赤くヒカル夜光虫

ろくろくろく

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雪斗

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朝は新聞を各社全部買ってから出勤する
事務所に頼めば買い揃えて貰えるが、出勤する時間より遅れて届く為自分で買う事にしている


官庁街を外れた駅の裏側にある12階建てのビルは一階は全面ガラス張りの斜陽な造りになっている

2階から5階までは正木法律事務所が占め、8人ほどの弁護士がそれぞれの看板をあげていた、渡辺法律事務所も正木の傘下に属している

大方の出勤時間にはまだ早くビルに出入りする人影はなかった

「渡辺さん!おはようございます」

司法試験の勉強をしながら渡辺の補助業務をこなすパラリーガルの石川が走って追い付いてきた

もう長く習慣になっている早めの出勤に付き合わなくてもいいと何度も言っているのに同じ時間に来てくれる


「今日も暑いですね」

「そうだな」

二人で硝子の自動ドアを潜るとエアコンの効いた空気が汗ばんだ肌に心地よかった

1階のロビーは正木以外の法律事務所や会計事務所などビルに入るテナント全ての協同待合いとして使われている

階段横にあるエレベーターに向かおうとすると石川が肩をトントンっと叩いた

「……あの渡辺さん……あれ……」

「何?ちゃんと口で言えよ……」


石川が指をさす方向には何も無い……と思ったがフリースペースな割に豪華な革のソファに下に見覚えのある足が投げ出されていた


「雪斗?」

両手と片足を放り出し、うつ伏せで寝転んでいる姿はドラマの殺人現場のようだった、白い線を体の形に引いたら完璧だ

他の誰かがその姿を先に見つけていれば、死体とまでは思わないにしても人が倒れていると通報されてしまったかもしれない

雪斗がここに泊まるのはよくある事だったが朝のこんな時間まで寝ているなんて珍しかった

近付いて声をかけようとすると人の気配に気付いたのかモソモソと動き出した雪斗の手に…………赤黒く変色した血の跡がベッタリついているのが見えた


「石川!エレベーター呼べ!早く!」

「はい!」

渡辺は慌てて脱いだ上着を雪斗に被せ、ひょいと細い体を脇に抱えた、体格には自信があり雪斗くらいなら軽々担げる

「わ!何だよ離せよ」

「黙ってなさい!」

誰も他にエレベーターに乗らないことを確認してから締ボタンを押して三階まで上がり、個人オフィスに飛び込んで鍵をかけた



「いきなり何すんだよ」

「石川!救急箱!あとタオルを絞ってきてくれ」

石川もわかっているのか「医者」と「病院」のワードは決して出さない、雪斗に何かを強要するのは難しいを通り越し無理なのだから仕方ない

文句を言う雪斗を無視して、取り敢えず傷の具合を確かめてから対策を練らなければならない

「待てったら!俺は怪我なんかしてない」

その雪斗の言葉に二人はピタッと足を止めた


「怪我じゃない?」

「ああ……洗面所借りるぞ」

渡辺法律事務所は正木法律事務所にテナントを借りているような形になっている為、各事務所にはそれぞれ小さなトイレと洗面所がついて結構なプライベートが守られている

家賃の代わりに正木からふられてくる国選弁護の持ち回りや小規模案件をこなし、あとは個人顧客を持ち独立採算になっていた

手を洗いDUSKINペーパーで手を拭きながら洗面所から出てきた雪斗の手には確かに傷はどこにもない

しかし雪斗のTシャツやパンツにプツプツと飛び散った血痕がついている……最悪のパターンだった


「怪我の方がマシだな………」

「本当に……」

二人が事情を話せと威圧するように雪斗を囲んで座った


「それで?何をやらかしたんです」

「…………何もしてない、カツアゲされそうになっただけでこっちが被害者だよ」

「いいから………誤魔化さないで最初から全部話しなさい」

渡辺は普段から雪斗に対して丁寧な言葉で話すがこんな時は学校の先生のように諭す口調になる

石川は仕事モードでホワイトボードに経過を書こうと待機した



「その男達はあなたの体には手を触れていないんですね?」

「ああ……」

「貸してくれ……返す……か……」

事の顛末を書き取ったホワイトボードを見ながら渡辺が状況の要点を整理すると石川はうんっと頷いた

「慣れてますね……」

「ああ、どうやら常習犯だな……捕まっても言い訳できるように逃げ道を作ってる」

渡辺はふぅっとため息をついてサーバーに水を入れてコーヒーの引き豆が入った缶を手に取った

「あ、すいません私がやります」

要点の洗い出しが済むとどうするのか、後は弁護士の仕事だ、石川がカップを用意して渡辺から缶を受け取った


「武器はどうしました?」

「捨てた」

「どこに?」

「……………その辺……どこかは……覚えてない…」


………どんな顔をするか見たかっただけだ

驚いて目を見開いた佐鳥の目の前に血のついたナイフを放り投げた

きっと何があったかうるさく問い詰めて来るだろうと簡単に説明したつもりだったが……

どうしてそんな事をしたのかは自分でもわからない


「多分……相手は被害を届けたりはしないな……」

「そうですね、他にも余罪がありそうですし寝た子を起こすような真似はしないでしょう」

「だが一応口裏を合わせて置いた方がいい」

「口裏?何だそれ」

「いいですか?あなたは柄の悪い三人組に取り囲まれ怖くて落ちていた何か……多分金属片を手にして振り回した、相手がどうなったかは見ていない、夢中で逃げたから金属片をどうしたかは記憶にない」

