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第十章 狼の子たち
五話
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北ガラハン公国へ潜入し、内情を探っていたのは、三人だった。ジャックスとユーレン、そしてもう一人。──よく考えれば分かることであり、単に見落としていたのだ。二人が逃れた後も、敵の動向は耳に届いていた。以前より有益な情報は減ったが、彼らの他に隠密がいたことの、何よりの証拠だ。
その存在が、いつからなのか。
それが、誰なのか。
知らされていないことは、イェリの心に影を堕とした。
話への反応からしておそらく、ギニーも知らないだろう。
なぜ彼らに黙っているのか、見当が付かないからこそ、もやもやした感情が宿っていた。しかし、ある答えが導き出されると、それは晴れたように消え去った。
イェリの足は、まっすぐにゲルへと向かっていた。
辺りはすでに、夜の闇に包まれている。
屋内の様子を窺い、他に人気がないことを確認すると、中へ入った。
アルコールのにおいが充満している。酒ではなく、医療用のそれだ。
ギニーの腕は確かだった。誰もが認めるほど。書物で読んだ知識ではなく、実践で得た術があるからだ。かつては帝国の軍医であり、戦線に派遣されていた。国が敗れ、戦犯として追われる身となった末、ノーディスへ加わった。グレンテに拾われた一人。
ジャックスに代替わりした後は、最低限の医療機器をそろえ、何かが起きれば彼が対応を任されていた。
そして今では、下の世代の育成に手を掛けている。
煌々と灯りの点った室内を、イェリはぐるりと見回す。
ベッドの下には、赤黒く血の跡の残った布が落ちている。強く噛んだのだろう。所々が引き千切られ、端は糸が大きくほつれていた。
「……麻酔はしなかったのか」
「ひでえだろ?」
独り言のつもりだったが、返答があった。
ベッドに横たわっていたジャックスは、瞼を閉じたまま、口角を上げる。
「もったいねえんだと」
患部には包帯が巻かれており、随分と痛々しい。銃弾を摘出し、抗菌薬を使って処置を施し、ようやく落ち着けたのだろう。
「縫ったのか?」
「まさか。そこまでされちゃあ、オレだって保たねえよ。しばらくこのままだ。感染を防いで、縫合が必要かどうか、様子見て決めるらしい」
まだ疲れはあるようで、そこまで一気に答えてから、深く息を吐いた。
ジャックスのもつ情報の量は、常人とは比べ物にならない。しかしギニーとは対照的に、その多くは技術でなく、頭に入れた知識に留まっている。ギニーを快く思っていない彼だが、治療に関しては、手を借りなければならなかった。
「話あって来たんだろ?」
距離を取って立つイェリに、ジャックスは問い質した。
「なぜ、そう思う」
イェリは、視線の合わない相手に返す。
「お前が独りで、いろいろと探ってんのは、前から分かってた。今回も、オレたちが二日早く帰ると知って、慌てて戻ったんだよな」
「それは──」
「珍しく油断してたな。荷も、服も」
準備していた言い訳を飲み込んだ。古傷が痛むはずがないのに、左眼がうずくような感覚を覚えた。
「探し物は、見付かったのか」
そう続けたジャックスは、痛みに耐えながら半身を起こした。動けば傷口が開くと、ギニーからは口酸っぱく止められていたが、そうはいかなかった。身体の状態がどうであれ、今、対峙して話し合わなければならない。そんな気がしたのだ。
冷え切った眼差しを向けられても、イェリは瞬き一つしなかった。
「ああ」
と、正面から答えた。そしてすぐに、次の言葉をつなげる。
「狼たちの足取りが分かった」
「ふん。懐かしい名だ」
ジャックスは鼻で笑った。
狼。六年前の内紛で敗れ、去った元猟兵たちのことだ。その後の消息について、ジャックスから聞くことはなかったが、イェリは独自に行方を探っていた。
「元気そうだったか?」
「白々しいな、ジャックス。お前、知っていたんだろ」
「何が」
「グレンテは生きている。北ガラハン軍に紛れて、こちらに情報を寄越しているんだ」
