赤くヒカル夜光虫

ろくろくろく

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光度を落とした黄色い電球色に包まれた店内に囁くような音量でジャズが流れている

壁にズラリと並んだ様々な酒のボトルが店の雰囲気を落ち着いた華々しさに満たしていた

この古いオーセンティックバーは緑川のお気に入りだった

匂わすだけでは事の重大さを分かってくれない佐鳥に、雪斗への言動に気をつけろと、動けないくらい頑丈に釘を打っておかなければ怖くて見ていられない

明らかに雪斗の帰りを待っている佐鳥を強引に連れ出して二人で飲んでいた


「引っ越し……手伝うよ、お前はあのマンション出なきゃならないんだろ?」

「何だよ………お前あそこが会社の持ち物だって知ってたのか」

「ああ………どうするつもりなんだ、あのでっかい実家ももう無くなるだろ」

「探偵でも雇ってんのか?何で俺ん家の事まで知ってるんだよ」

「何でって………」

……酔って部屋の鍵を無くした佐鳥を実家まで送った事もあるし(どうやら覚えてない)、古くて住みにくいだの近所の小学生に幽霊屋敷だと都市伝説を作られているだの散々愚痴っておいて知らないわけ無い

「そこはどうでもいい、あいつは一ヶ月しか猶予をくれてないから土日だけで部屋を探して引っ越すなんて間に合うのか?」

「うん、難しいかもな、暫くは……部屋が見つかるまでお前ん家にでも転がり込もうかな……」

「………いいけど俺は遠慮しないぞ?」

「……反対だろ……遠慮って俺がするとかしないだろ」


傾けたグラスの中でカランッと氷が回った

どこまでも鈍い佐鳥のネクタイを引き寄せ、無理矢理舌でも押し込んでやろうかと思ったが笑っておくだけにした


「家と言えば佐鳥社長はどうしてる?」

「ああ、親父に電話したら大丈夫だから構うなって叩っ切られた、あの人せっかちだから何も聞けなかった」

「社長らしいな」

「話があるから落ち着いたら連絡するって言ってたし暫く放っておくよ」

「そうか……社長には世話になったから手がいるのなら言ってくれ」

佐鳥の家は相当広く、おそらく落ち込んでいる(想像できないが)佐鳥社長が一人で片付けをすると思うと不憫で悔しさが込み上がってきた

「お前さ雪斗と一緒にいて本当に何も不審に思わなかったのか?」

「だからあいつはお前が思うような奴じゃない」

「俺が思うよりずっと……最悪だったじゃないか」


「………そういうことじゃないんだよ」

佐鳥はグラスの結露を指で撫でてそのまま物思いに沈んで黙ってしまった


「人が善すぎるんだよ、どう考えても怪しかっただろ」

ラフだが偽物じゃないブランド物の衣服、しかもちゃんと洗濯され管理されていた、よく似たものが300円から買えるはずのクロックスも本物だった

パソコンは上っ面が汚されボロく見せてはいるが値引きの期待が出来ない34万もする新型機種だと興信所の報告書にあった


弁護士が付いている事を匂わせ、資産が億を越えると冗談に交えて口にしている時点で自分なら間違いなく気付いていた

少なくとも疑ってかかる




「お前の知らない事があるんだよ」

「それは何だよ……」

「………とにかく………あいつは黙っていた事はあっても嘘は一回もついてない、それに言っただろう、雪斗から話しかけて来た事なんか未だに一回も無い、全部偶然なんだ」

「それはどうかな……」

佐鳥とよく一緒にいた頃……雪斗は間違いなくTOWAを乗っとる計画を進めていた、佐鳥が誰か知っていた以上偶然なんてあり得ない


「違うって、雪斗は何回か過呼吸で倒れてるんだ……何かトラウマのようなもので苦しんでるみたいで、そんな計算が出来る状態じゃなかった」

「トラウマ?」

