魔の森の鬼人の非日常

暁丸

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砕けた鬼人

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 ステレは呆然としたまま動かない。トネリがいくら声をかけても、まったく反応しなくなっていた。
 その時、ステレの意識の中では、アルカレルの言葉が暴風となって吹き荒れていた。暴風の前ではトネリの声は、遠く遥か彼方の虫の音のようなものだった。
 ステレは暴風に抗おうとした。アルカレルの言葉を否定しようとした。それは整合性も時系列も滅茶苦茶な、ただ自分の心をぶつけるだけの抵抗だった。

『儂はお主の母カーラカンフレー殿を殺した男だ』

ははおや?
あ、あれ?母親って…?
わた…しは、私は、ステレ・カンフレー…カンフレー男爵夫人の……娘??
あ?え?、じゃぁ、カンフレー男爵夫人は、私の母さ…
鬼の私の、只人の親??

『儂はお主の母カーラカンフレー殿を殺した男だ』

違う!、母様を殺したのは私だ、私が…斬った?……違う。母様は私が鬼だから斬られた。
斬られた?誰に?
あ?、ああ、あの男に??

老人とは別な声が聞こえた。

『ステレ、あなたはとても困難な道を選んだの。だから、とても辛い目に遭う。簡単に他人を恨んではだめよ?』
『そうだね、怒りと恨みに凝り固まれば、人は簡単に鬼になる』

そうだ、私に敵は居ない。
母様を殺したのは…私だ。

『儂はお主の母カーラカンフレー殿を殺した男だ』

違う、あいつは斬っただけだ。命じた者は他に居る。
そいつが仇だ、私の敵だ。

老人とは別な声が聞こえた。

『すまぬステレ、どうか私を仇としてくれ。誓いを果たせぬ私をそなたの敵としてくれ』

違うっ!
私に仇は居ない。私が母様達を殺したんだ。
父様も、母様も、ヤンも、ダナオも皆も、皆私の愚かさのために死んだんだ。

私が殺したんだ。

『せめて、母親のために泣いてから出直してこい』

どうして私が泣くのだ。
私が泣いていいはずがない。

『せめて、母親のために泣いてから出直してこい』

私は泣かない。
皆はもう泣けないのだから。皆に許して貰えるまで私は泣けない。

………だけど、もう耐えられ……わた…し……生きて……ぎり……


 それは最初から勝ち目の無い抵抗だった。事実から目を背け、つじつまを合わせようするほど矛盾が増えてくる。

 「あああああああああああああああああああ」

 突如、両手で顔を抑え絶叫を上げて仰け反ると、ステレはそのまま仰向けに倒れて動かなくなった。

 「ステレ様っ」

 トネリが慌てて駆け寄るが、ステレは目を見開いたまま天井を見上げていた。
 そのまま顔を掻き毟ろうとする両手を、トネリが必死に抑えようとする。だが、ステレは突然「がっ」と短く叫ぶと、全身のバネでそのまま飛びあがるように置きあがあった。軽々と跳ね飛ばされたトネリは、そのまま壁に激突する。

 ステレの異変を見たアルカレルは立ち上がると、家令から剣を受け取り、ステレをじっと睨む。
 起き上がったステレはゆらゆらと動き、目の前のアルカレルすら眼中に無いようだった。

 その時、不意に部屋のドアがノックされた。
 その音に、視点の定まらないステレが、反応して振り向いた。

 「旦那様、いかがなされました」
 「扉から離れよっ!」

 アルカレルが叫ぶのとほぼ同時に、ステレはドアに突進して轟音を上げた。木材の軋む凄まじい音と衝撃に、壁と言わず天井と言わずパラパラと漆喰の欠片が落ちてくる。ステレは、ドアに両の拳を代わる代わる叩き込み始める。ステレの拳から血が飛び散り、ぶ厚いオークの扉がミシミシと軋む。そのままステレは額を叩きつける。額が割れて顔が血塗れになった。最後に両の拳を打ち込むと、重厚なドアが蝶番ごと廊下に吹き飛ぶ。ステレはゆっくりと廊下に出た。屋敷の従僕が、遠巻きに見ている。

 アルカレルはステレを追って廊下に出た。想定した中では最悪の事態だ。長剣を抜き放つと、身体強化を発動させる。切先を向けると、鬼は僅かに躊躇したよう動きを止めた。
 アルカレルはステレから目を離さぬまま、自分の剣技と廊下の寸法を計算する。
 (剣を振るうことはできるが、身を躱すには十分で無い。素手でもあの威力で殴られたら、引き裂かれかねない。どうにかホールに引き出すか…相討ち覚悟で斬るか…)

 「お待ち下さい、シュライサー様」

 吹き飛ばされたトネリが、肩口を抑えながら追って来た。

 「生かして捕らえるのは困難だぞ」

 アルカレルが先回りして言う。
 この男の気持ちも判るし、こうなると判って告げた自分にも責任がある。だが、正気を失った鬼人を殺さずに止めるなど、危険すぎる。

 「わずかの間でかまいません、ステレ様の動きを止めることはできないでしょうか。私が眠らせます」
 「お主、魔法使いか」

 アルカレルが驚いたように言う。魔法使いの才を持つ者が、商会の店員をやっているなどと思わなかった。大概は特異な才を活かした職に就いているものなのだ。
 だが、安全のために人員を身内だけで固めようとしたドルトンの商会は、外から護衛を雇わなくても済むよう、かなりの数の店員が護衛も兼ねる力量を持っていた。シュリもウタもそのために商会に居る魔法使いなのだ。

