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4.祈りの声、風を裂いて
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初夏の朝。
澄んだ空気の中に、ほんのりと芝の匂いが混じっていた。
グラウンドには、すでに数人の後輩たちが集まり、試合の準備に取りかかっていた。
ラインを引き直す者、ボールを磨く者、ゴールネットを張る者――
その光景を横目に、淳平は静かに歩を進めていた。
(……いよいよだ)
心地よい風が、額の汗をそっと拭っていく。
緊張と期待が入り混じる胸の奥で、何かが静かに燃えていた。
グラウンドの隅では、健太郎が美咲とウォーミングアップをしていた。
ふたりのやりとりは、いつも通りの軽快なテンポで、笑い声が風に乗って届いてくる。
美咲の顔は、どこか幸せそうだった。
けれど、淳平の心は不思議と波立たなかった。
その笑顔に、かつてのようなざわめきを感じることはなかった。
(……あれ?)
自分でも気づかぬうちに、心の中はすでに別の誰かで満たされていた。
サッカー部の部室は、運動部の建物の一番奥にある。
そこへ向かうには、すべての部室の前を通り抜けなければならない。
その途中――
「ガチャ」
軽やかな音とともに、女子テニス部のドアが開いた。
「あ、淳平君。おはよう。」
制服の襟を整えながら現れたのは、流伽だった。
朝の光を受けて、髪がやわらかく揺れている。
「白石さん。おはよう。」
「急に練習、入っちゃって……」
少しだけ頬を膨らませたその表情に、淳平は思わず目を奪われた。
(……なんだろう、この感じ)
拗ねたような顔すら、どこか愛おしく思えた。
「テニス部も大会が近いからね。」
「うん……でも、隣で試合してるから、練習に集中できないかも。」
そう言って、流伽はふいに頬を赤らめた。
その意味に気づかぬまま、淳平は少し照れたように笑った。
「怪我するから、ダメだよ。」
それだけを言って、彼はそのまま歩き出そうとした。
その瞬間――
ふいに、シャツの袖口が引かれた。
「……っ」
振り返ると、流伽がそっと指先で彼の袖をつまんでいた。
その手は小さく、けれど確かな力で、彼を引き止めていた。
周囲に誰もいないことを確かめるように、流伽は一歩近づいた。
そして、そっと顔を寄せ、耳元で囁いた。
「……頑張ってね。」
その声は、風よりもやさしく、心の奥にすっと染み込んだ。
言葉を返す間もなく、流伽はくるりと背を向け、軽やかに駆けていった。
その背中を見送りながら、淳平はしばらくその場に立ち尽くしていた。
(流伽に……応援されて、頑張らない男子が、この世にいるだろうか)
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
鼓動が、少しだけ速くなっていた。
そのまま部室に入ると、健太郎がすぐに声をかけてきた。
「おい、淳平。顔、真っ赤だぞ。熱でもあるのか?」
「ち、ちがうよ……!」
慌てて否定しながら、タオルで顔を拭う。
けれど、頬の熱はなかなか引いてくれなかった。
******
着替えを終え、ユニフォームの襟元を整えながら、淳平はグラウンドへと戻った。
朝の光はすでに強く、芝の緑がまぶしく目に映る。
グラウンドはすっかり試合仕様に整えられ、白線がくっきりと引かれ、ゴールネットが風に揺れていた。
隣のテニスコートでは、女子部員たちが準備運動を始めていた。
流伽の姿もすぐに見つけられた。
ポニーテールを揺らしながら、真剣な表情でストレッチをしている。
その横顔を見た瞬間、淳平の胸に静かな熱が灯った。
(……今日も、頑張ろう)
そのとき、グラウンドの端に、対戦相手・南中学の選手たちが到着した。
監督同士が握手を交わし、挨拶を交わした。
「今日はよろしくお願いします。」
南中には、アップ用にテニスコート側のハーフコートが割り当てられた。
その配置が、思わぬ形で空気を変えることになる。
「集合!」
健太郎の声がグラウンドに響く。
部員たちが一斉に集まり、準備運動が始まった。
体操、ストレッチ、そしてボールを使ったアップへと移っていく。
その最中、南中の選手たちがざわつき始めた。
「なあ、あの子……」