「目を閉じると赤い光がずっとチラチラ回ってるって言ってた」


「赤いって?」

「さぁ……それは何も言ってくれないからわからないけどさ……」

「トラウマね……」


この嵌り具合………佐鳥を騙すなんて本当にチョロかったと思う

これだけ叩きのめされても雪斗にぞっこんで何も見えてない、佐鳥の為と言うより、自分自身の心身安泰を図る為にこれだけは守ってもらわないとそのうち心臓が破裂する


「何でもいいけどな、会社の奴等に音羽社長と元から知り合いだなんて公言しないでくれ……頼むから」

「隠す気は……」
「隠せ!!わかったな!」


否定か肯定か……ジュースじゃないのにバーボンに浸かっていた硬い氷をガリガリと無理矢理噛み砕いた

付き合うな、なんてレベルの話じゃないのにいまいち通じてないような気もするが、どうせ頭に血が登るとどっちだって同じだ







「佐鳥っっ!!ちょっとこっちに来い!!」

余程の事が無い限り職場では聞かない怒鳴り声に、発生源を探してフロア中の社員がキョロキョロとお互いを見回した

よく見ると雪斗が社長室からヒョコッと顔だけ出してエレベーターに乗りかけた佐鳥に向かって"来い!"と手を振っている


「おい……暁彦……社長が呼んでるぞ」

「え?……俺か?」

「佐鳥ってもうお前だけだろう」


全く………

他の社員は"さん"付けなのに佐鳥だけ呼び捨てにするとか止めて欲しい……

「俺は先に出るぞ、昨日言った事忘れんな」

「わかってるよ」


口を開けたエレベーターに踏み込みかけた足を引いて慌てて社長室に走って行った佐鳥を見てフロアにいた社員達からクスクスと笑い声が起こった

かわいい、熱い冷たい、顔の良し悪し

女子達の………特に水谷の評価はまさに直球

そこそこ高水準で安定した収入が見込める筈だった佐鳥には相手にされない上にどうやら社長への道筋は消えて無くなった

明らかにエグゼクティブな生活を手に入れられそうな分かりやすい金持ちの雪斗にターゲットを変えたのは一目瞭然だ

輪の真ん中ではしゃぐ水谷のあまりに短絡で能天気とも思えるバイタリティーにみんな呆れるより脱帽した





「何?何だよ……」

緑川に切々と説教され、一応言葉遣いには気をつけようと思っていたのに不意打ちでうっかりしていた

締まりきっていないドアを開けるとチロッと渡辺が目を上げ、慌てて言い直そうとすると、先に胸に浄水施設のパンフレットが飛んできた

「だから何だよ」

「そのパンフレット誰が作った!」

「え?何人も関わってますけどこれが何か……」

「お前浄水施設の責任者だって言ってたよな、これ読んでないのか?」

「勿論読んでますよ」

それこそ暗唱だって出来るくらい読み込んでいる……雪斗が何を怒っているのかは皆目見当が付かなかった


「読んだ?変だと思わなかったのか?」

「変ってどこが?」

英語で書かれたパンフレットの文章は開発と一緒に日本語で作り専門家に英訳を任せている、勿論チェックはしたし読んでも別に変な所はない……と思う

「わからないのならいい、この会社で一番英語が出来る奴を今すぐに呼べ」

「英語?……開発じゃ無くて?」

「早くしろ、日本語も不自由なのか?」

雪斗こそもう少しマイルドな日本語を勉強して欲しい


「わかりました、ちょっと待ってください」

TOWAで一番英語が話せるのは深川だが会話が上手いだけで正確かどうかはかなり怪しい、……という事で今エレベーターで下に降りていった緑川が回転扉を一周して戻ってる羽目になった



「どこが変なのか具体的にお願いします」

元浄水チームの木下、松本も加わり営業四人でパンフレットを見直したが誤字も脱字も見当たらない、困って雪斗に説明してもらえないか視線でお願いしてみたがが腕を組んでじっと答えが出るのを待っているだけだった


