―海神様伝説―

あおい たまき

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九章 静香の日記

言い付け

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 *いがす……いい
 *呼ばって……呼んで
 *あんだ……あんた
 *ねがった……なかった

「ばば様、何如したか」
 静香が聞いても、しばらく何も答えない。重たく、異様な空気が流れていた。静香は身動みじろぎひとつ出来ず、ただ息を殺して禎子の言葉を待つ。飲み込んだ生唾が、喉にまとわりつく気がした。


 ボンボンボン……柱時計が身に響く音を奏でた。振動が芯にまで伝わって、静香は思わず身を固くする。禎子はようやく姿勢を正すと、「仕方がねえ」息をつき、言葉を放った。

「シズ……清三と共寝ともねせえ」
「とも、ね……」
 静香はその意味がわからない。

「肌と肌ぁ、わせるだ。後は清三に任せとけば、いがす」
「肌と肌……」
 おうむ返しの様に禎子の言葉を繰り返す静香は
まるで、話し方もおぼつかない子どものようだった。禎子は静香の様子を気遣うことは全くなく、独り言のようにぶつぶつと呟いた。


「清三にも本当のことさ話さねばなんねえ。シズの周りの事も片付けねばなんねえ。時間がねえ。そうと決まれば動くのは早え方がいいか」


ひととき独言どくげんし、考えがまとまったのだろう。伏せていた視線をギョロっと持ち上げた禎子は、静香を見据えた。

「今宵一晩、清三呼ばって共寝してもらうでな」


 今宵……。禎子の言い付けは、絶対。決定事項だ。小さな頃からそれが当たり前。集落の人はもちろん、家族ですら誰も禎子に逆らう者はなし。無論、静香が意を唱えるなど、許されるはずもなかった。


 それでも、今夜は勇と共に、駆け落つ……。その約束が静香を奮い立たせた。

「や、やんだ……」
 ぴくりと、禎子の眉が釣り上がる。
「シズ。今、なんぞ言ったか」
 しかし、一度開いた口は止まらない。静香の頭の中に浮かぶのは勇の笑顔だけだった。


「おら、やんだ。おらにも、おらの気持ちがある」
「これに、あんだの気持ちは関係ねえ」
「なして関係ねえだ。ばば様の身勝手はもううんざりだっ。なしてばば様がおらと清三を添わせっぺとしてんのかわかんねえけっども、おらいやだ。清三とは結婚なんてしねえからな」


 そう言葉を放つと、禎子はあっけにとられた顔で、立ち上がった静香をいっとき見つめた。規則的に荒い呼吸を繰り返す静香の目には、涙すら浮かぶ。

 言った。言った。言ってやった。生来、ずっと溜め込んできた不満をぶつけてやったのだ。静香の心はある種の高揚を見せていた。やがて、禎子はくすくすと静かに音を立てて笑う。

「……添う、清三と。婚姻がや」
 その笑い声は高く響く。異常なほど、高らかに。
「シズ……め、そう思っでだのが」
 静香の体には、あわが浮く。こめかみには汗の玉が出来ていた。

「な、何がおかしいだ。接吻さして、舌まで入れさして、そうでねがったのっ」
 禎子の威圧が恐ろしい。震える心を押さえつけて、負けじと言葉にする静香を、禎子は見上げ、呟いた。


「いずれ、めにも、わかっから、今はおらの言うことさ、聞け」
 もうひとつ反論しようとして、静香は思わず目を見張った。禎子の目には、涙が溢れんばかりだった。悲しそうな色をしている。


 静香は、言いかけた言葉を飲み込んで、一抹の不安にさらされた。

「ばば……様」
 わずかながらに残る優しさが、静香の腕を動かした。手のひらが禎子の皺を刻んだ頬に触れた、その時、「シズ……めに、自由はねえだ。諦めい」
禎子はそう言い残して、畳の間を出ていく。一人、残された静香は、握った手拭いで、玉の汗を拭いた。
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