金魚の記憶

ましら佳

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42.薄闇の手触り

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はるかは桃が退出した後、手渡された資料を眺めていた。

「これ、貢献じゃなくて、搾取じゃ無いかなぁ・・・」
と、思うほどの内容だった。
桃の研究というのは、多岐にわたっているけれど、その中のいくつかが参考資料として会社に提出されていた。
水資源に関わるもの、新しい繊維や素材の可能性。
何でも切れる光とやらは何だか恐ろしいものがあるが。
全て、実現となり成果が出なれば当然意味はないけれど。
多分、桃のこの研究のどれかが実体化すれば業種を越えて取り合いになる。

「・・・桃さん、すごいなあ」

5年ぶりに再会した桃は、思うより周囲に馴染んでいる様子だった。
言動や服装は、彼女のイメージする社会人、会社員に寄せていっているのだろうけれど、たまに、不思議そうな顔をするのが面白かった。
帰国して気づいたのだが、流行なのか彼女くらいの年齢の女性は皆髪を長くしているのが多いけれど、桃は相変わらず顎の下で切り揃えた髪をしていた。
桃が話したり動くと髪がふわふわと揺れてとても好ましいし、あの綺麗な目がとてもよく映える。

桃は子供の時は伸ばしてまとめていたりおさげにしていたのだが、そもそもコシが無い猫っ毛で、伸ばすとどうにも絡まり、仕上がりが決まらない美容師泣かせの髪質のせい、更にマメに手入れが出来ないという事で、美容師である祖母からいつも切り込んでおけと言われ今に至る。
言うなれば、本来長毛種の猫や犬だが、飼い主が不精なせいで、いつも五分刈りにされているというような、あれに近い感覚。

はるかは、桃に再会して5年という月日を実感し、それから桃に対する感情を改めて痛感した。
結局、父に指示されて、あのままアメリカの大学に進学した。
日本の大学に通っていた期間は認められず、仕方ないので、取れる限りの単位を取り、学力認定試験を受けれるだけ受けて、3年で卒業した。
さあ、さっさと帰国だと思ったら、今度は、父からアメリカにある会社で働け、と命令された。
その間に、桃は祖父とスウェーデンに帰国してしまったと祖母に聞いて、父を恨んだものだ。
祖母は「保真智《ほまち》さんとお別れして、そしてお祖母ばあ様が亡くなった事が辛かったのでしょうね。大学院まで辞めてしまったのだもの。あの子、自分だけ背負って私達の前から消えてしまった」と悲しそうに言っていた。
手紙のやり取りはしていたようで、祖母が亡くなった時に差出人が無記名のポストカードがまとまって出て来た。
自分の名前が無いのは、家族の誰かに見られたらまずいだろうという桃の配慮だろう。
全て、美しいもので、出かけた先のどこか湖のある観光地の景色や訪れた美術館や、オーロラの写真のポストカード。
それは病身の祖母の心を慰めた事だろう。

内容としては、日々の些細な楽しかった事やおいしいものを食べた事等で、自分の状況や心情は書かれていなかった。
桃は他人に自分のマイナスの感情を与えたく無いのだろう。
以前、自分が追い詰めて泣き出した桃を思い出して、会いたいと何度も思って過ごして来たけれど。
スウェーデンどころか、日本にすら帰れない。
更には、桃本人からも近付くのを拒否されているとあっては。

同じ大学に通っていたのだから、桃が人気があるのは分かっていた。
北欧系のクォーターで、文化人のオルソン博士の孫娘というだけでも誰でも興味を持つだろうに、桃本人も優秀であり、雰囲気のある美人となれば・・・。
そのちょっと次元が違う感じが近付き難く、何よりなぜか大学にまで現れていた保真智ほまちが良い魔除けとなって、変な男も女も近づけなかった、というのは事実。

彼がなぜ桃の生活圏にまで現れたのかと不思議だと祖母に言った事があるが、彼女は「まあ、困った人ね。保真智ほまちさん、桃ちゃんが心配なのね」と嬉しそうだった。
心配しているのはこっちだ、と思ったけれど。

「だって婚約者ですものね。きっと幸せになるわね」と更に言われて、目の前が暗くなった。
その肩書一つで、自分が保真智ほまちに抱いていた失礼とか非常識とか迷惑とか、そういうものが全て掻き消えてしまうという説得力。

自分が決して手に入れる事が出来ない、それはもはや自分に取ったら称号。それを、あの男は簡単に手に入れて、受け入れられている。
何より、桃からも。
そして、桃との幸せな未来も、全部、保真智《ほまち》のもの。
あんな軽薄な男の方が自分より良いと言うのか。
世の中の誰かとか、もっと言えば誰もがそうであったとしても、桃がそう言うのは許容出来なかった。
だからこそ、桃を追い詰めた。
それだけの成果はもちろんあった。

あの保真智《ほまち》の妹。
彼女も、やはり安手な女。
目の前の、その旨味も毒もよく味わった事も無い果実に目が眩み、もっと大事なものを簡単に失って見せた。

ああ、本当に。
桃が保真智《ほまち》の妻となり、桃が宝の義妹となれば、それは福音であったろうに。
まあ、それか許せず、毀損《きそん》するきっかけを作ったのは自分ではあるけれど。
でも、選んだのは彼等だ。
そして、あの一瞬だけだとしても、桃が選んだのは自分。
あの水槽の水底のような空間で、彼女は自身を全部自分に与えた。
きっと、保真智《ほまち》にもそうしたように。

保真智《ほまち》がそれをどう受け止めたのかは知らないけれど。
どうせあの短慮な男のこと。
その貴重さも、意味すら分からずに桃に酔い、貪ったのだろう。
少なくとも、悠《はるか》は、世界が変わった、自分が生まれ変わったかのように感じた。
今まで、他の女と同じような事をしていた行為は一体何だったのか疑問に思うほど。
それなのに、桃は遠くなるばかり。

しかし転機と言う事はあるもので。
父が中東での事業にかかりきりになっている間に、桃が日本のグループ企業の一つに出向している事を知ったのだ。
そろそろ帰国をと促して来たいたのも、父である。
全く当然と言う顔で帰国し、この会社を指定して自分もまた出向したのだ。

長かった。
桃が言った、しばらく、というのが5年なのかどうかは知らないが。
5年前の夜を思い出す。
あの水槽のような薄闇の部屋での時間は果たして現実だったのかと思うほどだけれど。
間違いなく現実。
自分は確かにあの金魚を抱いたのだ。
自分より温度の低いきめ細かい肌、まるで水の中を揺れるような時間。

桃は、あれっきりのつもりなのだろうが。
お互いにリスクがあるすぎる決して漏らせない秘密を共有する事でそれを守らせるというのはいいアイディアだけど。
でもね、桃さん。
僕はそれ以上が欲しい。


ああ、それにしても、久しぶりに会えて良かった。
それはとても喜ばしい事。

はるかは上機嫌で、手元の資料をめくった。
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