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鬼人の帰還
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何年かぶりのステレの下山は、予定外の収穫こそ大いにあったものの、予定したことは全く達成できないという結果に終わった。
(結局のところ自分の弱さだ)ステレはそう思っている。
アルカレルに師事できなかったのも、望んで向かった故郷から逃げ帰る羽目になったのも、自分の弱さ故だ。只人とは比べものにならない強靭な肉体を得ようとも、それが全く役に立たない局面もある。強くなるということは、なんと難しいことか。
<夜明けの雲>は、魔人は、生まれながらに強いのだろうか?。強さが生まれながらのものならなば、鬼人の自分は彼に届かないのだろうか?。いや、魔人は魔力において他の追随を許さないのだという。ならば魔法を使わず拳の技のみで剣士すら圧倒する<夜明けの雲>は、あの力を自ら掴み取ったのだろう。それならば自分でも彼に到達できる可能性はある。彼はどれだけの刻を費やし、どれだけのものを費やしあの強さを得たのだろうか。今、彼の期待に答えられないのは残念だが、こればかりは時間をかけるしかない。
…そもそもだ……
「そもそも、数百年のキャリアを持つバケモノ相手に、付け焼刃で勝てる訳も無いってのっ!」
商会の中庭で剣を振りながら、最後は半ばキレ気味にステレはそんなことを考えていた。
カンフレー領を出たステレ達は、麓で待機していた女達と合流して、一番近くの支店まで向かった。二人ともボロボロと泣きながら抱き着いて無事を喜んでくれた。自分を家族のように心配してくれる商会員達をありがたく感じる。故郷の皆とこのように抱き合える日のためにも強くあらねばならないと、改めて思う。
さすがに国の外れまで来ると監視の目が張り付いているという訳でもないようで、支店ではそこそこゆったりと過ごすことができた。その後ドルトンの護衛という名目で、久しぶりにクヴァルシルまで足を伸ばしている。
カンフレーで<御隠居>から聞いた話は、ステレに大きな衝撃を与えていた。物思いにふけることが多くなったステレが元の精神状態に戻るには、それなりの時間が必要だった。魔の森で一人きりで生きて行くには、相応の力が要る。以前のステレは自然に暮らしていたが、心乱れて同じように暮らして行けるとは思えない。ドルトンはせかすことはしなかった。ステレはもう少しのんびり生きても良いのだ。ステレを隣国まで誘ったのも、このまま森に戻らなくなっても良いという、そういう思いがある。
だが、森の木々が芽吹こうという頃、ステレは「そろそろ帰るわ」とドルトンに告げたのだった。。
エイレンを出る時は、入念な打ち合わせの上で囮を大量に出したが、帰還の打合せはあっさりと終了した。
「森への帰還ですが…エイレンから隊商を仕立て砦に入ろうかと思います」
「珍しく正面突破ね」
「まぁ、我らが砦に向かった時点で目的はほぼ特定されるでしょうから」
「…そりゃそうか」
それだけだった。
森の砦は監視されている可能性が高い。だが、森を出てからと違い、ただ森に戻るだけだ。森に入ってしまえば、只人には追跡は困難だ。それに、ドルトンは森に出入りを許されている商人だから、隠れる理由は無い。もし相手が手を出してくるなら、それこそ連中の尻尾を掴むことができるかもしれない。
春は芽吹きの季節であると同時に、農民にとっては最も困窮が極まる時期でもある。蓄えた食料を冬の間に消費し、残りが乏しくなって行く一方、乏しい蓄えの中から種を蒔かなければならないし、麦が取れるのは初夏まで待たねばならない。魔の森の砦は、周りに農地も無い辺境だ、それこそ夏が来るまでの食料を備蓄しなければならない。一方で、エイレンに拠点を持つ商人にとっては、良い商売のできるチャンスとなる。ドルトンは物資をエイレンに集め、砦への補給という名目で馬車を出すことにしたが、エイレンに着くや自らトレハンの商会を訪れた。