ジャックスの表情には、驚きも焦りも見えない。穏やかな色に、むしろ薄く笑みさえ浮かべていた。
「すっかり騙されたよ。お前、内通していたんだな」
「だったらどうした?」
「──…」
不意に湧き上がる怒り。イェリは拳を握り締め、心を落ち着かせようとした。
グレンテが去り、若いジャックスを頭領として迎えた。それは、旧体制に苦しめられた者たちにとって、そこからの解放だった。新たな風が吹くのだと、期待してのことだ。
もちろん、改革は思うように進んだ。今となっては、北軍であろうが脅威ではない。
しかし──
「お前は、父親が憎いと言った。あの男のせいで、生命を堕とした人間が、何人もいるんだ。その敵を取ってやると、約束したはずだろう」
「取ってやっただろうが」
「なぜ連中が、陽の下で暮らしている?」
「あのな、別に生命を奪うことが、敵討ちじゃねえよ。グレンテも他の奴らも、十分に痛い目を見たろ。住処も追われて──」
「それだけじゃない」
遮るようにして、さらに追及する。
「お前、ノーディスをどうするつもりだ?」
嫌な風の音が、ゲルの周りを包んでいる。夜明け間近になり、再び天候が悪化したのだ。
イェリは懐から拳銃を取り出すと、風音に紛れて、安全装置を外した。
「物騒だな。オレにもう一発、穴を開ける気かよ」
「返答次第ではな」
「そんな物向けるってことは、予想が付いてんだろ」
──背後に、新しい人影が立った。
標的に狙いを定めたイェリへ、同様にブロイエンが銃口を向けている。気配を消し、いつの間にか入ってきたようだった。使い慣れた大鎌ではなく、小さ過ぎる拳銃を構えている。
万が一に備えて隠し持っていたのは、イェリだけではなかった。
ジャックスは常に、用意周到だ。──今回ばかりは、機転を利かせたブロイエンの手柄かもしれないが。
「下ろせ」
背を取られたイェリが、指示通り武器をしまう。一度ジャックスへ視線を戻し、すぐに踵を返した。
二度、裏切られた。グレンテに、そしてジャックスに。しかし最後には、彼自身がジャックスを裏切った。いずれ滅ぼされる未来ならば、もはや未練などない。
イェリがノーディスで生を受けてから、長い長い年月が経った。彼は別れの言葉を口にすることなく、寒冷の砂漠帯を静かに去っていった。
その存在が、いつからなのか。
それが、誰なのか。
知らされていないことは、イェリの心に影を堕とした。
話への反応からしておそらく、ギニーも知らないだろう。
なぜ彼らに黙っているのか、見当が付かないからこそ、もやもやした感情が宿っていた。しかし、ある答えが導き出されると、それは晴れたように消え去った。
イェリの足は、まっすぐにゲルへと向かっていた。
辺りはすでに、夜の闇に包まれている。
屋内の様子を窺い、他に人気がないことを確認すると、中へ入った。
アルコールのにおいが充満している。酒ではなく、医療用のそれだ。
ギニーの腕は確かだった。誰もが認めるほど。書物で読んだ知識ではなく、実践で得た術があるからだ。かつては帝国の軍医であり、戦線に派遣されていた。国が敗れ、戦犯として追われる身となった末、ノーディスへ加わった。グレンテに拾われた一人。
ジャックスに代替わりした後は、最低限の医療機器をそろえ、何かが起きれば彼が対応を任されていた。
そして今では、下の世代の育成に手を掛けている。
煌々と灯りの点った室内を、イェリはぐるりと見回す。
ベッドの下には、赤黒く血の跡の残った布が落ちている。強く噛んだのだろう。所々が引き千切られ、端は糸が大きくほつれていた。
「……麻酔はしなかったのか」
「ひでえだろ?」
独り言のつもりだったが、返答があった。
ベッドに横たわっていたジャックスは、瞼を閉じたまま、口角を上げる。
「もったいねえんだと」
患部には包帯が巻かれており、随分と痛々しい。銃弾を摘出し、抗菌薬を使って処置を施し、ようやく落ち着けたのだろう。
「縫ったのか?」
「まさか。そこまでされちゃあ、オレだって保たねえよ。しばらくこのままだ。感染を防いで、縫合が必要かどうか、様子見て決めるらしい」
