーズしてくれ、丁寧に断ってやる」
「バーカ、断られるような下手は打たないよ」
悠然と笑う緑川は何となく人生経験が倍はありそうに思える、一人で夕飯を食べるならラーメンか牛丼、時間があれば自炊しているし、緑川がどこでもいいと任せてくれていたら大衆居酒屋か焼き肉にでも行った
こんな店には入らない
「雪斗にさえ負けてる気がするよな……」
不遇な幼年期を過ごし今も尚抜け出せていない雪斗を保護するような気持ちでいたが多分雪斗には必要ない、どうやって暮らしているのかは分からないがしっかり自分の足で立っているように見える
「雪斗って誰?」
「ん?友達……いや……知り合いかな」
ふっと頬を緩めて焼酎のグラスに目を落とした佐鳥に妙な違和感を覚えた、懐に入ってしまえば人懐っこく、考えてる事も丸わかりで付き合いやすいが実は佐鳥には友達が少ない
明るくフレンドリーに見えるが何があっても一歩引いて中に入れてもらえず、社長の息子なら、と最初は打算と計算込で近づいき、対人攻略スキルをフルに使ったが壁を取っ払うには2年近くかかっていた
まだ友達とも言えない相手に、佐鳥の方からアプローチするなんて珍しい
「最近知り合ったって事?どこで?仕事関係か?」
「いや……それはもういいよ、なあ緑川……この後もう一軒行かないか?なんか飲み足りない……」
「………いいけど……」
愚痴や弱音は中々吐いてくれないが、デカい図体をして甘えるのが上手い佐鳥にお願いモードで頼み事をされるとどうしてか言う事を聞いてしまう
調子よく焼酎を飲み続け、止めるタイミングを見誤り飲ませ過ぎたなと帰るタイミングを測っていたのについ良いと言ってしまった
「一杯だけだぞ」
「付き合いいいとこが大好き……」
「好きとか言うな襲うぞ」
「だから言うことがキモいんだって」
ヘラヘラと笑った佐鳥は焼酎のグラスを持ったまま立ち上がってくっと中身を空けてしまった
まだ時間はそんなに遅くない、街の繁華街はギラギラと自らの存在を主張し合い昼間とは打って変わった姿を見せる
佐鳥と飲みに出る時は酒量を抑えるようにしていた、友人として面倒を見ると言うより、これはもう会社の為に羽目を外さないように見張ってる側近の仕事に近い
ふらつく程では無いが酔って反射の落ちた佐鳥が混み合う酔客にぶつからないよう肩を当てて誘導しながら、一杯毎にペイするショットバーに向かった
入社当初によく来たそのショットバーは人通りの多い本筋から地味な脇道を入った所にある
角を折れようと佐鳥の背中を押すと、突然バッと振り返った佐鳥がツーっと体を倒した
「雪斗!!」
「暁彦?!」
走り出す前ぶれだとは思わなかった
大体走れる人混みじゃない、背の高い佐鳥が人の頭を掻き分けて雑踏に飛び込んでからしか反応出来なかった
「暁彦?!おい!!ちょっと!!」
足が速いと自慢するだけあって運動能力は高い
動きが時たま突飛……考えついたまま反射で動く佐鳥にはよく振り回される
「暁彦!待てったら!」
佐鳥が突進する先にいるのは噂の「雪斗」?