「街中に金属片なんて落ちてないだろ」

「茶化さないで下さい、あなたは手にしたそれが何かはわかってないんですから何でもいいんです」

「はいはい……」

そんな理論武装してまで構えなくても血が止まれば見た目は1センチ程度の小さな切り傷しか残らない、刺されたと被害を訴えるどころか病院に行くのは恥ずかしいくらいだ

渡辺は常識と法律に振り回され、オーバーに捉え過ぎなのだが弁護士相手に口では勝てない


コーヒーサーバーがゴゴゴっと空気を含んだ音を立て香ばしい香りを放っている

石川が牛乳を入れたコーヒーを差し出したが雪斗がいらないと手を引っ込めると諦めたようにテーブルに置いた

二日酔いに喉が粘つき水が欲しかったがこの事務所で甘えるつもりなんか無い


「昨晩顔を出せと伝えてありましたよね、どうして飲みに行ったりしたんですか?」

「だからちゃんと昨日のうちに来ただろ、時間の約束はしてない」

「もういいですから服を着替えてください、今着ているものは処分します」

「洗えば落ちるよ」

渡辺は無言で雪斗の鞄から着替えを取り出して差し出した

「わかったよ……」

服を脱いで着替えると石川が血のついた服を拾い上げビニール袋に入れて口を縛ってしまった

「今日はもうどこにも行かないでくださいね、夜までここにいてもらいます」

「夜までは外に出ていてもいいだろ」

「どうやって信用しろと?」

「渡辺次第………」

「じゃあ無理ですね」

反論しょうとすると渡辺の携帯とデスクの固定電話が同時に鳴り始めた

    

時計は9時、業務用のオープン回線は9時から5時までしか繋がらないよう設定してあるために待ち構えたように仕事が始まる


渡辺の事務所は部屋そのものが接見スペースになっている為に仕切はない、パソコンを開いて長椅子におとなしく寝転がっている雪斗を横目に話の内容は元より名前さえ漏らす訳にはいかず石川に目で合図した