「これはこれは、お久しぶりですな」
「御無沙汰をしております。冬の間に南の方を周っておりました。面白い物をいくつか買い付けることができましたのでご挨拶代わりにお納めいたします、ご笑納ください」
そう言いながら、ドルトンは目録を自ら手渡した。トレハンはちらりと渡された目録を見た。確かに王国南部や、遠く海南国の産物が記載されている。だが、居場所を全くつかめなかったドルトンが、しれっと「南の方を~」などと言っても、素直に信じるトレハンではない。それに、表立って対立はしていないものの、両者の関係は良好とはいえない。理由はもちろんトレハンがドルトンの商会員に粉をかけているせいだ。ドルトンからすれば、トレハンは商売敵以前に「敵」と認識しておもおかしくは無い。
笑みを絶やさず、しかしトレハンは警戒を緩めない。出し抜かれた悔しさもあるが、エイレンではドルトンを含め獣人はほとんど表に顔を出さない。商会長自らが正面から出向いて来たことには、何らかの意味があるはずだった。
「それで、今日はどのようなご用件で?」
「単刀直入に申し上げます。砦の補給に一枚噛ませていただけないかと思いまして」
トレハンが僅かに眉を動かす。
「はて、今までも砦で商いをされたいたはずでは?」
「普通の行商ですよ。王国からの発注を受けての物資納入とは、規模が桁違いです」
「…なるほど」
トレハンはドルトンを値踏みするように見る。
老舗の商会であるトレハンは、エイレンの顔役である。この街での商取引の多くにトレハンの息がかかっている。この街で大商いをするなら、トレハンへの顔つなぎは欠かせない。
「確かに私共が毎年補給を取り仕切ってまいりましたが、そこに新興の商会を加入させるとなりますと…」
「左様ですな…」
トレハンが渋る様子を見せるや、ドルトンはカバンから折りたたんだ紙片を取り出すとトレハンの前に滑らせる。
「何分、王家への納入が優先されますので、手持ちで融通できる数は少ないのです。この程度でご容赦いただけたら幸いですな」
紙片を開いたトレハンは、一瞬だけ顔色を変えた。記載されていたのは、ドルトンが王都で専売している魔の森の産物だった。確かに数は多いとは言えないが、元々出回る数が少ないので、かなりの価値と言える。
「これは…定期的に卸していただく訳にはいかないのでしょうな…」
「それはご容赦下さい。森で下手なことをすると、暴走の引き金となります。こぼれる雫を拾い集めている状況なのです」
思わず本音が漏れてしまったトレハンは、ドルトンの冷静な声に我に返った。
(わざわざ商会長自らが訪れて、希少な贈り物まで差し出する理由は…)
「……砦への納入の割分に、この産物以上の価値があるとは思えませんが?」
「平穏と信用は買えるかと思っております」
しばらく無言でいたトレハンは、「いいでしょう」と言って立ち上がった。ドルトンも立ち上がって笑顔で握手する。
「お約束の品は、一両日中にお納めさせていただきます」
「割り当ては後日書面にてお知らせします」
ドルトンが商会を出ると、護衛としてついて来た只人の男が不満そうに言った。
「我々が不甲斐ないばかりに会長に頭を下げさせる羽目になり、申し訳もございません。ですが、あそこまで下手に出る必要があったのでしょうか?」
「あぁ、額面通りに受け取ってくれるならそうだろうね。まぁトレハンも一廉の商人だから、こちらの意図はちゃんと伝わっただろうと思うが」
「…と、いいますと?」
ドルトンは、それはそれは良い笑顔で言った。
「トレハンに喧嘩を売ってきたんだよ」
「…あの野郎、わざわざ喧嘩を売りに来やがった」
執務椅子に深く腰を下ろしたトレハンは、これ以上無い渋い顔で呟いた。
秘書が訝し気に主を見る。側で見ていた限りは、街を牛耳る主に対して獣人の商会が頭を下げに来たようにしか見えない。
「"これから森番を送り返す"と、わざわざ宣言に来たんだよ。しかも儂に"その許可を出せ"と、高価な付け届けまで添えてな。コケにしやがって」