人混みの中に見えたフワリと揺れる伸びた髪は丁度同じ位の高さに埋もれあっという間に見えなくなった
「何やってんだよ暁彦!危ないだろ!」
「…いや…知り合いがいたんだけど………」
「この人混みじゃもう無理じゃないか?」
「……うん……そうだけど……」
そう言いながらも佐鳥はまだ目で周りを探していた、また急に走り出さないかと視線の先に回り込んで牽制しなければ安心できない
「何か用事でもあるのか?」
「そうじゃないけど……」
「じゃあ今度にしろよ、取り敢えず店に入るぞ」
雑踏に視線を残す佐鳥の腕を引いてショットバーの中に押し込んだ
佐鳥が追いかけた男には見覚えがあった
最近会社の前でよく見かける若い男だが、営業帰りに遅くなってもまだベンチに寝転んで昼間のままそこにいた、どうやら家に帰らず外をうろうろしている
「雪斗ってさっきの奴?」
この店は大きな樽に柄付きのピーナッツが山程盛られノーチャージで勝手に食べる事ができる
柄は床に投げ捨てられ夜が深くなると歩けないほど散らかるが、ゴミをその辺に投げ捨てるなんて普段出来ない事で妙にストレス発散になる
軽めのトニックを注文して腰の辺りにあるバーに半分だけ体を預けた
「うん……最近知り合ってな」
「あんまり良くない相手に見えるけどな」
「知ってるのか?」
「会社の前で最近よく見る奴だろ?」
パリッとピーナッツの皮を剥いて中身を二つとも口に放り込んだ
「………お前が思ってるような奴じゃないよ」
「ふうん……」
「ってかお前顔が怖いんだけど何?」
「怖いって?」
「何か怒ってる?」
佐鳥に言われていつも意識して装備している笑顔を忘れていることに気付いた
飲み屋が集まる夜の繁華街で雑踏の中に見かけたのは間違いなく雪斗だった、用事があると言ってどこかに行ってしまい、この数日姿を見ていないが目的があって歩いているようには見えなかった
いく所もなくフラフラしていたのかと思うとすぐに外に出て探したいが、帰る家もなく会社前のベンチで寝泊まりしている事を詳しく知れば緑川がどう出るかわからない
知り合いだと言った途端表情を消してしまった緑川は困った事に行動力も判断力も決断が早い
「暁彦……」
「な……何?……」
「お前揺れてるぞ、飲みすぎだろ、送っていくからもう帰るぞ」
「え?……いや……あのまだ全部飲んでないし…送って行くって……なんで?」
むしろ先に帰ってくれればいいのに部屋まで付いて来ようとする緑川を半ば撒くように逃げ帰って来た
いくら仲の良い緑川でも会社の人間にマンションの場所を知られたら、どうやって家賃を払っているのか言い訳が必要になる
わかっていたが次の日の二日酔いは最悪だった
「佐鳥さん顔色が悪いですよ、大丈夫ですか?」
水谷は嫌がっていた癖にお茶を淹れて持ってきてくれた
デスクには栄養ドリンクと水のペットボトルが結露して水滴を垂らしている
「これ…………」
「それは緑川さんが出かける前に置いてましたよ」
向かいの席から松本が言った
「あいつも二日酔だった?」
「いえ?元気そうに外出しましたけど…」
「タフだな……あいつ」
「緑川さんっていつもちゃんとしてますよね」
「何を考えてるのかわからないけど……」
相手にもされず緑川にスルーされた水谷が恨みがましそうにボソッと付け加えた
また敗北感……
緑川の飲酒量は見ていないが社会人としての自覚から負けている
「お茶ありがとう」
「いつでも言ってくださいね」
ミッション成功とばかりにニコニコ顔で給湯室に片付けに戻っていった水谷が淹れてくれたお茶は二日酔いの体には心地よかった
栄養ドリンクと水、全部ありがたく飲み干し仕事の続きに入った
松本が出ていっしまうとロッカーで仕切られた営業のデスクには誰もいない
他の部からの雑音が、余計に静かさを浮き立たせ早く浄水器を売ってこの状態を抜け出さねばと焦った
夜になるとやっぱりベンチにいない雪斗を探して見つかるわけ無いとわかっているのにショットバーの辺りを見に行ってしまった
人恋しいだけなのか雪斗の顔がみたいのかは自分ではわからなくなっていた