「めちゃ可愛い……」
「え、あれで中学生?モデルかと思った……」
「青葉の女神様だよ。噂で聞いたことある!」
その視線の先には、流伽がいた。
ラケットを構え、真剣な眼差しで素振りを繰り返す姿は、確かに“女神”と呼ばれるにふさわしかった。
(青葉の女神……そんな呼び名がついてたのか)
驚きながらも、淳平はもう一度流伽を見た。
その瞬間、流伽もこちらに気づき、ふわりと微笑んだ。
(……見てくれてる)
その笑顔に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
まるで、あの朝の「頑張ってね」が、もう一度届いたようだった。
「うおーっ!めちゃくちゃ、かわいい!」
南中の選手たちが歓声を上げる。
けれど、流伽の視線は、ただひとり――淳平だけを見ていた。
「彼女、取られるなよ。」
健太郎がからかうように言った。
「と、取られるって……そんなんじゃないし。白石さんに迷惑だよ……」
あまりにも鈍感な返しに、健太郎は呆れたようにため息をついた。
「まったく、お前ってやつは……」
その後、監督からスタメン発表の声がかかる。
「左サイドハーフ、相沢!」
一瞬、時が止まったように感じた。
心臓が跳ね、喉が渇く。
けれど、逃げるわけにはいかない。
「相沢先輩、大丈夫っす。ミスしても俺がフォローしますから!」
声をかけてきたのは、1年の後輩・西脇恭介。
左サイドバックで先発する、明るくて頼もしい後輩だ。
「がんがんミスっちゃってくださいね!」
「……いちおう、僕の方が先輩だぞ」
苦笑いを浮かべながら返すと、恭介がにっと笑った。
その無邪気な言葉に、淳平の緊張が少しだけほぐれていく。
そして、試合開始のホイッスルが鳴った。
南中学のキックオフ。
相手は細かいパスをつなぎ、スペースを突いてくる技巧派。
地区予選では常に上位に食い込む、都大会ベスト4の実績を持つ強豪校だ。
序盤は、互いに様子を見ながらの展開。
どちらのサイドから攻めるか、慎重に探り合っていた。
「よし、相手の挑発に乗るな!そのまま陣形を保て!」
健太郎の声が、チームを引き締める。
南中が右サイドから攻め込んでくる。
一瞬ヒヤリとするも、青葉学園のディフェンスが冷静に対応し、ボールを奪い返す。
すぐさま反撃。
右サイドからのサイドチェンジで、ボールが淳平の足元に渡った。
(来た……!)
視野を広げ、左サイドを駆け上がる恭介に向けて、タイミング良くスルーパスを送る。
「ナイスボール!相沢先輩!」
恭介が声を上げながらボールを追い、センターへクロスを送る。
健太郎がタイミングを合わせてヘディングシュート。
だが――
「ナイスセーブ!」
相手ゴールキーパーが、鋭い反応でボールを弾いた。
「惜しい!」
ベンチから、ため息まじりの声が上がる。
けれど、淳平の胸には、確かな手応えが残っていた。
(いける……今日は、やれる)
流伽の笑顔と、仲間の声援が背中を押していた。
試合は、まだ始まったばかりだった。
******
テニスコートの中央。
流伽はラケットを握りしめながら、何度も視線をグラウンドのほうへと向けていた。
風に乗って聞こえてくる歓声やボールを蹴る音が、どうしても気になってしまう。
(今、どんな展開なんだろう……)
頭ではわかっていた。
今は自分の練習に集中すべき時間だと。
けれど、心はどうしても、あの人のプレーを追いかけてしまう。
「流伽!ボール行ったよ!」
ふわりと浮いたボールが、気づかぬうちに流伽の頭に当たった。
「……あ、いたっ!」
「もう、流伽、集中してよ~!」
由香里が呆れたように笑いながら、ボールを拾いに走る。
流伽は小さく肩をすくめて、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめん……」
けれど、彼女だけが気を取られていたわけではなかった。
周囲の女子部員たちも、ちらちらとグラウンドの方を気にしていた。
誰かが小声で「今のパス、すごかったね」とつぶやくと、別の子が「相沢先輩、かっこよくなったよね」とうなずく。
そんな空気を感じ取ったのか、テニス部のコーチが、ふいに声を上げた。
「よし、午前中の練習はここまでにしよう。みんな、サッカー部を応援してやれ!」
一瞬、空気が止まったように感じた。