ドルトンが砦に向かう意味に気づかないトレハンではなかった。当然砦には監視を置いている。
だが、ドルトンはわざわざ本人が出向いて来て、『砦に向かいたいからトレハンの差配する商売に入れてくれ』と持ち掛け、礼を尽くして希少品の付け届けまで差し出したのだ。ドルトンは、今まで隠していた「森番」(=ステレ)の存在を認めたのである。トレハンが断ることは簡単だったが、王国から外国まで手広く商う商会が、この街で新興の商会として挨拶に来たのである。この街の発展のためとすれば、最大の老舗商会が度量を見せぬ訳には行かなかった。それに、断ってもドルトンは普通の商売として砦に行くだけである。だからトレハンはドルトンの意を察しながらもそれを受け入れた。
要するに、ドルトンはトレハンが断れない状況で『ステレを森に送るけどいいよね?答えは聞いてない』とやらかしたのである。
「何が『平穏と信用を買いたい』だ」
トレハンは、ドルトンがぬけぬけと言った台詞に腹を立てたが、実を言えばドルトンは嘘をついていない。
目こぼしを願った訳ではなく、トレハンを牽制したのである。わざわざ砦に向かいたいと告げに来たのは、『こちらもそれ相応の準備はしている。手は出すな』と脅しをかけたに等しい。
そしてドルトンは、今までトレハンの嫌がらせを相手にせず逃げ回っていた。だからこそトレハンにとっては、取るに足りない獣人の商人に過ぎなかった。今回ドルトンが自ら現れ、正面から喧嘩を売ったことで、自分は信用に足る敵だとアピールして見せたのだ。
トレハンもそれを理解できるから、更に腹が立つのだ。
「…まぁ、森に入るまでは、お望み通り平穏に過ごさせてやるさ。どうせ事が起こるのは……」
トレハンの不機嫌は、暫く収まりそうになかった。
ステレがエイレンの商会に入ると、何番目だか分からない商会長婦人のチェシャは。相変わらず自由すぎる態度で、商会員共々歓迎してくれた。ただ、おそらくは皆を代表してなのだろう。ステレを抱きしめて耳元で『心配したんだから』と囁かれ、ステレは恐縮しきりだった。
だが、チェシャもステレの気持ちは判っているから、それ以上は何も言わない。だからステレも男声で『奥様のお心を煩わせ~』とやって、皆で笑ったのだった。
数日後、トレハンから砦へ納入する物資の受け持ち一覧が届き、ドルトンは上機嫌だった。予想以上の分量であるが、大きな儲けかというと微妙な量。きちんと喧嘩を買ってくれたという気配がビリビリ伝わってくる。泥沼の足の引っ張り合いなど不毛だから無視して来たが、さすがに昨今は腹に据えかねる状況になっていた。獣人がただ耐えるだけでは無いという姿勢を見せておかなければ、不幸な事態を招きかねないと判断したのだ。トレハンなら、獣人の裏の噂も耳にしているだろう。
準備万端整えていたドルトンは、早速馬車を連ねて砦へと出発した。ステレは大っぴらに姿は見せないものの、護衛という名目で馬車に付いている。ステレはなにか仕掛けてくるかと期待(笑)していたが、エイレン内でも砦への道中でもトレハンは動かず、ステレは、『悪役商会の風上にも置けない所業』と明後日の方向に憤慨し、ドルトンは(トレハンを牽制したのは黙っていた方がいいな)と賢明な判断をしたのだった。
さすがのドルトンも、只人が魔の森で仕掛けるとまでは考えていなかったのだが。
砦に補給物資を搬入すると、手持ちがだいぶ乏しくなっていたテルザー卿は大いに歓待してくれた。今回は荷が多いので只人の店員も多く動員したが、全て身内の店員で揃えているドルトンの商会では、女性は売り物に含まれていない。その点では砦の多くの兵は落胆の色を隠さなかった。
ただ、獣人の娘にいつも声をかけてくる兵は、今回もめげずにアプローチしており、娘も少し対応が軟化しているようだった。(どうなることやら)ドルトンは親の顔で娘の行く末を心配していた。
砦への荷とは別に用意した当座の食料品や日用品を背負い、ステレと獣人の店員達は森に入った。そして数日かけてようやく懐かしの山小屋へと帰還したのだった。
(結局のところ自分の弱さだ)ステレはそう思っている。