暖簾と暗い行灯だけが存在を示すその小さな小料理屋は狭い店内にカウンター席しかない、名物女将が独特のイントネーションでいらっしゃい、とはんなり笑った
「いい店だな、良く来るのか?」
「一人の時は大概ここだな、カウンターでいいだろ?詰めて座れよ、そのうちいっぱいになる」
佐鳥を奥に座らせて隣の椅子を引くとお絞りが手渡された、厨房はなくカウンターの中では口を開いた事がない寡黙な大将が料理を作っている
「緑川と飲みに来るの久しぶりだな」
「忙しかったからな、暁彦、何飲む?ビールでいいか?」
仕事を離れると佐鳥の事は名前で呼んでいた、前に「佐鳥!」と大声で呼んだら社長が振り返って気不味い思いをしたからだが、今度は反対に仕事中「暁彦」が出てしまいそれはそれで困ってる
「俺は焼酎の水割りにする」
佐鳥の返事を聞いた女将は何も言わなくても目だけで注文を受けてくれた
新色塗料の手配を夕方のスケジュールに捩じ込み会社に帰ると佐鳥はまだ残っていた
仕事もしていないくせに何をしてるのか、窓に張り付いて帰ろうとしない佐鳥を連れ出して飲みに連れてきたが今日はど平日、夕飯ついでに一杯……のつもりだった
「あんまり飛ばすなよ、明日も仕事なんだからあんまり飲むと響くぞ、何をそんなに煮詰まってんだ」
「何だよ……飲みに来るの久し振りなのに変な説教聞きたくないからな」
「別に説教なんかしないけどね……」
プライベートな悩みなら無理に聞きはしないが仕事の話なら、せめて愚痴ってくれればいいのに、行動は素直なくせに妙な所でストイックさを発揮する佐鳥はこんな時、頑固で中々口を割らない
まあ……聞かなくても知ってるからいいけど……
手書きのメニューを眺める佐鳥から和紙を取り上げて勝手に注文した
佐鳥が食べ物を選ぶとコスト調整に置いてるポテトフライとか唐揚げとか無粋な子供メニューになる、絶対なる
「今見てたのに……」
「今日は俺に任せろよ、暁彦は俺だけ見てたら間違いないって何回も言ってるだろ」
「キモいな……見てろったってお前いないだろ」
「仕事が面白んだよ、つくづくTOWAに来て良かったと思ってる、好きにやらせてくれるからな」
「そう言えば………塗装色どうなった?」
先付に出てきたフキの小鉢から鮮やかな緑の枝を箸で摘んだ佐鳥はクンクン匂いを嗅いでチマっと先っちょを噛んだ
……同い年なのに仕草が子供で自然と笑ってしまう、佐鳥と飲みに来ればアテなんか無くても「佐鳥観察」だけで美味しく飲める
「ちゃんと開発に押し込んできたよ」
「文句言われたろ」
「いいや?…すぐに取り掛かって出来たら連絡貰えるようにしといた」
「でもあの納期……無理させるから……」
「開発の奴らもやらなきゃならない時はやるだろ、俺に文句言ったってしょうがないってわかってんだよ」
事も無げにサラリと言うが多分それは緑川だからできる事、他の誰かが開発に無理な仕事を捩じ込むとこうは行かない
お料理が出来るまでこれどうぞと出てきた頼んでないマグロの中落ちに緑川がにっこり微笑むと、男前二人揃ってドキドキするわ、と女将はニコニコしていた
「お前は持ってる容姿を存分に使いこなしてるな」
「暁彦が下手すぎるだけだろ」
「下手って……」
「なあ……暁彦……俺達まだ27だろ?なに肩肘張って色々背負おうとしてるんだよ」
「肩肘なんか張ってない」
「……いつまで経っても新入社員みたいにカチコチで遊びが無いから余裕がなくなるんだろ」
「俺のどこが……」
「木下はあれでお前の事ちゃんと認めてるぞ」
「………説教しないって言ったくせに……」
緑川はすっ惚けて同僚と拗れても何も介入してこなかったが、やけに目はしの効くこいつには多分最初から全部知られてる、我ながらくだらないとわかっているからこそ反論なんかしたくない
ムッと黙り込んで視線を外すと後頭部にブチュッと柔らかいものがくっついた
「また!すぐチューする……そんなんだからホモとか言われるんだよ、俺から見てもそのケがあるんじゃないかと思うじゃないか」
「関係ない奴に何言われてもいいだろ、俺は全部行けるからあながち嘘とも言えないしな」
