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九章 静香の日記
奈落への道
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*そいなぐ……そんな風に
*おっかねえ……恐い
昭和二十四年十二月二六日御天気雨
ごめんなさい……全部、おらのせいだ。
「着るもんと頭巾。お金はがま口さ入れて、首さかけるし……んだ、手拭いは何さでも使えっから多い方がいいな」
静香の持つ小さなバッグ。入るだけの荷物を詰め込む。誰にも見つからないよう、文机の奥に荷物を突っ込むと、自室の障子をあけて静香は箪笥めがけて駆けていく。その口角はこれまでにないほど持ち上がり、足運びは軽やかだ。
この日は静香の誕生日の前日だった。駆け落ちは真夜中に実行に移される。勇と結婚の約束をしてからこの日まで二十日あまりの間、二人は静かに、しかし着々と準備を重ねてきた。
そして、怪しまれないよう、静香は、禎子の言うことには嫌でも従うようにしてきたし、久方ぶりに清三が顔を出せば接吻にも応じた。
虫酸が走るほど嫌だった清三との口づけも、あと少しで終わりだと思えば、甘んじて耐えられた。清三も、気分を良くしたのか、静香を関白の下に置くことはなかった。
何もかもがうまくいっている。静香は手応えを感じていた。あとは逃げ果せるだけなのだ。
箪笥へと駆ける静香の口からは、胸の弾みようを表すように、鼻唄が紡がれていた。静香が箪笥の前に着き、手拭いの入っている棚を開けようとした時だ。
「手拭いなぞ何に使うっちゃね」
肩を震わせて、そちらを見れば、鋭い眼光で静香を睨む禎子がいた。
「ばば様……」
突然問われて、言葉が出ない。心臓が体を跳ね回る。何か言わねばと思うほど、唇が震えた。そんな静香に苛立ったのか、禎子は怒声を飛ばした。
「シズ、答えろ、何に使うかと聞いてんだ」
「た、ただ……顔拭きたかっただけだいっちゃ」
苦しい言い訳かと思えば、案外、禎子は納得したようだ。
禎子は、箪笥のある広間に入り、ぴしゃりと障子や襖をしめると、中程に正座した。
「シズ、こっちゃ座らい」
手招きに促されるまま、禎子の真向かいに腰を落ち着ける。静香の心中は穏やかではなかった。
禎子の力はいかほどか。勇のことも、勇との駆け落ちのことも、視透かされているのではないか。蛇のような鋭い視線に睨まれて生きた心地がしない。
「めはよ、シズ……清三と接吻して何とも思わねえか」
「何とも……って、どういう意味だべか」
接吻なんてしたくない。そうは思う。いつも思う。しかし、禎子が言わんとしていることはそうではないはずだ。慎重に言葉を選んだ静香の目を見据えて、禎子は言った。
「清三を食いてえと思ったこたあねえか」
「……食いてえ?そいなぐ、おっかねえことおら、思わねえよ」
「ちいともか」
「ちっともねえ」
静香の目に、嘘がないと知るや、禎子は眉間に山を聳えさせた。
「こんまんまでは…間に合わん」
禎子はひとつ呟くと、難しい顔をして黙り込んだ。
*おっかねえ……恐い
昭和二十四年十二月二六日御天気雨
ごめんなさい……全部、おらのせいだ。
「着るもんと頭巾。お金はがま口さ入れて、首さかけるし……んだ、手拭いは何さでも使えっから多い方がいいな」
静香の持つ小さなバッグ。入るだけの荷物を詰め込む。誰にも見つからないよう、文机の奥に荷物を突っ込むと、自室の障子をあけて静香は箪笥めがけて駆けていく。その口角はこれまでにないほど持ち上がり、足運びは軽やかだ。
この日は静香の誕生日の前日だった。駆け落ちは真夜中に実行に移される。勇と結婚の約束をしてからこの日まで二十日あまりの間、二人は静かに、しかし着々と準備を重ねてきた。
そして、怪しまれないよう、静香は、禎子の言うことには嫌でも従うようにしてきたし、久方ぶりに清三が顔を出せば接吻にも応じた。
虫酸が走るほど嫌だった清三との口づけも、あと少しで終わりだと思えば、甘んじて耐えられた。清三も、気分を良くしたのか、静香を関白の下に置くことはなかった。
何もかもがうまくいっている。静香は手応えを感じていた。あとは逃げ果せるだけなのだ。
箪笥へと駆ける静香の口からは、胸の弾みようを表すように、鼻唄が紡がれていた。静香が箪笥の前に着き、手拭いの入っている棚を開けようとした時だ。
「手拭いなぞ何に使うっちゃね」
肩を震わせて、そちらを見れば、鋭い眼光で静香を睨む禎子がいた。
「ばば様……」
突然問われて、言葉が出ない。心臓が体を跳ね回る。何か言わねばと思うほど、唇が震えた。そんな静香に苛立ったのか、禎子は怒声を飛ばした。
「シズ、答えろ、何に使うかと聞いてんだ」
「た、ただ……顔拭きたかっただけだいっちゃ」
苦しい言い訳かと思えば、案外、禎子は納得したようだ。
禎子は、箪笥のある広間に入り、ぴしゃりと障子や襖をしめると、中程に正座した。
「シズ、こっちゃ座らい」
手招きに促されるまま、禎子の真向かいに腰を落ち着ける。静香の心中は穏やかではなかった。
禎子の力はいかほどか。勇のことも、勇との駆け落ちのことも、視透かされているのではないか。蛇のような鋭い視線に睨まれて生きた心地がしない。
「めはよ、シズ……清三と接吻して何とも思わねえか」
「何とも……って、どういう意味だべか」
接吻なんてしたくない。そうは思う。いつも思う。しかし、禎子が言わんとしていることはそうではないはずだ。慎重に言葉を選んだ静香の目を見据えて、禎子は言った。
「清三を食いてえと思ったこたあねえか」
「……食いてえ?そいなぐ、おっかねえことおら、思わねえよ」
「ちいともか」
「ちっともねえ」
静香の目に、嘘がないと知るや、禎子は眉間に山を聳えさせた。
「こんまんまでは…間に合わん」
禎子はひとつ呟くと、難しい顔をして黙り込んだ。
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