電話の相手は接見を望んだが今日は夜に出なければならず時間はとれなかった、事務所に来て貰えれば話は早いがそれは出来ない

「石川、今日の来客は頼むぞ」

「はい」

「仕事の邪魔になるなら俺はどこかに行ってる」

「何を言ってるんですか、ここにいてください」

悟られないように言葉を濁して言ったが雪斗に隠し事はなかなか難しい、昔から人の事をじっと観察して考えている事を読まれてしまう

「俺がいたら仕事出来ないんだろ?5時に戻って来る……それでいいだろ」

「あなたはそんな事を考えなくていいんです」

「無理すんなよ弁護士さん、精々稼いだらいいだろ」

雪斗は足を振り上げバフンとソファから立ちあがり、ダルそうに鞄を肩に担いだ

「雪斗……ちょっと待ちなさい、それならこれを……」

携帯電話を渡そうとすると、フンっと鼻を鳴らし事務所を出ていってしまった、何度挑戦しても雪斗は携帯を持ってくれない


「ほんとにもう……」

「私が捕まえて来ましょうか?」

「いや……いいよ」

どうせ素直に従ったりはしないし雪斗はやるべき事は分かってる、そうは思ったがふと思い付いて携帯を石川に渡した

「悪いけどこれを雪斗にバレないように鞄にでも放り込んで来てくれないか?」

「はい、じゃあこれと一緒に鞄にいれますよ」

石川が自分用に買ってきていた朝食のサンドイッチの袋を手に持ってニッと笑った

「頼むな、気づかれるなよ」

「任せて下さい」

石川は司法浪人8年目だが普段から鍛えた体は若い、エレベーターは使わず階段を走り下りて行った

「筋トレする暇があれば勉強すりゃいいのに………」


コーヒーのカップを手に窓から外を眺めると丁度ビルから出てきた雪斗に石川が追い付いて声をかけている

何か話しながら雪斗はチラリと上を見た

多分見えていないはずだが雪斗の目には不思議な光が宿り全部見透かされている気がする

それは初めて会った時から変わらない……


雪斗が渡辺の事務所に初めてやって来てから丁度10年になる



「今から行ってもいいですか?」

顧客しか知らないはずの番号をどうやってか手に入れて正木の本線を通さず渡辺の顧客専用回線に直接電話がかかってきた

まだ声変わりしたての高い声は姿が見えない電話口からも相手が子供だとわかった

「何時頃ならお越しになれますか?」

「そっちがいいなら今すぐがいいです」

手は空いていたが………何だか面倒そうで迷った
しかし今は子供自身が親権に関する申し立てが出来るという、くだらない法律も出来ている

子供が一人で弁護士事務所まで来ているのだから無下にすると返って後からトラブルになるかもしれない、話だけでも聞いておくほうがいいと判断した


「こちらは大丈夫です、事務所の場所はお分かりですか?」

「今下にいる」

その言葉の通り電話を切って1分も経たないうちに、エレベーターではなく階段を駆け上がり息を弾ませて部屋に入ってきた


初めて見る雪斗は、今でも年齢より随分若く見えるがその時は若い以下だった
下手したら小学生、まだ毛も生えてない子供だった

渡辺の事務所は正木から割り当てられる国選弁護の他は企業法務を専門としていた

親とのトラブルやいじめなどの民事なら知り合いに紹介すればいいだけの事、内容によるが30分程時間を割けば済むと思っていた



「初めまして渡辺です、ここはどなたかの紹介で?」


「いや、見かけたから………」


正木の看板を?それとも渡辺を?いずれかわからないが雪斗は最小限しか口を利かなかった


「俺の話を聞いてくれますか?」

「三十分単位で料金がかかりますよ、それでもいいですか?」

「話をするだけで?」

こんな子供に無下な課金なんかするつもりもなかったが、そういうものだとわかっていて欲しかった

「はい、ですが一時間……今日は一時間だけ無料でお聞きします、どうぞ中に入って座ってくれませんか?」

雪斗はドアの側に張り付いて部屋の中の方に入って来ようとはせず、警戒心に全身を強ばらせ渡辺をじっと観察していた


「契約すると約束するまで話はしない」

「契約と言われましても内容がわからなくては対処しようがありませんよ」

「……幾ら払えばずっと雇えるんだ?」


「ずっと?………」

この少年は名前も名乗らず年間契約を……つまり専属の顧問になれと持ちかけているのか……


「幾ら?」



これ以上子供のお遊びに付き合ってはいられない、相手にするのはここまでと判断して企業の……それも大企業の年間顧問契約の料金を伝えた

勿論断るつもりで……


「わかった」

「え?」

「それが払えれば文句はないんだな?」

「文句って……」

契約料を払えば顧問になるとは言ってないがそこまで説明する必要性は感じなかった


「また来る」

金額を聞いて目を見開いたが見た目にそぐわぬ大人びた態度で承諾して結局事務所を訪れた目的も……とうとう名前さえも言わずにドアから出ていった




インパクトはあったがその後音沙汰もなく忘れかけていたが2年程たった頃だろうか

拘置所での疲れる接見を終え事務所まで帰ってくるとビルの前に雪斗が座り込んでいた

帰ってくるのを待っていたのか、顔を見るなり無言で通帳を差し出した


その時………通帳に印字された文字を見て初めて音羽雪斗の名前を知った


「とりあえず中に入りなさい」

往来で通帳を見るなんて出来ない、もう下手な態度で言葉を濁している場合ではなかった

お金よりも何よりも顧問契約を持ちかけているのは本気なのだ、子供だからといい加減な対処は出来ない

きっちり事情を話して断らなければならないのは大人として、弁護士として最低限の仕事だった


「そんな所につっ立ってないでこっちに来て座りなさい」

雪斗は相変わらずドアの前から動こうとしないで鞄を胸に抱いてじっと動向を伺っていた、何を怯えているのか、大胆な行動を取る割に打ち解ける気は微塵もない

ふぅと溜息をついてコーヒーを入れるために立ち上がると雪斗はビクリと警戒を露にして身構えた


「コーヒー飲むか?」

「…………牛乳いれてくれたら飲む」

「牛乳はないな……コーヒーフレッシュでいいか?」

雪斗はちょっと迷ってこくんと小さく頷いた

コーヒーにフレッシュを二個分入れて応接セットのテーブルに置いたがやっぱり戸口から動こうとしてくれない

「通帳を見て」

「見るわけには行かない」

「どうして」

「話を聞くのが先だ、座りなさい、ドアを開けっ放しにしていると何も話せないでしょう」

「話はあんたが契約すると言ってからだ」

「わかった、違法な事や人道に反する内容でなければ力になると約束する」

あえて契約という言葉は避けた
この聡明な少年に迂闊な言葉は禁物だと直感していた


「……通帳は見ないの?」

多分通帳には断る為に言った金額かそれに近い額が記されているのだろう、どうやって調達したかはまた話を聞かせてもらう

「お金の事は今はいい、元々帰ってもらうために言っただけだ」

「知ってたよ」

「そうか、じゃあ簡単な話じゃないとわかってくれるね?」

「簡単な話ならこんなとこに来てない」

雪斗はようやく部屋の中まで入って来て………つまみ出されると警戒しているのかなるべく遠い場所を選んでソファの端っこに浅く腰かけた


「俺はあんたを全面的に信頼するしかない、もしあんたが悪人で全部騙し取られても仕方がないと思ってる」

「騙したりしない、口で言っても仕方がないがそれは約束できる」


「………だといいけどな」

雪斗の口調は見た目とは大違いで子供っぽさの欠片もない、生意気で偉そうだった


これは後でわかったことだが雪斗が弁護士を訪ねたのは渡辺弁護士事務所が最初ではなかった

汚ならしい大人が何も知らない子供を食い物にした

金を騙し取ったのならまだマシだった、話を聞くと言って誘い込み…………弄んだ


勿論雪斗はそんな事を吐いたりしない、当時その弁護士の元でパラリーガルをしていた今は司法試験に通って独立している弁護士が雪斗を知っていたのだ

なるほど雪斗の警戒した態度が何故なのかがわかったが同じ目で見られていたのかとか思うと今でも屈辱に腹が立ってくる


雪斗の話は三時間にも及んだ


内容も内容だったがその意思の強さに驚愕するしかなかった

話を聞き終えて雪斗を子供扱いするのはやめた



それから後継人としてずっと面倒を見てきた
もう十年になる




「石川、車の手配は出来てるか?」

「はい、もう下に来てますよ」

ハイヤーは約束の時間より少なくとも三十分は早く来て待機するのが普通だ、窓の下を覗くと黒塗りの大きなセダンがハザードを点滅させて止まっているのが見える

「じゃあそろそろ雪斗を迎えに行こうか」

「いいですけど……雪斗さんは結構時間は守りますよ、待っていれば帰って来るんじゃないですか?」


「GPSを使ってみたい……」

「へ?」

「ほら……本当にここにいるかどうか確かめたいじゃないか」

渡辺が嬉しそうに見せてくれた携帯には地図の上で点滅信号となって雪斗の居場所を暴いている、どうやら鞄に忍ばせた携帯には気づかなかったらしく移動しているのがわかった


珍しく渡辺がウキウキしているのは今日訪れる予定をしている店のせいだろう

地位も金もあるのだから行きたいなら行けばいいのに渡辺はあまり金に執着心がなく遊んだり高級な物を買ったりは必要最低限しかしない


「接待の相手を間違えるなと店に連絡したか?」

「はい、勿論です、子供に見えるから気をつけてくれと予約する時に注意しておきました」

「その言い方………雪斗に聞かれたらまた蹴飛ばされるぞ」

「雪斗さんの前では言いませんよ」

石川が雪斗と初めて会ったのは渡辺法律事務所に入った三年前、高校生?と聞いてお互いの自己紹介が済む前に尻を蹴飛ばされた

扱いづらい餓鬼だな、と思ったが今は「扱いづらい」の意味がすっかり変わってる

「着替えますか?」

「そうだな、雪斗のピックアップがすんなり行けばいいが……どうなるかわからんし準備は済ませといた方がいいだろう」




物の価値はその居場所によって変わる

石川が着替えた20万もする新調のスーツは、今から行く場所の中では最安値になるかもしれないが、助手の手取りでは背水の陣覚悟の投資だった

別に張り切ったって何がある訳じゃないが弁護士バッチが胸に付いてない今、無性に見栄を張りたかった、セミオーダーだがプレタポルテより体にピッタリ来る着心地は何だか嬉しい