「へ?全部って?…………」
にこりと笑った緑川はビールのグラスを空にしてマグロの欠片を摘んで食べた
飄々とした揶揄口調はいつもだが……全部って……会話の流れから行くととんでもない告白にも聞こえる
ふっと雪斗の顔が頭に浮かび、整理出来てないけど不思議と違和感を感じていないキスをどう捉えたらいいのか……
「じゃあ……さ緑川は……」
「ん?………」
「……男とキスしたことある?」
今しただろ?と笑った緑川は冗談を言っているにしろ何を考えているか分かりにくい
鯛の煮こごり、茄子の田楽に鮎の塩焼き
緑川の注文した料理はどれも絶品でメニューが大人っぽい
「旨いな」
「俺に撒かせて良かっただろ?ここは何食っても旨いよ」
料理はどれも薄味で出汁も素材の色を濁していない
話に割り込んだりはして来なかったが料理を褒めるとカウンターの中からおおきに、と笑った女将はどうやら京都の出身らしい
「お前本当に俺と同じ27?」
「戸籍抄本でも見せようか?何ならついでに入籍してもいいぞ」
「ちゃんとプロポーズしてくれ、丁寧に断ってやる」
「バーカ、断られるような下手は打たないよ」
悠然と笑う緑川は何となく人生経験が倍はありそうに思える、一人で夕飯を食べるならラーメンか牛丼、時間があれば自炊しているし、緑川がどこでもいいと任せてくれていたら大衆居酒屋か焼き肉にでも行った
こんな店には入らない
「雪斗にさえ負けてる気がするよな……」
不遇な幼年期を過ごし今も尚抜け出せていない雪斗を保護するような気持ちでいたが多分雪斗には必要ない、どうやって暮らしているのかは分からないがしっかり自分の足で立っているように見える
「雪斗って誰?」
「ん?友達……いや……知り合いかな」
ふっと頬を緩めて焼酎のグラスに目を落とした佐鳥に妙な違和感を覚えた、懐に入ってしまえば人懐っこく、考えてる事も丸わかりで付き合いやすいが実は佐鳥には友達が少ない
明るくフレンドリーに見えるが何があっても一歩引いて中に入れてもらえず、社長の息子なら、と最初は打算と計算込で近づいき、対人攻略スキルをフルに使ったが壁を取っ払うには2年近くかかっていた
まだ友達とも言えない相手に、佐鳥の方からアプローチするなんて珍しい
「最近知り合ったって事?どこで?仕事関係か?」
「いや……それはもういいよ、なあ緑川……この後もう一軒行かないか?なんか飲み足りない……」
「………いいけど……」
愚痴や弱音は中々吐いてくれないが、デカい図体をして甘えるのが上手い佐鳥にお願いモードで頼み事をされるとどうしてか言う事を聞いてしまう
調子よく焼酎を飲み続け、止めるタイミングを見誤り飲ませ過ぎたなと帰るタイミングを測っていたのについ良いと言ってしまった
「一杯だけだぞ」
「付き合いいいとこが大好き……」
「好きとか言うな襲うぞ」
「だから言うことがキモいんだって」
ヘラヘラと笑った佐鳥は焼酎のグラスを持ったまま立ち上がってくっと中身を空けてしまった
まだ時間はそんなに遅くない、街の繁華街はギラギラと自らの存在を主張し合い昼間とは打って変わった姿を見せる
佐鳥と飲みに出る時は酒量を抑えるようにしていた、友人として面倒を見ると言うより、これはもう会社の為に羽目を外さないように見張ってる側近の仕事に近い
ふらつく程では無いが酔って反射の落ちた佐鳥が混み合う酔客にぶつからないよう肩を当てて誘導しながら、一杯毎にペイするショットバーに向かった
入社当初によく来たそのショットバーは人通りの多い本筋から地味な脇道を入った所にある
角を折れようと佐鳥の背中を押すと、突然バッと振り返った佐鳥がツーっと体を倒した
「雪斗!!」
「暁彦?!」
走り出す前ぶれだとは思わなかった
大体走れる人混みじゃない、背の高い佐鳥が人の頭を掻き分けて雑踏に飛び込んでからしか反応出来なかった
「暁彦?!おい!!ちょっと!!」
足が速いと自慢するだけあって運動能力は高い
動きが時たま突飛……考えついたまま反射で動く佐鳥にはよく振り回される
「暁彦!待てったら!」
佐鳥が突進する先にいるのは噂の「雪斗」?
