仔猫のスープ

ましら佳

文字の大きさ
27 / 28

27.流行性感冒

しおりを挟む
 それは、仔猫と出会う前日の事。

「もう、どこが具合が悪いのよ・・・」
そろそろ夜更けというのに虹子にじこが中華鍋を振って炒め物をしていた。
夕方、青磁せいじから体調不良と連絡が入った。
何か救援食糧をと言われ、閉店後にテイクアウト用の容器に入れた湯葉の入ったお粥を持って来てみれば、本人は顔色も良くすぐに丼一杯のお粥を平らげて、物足りないと言い出した。
「蟹。蟹が食いたい」
蟹は青磁せいじの好物だから、冷凍庫にはいつでも何かの蟹は居る。
それをなんとかしろと言われたのだ。
蟹を調理できる程の鍋もフライパンも無いじゃないかと、一度店に戻って、中華鍋を取ってきた。
この汎用性の高い鍋には絶大な信頼を寄せているが、今流行りのIHでは、強い火力で煽る事が出来ないので、この家がガス台のままで良かった。
昔自分が使っていた調理器具は当然もう無いけれど、食器はそのままある。
青磁せいじの母親は料理が嫌いで皿なんかどうでもいいのだが、高級食器を貰う機会が多かった。
その皿は、虹子にじこの母親に回され、代わりに蟹や他の食材が届けられていた。
なので、この家には統一性の無いおかしな食器ばかりがあるのだが。
「いつもは冷凍ゆで蟹を冷蔵庫で解凍すればすぐ食えるやつなんだけど、それ、生を冷凍したやつなんだよなあ。そのままレンジでチンしたら爆発しそうだしさ。なんか、味ついたやつ食いたい」
と言われて、スパイスとパン粉で炒め、おがくずに埋まったように見えるという調理法にした蟹に青磁せいじは食らいついた。
「・・・あー、うっまあ・・・痛風で死ぬ死ぬ」
と言いながら、嬉しそうに食べている。
「そんなに蟹ばっかり食べてると、蟹になっちゃわない?」
蟹に取り憑かれてでもいるみたい、そんなホラー映画ありそう、なんか怖い、と虹子にじこは少しだけ怯えた。
「蟹になるなら、やっぱタラバだな・・・ほら、インフル流行って来て、うちも第一号が出てね。あー、そっかー今年も出たかー・・・なんて思ってるうちになんか具合悪いかもなー・・だるいかもー、みたいな時ってあるじゃない?」
「あるねー」
病は気からと言うけれど。
虹子にじこも気をつけろよ。ワクチン打ったろうけど。広がる時はあっという間だから。昔は流行性感冒って言ってさ、とにかく流行るってやつで。個人差はあるけど感染力強いし、かかったらおしまいと諦めて、受け入れて寝てるしかないけど。ま、今は薬あるしな」
虹子にじこは何せ虚弱児であったから、子供の頃からインフルエンザにかかった事は何回かあるけれど、確かに普通の風邪とは違くて、高熱とだるさで数日起き上がれなかった。
「・・・あっ、どこに持ってく・・・」
大皿の蟹を一杯だけ小皿に取られてどこかに持って行かれたのに青磁せいじは不満の声を上げた。
虹子にじこは構わずに、彼の亡き母親の仏前に備えた。
紅花べにかも蟹が大好きだったから。
本当は、肉や魚介類はお供えしてはいけないのだろうけれど。
後ろの棚に目が行く。
家族写真が並んでいた。
懐かしい、と写真立てを手に取る。
皆で海に行った時や、お祭りで浴衣を着た自分がアライグマとトマトやきゅうりの入った水槽に手を突っ込んでいる写真。
これはお祭りの時に月ノ輪小児科も何か出し物で協賛せよ、そして売り上げの半分を上納せよ、と町内会で決まり、病院の出店ってなんだよ、と皆で考えた末に、当時、柚雁ゆかりが保護していたアライグマが居たものだから、虹子にじこ発案による、"アライグマと野菜やスーパーボールを洗えます"という企画を1回300円で提供したもの。
案外、これが人気で盛況だった。
「野菜は青磁せいじに家庭菜園で作らせたもので実質タダ、それを、別売り。スーパーボールはうちにあったなんか貰ったもの。こんな水溜りでちゃちゃっと洗って300円!しかもこのアライグマは拾って来たもんだし、元手0円!虹子にじこちゃんは天才かもしれない!」と紅花べにかも夫の臨太郎りんたろうも絶賛だった。
今なら、衛生的に無理だろうなあとつい笑いが込み上げる。
見覚えのある結婚式の招待状があるのに虹子にじこは罪悪感を覚えた。
自分は結婚式の招待状を出す直前に逃げ出したのだ。
正式な交際期間などあったような、無いような。
子供の時、小中学はこの家から学校に通った。