顔と体格がいい渡辺は何を着ても高そうに見えるがやっぱり張り切ってる、二人共見栄えのいいスーツに着替え意気揚々と事務所を出た


ぴかぴかに磨きあげられたホコリ一つ付いていない高級車は、度が過ぎるほどの慎重な運転で地面から伝わる振動すらない、走り出した事がわからない程だった


「すいません、人を拾いたいんですが、はっきりした場所がわからないんです、この辺りをゆっくり走ってもらえますか?……」


「承知いたしました」


運転手は馬鹿丁寧な対応で、携帯に表示された周辺に来るとグンとスピードを落とし左端を徐行した

ビジネスビルばかりが集まった見通しのいい歩道の上に肩に鞄を担いでぶらぶら歩いている背中がすぐに見つかった

「あ……いた…ほんとにいた………」

石川が声を上げるとハイヤーの運転手は指示を出す前に雪斗の少し前に滑るように車を止めた

逃げ出したりしないとわかっているのに……進路を塞ぐように雪斗を取り囲んでしまうのはもう癖のようになっている、雪斗も雪斗で挟み撃ちをすると必ず逃げ道を探り周辺を見回した


「……気持ち悪いな……、どうしてここにいるって知ってるんだ、…後を付けてたのか」

「そこまで暇じゃありませんよ、ほら、これ、気付かなかったでしょう」

石川が雪斗の鞄に手を入れて携帯を取り出してにっと笑った

「そこまでしなくても帰るって言っただろ」

「そうですけど……普段の行いを反省してください、あなたの行方不明には何度も苦労させられてますからね」

むにゅっと口を尖らせた嫌そうな顔をした雪斗は渡辺にとっては子供のままだった




「ちゃんと駅に向かってたんですね」

「……………」


駅には向かっていた………

この先、駅までの通り道にある佐鳥の会社に近付いたらどうなるだろう……とも思っていた


あの夜………酔ってはいたがそのせいかはわからない

とにかく……無遠慮に騒ぎ何度も小突かれた狭い席と………馬鹿みたいに信用して会社の事をペラペラ喋る佐鳥にイライラしていた

手を出してこないのはわかっている虚勢ばかりのカツアゲに、普段ならあそこまでやらない

佐鳥に………

本当はお前が思うような人間じゃない
そう教えてみたい好奇心と……残虐な気持ちが沸いていた

どんな顔をするか…………予想通りで今思い出しても笑える

どうせもうあんな関係を続けるのは無理なのだからどうでもいいが………

「せっかく眠れる場所だったのにな………」


「何か言いましたか?」

「何でもない」

「何でそんな泣きそうな顔してるんです、こんな所にいつまでも停めておけないから早く車に乗って下さい」

「わかってるよ」


車のドアを潜ろうと身を屈め、名前を呼ばれたような気がして振り返った

「ほら、早く」

「うるさいな………乗るよ……」

道の先には見知った顔は誰もいない

呼んだのは……面倒くさいあいつの声に聞こえた




「首がキツイ……」


「オーダーメイドなんだからあなたにピッタリのはずです」

「時計が重い……」

「文句ばかり言わないでください」

伸びない襟を不機嫌そうに引っ張り、食べたくないと言い張る雪斗に無理矢理食事を取らせてから郊外にあるオーベルジュに向かった

街の喧騒を離れ、ハイヤーでほんの10分の距離だが高い壁に覆われた敷地の周辺に来るとグルリと景色が変わった、細いパイプが複雑に絡む門に車が滑り込むと手入れの行き届いた風光明媚なイングランドガーデンが広がり、ライトアップされた斜陽な建物は小さなお城のようだった

そのオーベルジュの地下に座っただけでチャージ料金が数万かかる高級クラブ「胡蝶」はある

入口は地下一階だけの為にある広いエレベーターのみ、鏡になっている扉が開くと別世界が広がっていた





「ようこそいらっしゃいませ」

オールバックの髪をきっちり固めた黒服が丁寧なお辞儀をした

「予約した渡辺です」

「お待ちしておりました、お席にご案内致します」


チーフマネージャーの名札を付けた黒服は、弁護士バッジにチラリと見たが、連絡はきっちり行き届いていたらしい

渡辺の影に隠れるように一番最後に店に入った雪斗をこちらにどうぞと席に誘《いざな》った

階調の落とされた緩い照明は落ち着いたアンバー色に空気を染めて豪奢なスワロフスキーのシャンデリアがキラキラ光っている

ビロード生地で出来た真紅のソファがゆったりと並び、大理石の柱がそれとなくプラベートを守ってる、無粋な仕切りなどは無かった

目立たない場所がいいと注文を付けたが一番奥の席でも壁からは遠く鄙びたイメージは無い

女優にでもなれるのではないかと思える高級感溢れるホステスが銀のお盆にお絞りを乗せて迎えてくれた


「………さすがに………どの人も綺麗ですね………」

「石川……やめろ……恥ずかしい………」

コソッと口元だけで話したが、聞き耳を立てなくては聞こえないくらい薄く流れるクラシックが流れる静かな店内では丸聞こえ………

胸元の割れたロングドレスをさらさらと足元で揺らし、有難うなのか、当たり前でしょう……なのか読めない綺麗な笑顔を浮かべたホステスが雪斗を挟むように二人、もう一人は渡辺の隣に腰を下ろした