「社長……多分この会社で一番英語に堪能なのはあなたですよ」

社長の机を雪斗に譲り、隣に席を作った渡辺は法律事務所の仕事を石川に任せてTOWAに詰めていた

基本、雪斗がやる事に口出しはしない、手に入れた会社を潰そうがどうしようが好きにすればいいと決めていたが、コミュニケーションが、上手くない雪斗に助け舟を出した

「疑問点をちゃんと口に出して言わないと分からなくてみんな困ってますよ」

「そんな訳あるか……俺は最終学歴小卒だぞ、全員大学を卒業しているんだろ」

「うーん………そうでしょうけど……」


どこの大学を出ようが規定の英語教育だけで対話出来るようになる事は稀だ、ましてや口語と文語は全くの別物だが、学校に通ってない雪斗にその肌感覚は説明できない

雪……社…長は英語が話せるのか?…ですか?」

「佐鳥………」


英語の前に日本語を何とかしろ……
噛みまくる佐鳥に全員が心の中で突っ込んだ

「話せないに決まってるだろう、俺はアルファベットしか習ってない」

「読めるだけですよね?」

「え?それはどういう事ですか?」

「音まで調べてる暇なんか無い」

「それは……」

つまり意味は理解出来るが発音がわからないと言う事?

「あ……新聞?英字新聞?」

雪斗が手にしている所は何度か見たが読んでいるとは思っていなかった
つまり……つまり独学で英語を勉強してあのちっこい長文を読めるようになったと言うなら驚きだ

「多分英語圏で国語の教師になれるくらい正確な英語を使えるはずです」

「渡辺、余計な事を言うな」

密かに雪斗の特別な能力を自慢したくてウズウズしていた渡辺は黙ってろと睨まれて苦笑いを浮かべた


「それで?どこが変なんですか?ちゃんと言ってください、時間の無駄です」

「よく読めよ、ここから……ここ……」

A4のリーフレットを開いて全員で顔を寄せ合いブツブツと英字を追った



「真水に変えるんじゃなくてまるで海水を綺麗にろ過するだけのニュアンスに取れる」

「つまり綺麗な塩水が出来ると取られている可能性があると?」

「俺はそう受け取った、そもそもどっちにも取れるような記述そのものが悪いんじゃないか?」

「じゃあ………ここを……」


佐鳥、木下、松本は途中で置き去りにされ緑川と雪斗だけで話が進んでいく


邪魔そうに掻き上げる雪斗の髪からはよく知っている匂いがする

話の内容より雪斗と緑川の距離感が気になった、話半分でもテンポ良く交わされる会話に、目の合図だけで話が進んでいく………

この感覚には覚えがあった


緑川とH.W.Dの木嶋はよく似ている

雪斗の緑川への対応や態度は木嶋へのそれとそっくりだった

雪斗を引き寄せ、緑川から引っ剥がしたいがそうもいかない、後半はパンフレットの内容なんかすっ飛んでジリジリイライラするしかなかった

松本も英文の許容が越えたのか、ぼうっと雪斗を見ているだけで参加してない

雪斗の英語スキルは渡辺がオーバーに誇張していた訳じゃないらしい、話をしながら高速で英文を打ち込み、気が付いたら緑川と雪斗、途中から加わった木下の三人で文章の草稿が出来上がってしまった