まだ疲れはあるようで、そこまで一気に答えてから、深く息を吐いた。
ジャックスのもつ情報の量は、常人とは比べ物にならない。しかしギニーとは対照的に、その多くは技術でなく、頭に入れた知識に留まっている。ギニーを快く思っていない彼だが、治療に関しては、手を借りなければならなかった。
「話あって来たんだろ?」
距離を取って立つイェリに、ジャックスは問い質した。
「なぜ、そう思う」
イェリは、視線の合わない相手に返す。
「お前が独りで、いろいろと探ってんのは、前から分かってた。今回も、オレたちが二日早く帰ると知って、慌てて戻ったんだよな」
「それは──」
「珍しく油断してたな。荷も、服も」
準備していた言い訳を飲み込んだ。古傷が痛むはずがないのに、左眼がうずくような感覚を覚えた。
「探し物は、見付かったのか」
そう続けたジャックスは、痛みに耐えながら半身を起こした。動けば傷口が開くと、ギニーからは口酸っぱく止められていたが、そうはいかなかった。身体の状態がどうであれ、今、対峙して話し合わなければならない。そんな気がしたのだ。
冷え切った眼差しを向けられても、イェリは瞬き一つしなかった。
「ああ」
と、正面から答えた。そしてすぐに、次の言葉をつなげる。
「狼たちの足取りが分かった」
「ふん。懐かしい名だ」
ジャックスは鼻で笑った。
狼。六年前の内紛で敗れ、去った元猟兵たちのことだ。その後の消息について、ジャックスから聞くことはなかったが、イェリは独自に行方を探っていた。
「元気そうだったか?」
「白々しいな、ジャックス。お前、知っていたんだろ」
「何が」
「グレンテは生きている。北ガラハン軍に紛れて、こちらに情報を寄越しているんだ」
ジャックスの表情には、驚きも焦りも見えない。穏やかな色に、むしろ薄く笑みさえ浮かべていた。
「すっかり騙されたよ。お前、内通していたんだな」
「だったらどうした?」
「──…」
不意に湧き上がる怒り。イェリは拳を握り締め、心を落ち着かせようとした。
グレンテが去り、若いジャックスを頭領として迎えた。それは、旧体制に苦しめられた者たちにとって、そこからの解放だった。新たな風が吹くのだと、期待してのことだ。
もちろん、改革は思うように進んだ。今となっては、北軍であろうが脅威ではない。
しかし──
「お前は、父親が憎いと言った。あの男のせいで、生命を堕とした人間が、何人もいるんだ。その敵を取ってやると、約束したはずだろう」
「取ってやっただろうが」
「なぜ連中が、陽の下で暮らしている?」
「あのな、別に生命を奪うことが、敵討ちじゃねえよ。グレンテも他の奴らも、十分に痛い目を見たろ。住処も追われて──」
「それだけじゃない」
遮るようにして、さらに追及する。
「お前、ノーディスをどうするつもりだ?」
嫌な風の音が、ゲルの周りを包んでいる。夜明け間近になり、再び天候が悪化したのだ。
イェリは懐から拳銃を取り出すと、風音に紛れて、安全装置を外した。
「物騒だな。オレにもう一発、穴を開ける気かよ」
「返答次第ではな」
「そんな物向けるってことは、予想が付いてんだろ」
──背後に、新しい人影が立った。
標的に狙いを定めたイェリへ、同様にブロイエンが銃口を向けている。気配を消し、いつの間にか入ってきたようだった。使い慣れた大鎌ではなく、小さ過ぎる拳銃を構えている。
万が一に備えて隠し持っていたのは、イェリだけではなかった。
ジャックスは常に、用意周到だ。──今回ばかりは、機転を利かせたブロイエンの手柄かもしれないが。
「下ろせ」
背を取られたイェリが、指示通り武器をしまう。一度ジャックスへ視線を戻し、すぐに踵を返した。
二度、裏切られた。グレンテに、そしてジャックスに。しかし最後には、彼自身がジャックスを裏切った。いずれ滅ぼされる未来ならば、もはや未練などない。
イェリがノーディスで生を受けてから、長い長い年月が経った。彼は別れの言葉を口にすることなく、寒冷の砂漠帯を静かに去っていった。
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