「ようこそいらっしゃいませ、理香子と申します、私達にご不満を……まさか仰ったりなさらないでしょう?」

「はあ……」

不満を言える程心の余裕は無いし不満などある訳ない、渡辺も石川も女性を好みで選ぶなんて偉そうな真似が出来る程場馴れしていない


「私は咲子と申します、よろしくお願いいたします」

「真紀です」

三人共完成度が高く年齢は不詳だが雪斗に付いた咲子と真紀は初々しく理香子は風格を備えている

三人のホステスは市井では滅多にお目にかかれない綺麗な笑顔でそれぞれがお絞りを差し出した

湯気の立つミニタオルは、品のある透明ピンクに染められたヌーディーな爪で広げられ、手に乗せられた時には適温まで冷めていた




グループ客には必ず序列が存在する
今日は探る前に事前情報が入っていた


「見た目が若い」と聞いていたメインの客は思っていた以上に若く子供にさえ見える

品のある光沢を放つブロードのシャツ、仕立てのいいオーダースーツの生地はおそらくドーメル、靴はジョンロブ、時計は……ハリーウィンストン、しかもチャラついた人気モデルではない

咲子と真紀はサッと目を合わせて小さく頷いた

客の質を値踏みをするのは何も上客を漁っているからだけじゃない、ただでも高額なこの店で、無理をさせては上質なサービスを楽しんでもらえない

ひと昔前のように経費で接待をする時代は終わっている、臆の資金を持つ成金からお小遣いを貯めて来てくれる客までリピートして貰えるようリラックスを誘い、楽しませる事がホステスの使命と言える

チーフからは見た目で値踏みを間違えるなと言われていたが別に注意されなくともそんなヘマはしない

どう見ても上客だった


「お客様の事を何とお呼びさせて頂きましょう、お名前をお聞きしてもいいですか?」

「……名前?」

「あ……お嫌でしたら……」


「……………………音羽……雪斗です……」

「ではオトワ様とお呼びしてもいいですか?」


「…………オトワは……嫌、様も嫌………」

名前を名乗りたがらない客はいるが………これは苦労する、かなり苦労する
カチカチに縮こまり緊張している姿は見ている分には可愛らしいが目も合わせず会話の糸口が全く見えない、笑顔を引き出すまでに30分もかけていては誰がその短時間に数万払う

「それでは雪斗さんとお呼びします、綺麗なお名前ですね」

口数の少ない客の前で会話が途切れると緊張を誘う、だからと言って自己顕示欲の少ない相手に質問ばかりでは場が白けてしまう

真紀がクリスタルの細長いグラスに氷を落とすとシャリンッと美しい音色を立て目を伏せていた雪斗がやっと顔を上げた

「お酒はどれくらいの濃さがお好みですか?最初は少し薄めにお作りしますからお好みをおっしゃって下さいね」

「………はい………」

会話を楽しみたい、笑いたい、くつろぎたい、静かに飲みたい、どこにも当てはまらない雪斗相手に、咲子と真紀はうるさくない程度に二人で会話を繋ぎ、短い返事を引き出す所からスタートした




「…………意外だな………」

「面白いもん見れましたね………」

偉そう、生意気、唯我独尊を絵に書いたような雪斗が綺麗なお姉ちゃんに囲まれて小さくなってる

普段から口数は少ないが物怖じしている雪斗は珍しく見ていて面白かった


「何ですか?私もお仲間に入れてください」

渡辺と石川がクスクス笑っていると理香子がグラスに氷を入れながら上手く会話に入って来た

「いや……酒の席のあの人が可笑しくてね」

理香子はチラッと雪斗の方を見て笑いながら渡辺と石川にグラスを渡した

「あの方位の歳でこんなお店に慣れていらっしゃる方が変ですよ」

「それはそうなんだけどな……」


雪斗が渡辺法律事務所にやって来て十年、そう言えば雪斗がお酒を口にしている所は初めて見る

いつの間にか成人していたものの、会えば食べさせることに必死で一緒に飲むなんて考えた事もない

「まさかとは思いますが息子さんですか?」

「え?酷いな……そんな歳に見えますか?私は結婚もしてないし、大体あの人は25ですよ」

「ふふ……指輪をしていらっしゃらないので釜をかけてみました」

理香子は渡辺の指を見ながら綺麗に微笑んだ

理香子はさすがに会話が上手い、多分今のは雪斗の年齢を読み違えたのだろうが「嘘、25歳には見えない」……とは言わなかった

ホステスの源氏名が全てちょっと昭和臭いのはわざとだろう、今どきは本名の方がキラキラしているがキャバクラと混同されたくない事と客層の年齢的にこっちの方がしっくりくる