人混みの中に見えたフワリと揺れる伸びた髪は丁度同じ位の高さに埋もれあっという間に見えなくなった
「何やってんだよ暁彦!危ないだろ!」
「…いや…知り合いがいたんだけど………」
「この人混みじゃもう無理じゃないか?」
「……うん……そうだけど……」
そう言いながらも佐鳥はまだ目で周りを探していた、また急に走り出さないかと視線の先に回り込んで牽制しなければ安心できない
「何か用事でもあるのか?」
「そうじゃないけど……」
「じゃあ今度にしろよ、取り敢えず店に入るぞ」
雑踏に視線を残す佐鳥の腕を引いてショットバーの中に押し込んだ
佐鳥が追いかけた男には見覚えがあった
最近会社の前でよく見かける若い男だが、営業帰りに遅くなってもまだベンチに寝転んで昼間のままそこにいた、どうやら家に帰らず外をうろうろしている
「雪斗ってさっきの奴?」
この店は大きな樽に柄付きのピーナッツが山程盛られノーチャージで勝手に食べる事ができる
柄は床に投げ捨てられ夜が深くなると歩けないほど散らかるが、ゴミをその辺に投げ捨てるなんて普段出来ない事で妙にストレス発散になる
軽めのトニックを注文して腰の辺りにあるバーに半分だけ体を預けた
「うん……最近知り合ってな」
「あんまり良くない相手に見えるけどな」
「知ってるのか?」
「会社の前で最近よく見る奴だろ?」
パリッとピーナッツの皮を剥いて中身を二つとも口に放り込んだ
「………お前が思ってるような奴じゃないよ」
「ふうん……」
「ってかお前顔が怖いんだけど何?」
「怖いって?」
「何か怒ってる?」
佐鳥に言われていつも意識して装備している笑顔を忘れていることに気付いた
飲み屋が集まる夜の繁華街で雑踏の中に見かけたのは間違いなく雪斗だった、用事があると言ってどこかに行ってしまい、この数日姿を見ていないが目的があって歩いているようには見えなかった
いく所もなくフラフラしていたのかと思うとすぐに外に出て探したいが、帰る家もなく会社前のベンチで寝泊まりしている事を詳しく知れば緑川がどう出るかわからない
知り合いだと言った途端表情を消してしまった緑川は困った事に行動力も判断力も決断が早い
「暁彦……」
「な……何?……」
「お前揺れてるぞ、飲みすぎだろ、送っていくからもう帰るぞ」
「え?……いや……あのまだ全部飲んでないし…送って行くって……なんで?」
むしろ先に帰ってくれればいいのに部屋まで付いて来ようとする緑川を半ば撒くように逃げ帰って来た
いくら仲の良い緑川でも会社の人間にマンションの場所を知られたら、どうやって家賃を払っているのか言い訳が必要になる
わかっていたが次の日の二日酔いは最悪だった
「佐鳥さん顔色が悪いですよ、大丈夫ですか?」
水谷は嫌がっていた癖にお茶を淹れて持ってきてくれた
デスクには栄養ドリンクと水のペットボトルが結露して水滴を垂らしている
「これ…………」
「それは緑川さんが出かける前に置いてましたよ」
向かいの席から松本が言った
「あいつも二日酔だった?」
「いえ?元気そうに外出しましたけど…」
「タフだな……あいつ」
「緑川さんっていつもちゃんとしてますよね」
「何を考えてるのかわからないけど……」
相手にもされず緑川にスルーされた水谷が恨みがましそうにボソッと付け加えた
また敗北感……
緑川の飲酒量は見ていないが社会人としての自覚から負けている
「お茶ありがとう」
「いつでも言ってくださいね」
ミッション成功とばかりにニコニコ顔で給湯室に片付けに戻っていった水谷が淹れてくれたお茶は二日酔いの体には心地よかった
栄養ドリンクと水、全部ありがたく飲み干し仕事の続きに入った
松本が出ていっしまうとロッカーで仕切られた営業のデスクには誰もいない
他の部からの雑音が、余計に静かさを浮き立たせ早く浄水器を売ってこの状態を抜け出さねばと焦った
夜になるとやっぱりベンチにいない雪斗を探して見つかるわけ無いとわかっているのにショットバーの辺りを見に行ってしまった
人恋しいだけなのか雪斗の顔がみたいのかは自分ではわからなくなっていた
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