「佐鳥ぼさっとしてないでこれをどっかのプロに頼んでデザインからやり直してもらえ」

「え?……わかった……りました、パンフレットさんを作り直すって事でいいんだ……のでしょうか?」


益々日本語が不自由になった佐鳥は暑くもないのに額から汗を流していた


「時間を取らせてすいませんでした、後は"担当"にやってもらいます、自分の仕事に戻ってください」

「また力になれる事があったら呼んで下さい」

「ない事を祈る」

緑川が雪斗とアイコンタクトを取りニヤッと笑い合って社長室を出ていった

イライラむかむかヤキモキする


「佐鳥、聞いてるのか?」

「聞いてると言えば聞いてるけど実の所ちゃんと聞いてない」

「何威張ってる、担当はお前だ、しっかりやれ」

雪斗の匂いをひたすらクンクンと嗅いでいたせいで全然聞いてなかったのは確かだが、そんな話をいつしたのか……

「俺が……担当していいんですか?」

「佐鳥が一番わかってるって野島部長も言ってたからな、やる気があるんならさっさと行け」

「雪………」

「行けって!邪魔だ、俺は忙しい」

蹴飛ばされる勢いで社長室から追い出され閉じられたドアは物凄く分厚い

雪斗はまだ数日だというのに社長の仕事をこなそうとしている


社長と社員……

あの日から………ずっと雪斗は目を見ない

もう雪斗に触れることは叶わないのだろうかと………ふと思ってしまった



「チョコでも食べますか?」

「………うん、ある?」

「買ってありますよ」

頼む前に会話を聞いていた皆巳がミニ冷蔵庫からキューブ型のチョコを出すと雪斗は2つ纏めて口に放り込んだ

過剰に酷使する大食いの脳味噌は糖分を必要として何かに集中するとすぐに腹を空かす、いつも安物のメロンパンを無意識に選ぶのは直接砂糖が振り掛かっている為だと渡辺に教えてもらった

頭がへばると怠くなったり猛烈な眠気に襲われ能率が下がる、もう一つ………チョコの袋に手を伸ばすとパソコンの画面が目に入ってハッとした

デザイン事務所の馬鹿な誰かに英文を手打ちされては堪ったものじゃない、データをコピーして使ってもらわなければスペルチェックに二度手間を食ってしまう

急いでUSBメモリをパソコンから抜き取り佐鳥の後を追った



「佐鳥!これ持っていけ」


雪斗に呼ばれて乗りかけのエレベーターから足を引くのは今日二度目、入れ違いに降りてきた大柄な男を避けて振り返った

「何………」
「雪斗じゃないか?」

大股で足を踏み出したその男がよく通る低い声で驚いた声を出すと、何かを投げようとしていた雪斗が走っていた足に急ブレーキをかけた

丁度隣に並んだ男を見上げると目線が上にある、つまり身長は185以上あり、思い出すのも嫌だがおそらく木嶋と同じ位、鋭角な折り目のついた高そうなスーツ姿からは渡辺と同じ匂いがする

厚い胸板を見るとやはり………弁護士バッチが鈍い光を放っていた


「お前こんな所で何をしている、何だスーツなんか着て」

「っっ!!」


掴みかかるようにヌウっと伸びた腕を声にならない悲鳴を上げて叩き落とし、後ろに飛び跳ねた雪斗の顔はザァッと音がしたかと思うくらい顔色を変えた


「痛ぇな」

どんな知り合いなのか聞く暇も止める暇もなかった

結婚指輪が光った大きな手が雪斗の首を掴み片手でグイッと持ち上げた、苦しげな呻き声を上げ釣り上がった雪斗の足は床を離れそうになっている

「ちょっと!!何をするんですか!!やめてください!!離せ!!」

会っていきなり首を絞めて吊り上げるなんてどんな知り合いなんだ…………雪斗にとって会いたくなかった訪問者だとわかったが弁護士バッチを付けた奴が人目も憚らずに暴力を振るうなんて警戒はしない