そして次の瞬間、女子部員たちから歓声が上がった。
「えっ、いいんですか!?」
「やったー!」
「コーチ、最高!」
コーチは照れくさそうに笑いながら、手をひらひらと振った。
「大会前に怪我でもされたら困るからな。たまには、仲間の応援も大事だ。」
その言葉に、流伽の胸がじんわりと温かくなった。
コーチの優しさが、まるで背中を押してくれるようだった。
だが――
その場にただひとり、表情を曇らせていたのが巧だった。
「コーチ……」
驚きと苛立ちが入り混じった声が漏れる。
「お前も無理するなよ。気が逸れてるときに怪我するのが一番まずいからな。」
そう言って、コーチは巧の肩を軽く叩いた。
だが、巧の拳はぎゅっと握られたままだった。
(……くそっ)
唇を噛みしめながら、巧は無言で部室へと引き返していった。
その背中には、焦りと苛立ちが滲んでいた。
******
試合は、まさに一進一退の攻防だった。
時間はすでに後半も終盤。
スコアは0-0のまま。
両チームともに譲らず、緊張の糸がピッチ全体を張り詰めていた。
淳平の額には、汗が滲んでいた。
呼吸は荒く、足は重い。
けれど、心は折れていなかった。
(あと5分……)
そのとき、ふと視線を上げると、観客席の一角に見慣れた姿があった。
女子テニス部の面々が、スコートを揺らしながら並んで応援していた。
その中に、流伽の姿があった。
風に髪をなびかせ、両手を胸の前で組み、祈るように試合を見つめている。
その眼差しは、まっすぐに淳平を追っていた。
(……見てくれてる)
その瞬間、ボールが足元に転がってきた。
反射的にトラップし、すぐさま健太郎へとパスを送る。
そして、迷いなくゴール前へと走り出した。
(行ける……今しかない!)
健太郎がボールを受け、相手ディフェンダーを引きつけた。
そして、絶妙なタイミングで折り返しのパスが放たれる。
淳平は最終ラインを抜け出し、キーパーと1対1の状況に持ち込んだ。
「ジュン!決めろ!」
健太郎の声が背後から飛んでくる。
けれど、淳平の耳には、別の声しか届いていなかった。
「いけ!淳平君!」
それは、流伽の声だった。
風に乗って、まっすぐに届いたその声が、胸の奥を震わせた。
(今だ……!)
淳平は右足を振り抜いた。
ボールは低く鋭く、相手キーパーの左脇をすり抜け、ゴールネットに突き刺さった。
一瞬、世界が止まったように感じた。
音も、光も、すべてが遠のいた。
(……入った?)
次の瞬間、歓声が爆発した。
ベンチから、フィールドから、そして応援席から。
「ナイスゴール!」「やったー!」「相沢ー!」
仲間たちが駆け寄ってくる。
けれど、淳平はその場に立ち尽くしたまま、目を見開いていた。
中学3年にして、初めてのゴールだった。
何度も夢に見た瞬間。
けれど、現実のそれは、想像よりもずっと眩しく、熱かった。
「うおぉぉぉーっ!!」
抑えきれない感情が、声になって溢れ出た。
今まで出したことのないような声量で、淳平は雄たけびを上げた。
そして、振り返る。
視線の先には、応援席の流伽がいた。
彼女は、驚いたように目を見開き、そして――
満面の笑みで、両手を高く掲げて応えてくれた。
淳平は、拳を握りしめ、力強くガッツポーズを送った。
その仕草は、まるで彼女にだけ向けられた勝利の証のようだった。
(……ありがとう)
その瞬間、淳平の中で、すべてが一つにつながった。
努力の日々、仲間の支え、そして――流伽の存在。
彼にとって、流伽はまさに“勝利の女神”だった。
澄んだ空気の中に、ほんのりと芝の匂いが混じっていた。
グラウンドには、すでに数人の後輩たちが集まり、試合の準備に取りかかっていた。
ラインを引き直す者、ボールを磨く者、ゴールネットを張る者――
その光景を横目に、淳平は静かに歩を進めていた。
(……いよいよだ)
心地よい風が、額の汗をそっと拭っていく。
緊張と期待が入り混じる胸の奥で、何かが静かに燃えていた。
グラウンドの隅では、健太郎が美咲とウォーミングアップをしていた。
ふたりのやりとりは、いつも通りの軽快なテンポで、笑い声が風に乗って届いてくる。
美咲の顔は、どこか幸せそうだった。
けれど、淳平の心は不思議と波立たなかった。
その笑顔に、かつてのようなざわめきを感じることはなかった。
(……あれ?)