「あの方はクライアントの息子さんなんですがこういう場所の経験がないと仰るので連れて来たんです」

「そうなんですか、ご心配なさなくてもあの二人に任せておけば大丈夫です、こちらはこちらで楽しんでいただけるとうれしいんですが」

「私もこういう場所には慣れていないのは同じですよ、お手柔らかに頼みます」

「またそんな事仰って………」


サラサラと流れる会話は心地いいが雪斗がやっぱり気になってしまう、隣を見れば石川もやっぱり雪斗を見ながらニヤニヤしている


「面白い弱点を見つけましたね」

「借りてきた猫みたいだな」

「もう、お二人共………私に興味を持ってくださらないんですか?歳は?とか恋人は?とか聞いてくれないとやり甲斐がなくなります」

「ごめんごめん、理香子さんがあんまり綺麗だから照れているだけですよ」

「70点」

「じゃあフルーツか何か頼めば……」

「85点」


理香子はボトル係を呼んでフルーツとウイスキーのボトルを渡辺の名前でキープするよう注文した


「これで90点差し上げます」

「それでもまだ10点足りないんですね」

「私に恋をしてくださったら残りの点数を差し上げす」

やり甲斐の意味………綺麗に飾られたフルーツ盛りは一見豪華だが……いったいこの皿ひとつとボトルのキープででどれくらいのチャージがかかっているのか怖くて聞けない

椅子に座って10も経たないうちに大金を持っていかれてしまった

「上手いなあ」

「私に会いに来る理由を付けて差し上げたのよ、どうぞ足蹴く通ってくださいな」

コロコロと笑う理香子は女王キャラがよく似合う、一般的に持ってしまうホステスのイメージからすると化粧は薄くドレスは露出が多い割に品がある

さすがと言うか当たり前なのか、職業柄何も話せない仕事内容を話題にしたりはせず、上司と部下への扱いも差を付けたりしない

おそらく理香子は若い咲子と真紀のお目付け役なのだろう、二人の様子を時々目の端で確認している


ただ綺麗だな……と惚れ込んでいたら気付かなかったかもしれない

会話が途切れた合間を縫って真紀が理香子に向かって目で合図をした

職業病に近いが冷静に分析していると見えてしまう

流れるように会話をしていた理香子はピクっと一瞬だけ真顔になって、注意を逸らす様に新しい話題を振ってきた


雪斗の方を見るとグラスに手に持ったまま咲子の肩にもたれ掛かって………眠っている



咲子と真紀は殆ど口をきかない雪斗に手を焼いていた

二人で会話しながら上手く雪斗に話題を振り短い相槌を引き出していたがほんのちょっとだけホステス二人の会話になった隙に咲子の肩にトスンと雪斗の頭が落ちてきた

まだ店に入って30分も経っていないのに客を酔い潰すなんて大失態だ

理香子も同罪だった



「気にしないでください、理香子さん」

「え?」

ホステス達が困っているのがわかり渡辺が声をかけた

「あの人は朝が毎日早いのでいつも今くらいの時間に眠くなる癖があるんです、放って置いていいですから」

「大変……申し訳ありません」

「眠りは浅いからすぐ起きると思います、暫く肩を貸してやって下さいね」

咲子はにっこり笑顔で返事して雪斗を起こさないように会話には加わらなかった



凭れていると言っても軽く頭を乗せているだけなので重くはない
 
頬に触れる髪は柔らかく目を伏せた雪斗は益々若く見える

最初に見たときは本当に成人しているのかと疑ったが顧客管理はチーフの仕事だ、歳を誤魔化していてもホステスには関係ない


兄弟のいない咲子にとってこんな経験は初めてで何だかくすぐったい、毎日新しい出会いが数件ある接客業だが当然年齢は高め………手のかかる弟が甘えているように思えすうすう眠る姿は可愛らしい