人を人とも思ってないその男の所業に慌てて雪斗の体を取り返すと首にはクッキリ人の手形が残っている


「ゲホっ……ぐぅ……ぅ……」

シャツの襟を掴んで持ち上げたんじゃない、体を折って咳込む雪斗を見下ろしたその男は楽しい思い出を懐かしむように目が細めた


「…へぇ…相変わらずいい声出すねえ」


「何……だと…………」

言っているその意味がわかる奴なんてここには自分以外いないが、関係を誇示したがるなんて下衆でルール違反もいいとこだ

サディスティックに歪んだ笑い顔と滑った視線が苦しむ雪斗の身体を舐めるように横断して背筋が寒くなった




佐鳥の緊迫した声にフロアにいた社員も驚いて遠巻きに見ていたが、暴漢(?)はでかい、警察の前にこの社内で一番地位も体格も対抗出来そうな渡辺の元に塚下が駆け込んだ


「社長?……社長!!」

社長室を飛び出てきた渡辺は、男の胸に止められた弁護士バッチを見て雪斗を隠すように前を塞いだ

「渡辺さん……こいつ……」

「後でいい!佐鳥君……忙しい所をすまないが社長を外に連れ出してくれないか?」

「社長?……誰が?おいおいまさか雪斗のことじゃないだろう?ここで何をしてるんだ?お前さ、突然何も言わずに消えるから俺は心配したんだぜ」

「何ですか……誰だよあんた………」
「佐鳥君!!いいから!」

渡辺が声を荒げるなんて初めてだった、雪斗だけじゃなく渡辺もどうやらこの男を知っている

聞きたいが………確かに雪斗をこの場から離した方がいい、首を抑え、壁に凭れて崩れそうな足を支えている雪斗の脇に腕を通そうとするとバっと手を払われた

「いい!」

「でも……」

雪斗は真っ青になった顔をグッと結び直して長谷川に向き直った

「お久しぶりです長谷川さん、あなたこそこんな所で何をしているんですか?何か用事でも?」

「用事があるから来てる、残念だがお前を探しに来たんじゃない」

「それは色んな意味で残念ですね、せめて連絡していただければ………」
「社長、やめなさい」

「へえ?社長ってニックネームじゃないんだ……あんたが噂の渡辺弁護士?これよろしくね」

長谷川はニヤニヤと嫌らしい薄ら笑いを浮かべ、渡辺のバッチに向かってA4の封筒を差し出した

社員が全員見ている前でモラルの欠片も持ち合わせていない長谷川が何を言い出すかわからない、渡辺はその場で書類は受け取らずに丁寧にお辞儀をした

「申し訳ありませんが話は部屋に入ってからお願いします」

「勿体つけるね、何カッコつけてんの?くだらない」

「ご案内します、こちらにどうぞ」


───営業に出ないで待機してください

何も出来ず社長室に入ってしまった雪斗を見ていると渡辺がさっと耳打ちを寄越した



子供だった雪斗の行動範囲は狭い、「弁護士」と名のつく奴には誰であれ注意を払っていたが長谷川は連絡も無しにやって来た


間違いない、長谷川は雪斗が子供の頃一番最初に頼った例の男だ


何も知らない子供を騙して部屋に連れ込み……ただ乱暴した



長谷川法律事務所の仮眠室から尋常じゃない悲鳴が聞こえたと、当時司法浪人をしながら長谷川を手伝っていた山本弁護士から聞いていた


殴られたと思われる頬は青黒く腫れ、縛られ拘束されたスリ傷が手足に生々しく残り赤く変色している

強姦、暴行、監禁……おまけに雪斗のポケットには札が突っ込まれ数万円が顔を覗かせていた

十分すぎる程ハッキリとした犯罪に山本は青ざめた

被害者は年端もいかない未成年だが当時強姦は親告罪だった、せめて警察に相談すれば良かったのにガンとして拒否した雪斗の意思を尊重してしまった

それから数度……長谷川に希望を聞く気がないと雪斗が悟るまで何度か同じ事が繰り返され………我慢できずに長谷川法律事務所を辞めた


深夜徘徊で警察に保護された雪斗を迎えに行った時に居合わせ、話を聞かせてくれた山本は今雪斗のような子供を助けなければと、当時何も出来なかった自分を悔いて未成年のトラブルに走り回っている




「ここの……え~とTOWAコーポレーションの元役員、もうすぐ死にそうな爺さん四人の連名で退職金の支払いと家の住居権を求めて本日裁判所に提訴しました、和解の成立を望みますが条件が折り合わない場合は裁判も辞しません………って話です」