自分でも気づかぬうちに、心の中はすでに別の誰かで満たされていた。
サッカー部の部室は、運動部の建物の一番奥にある。
そこへ向かうには、すべての部室の前を通り抜けなければならない。
その途中――
「ガチャ」
軽やかな音とともに、女子テニス部のドアが開いた。
「あ、淳平君。おはよう。」
制服の襟を整えながら現れたのは、流伽だった。
朝の光を受けて、髪がやわらかく揺れている。
「白石さん。おはよう。」
「急に練習、入っちゃって……」
少しだけ頬を膨らませたその表情に、淳平は思わず目を奪われた。
(……なんだろう、この感じ)
拗ねたような顔すら、どこか愛おしく思えた。
「テニス部も大会が近いからね。」
「うん……でも、隣で試合してるから、練習に集中できないかも。」
そう言って、流伽はふいに頬を赤らめた。
その意味に気づかぬまま、淳平は少し照れたように笑った。
「怪我するから、ダメだよ。」
それだけを言って、彼はそのまま歩き出そうとした。
その瞬間――
ふいに、シャツの袖口が引かれた。
「……っ」
振り返ると、流伽がそっと指先で彼の袖をつまんでいた。
その手は小さく、けれど確かな力で、彼を引き止めていた。
周囲に誰もいないことを確かめるように、流伽は一歩近づいた。
そして、そっと顔を寄せ、耳元で囁いた。
「……頑張ってね。」
その声は、風よりもやさしく、心の奥にすっと染み込んだ。
言葉を返す間もなく、流伽はくるりと背を向け、軽やかに駆けていった。
その背中を見送りながら、淳平はしばらくその場に立ち尽くしていた。
(流伽に……応援されて、頑張らない男子が、この世にいるだろうか)
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
鼓動が、少しだけ速くなっていた。
そのまま部室に入ると、健太郎がすぐに声をかけてきた。
「おい、淳平。顔、真っ赤だぞ。熱でもあるのか?」
「ち、ちがうよ……!」
慌てて否定しながら、タオルで顔を拭う。
けれど、頬の熱はなかなか引いてくれなかった。
******
着替えを終え、ユニフォームの襟元を整えながら、淳平はグラウンドへと戻った。
朝の光はすでに強く、芝の緑がまぶしく目に映る。
グラウンドはすっかり試合仕様に整えられ、白線がくっきりと引かれ、ゴールネットが風に揺れていた。
隣のテニスコートでは、女子部員たちが準備運動を始めていた。
流伽の姿もすぐに見つけられた。
ポニーテールを揺らしながら、真剣な表情でストレッチをしている。
その横顔を見た瞬間、淳平の胸に静かな熱が灯った。
(……今日も、頑張ろう)
そのとき、グラウンドの端に、対戦相手・南中学の選手たちが到着した。
監督同士が握手を交わし、挨拶を交わした。
「今日はよろしくお願いします。」
南中には、アップ用にテニスコート側のハーフコートが割り当てられた。
その配置が、思わぬ形で空気を変えることになる。
「集合!」
健太郎の声がグラウンドに響く。
部員たちが一斉に集まり、準備運動が始まった。
体操、ストレッチ、そしてボールを使ったアップへと移っていく。
その最中、南中の選手たちがざわつき始めた。
「なあ、あの子……」
「めちゃ可愛い……」
「え、あれで中学生?モデルかと思った……」
「青葉の女神様だよ。噂で聞いたことある!」
その視線の先には、流伽がいた。
ラケットを構え、真剣な眼差しで素振りを繰り返す姿は、確かに“女神”と呼ばれるにふさわしかった。
(青葉の女神……そんな呼び名がついてたのか)
驚きながらも、淳平はもう一度流伽を見た。
その瞬間、流伽もこちらに気づき、ふわりと微笑んだ。
(……見てくれてる)