咲子がこの高級クラブに勤めるようになって三年が経つ、田舎から出てきたのはいいが事務のスキルさえ無く仕事の選択肢は酷く狭かった

出来る事が何も無く、取り敢えず収入を得る為にバイトしていたフードコートのオーナーに「胡蝶」を紹介され駄目元で面接を受けるとあっさり受かった

化粧の仕方も知らない、街を歩くと自分の田舎臭い格好に恥ずかしい思いをしたが初めてドレスアップした自分を鏡で見たときに驚いた


我ながら綺麗だった


ホステスの仕事はあまり好きではないがどうやら向いている、とりとめのない会話を途切れずに続けるのは得意なのだ

「咲子さん、溢れるから預かりますね」

「お願いね、真紀さんはあちらをお願いします」

コクンと頷き、今にも指が離れてしまいそうな雪斗の手の中にあるグラスを真紀がそっと引き取ると、肩に乗った頭がモゾモゾと小さく動いた

化粧もしていないのに雪斗の唇は赤い

最初に見た時は容姿にさしたる印象を持たなかったが、間近で見ると女でも滅多にいないくらい透明で白い肌を持ち、とても綺麗な顔をしていた


「ツルツルね……羨ましい……」

頬にそっと触ってみるとピクリと瞼が震え、薄っすら目を開けた


「目を覚まされましたか?」

恥をかかせてはいけないと思い小さく声をかけると、まだちゃんと目を覚ましていないのか、居場所を確かめるように焦点があやふやな瞳をゆっくり動かした


「気持ち悪くないですか?」


「………………」

「あ………あの………お客様?………」

慌てて飛び起きるかと思ったが、肩に頬を乗せたまま見つめてくる目はトロンと蕩けて眠ってしまう前の雪斗とは別人のようだった

空いたグラスを放置できず数杯飲ませてしまったが、最後は殆ど水と言っていい濃さだった、総量を考えても泥酔する程飲んでいない


「大丈夫です………か…」


肩に凭れ頬に触れていた額がスルリと滑り、髪の中に潜った唇が耳の下にそっとついた


いやにセクシャルなキス………



「今日家に行ってもいい?」

「え?……」


寝呆けているのではない

さっきまでのおどおどとした萎縮は鳴りを潜め、唇を離しただけの耳元での囁きは熟練したジゴロのように甘く驚いた


「………いいわよ」

これはただの言葉遊び、実際の話ホステスの住まいに客が来るのは無理な話だ

そっちがギアチェンジするならこっちも受けて立つ
疑似ラブフェアはホステスの真骨頂とも言える、技術も必要だが取れ高も高い

ただ、キスを許したのは子供のような若い見た目に油断し過ぎた………高級クラブにやって来るような金持ちのボンボンが最初に持った印象通りにピュアで純情な訳が無い

少し体を離そうと座り直すと膝の上にポイッと腕時計が乗った


「え?……あの……雪斗さん?……」

「欲しかったらあげる」

「え?え?あの……」

スッと突然立ち上がった雪斗が投げた腕時計は300万もするハリー・ウィンストン、違う形のプレゼントなら有り難く頂くがこれは明らかに今捨てた

「お客様……」

「欲しそうに見てたじゃん」

「欲しそうになんて……」

勿論チェックはしたが店に来た当初雪斗にそんな余裕はあったようには見えず、まさか見られているとは思わなかった

鬱陶しそうにグッとネクタイを緩めてソファの上に乗り上がり、背凭れを飛び越えた雪斗が向かったのは出口……


「雪斗?!」

渡辺と石川も雪斗が店を出ていこうとしている事に気付き腰を上げた

「おい!雪斗!待ちなさい!ちょっと」


時計に引き続きポイッとネクタイを投げ捨て、転がるように飛び出てきたチーフに上着を投げた

「お客様?!」

「それ臭いから捨てて」

「お客様!!あの……」

チーフの手にバサッと札束を渡して、エレベーターに乗ってしまった雪斗を追って、一番機敏に反応した石川が隠されて見えない非常階段から後を追って走っていった



「大変申し訳ありません」


チーフが45°のお辞儀をして頭を下げた


渡辺は呆然としていたが別に店が悪い訳じゃない、突然の事で思わず大きな声を出したせいで店中から注目を浴び、恐縮していた

「いや……こちらこそ騒がして申し訳ない」

「いえ……こちらの不手際で気を悪くなさったのだと思います」

「そうじゃない………と思うんですが……」

絶対に違うと断言できるが説明しようにも、生い立ちから始まり性格に至るまで一時間で済めばマシな方だ

すいませんの応酬になりそうで困っていると石川が靴を手にしてエレベーターから降りてきた

「雪斗は?」

「すいません……見失いました」

「仕方ないな……で?それは何だ………」

「エレベーターの中に脱ぎ捨てられていて……」


つまり雪斗は裸足で出ていったのだ

店と綺麗なお姉さんに飲まれ縮こまっていると安心していた………と言うか逃げ出す意味がわからない

胡蝶に来た目的はまだ何も果たせてないがここにいても仕方がない、ふうっと息をついて平謝りのチーフに会計を頼んだ



「それが、あの……こちらを置いていかれまして……」

皮のトレーに乗せたくしゃくしゃになった札束を差し出したチーフは空調の効いた適温の室内でポタポタと汗をかいていた

朝雪斗に渡した20万、全部置いて行ったらしい

「それでは足りないでしょう、少し急ぎたいので残りを……」
「いえ、今回お代を頂く訳にはまいりません、機会がございましたら是非とも最高のサービスをご覧に入れますので、その時にお願い致します」

「それは駄目です」


妙なツケは持ちたくない、払わせてくれなければ二度と来ないと逆脅しを掛けたはいいが、無理矢理出させた支払い額には…………

変な汗と笑いが出て来た

さっさと残りを支払い、帰ろうとするとチーフが雪斗の上着を出してきた

「お客様が置いていかれたジャケットですが、こちらでクリーニングしてお届けします、渡辺様の事務所にお預けしてもよろしいでしょうか?」

「そんな事をしなくていいですよ、私が預かります」

「いえ……これだけは譲れません、お届けいたします」


胡蝶の名にかけてこれだけは絶対に譲れなかった

臭いから捨てろと言われた

確かにジャケットからは仄かだが女性特有の甘い香りがする、渡辺に知られるわけにはいかなかった

ここまで失態が重なる夜も珍しい

「是非…お任せ頂ければ…」

「じゃあお願いします、事務所の方で結構です」


深く頭を下げたチーフ、セカンド、ホステス達に見送られて店を出たが待機していたハイヤーは断った


「雪斗さん……どこに行ったと思います?」

雪斗の暴走を初めて目にした石川はまだ呆然としていた

「荷物を取りに明日の朝には戻ってくるよ」

「探さないんですか?」

「どこを?」

「まあ………確かにそうですね……」


探して見つかるような奴じゃない……放って置いても大丈夫なのはわかってる


「ほんとにあいつは……どう動くかわからないな」

「子供なのか大人なのかわかりませんね、何にしてもこれから雪斗さんに酒を飲ませるのはやめた方が良さそうですね」

「せっかくの夜だったのにな……」


2,30分も歩けば安い赤ちょうちんの店がある
"仕切り直し"だと二人で明るい方に歩きだした




「プロでなくても今日のお客様がお酒に慣れていないのはわかるだろう」

渡辺達を送り出した後当然だが理香子、咲子、真紀の三人はバックヤードに呼ばれ大目玉を食らった、隠せるとは思ってなかったが雪斗を寝落ちさせてしまった事がチーフにバレている

「お客様自身が自分の酒量をわかってないのに飲ませ過ぎたなんて言い訳はできないぞ、ここは飲ませてなんぼのキャバクラじゃないんだ、上質なサービスを提供出来ないなら誰が高い料金を支払う」

「申し訳ありませんでした」


お酒は極力薄くしたが空になったグラスを放っておくわけにもいかず、新しく作るとどんどん飲んでしまったのだがチーフの言う通りで言い訳は出来ない

無くしたかもしれない大事な顧客は渡辺達だけじゃない、目に見えない枝葉は直接の繋りを持つ間柄から声から声に伝わり広がっていく

よりによって渡辺の所属する正木法律事務所は企業法務が専門だった


「それから咲子さん、今日はこのまま帰ってください」

「え?でもご指名の入った予約があります」

「お客様に匂いを移すなんて言語道断、ホステスの基本だと教えた筈です」

「あ…………す……すいません……」



髪をセットするために店にくる前に寄った美容院で仕上げのスプレーを間違えられてしまった

セットをやり直して貰い、極力匂いを消して同僚にも確かめてもらったつもりが甘かったらしい





「減給は間違いないな……」

ロッカーでドレスを脱いでラフなTシャツとシルクの七分丈パンツに履き替えると、時間はまだ8時過ぎ

営業が終わる午後零時頃は男性従業員がセキュリティに立つが当然誰もいなかった

このクラブの裏口は植木で隠れ、道路からも見えにくい、表から入ってこれない場所にある

タクシーを呼ぼうと携帯を出すと植え込みの影に何も履いてない素足がひょっこり飛び出ていた


「あ………」

人の気配に気付いたのか植え込みからピョコンと顔を出して雪斗が眠そうな目を擦り、にこりと微笑んだ

「雪斗さん!どうしてこんな所に……皆さん心配なさってましたよ、困った方ですね」

「家に行ってもいいって言ったよね」

「お客様……」


普段なら客は勿論の事、男を部屋に入れるなんて絶対にしない、付き合った彼氏でさえ部屋には呼ばなかった、ましてや店でのサービストークを現実に持ち込まれては困るが………