長谷川はバサリと封筒を乱暴に投げ捨て、勧めた覚えもないソファに大股を広げて座った


「皆巳さん、お茶を入れる必要はない、訴状は預かりますがこれからは是非アポを取っていただきたい」

「喧嘩売る相手に予約取るなんて俺には出来ないね、勝ち目の薄い仕事なんだから虚勢くらい張らしてくれよ」

「勝ち目が薄いと分かってるなら訴状を取り下げて下さい、クライアントにも不利益なだけでしょう」

「そんなの俺には関係ない、予定の金を貰えりゃそれでいいし、今回は予想外の収穫があったからな、爺さんに感謝するわ、なあ!雪斗」

雪斗は初めて渡辺法律事務所に来たあの時のようにドアの前から動けなくなっていた

学歴も能力もあって恵まれた容姿を持っているくせに何故ここまで品性がないのか不思議でしょうがない

長谷川の視界を遮りたくて間に立っていたがそれを見越したように雪斗を覗き込んでニヤリと笑った


「長谷川さん、もう用はないでしょう、お帰りください」

「そう急かすなよ、それにしても会社を乗っ取ったのは子供みたいな若造だって聞いてたけどまさか雪斗とはな……」

「………長谷川さんもまさかうち関係の弁護を引き受けるなんて世間は狭いですね」

「雪斗、せっかく再会したんだ、ちょっと二人っきりで話をしないか?」

「駄目です」

雪斗が返事をする前に渡辺が遮った


どこから見てもそうは見えないが長谷川は優秀だと聞いている、態度の悪さに計算の匂いはするが雪斗に固執している事は間違いなく、二人っきりになりたいなんて話に同意は出来ない