その笑顔に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
まるで、あの朝の「頑張ってね」が、もう一度届いたようだった。
「うおーっ!めちゃくちゃ、かわいい!」
南中の選手たちが歓声を上げる。
けれど、流伽の視線は、ただひとり――淳平だけを見ていた。
「彼女、取られるなよ。」
健太郎がからかうように言った。
「と、取られるって……そんなんじゃないし。白石さんに迷惑だよ……」
あまりにも鈍感な返しに、健太郎は呆れたようにため息をついた。
「まったく、お前ってやつは……」
その後、監督からスタメン発表の声がかかる。
「左サイドハーフ、相沢!」
一瞬、時が止まったように感じた。
心臓が跳ね、喉が渇く。
けれど、逃げるわけにはいかない。
「相沢先輩、大丈夫っす。ミスしても俺がフォローしますから!」
声をかけてきたのは、1年の後輩・西脇恭介。
左サイドバックで先発する、明るくて頼もしい後輩だ。
「がんがんミスっちゃってくださいね!」
「……いちおう、僕の方が先輩だぞ」
苦笑いを浮かべながら返すと、恭介がにっと笑った。
その無邪気な言葉に、淳平の緊張が少しだけほぐれていく。
そして、試合開始のホイッスルが鳴った。
南中学のキックオフ。
相手は細かいパスをつなぎ、スペースを突いてくる技巧派。
地区予選では常に上位に食い込む、都大会ベスト4の実績を持つ強豪校だ。
序盤は、互いに様子を見ながらの展開。
どちらのサイドから攻めるか、慎重に探り合っていた。
「よし、相手の挑発に乗るな!そのまま陣形を保て!」
健太郎の声が、チームを引き締める。
南中が右サイドから攻め込んでくる。
一瞬ヒヤリとするも、青葉学園のディフェンスが冷静に対応し、ボールを奪い返す。
すぐさま反撃。
右サイドからのサイドチェンジで、ボールが淳平の足元に渡った。
(来た……!)
視野を広げ、左サイドを駆け上がる恭介に向けて、タイミング良くスルーパスを送る。
「ナイスボール!相沢先輩!」
恭介が声を上げながらボールを追い、センターへクロスを送る。
健太郎がタイミングを合わせてヘディングシュート。
だが――
「ナイスセーブ!」
相手ゴールキーパーが、鋭い反応でボールを弾いた。
「惜しい!」
ベンチから、ため息まじりの声が上がる。
けれど、淳平の胸には、確かな手応えが残っていた。
(いける……今日は、やれる)
流伽の笑顔と、仲間の声援が背中を押していた。
試合は、まだ始まったばかりだった。
******
テニスコートの中央。
流伽はラケットを握りしめながら、何度も視線をグラウンドのほうへと向けていた。
風に乗って聞こえてくる歓声やボールを蹴る音が、どうしても気になってしまう。
(今、どんな展開なんだろう……)
頭ではわかっていた。
今は自分の練習に集中すべき時間だと。
けれど、心はどうしても、あの人のプレーを追いかけてしまう。
「流伽!ボール行ったよ!」
ふわりと浮いたボールが、気づかぬうちに流伽の頭に当たった。
「……あ、いたっ!」
「もう、流伽、集中してよ~!」
由香里が呆れたように笑いながら、ボールを拾いに走る。
流伽は小さく肩をすくめて、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめん……」
けれど、彼女だけが気を取られていたわけではなかった。
周囲の女子部員たちも、ちらちらとグラウンドの方を気にしていた。
誰かが小声で「今のパス、すごかったね」とつぶやくと、別の子が「相沢先輩、かっこよくなったよね」とうなずく。
そんな空気を感じ取ったのか、テニス部のコーチが、ふいに声を上げた。