アルカレルに師事できなかったのも、望んで向かった故郷から逃げ帰る羽目になったのも、自分の弱さ故だ。只人とは比べものにならない強靭な肉体を得ようとも、それが全く役に立たない局面もある。強くなるということは、なんと難しいことか。
<夜明けの雲>は、魔人は、生まれながらに強いのだろうか?。強さが生まれながらのものならなば、鬼人の自分は彼に届かないのだろうか?。いや、魔人は魔力において他の追随を許さないのだという。ならば魔法を使わず拳の技のみで剣士すら圧倒する<夜明けの雲>は、あの力を自ら掴み取ったのだろう。それならば自分でも彼に到達できる可能性はある。彼はどれだけの刻を費やし、どれだけのものを費やしあの強さを得たのだろうか。今、彼の期待に答えられないのは残念だが、こればかりは時間をかけるしかない。
…そもそもだ……
「そもそも、数百年のキャリアを持つバケモノ相手に、付け焼刃で勝てる訳も無いってのっ!」
商会の中庭で剣を振りながら、最後は半ばキレ気味にステレはそんなことを考えていた。
カンフレー領を出たステレ達は、麓で待機していた女達と合流して、一番近くの支店まで向かった。二人ともボロボロと泣きながら抱き着いて無事を喜んでくれた。自分を家族のように心配してくれる商会員達をありがたく感じる。故郷の皆とこのように抱き合える日のためにも強くあらねばならないと、改めて思う。
さすがに国の外れまで来ると監視の目が張り付いているという訳でもないようで、支店ではそこそこゆったりと過ごすことができた。その後ドルトンの護衛という名目で、久しぶりにクヴァルシルまで足を伸ばしている。
カンフレーで<御隠居>から聞いた話は、ステレに大きな衝撃を与えていた。物思いにふけることが多くなったステレが元の精神状態に戻るには、それなりの時間が必要だった。魔の森で一人きりで生きて行くには、相応の力が要る。以前のステレは自然に暮らしていたが、心乱れて同じように暮らして行けるとは思えない。ドルトンはせかすことはしなかった。ステレはもう少しのんびり生きても良いのだ。ステレを隣国まで誘ったのも、このまま森に戻らなくなっても良いという、そういう思いがある。
だが、森の木々が芽吹こうという頃、ステレは「そろそろ帰るわ」とドルトンに告げたのだった。。
エイレンを出る時は、入念な打ち合わせの上で囮を大量に出したが、帰還の打合せはあっさりと終了した。
「森への帰還ですが…エイレンから隊商を仕立て砦に入ろうかと思います」
「珍しく正面突破ね」
「まぁ、我らが砦に向かった時点で目的はほぼ特定されるでしょうから」
「…そりゃそうか」
それだけだった。
森の砦は監視されている可能性が高い。だが、森を出てからと違い、ただ森に戻るだけだ。森に入ってしまえば、只人には追跡は困難だ。それに、ドルトンは森に出入りを許されている商人だから、隠れる理由は無い。もし相手が手を出してくるなら、それこそ連中の尻尾を掴むことができるかもしれない。
春は芽吹きの季節であると同時に、農民にとっては最も困窮が極まる時期でもある。蓄えた食料を冬の間に消費し、残りが乏しくなって行く一方、乏しい蓄えの中から種を蒔かなければならないし、麦が取れるのは初夏まで待たねばならない。魔の森の砦は、周りに農地も無い辺境だ、それこそ夏が来るまでの食料を備蓄しなければならない。一方で、エイレンに拠点を持つ商人にとっては、良い商売のできるチャンスとなる。ドルトンは物資をエイレンに集め、砦への補給という名目で馬車を出すことにしたが、エイレンに着くや自らトレハンの商会を訪れた。
「これはこれは、お久しぶりですな」
「御無沙汰をしております。冬の間に南の方を周っておりました。面白い物をいくつか買い付けることができましたのでご挨拶代わりにお納めいたします、ご笑納ください」