青い顔をしならがらも不敵な笑みを浮かべた雪斗の片手はポケットに入っている

まさかとは思うが例の凶器を忍ばせていたりしないか心配になっていた


「これからはTOWAの顧問として代理人の私以外との接触を一切拒否します、書面が必要なら用意しますので今すぐお帰り頂けると助かります」

「勿体ぶるね……」

「お帰りください、出口はご存知でしょう」

「…いいよ渡辺、ちょっと外に出てろ……皆巳さんも……」

「雪斗!」

「あれ……あれれ……そうなんだ……」


思わず"雪斗"と名前で呼んでしまい無駄な攻撃材料を与えたらしい、長谷川の表情が変わった


「………何だよワタナべさんが俺の次かよ……こいついいだろ?」

「何の事です」


あまりの屈辱に腕が震え、握り拳に力を入れてグッと腕を抑えた

「惚けちゃって、意味わかってるくせに」

「あなたと一緒にしないで頂きたい」

「またまた……誤魔化す事ないのに……ヤってるんだろ?」

「これ以上一言でも喋ると侮辱罪で訴えます」


長谷川は肩をひょいと上げておどけた表情をしたが、それでも黙って立ち上がった、どこまで、どんな魂胆があるのか………引き際はわきまえているらしい

ドアの前に立つ雪斗の前を通りすぎる瞬間にクイッと顎の下を撫で、言われた通り一言の挨拶も無しに部屋を出ていった


いつもなら皆巳がエレベーターまで送っていくがちゃんと閉まっているかドアを確かめ長谷川に淹れかけていたお茶を全部捨ててしまった

あまりに際どく品の無い会話の内容は隠しても隠しきれない、どんな顔をしているかそっと皆巳の顔を覗いて見たが普段通り表情に変化は無かった

「皆巳さん………」
「温かい飲み物を用意します、渡辺さんは社長をお願い出来ますか?」

まだ三日目だが皆巳は本当に使える、何をどう感じたか知る由も無いが淡々と仕事をこなし先読みをして動いてくれる


雪斗はまだドアの前で動けないでいた
自分を守るように腕を体に巻き付け益々顔から色がなくなってきている


「社長……役員の提訴は想定内です、既に準備も整っている、あなたがあの男に関わる事はもうありません」

「別に……俺はどっちでも構わない、やらなきゃならない事は俺がやる」

「それはわかってます」

言葉のわりに雪斗の口調は弱々しい
ソファに座らせようと手を伸ばすとバっと派手に避けて身構えた

雪斗にとって、十年以上支えてきた筈なのにあの長谷川とずっと同じ位置付けなのはどうしても我慢ならない

悔しくて情けなくて何故なのだと詰め寄りたいが、雪斗の中に自覚の無いまま広がった黒い感覚と酷い記憶がそうさせている

伸ばした手をグッと握り締め、これ以上驚かせないようにそっと上げた腕を引いた


「皆巳さん、申し訳ないですが飲み物はいいです、社長は家に帰ってもらいます」

「渡辺、何を言ってるんだ、俺にはまだ仕事がある……」

「そんなに焦らなくても時間はあります、今日はもう帰った方がいい、あなたには休息が必要です」


頑固に突っぱねる背中を押したいが、今………社内にいる誰よりも雪斗に触れてはいけない筆頭がこの手………

ぐっと我慢してドアを開けると、頼んだ通り佐鳥が外で待っていた


「雪斗……あいつ帰ったけど大丈夫か?一体何をしに…」

「佐鳥……お前ここで何してるんだ、関係ない事に口を出してる暇は無いだろ」

「……でも……」

「私が残ってくれと頼みました、佐鳥君申し訳ないが社長をマンションまで送って行って欲しい」

「渡辺……いいって言っただろ……俺は」

「言う事を聞いてください、地下の車かタクシーを使った方がいい、社長の自宅は………」

「知ってます」

「知ってる?マンションの場所を?」

「はい………」

渡辺は何かを言いたげに眉を釣り上げたが、言葉の代わりにレクサスのキイを差し出した

雪斗は一見クール……言い方を変えれば無表情で無口に見えるが何かあると体を包む空気が色を変え意外とわかりやすい

まだ動揺しているのかいつも身に纏っている分厚いバリアは冬を告げる薄氷のように脆くなっていた

お願いしますと頭を下げた渡辺に頷いて、雪斗の背中を押すと素直に足が動いた



「雪斗……車は地下だぞ」

エレベーターのドアが閉まると、雪斗はふうっと大きな息を吐きB1のひとつ上のボタンを押してしまった

「………俺は歩く、お前が走って車に追い付くような距離なのに贅沢だろ、それにお前の給料は同期の中で最低じゃないか、奢るとか払うとかよく言えたな」

「あれは親父が………ってか……そうか……お前俺の給料知ってるんだ」

給料の額を知られるのは能力そのものを晒すようで妙に恥ずかしい、同僚の間でも絶対にその話だけはしない

父親が処分を解く前に辞めてしまい、その後どうなるのか物凄く気にはなっていた


「なあ……音羽社長…………」

「何だよキモいな」

「今……俺は無期限の減給処分中なんだけどな……」

最後まで言わなくても雪斗には通じた、ちょっとおどけたように片眉を上げほんの少しだが口元が笑った



「社員の人事評価が出来る程俺はまだ仕事がわかってない、営業部は野島部長が残ってるだろ、頼む相手が違う」