高校からは地元に帰ったが、長期休みの半分は、やはり月ノ輪邸で過ごした。
大学は留学しようかという話も出ていて、高校卒業後はその準備をしていた最中だった。
青磁せいじが結婚すると言い出し、トントン話が進んでしまい、正直気持ちもついていかないうちに結婚式の準備が始まってしまった。
準備と言っても、青磁せいじが持って来る資料に目を通して、良いと思ったものにそれぞれマルをつけろ、と言われてそうしただけ。
なんでそんなに前のめりなんだと聞いても、じゃあお前は俺が嫌いなのかと言われて、嫌いじゃないけど、と答えると、じゃあいいじゃないかと青磁せいじは、止まるどころか加速がつく。
自分と青磁せいじの温度差の違和感に、情報処理どころか言語情報化も出来ない自分では、出来ないしわからないのだからと置いてけぼりにされるだけ。
ある日、紅花べにかが、「変な顔してる、そんなんじゃダメ」と言った。
「嫌ならやめちゃえば良いじゃない」
そう言って、母親に電話して、二人で自分の香港行きを決めてしまったのだ。
この二人も強引ではあるが、香港には親戚もいて、特に親しくしている桜のところに行けるのは安心だと思った。
空港までの車の中で今後の不安と申し訳なさで泣いていると、柚雁ゆかりが慰めてくれた。
「あんたはそうやって多分、困っちゃって何回も泣いたんだろうけど。あのバカは一人で舞い上がってヘラヘラ笑ってばっかりだもの。あいつもちょっと泣けば良いのよ。そしたら温度差も多少埋まるでしょ」
そう言って、アイスクリームを買ってくれた。
デパートの催事で買った各地の目ぼしい銘菓を親戚に渡せとあれこれと持たされて、紅花べにか柚雁ゆかりと空港で別れたのが、ついこの間のように思い出された。
あちこちの銘菓の紙袋を持って、わんわん泣いている自分とそれがおかしくて笑っている母娘。
まさかそれが花嫁の逃避行だなんて誰も思わなかったろう。
柚雁ゆかりがジュジュと結婚し、紅花べにかが亡くなり。
色々あった。
戻って来て、あまりこの家には寄り付かないようにしていたし、青磁せいじにも、なるだけ店にも、二階の居住区にも来ないで貰っていたのだけれど。
勝手な主張の押し付けだと思う。
しかし彼は分かったと受け入れた。
なんでだろ。
文句の一つも言わないのだ。
虹子にじこ、貰ったアイスあるけど・・・んー、チョコ、ラムレーズン、しじみ、ほや、焼きそば・・・??」
青磁せいじがなんだこれと箱を眺めた。
どこかの道の駅で売っているものらしい。
「え!すごい!」
トリッキーなものが好きな虹子にじこが飛びついた。
「結構美味しい!なんでこれ入れようと思ったんだろうね!?」
「・・・さあー?虹子にじこみたいな開発者がいるんじゃない?」
そっかあ、なんか嬉しい、と虹子にじこは機嫌が良い。
青磁せいじは、本当に餌付けが効くなあと、アイスを全部開けて味比べしている虹子にじこを眺めていた。
強い火力で辛い味つけだったのに蟹は冷えるからと生姜と黒糖を溶かしたお湯を飲まされていた。
虹子にじこが、アイスを並べてなんとなく賑やかになったテーブルに励まされたような気分で口を開いた。
「・・・ねえ、何で、文句言わないの・・・?私、勝手だし、何も、ちゃんとしてないでしょ・・・」
戻って来たなら戻って来たなりに、ちゃんと結婚するなりしないなりしなさいと母親からも言われていた。
ずるずると二年。
特に、関係はなんの進展も後退もしていない。
今だに、何でと聞くのかと青磁せいじは呆れ半分愛しさ半分で頷いた。
「年取って丸くなったから」
「・・・そうなの・・・?」
そういうものなのだろうか。
よく聞く言葉ではあるけれど。
本人がそう言うのだから、納得するべきか。
「・・・そんなわけあるか」
青磁せいじがそう言ったのに、虹子にじこは、傷つけたと思い、自分もまた痛みを感じた。
ああ、そうだ。
そうだよなあ。
自分が、決めなければならないのだ。
彼はずっと、自分が戻ってくるのを、その手に手が差し出されるのを、待っていたのだから。
響くもの、届くものとはあるものだ。
かかったらおしまいと諦めて、受け入れるしかない。
時間差で、青磁せいじと同じ感冒にかかったようだ。
虹子にじこは、青磁せいじの襟元を掴んで抱き寄せた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

処理中です...