そう言いながら、ドルトンは目録を自ら手渡した。トレハンはちらりと渡された目録を見た。確かに王国南部や、遠く海南国の産物が記載されている。だが、居場所を全くつかめなかったドルトンが、しれっと「南の方を~」などと言っても、素直に信じるトレハンではない。それに、表立って対立はしていないものの、両者の関係は良好とはいえない。理由はもちろんトレハンがドルトンの商会員に粉をかけているせいだ。ドルトンからすれば、トレハンは商売敵以前に「敵」と認識しておもおかしくは無い。
笑みを絶やさず、しかしトレハンは警戒を緩めない。出し抜かれた悔しさもあるが、エイレンではドルトンを含め獣人はほとんど表に顔を出さない。商会長自らが正面から出向いて来たことには、何らかの意味があるはずだった。
「それで、今日はどのようなご用件で?」
「単刀直入に申し上げます。砦の補給に一枚噛ませていただけないかと思いまして」
トレハンが僅かに眉を動かす。
「はて、今までも砦で商いをされたいたはずでは?」
「普通の行商ですよ。王国からの発注を受けての物資納入とは、規模が桁違いです」
「…なるほど」
トレハンはドルトンを値踏みするように見る。
老舗の商会であるトレハンは、エイレンの顔役である。この街での商取引の多くにトレハンの息がかかっている。この街で大商いをするなら、トレハンへの顔つなぎは欠かせない。
「確かに私共が毎年補給を取り仕切ってまいりましたが、そこに新興の商会を加入させるとなりますと…」
「左様ですな…」
トレハンが渋る様子を見せるや、ドルトンはカバンから折りたたんだ紙片を取り出すとトレハンの前に滑らせる。
「何分、王家への納入が優先されますので、手持ちで融通できる数は少ないのです。この程度でご容赦いただけたら幸いですな」
紙片を開いたトレハンは、一瞬だけ顔色を変えた。記載されていたのは、ドルトンが王都で専売している魔の森の産物だった。確かに数は多いとは言えないが、元々出回る数が少ないので、かなりの価値と言える。
「これは…定期的に卸していただく訳にはいかないのでしょうな…」
「それはご容赦下さい。森で下手なことをすると、暴走の引き金となります。こぼれる雫を拾い集めている状況なのです」
思わず本音が漏れてしまったトレハンは、ドルトンの冷静な声に我に返った。
(わざわざ商会長自らが訪れて、希少な贈り物まで差し出する理由は…)
「……砦への納入の割分に、この産物以上の価値があるとは思えませんが?」
「平穏と信用は買えるかと思っております」
しばらく無言でいたトレハンは、「いいでしょう」と言って立ち上がった。ドルトンも立ち上がって笑顔で握手する。
「お約束の品は、一両日中にお納めさせていただきます」
「割り当ては後日書面にてお知らせします」
ドルトンが商会を出ると、護衛としてついて来た只人の男が不満そうに言った。
「我々が不甲斐ないばかりに会長に頭を下げさせる羽目になり、申し訳もございません。ですが、あそこまで下手に出る必要があったのでしょうか?」
「あぁ、額面通りに受け取ってくれるならそうだろうね。まぁトレハンも一廉の商人だから、こちらの意図はちゃんと伝わっただろうと思うが」
「…と、いいますと?」
ドルトンは、それはそれは良い笑顔で言った。
「トレハンに喧嘩を売ってきたんだよ」
「…あの野郎、わざわざ喧嘩を売りに来やがった」
執務椅子に深く腰を下ろしたトレハンは、これ以上無い渋い顔で呟いた。
秘書が訝し気に主を見る。側で見ていた限りは、街を牛耳る主に対して獣人の商会が頭を下げに来たようにしか見えない。
「"これから森番を送り返す"と、わざわざ宣言に来たんだよ。しかも儂に"その許可を出せ"と、高価な付け届けまで添えてな。コケにしやがって」
ドルトンが砦に向かう意味に気づかないトレハンではなかった。当然砦には監視を置いている。
だが、ドルトンはわざわざ本人が出向いて来て、『砦に向かいたいからトレハンの差配する商売に入れてくれ』と持ち掛け、礼を尽くして希少品の付け届けまで差し出したのだ。ドルトンは、今まで隠していた「森番」(=ステレ)の存在を認めたのである。トレハンが断ることは簡単だったが、王国から外国まで手広く商う商会が、この街で新興の商会として挨拶に来たのである。この街の発展のためとすれば、最大の老舗商会が度量を見せぬ訳には行かなかった。それに、断ってもドルトンは普通の商売として砦に行くだけである。だからトレハンはドルトンの意を察しながらもそれを受け入れた。