「冷たいな……そんなら一言だけでも………」

エレベーターを降りた所で、エントランスの回転扉に続きを阻まれた

4枚のガラスで仕切られた重い扉は強風が吹くと閉鎖される昭和の遺物だが通る度アトラクションのようなワクワク感があって割と好きだった



───騙されている、利用されただけだと散々緑川に言われたが、今考えてみても思い当たる事は何も無い

大金を投じ会社ごと買い取られたのは事実だが恨む気持ちは湧いて来なかった

ガラスの囲いから先に吐き出された雪斗の髪が太陽の光に透けて眩しい

トラブルの産物だが取り敢えず雪斗が口をきいてくれる

確かに、構図は敵対関係かもしれないが、何があろうとも………その前を向いて揺るがない姿勢に焦がれてやまない

追いつこうと銀のバーを押し出すと、目の前にいた雪斗の体が柱の死角からニュっと伸びてきた太い腕に引かれ、喉に詰まった悲鳴を残して視界から消えた

「雪斗?!………」

慌てて扉から飛び出しても何が起こっているかわからなかった

待ち伏せていたのか帰った筈の長谷川が雪斗の襟首を釣り上げ足が宙に浮いて振り上がっている

「雪斗っっ!!」


どうして一々首を締める……

嫌いな人が犬猫を触るにしてもここまで乱暴には扱わない、あくまで自分の「モノ」として何をしてもいいと思ってる

長谷川はベロンと耳を舐め上げて野太い腕は軽い雪斗の体を軽々と持ち上げそのまま放り投げた

「あっ!クソ!」

雪斗が軽いと言っても男の体を易々と片手で投げるなんてどんな握力だ

のんびり腕を出しても間に合わない、体を滑り込ませ危うい所で地面に激突しそうになった頭を抱きとめた


「何をするんですか!!」

「うるせえな、関係ない奴は黙ってろ、俺達は話があるんだよ、……なあ雪斗、さっきそう言ったよな、こっち来いよ」

「あんた頭おかしいんじゃないのか?警察を呼ぶぞ」


長谷川の中で雪斗がどういう位置づけなのかまるで理解出来ない、ハイッと当たり前に出した腕を取ってくれるなんて思う方がどうかしてる


体当たりか頭突きでも食らわしたいが………残念ながらそれは出来ない





「雪斗!来い!!」

咳き込みながらもしがみついてきた雪斗の腰を支えて道路まで走り、客待ちをしていたタクシーに飛び乗った

マンションの方角とは反対車線だったが選ぶ余裕なんか無い

閉まったドアから見えた長谷川は、笑っているのか怒っているのか、複雑な表情を浮かべて行き先を確かめるようにじっと目で追ってくる

追いかけて来ないと確かめて尚、背中に湧いた不安感が消えず、長谷川の姿が見えなくなるまで息を詰めていた



駅のロータリーをグルッと周ったがマンションまではワンメーター……5分とかかからない

タクシーから怠そうに足を出した雪斗に差し出した腕をいらないと払った手は血が通っているのか疑いたくなる程冷たかった


ホテルのようなカードキイで鍵を開けてリビングのドアを潜ると、雪斗は力尽きたように革のソファに体を投げ出して膝を抱えた


「寒い……」

「寒い……か?」

風も空気も秋の匂いが濃くなって来てはいるが、むしろスーツを着て丁度いい

………多分冷えているのは体じゃない


「………エアコンつけるよ、ちょっと待ってろ」

必要なのは温かい飲み物か食べ物……


おそらくあまり変わらないが気休めでいい、エアコンのスイッチを入れ、何かないかとキッチンを覗いてみると、そこはまるで住宅展示場にあるカタログのようだった

オブジェのように飾られた調理道具は整然と並びどれも使われた形跡はない

豪華なマンションはよそ行きの顔で気取っているだけで確かに"家"じゃない、雪斗が言った通り血の通わないただの箱だった


「食べ物は………無さそうだな……」

カップラーメンでも無いかと広い戸棚を開けてみたが新品っぽい塗料の匂いがするだけで何も入ってない

店の厨房にありそうな銀の冷蔵庫も牛乳の500mlパックが一つとコーヒーの挽き豆、後は棚の真ん中に小さな箱がポツリと置いてあるだけだった



「何だ……これ……」

開けてみるとシミの付いたティッシュに包まれた不格好な紙粘土での花が入っていた

ペンダントなのか梱包用の紐が無理矢理開けた穴に通り、ピンクの絵の具が真ん中の黄色や緑色と混じって茶色になってる

不器用な工作はどう見ても子供の手に依る物で、長く持ち歩いていたのか、箱の角が擦れて剥げていた


それは他人が踏み込んでいいものじゃなかった

触れてはいけない雪斗のプライベートを覗き見してしまったようで、慌てて箱を閉めて冷蔵庫に戻した


どんな事情があるのか………無性に心が痛い

この寂しいキッチンは雪斗の孤独そのものに見えた

柔らかい毛布に包んで自分のマンションに持って帰り、温かいシチューでも食べさせたいが…今出来る事は一つしかない

唯一使った形跡のあるコーヒーメーカーに水を入れてスイッチを押した

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