「よし、午前中の練習はここまでにしよう。みんな、サッカー部を応援してやれ!」
一瞬、空気が止まったように感じた。
そして次の瞬間、女子部員たちから歓声が上がった。
「えっ、いいんですか!?」
「やったー!」
「コーチ、最高!」
コーチは照れくさそうに笑いながら、手をひらひらと振った。
「大会前に怪我でもされたら困るからな。たまには、仲間の応援も大事だ。」
その言葉に、流伽の胸がじんわりと温かくなった。
コーチの優しさが、まるで背中を押してくれるようだった。
だが――
その場にただひとり、表情を曇らせていたのが巧だった。
「コーチ……」
驚きと苛立ちが入り混じった声が漏れる。
「お前も無理するなよ。気が逸れてるときに怪我するのが一番まずいからな。」
そう言って、コーチは巧の肩を軽く叩いた。
だが、巧の拳はぎゅっと握られたままだった。
(……くそっ)
唇を噛みしめながら、巧は無言で部室へと引き返していった。
その背中には、焦りと苛立ちが滲んでいた。
******
試合は、まさに一進一退の攻防だった。
時間はすでに後半も終盤。
スコアは0-0のまま。
両チームともに譲らず、緊張の糸がピッチ全体を張り詰めていた。
淳平の額には、汗が滲んでいた。
呼吸は荒く、足は重い。
けれど、心は折れていなかった。
(あと5分……)
そのとき、ふと視線を上げると、観客席の一角に見慣れた姿があった。
女子テニス部の面々が、スコートを揺らしながら並んで応援していた。
その中に、流伽の姿があった。
風に髪をなびかせ、両手を胸の前で組み、祈るように試合を見つめている。
その眼差しは、まっすぐに淳平を追っていた。
(……見てくれてる)
その瞬間、ボールが足元に転がってきた。
反射的にトラップし、すぐさま健太郎へとパスを送る。
そして、迷いなくゴール前へと走り出した。
(行ける……今しかない!)
健太郎がボールを受け、相手ディフェンダーを引きつけた。
そして、絶妙なタイミングで折り返しのパスが放たれる。
淳平は最終ラインを抜け出し、キーパーと1対1の状況に持ち込んだ。
「ジュン!決めろ!」
健太郎の声が背後から飛んでくる。
けれど、淳平の耳には、別の声しか届いていなかった。
「いけ!淳平君!」
それは、流伽の声だった。
風に乗って、まっすぐに届いたその声が、胸の奥を震わせた。
(今だ……!)
淳平は右足を振り抜いた。
ボールは低く鋭く、相手キーパーの左脇をすり抜け、ゴールネットに突き刺さった。
一瞬、世界が止まったように感じた。
音も、光も、すべてが遠のいた。
(……入った?)
次の瞬間、歓声が爆発した。
ベンチから、フィールドから、そして応援席から。
「ナイスゴール!」「やったー!」「相沢ー!」
仲間たちが駆け寄ってくる。
けれど、淳平はその場に立ち尽くしたまま、目を見開いていた。
中学3年にして、初めてのゴールだった。
何度も夢に見た瞬間。
けれど、現実のそれは、想像よりもずっと眩しく、熱かった。
「うおぉぉぉーっ!!」
抑えきれない感情が、声になって溢れ出た。
今まで出したことのないような声量で、淳平は雄たけびを上げた。
そして、振り返る。
視線の先には、応援席の流伽がいた。
彼女は、驚いたように目を見開き、そして――
満面の笑みで、両手を高く掲げて応えてくれた。
淳平は、拳を握りしめ、力強くガッツポーズを送った。
その仕草は、まるで彼女にだけ向けられた勝利の証のようだった。
(……ありがとう)
その瞬間、淳平の中で、すべてが一つにつながった。
努力の日々、仲間の支え、そして――流伽の存在。
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