要するに、ドルトンはトレハンが断れない状況で『ステレを森に送るけどいいよね?答えは聞いてない』とやらかしたのである。
「何が『平穏と信用を買いたい』だ」
トレハンは、ドルトンがぬけぬけと言った台詞に腹を立てたが、実を言えばドルトンは嘘をついていない。
目こぼしを願った訳ではなく、トレハンを牽制したのである。わざわざ砦に向かいたいと告げに来たのは、『こちらもそれ相応の準備はしている。手は出すな』と脅しをかけたに等しい。
そしてドルトンは、今までトレハンの嫌がらせを相手にせず逃げ回っていた。だからこそトレハンにとっては、取るに足りない獣人の商人に過ぎなかった。今回ドルトンが自ら現れ、正面から喧嘩を売ったことで、自分は信用に足る敵だとアピールして見せたのだ。
トレハンもそれを理解できるから、更に腹が立つのだ。
「…まぁ、森に入るまでは、お望み通り平穏に過ごさせてやるさ。どうせ事が起こるのは……」
トレハンの不機嫌は、暫く収まりそうになかった。
ステレがエイレンの商会に入ると、何番目だか分からない商会長婦人のチェシャは。相変わらず自由すぎる態度で、商会員共々歓迎してくれた。ただ、おそらくは皆を代表してなのだろう。ステレを抱きしめて耳元で『心配したんだから』と囁かれ、ステレは恐縮しきりだった。
だが、チェシャもステレの気持ちは判っているから、それ以上は何も言わない。だからステレも男声で『奥様のお心を煩わせ~』とやって、皆で笑ったのだった。
数日後、トレハンから砦へ納入する物資の受け持ち一覧が届き、ドルトンは上機嫌だった。予想以上の分量であるが、大きな儲けかというと微妙な量。きちんと喧嘩を買ってくれたという気配がビリビリ伝わってくる。泥沼の足の引っ張り合いなど不毛だから無視して来たが、さすがに昨今は腹に据えかねる状況になっていた。獣人がただ耐えるだけでは無いという姿勢を見せておかなければ、不幸な事態を招きかねないと判断したのだ。トレハンなら、獣人の裏の噂も耳にしているだろう。
準備万端整えていたドルトンは、早速馬車を連ねて砦へと出発した。ステレは大っぴらに姿は見せないものの、護衛という名目で馬車に付いている。ステレはなにか仕掛けてくるかと期待(笑)していたが、エイレン内でも砦への道中でもトレハンは動かず、ステレは、『悪役商会の風上にも置けない所業』と明後日の方向に憤慨し、ドルトンは(トレハンを牽制したのは黙っていた方がいいな)と賢明な判断をしたのだった。
さすがのドルトンも、只人が魔の森で仕掛けるとまでは考えていなかったのだが。
砦に補給物資を搬入すると、手持ちがだいぶ乏しくなっていたテルザー卿は大いに歓待してくれた。今回は荷が多いので只人の店員も多く動員したが、全て身内の店員で揃えているドルトンの商会では、女性は売り物に含まれていない。その点では砦の多くの兵は落胆の色を隠さなかった。
ただ、獣人の娘にいつも声をかけてくる兵は、今回もめげずにアプローチしており、娘も少し対応が軟化しているようだった。(どうなることやら)ドルトンは親の顔で娘の行く末を心配していた。
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---------
もし気に入っていただけたら、ブクマや評価、感想をいただけると大変励みになります!
#ヒラ俺
この度ついに完結しました。
1年以上書き続けた作品です。
途中迷走してました……。
今までありがとうございました!
---
追記:2025/09/20
再編、あるいは続編を書くか迷ってます。
もし気になる方は、
コメント頂けるとするかもしれないです。
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