まるでずっと前から焦がれた相手を見るようにうっとりした表情で見つめてくる雪斗にくすぐったいような笑いが込み上げてきた

男臭さが全く無いせいもあるがホステスの軽口を本気にする辺りも可愛いい

「いいわよ、タクシーを拾うから一緒に来なさい」

「うん……」

年下の綺麗な男の子に恋されているような甘酸っぱい気分になり

まあいいか…………と思ってしまった



店の管理を外れて客と外で会うなんてクビになりかねない背信行為になる、タクシーは外に出てから拾おうと雪斗の手を引くとペタペタと変な音がした

そう言えばさっきも裸足だった

「靴はどうしたの?」

「捨てた」

「捨てたって……」

「あんな重くて硬い靴履いていられない」


雪斗はシャツもパンツから出して腰でひらひらさせていた、胸元のボタンも外してしまい固そうな襟から首を守るように手を突っ込んでさすっている


「雪斗君って呼べばいい?」

「雪斗でいい……そっちは?咲子さん?」

「咲子は源氏名よ、美菜子が本名」

「美菜子さん?」

「うん、美菜子……」



やんちゃな弟を連れている気分だが……そうじゃない事は良くわかっている

「胡蝶」から車で20分、都心に近いが閑静な住宅街にあるアパートは建物の大きさの割に六戸しか入っていない、石作りの壁には蔦が這い、玄関先にはブーゲンビリアが咲き誇っていた

もう少し離れた場所に住みたかったがこの古いアパート引っ越すつもりは無い


「綺麗だね」

「このアパートはお気に入りなの、もう5年目になるかな、お花凄いでしょう、どうぞ、入って」

ドアを開けて明かりをつけたが雪斗が玄関先から入って来ようとしなかった


「どうしたの?」

「俺足が汚いから何か拭くものない?」

「いいわよ、そんなの……」

時計にネクタイにジャケットを投げ捨て、靴まで捨てて平気でウロウロしていたくせに意外な事に気を使う、部屋に上がろうとしない雪斗の為にタオルを絞って渡すと丁寧に足を拭いてやっと入ってきた


「俺ここに寝ていい?」

「え?」

藤《とう》のソファにコロンと横になり伸びをしている雪斗を見て驚いた


若い……いや若くなくてもホステスの部屋に上がり込む男の目的はひとつ、それでいいと連れて来た


「まさか一人でここに寝る気?」

「駄目なら玄関先でもいいよ」

雪斗はやっぱりジゴロの才能がある
自覚はあるのか無意識なのか、本当に心を映しているだけなのか、瞳の色をまた変えた

見つめてくる目は切なくて甘い、惹き込まれるように雪斗に覆い被さると赤い唇が薄く空いた


「お預けは嫌よ……」

軽く唇をつけると雪斗の手が首に回ってグッと引き寄せられ……やっぱり初《うぶ》なんかじゃない

熱い舌が入って来た


美菜子が知っている男は三人、雪斗は四人目だったがその中の誰よりも若い

それなのに一番女の良いところを知っている

指も舌も……上手い……


敏感な場所を優しく攻め立てられ、雪斗がたっぷり密を含んで濡れた密やかな場所に押し入ってきた来た

照明が付いたままの明るい部屋は全部がよく見える

潤んだ瞳……眉間に皺を寄せて眉を下げた表情、男特有の醜悪な肌の粗さや脂っぽさはなく、腹の上で恍惚とした表情を浮かべて揺れる雪斗はこっちが言うのも何だが色っぽい

ヌルヌルと擦るように出し入れしている雪斗が雄であることが不思議に思えた

押し寄せる官能は昇って行くばかりで悔しいくらいに喘がされ、雪斗が果てる頃にはうっとり惚けてしまっていた




「疲れた?」


「ううん……気持ちいいの」


雪斗が心配そうに覗き込んで来る顔が愛おしい


まだ始めましてと挨拶してから数時間………

一回寝て好きになるなんてそこまで単純でも惚れっぽくは無いが、ずっと探していた相手を見つけたような気がするのは不思議だった

店でキスなんかされたらセキュリティを呼んで叩き出し、出禁指定をするのが通常だがそんな気は無かった

一目惚れは結果論だと理香子が言っていたが、雪斗との出会いは間違いなくお互いの一目惚れだったと思う



「何か飲んでもいい?」

「ワインがあるわよ、いつ開けようかと迷っていたとびっきりいいやつ」

「お酒はもういいよ……」

口を尖らせた雪斗の額にキスをして笑った

「そうだったわね急に出ていかれても困るからお茶を淹れてあげるわ」

「俺がやってもいい?美菜子さんはゆっくりしてて」

雪斗が立ち上がってキッチンに入っていった

他人に見せることが出来るほどきっちり整理出来ていなかったが雪斗に何を見られても嫌われてしまう心配などしなかった


「オレンジペコって紅茶?」

「そうよ」

雪斗が紅茶の葉っぱが入ったフォートナムメーソンの缶を探り当てて見せてきた

「アイスとホットどっちがいい?」

「暑いからアイス!」

了解と雪斗が笑った
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