 「私は触れなければ魔法をかけられませんが、触れることさできれば魔獣でも眠らせられます」
 「時はいかほどか?」
 「脈が五つ打つほどでかまいません」

 アルカレルは剣を収めると、鞘ごと家令に手渡す。家令は真っ青な顔で主人を押しとどめようとした。

 「おやめください、旦那様」
 「この娘をこうしたのは儂だ。儂が止めねばならぬ」

 決意を込め、無手のアルカレルがスッと前に出た。瞬時に反応したステレの右腕が振られる。アルカレルは踏み込みつつ半身で躱した。首筋をかすめた指で、シャツの襟ごと上着の身頃が引き裂かれる。勢いで地に引き倒されそうになるのを辛うじて堪えると、間合いを取り直す。
 (確かに恐るべき速さと力だが、今の鬼はこちらの動きに反応しているだけだ)
 アルカレルはそう判断した。再び間合いに飛び込んだアルカレルは、同じように振られた腕を僅かの間合いで躱した。振り切った腕を取ると、瞬時に肘と手首を極める。只人ならこれだけで動けなくなる。だが、ステレは、痛みを感じないのかのごとく、無理やりアルカれるを振りほどこうとした。次の瞬間アルカレルはその力を利用して投げを打つ。鈍い音を立ててステレは地に転がった。
 (只人と似た体格だが、只人以上に重量がある。これが鬼人か)
 不自然な姿勢で抑え込まれたステレは、それでも振りほどこうと力を込めていた。だが、ステレが倒されると同時に駆け寄ったトネリが、両手でステレの顔に触れる。
 トネリは普通の魔法使いとは違い、対象に触れねば魔法を使うことができない。だが、能力は人の身体に直接作用する事に特化しており、治療の魔法ならば相当の重傷でも癒すことができる。トネリがアルカレルとの対面に同行することになったのは、万が一にもアルカレルに害が及んだ際に命を救うためだった。

 最悪、バーサークした鬼人に魔法は効かない可能性も考えた。だが、脈が三つ打つ間にステレは糸が切れるようにカクンと眠りに落ちた。

 アルカレルは大きく息を吐き出すと、ステレの身体を開放する。
 関節を取っているのに、満身の力を込めなければ振りほどかれるところだった。膂力だけなら、全盛期のアルカレルが強化魔法を循環させても及ばない。ステレが無意識で動いていること、鬼人の身体の作りが只人と変わらぬこと、そしてアルカレルが対人制圧の達人だからこそ、短時間どうにか抑え込むことが可能だった。

 「よくや……」

 トネリに声をかけようとしたアルカレルは、トネリが膝を着いたまま涙を落としていることに気づいた。

 「いかがした?」
 「眠らせるために、ステレ様の心に触れましたが……まるで朽木のようでした…。だから簡単に眠りが入りました。この人は私です。商会に救っていただくまで、私もこうでした。
 「…お主の親も殺されたか」
 「母は……僅かの食物を得ようと盗みを働き、私の目の間で殺されました」

 男に捨てられ、頼る相手も無いトネリの母は、あらゆる手立て…遂には盗みにまで手を染めて幼い子を育てた。運に頼る素人盗人など、そううまく行くはずもない。見つかって罰として指を切り落とされ、それでも他に道を見つけられず、最後は命まで失った。幼いトネリには母を埋葬する力さえ無く、獣に食われる母を置いて逃げるしか無かった。絶望のまま彷徨い、死の淵でドルトンに救われたのだ。

 「お恨みいたします、シュライサー様」

 商会でのステレは、常に陽気に見えた。それが、アルカレルの一言でこうも簡単に壊れるとは思ってもみなかった。
 だが、ステレに触れた今は判る。この人はそれだけの物を失っていたのだ。何故忘れていた死を告げねばならなかったのだ。自分に口を出すことができぬこととは判っている。だが言わずにはおれなかった。

 「儂もこの娘も覚悟の上でのことよ」
 「それでも…」
 「商会に出会う前、もし記憶を消すことができたら、お主はそれを望んだか?」

 はっとして、トネリは首を振る。

 「母は、私のために自らを削り尽くして死んだのです。忘れることなどできません」
 「それが良い。それでこそ母者もお主と共に生きる。だから儂は敢えて告げた。お主が救われたのなら、この娘も救われる目はあろう」
 「しかし…」

 忘れることでしか救われなかったこの人を、どうしたら救うことができるというのだ。トネリには絶望的に思える。
 だがアルカレルは諦めていない。斬るしかないと思っていた鬼人を生きて止めることができた。できる手があるならば全て打つ。そのためには、この店員に働いて貰わねばならない。

 「お主の名は?」
 「トネリ、ドルトンの子トネリです」

 トネリは今更ながら、アルカレルに名乗っていなかったことに気づいた。父親を知らぬ商会員は、皆ドルトンを父親の名として使っている。

 「それは商会長の名だな?父は?」
 「母を捨てたそうです。名は知りません」
 「母の名は?」
 「マレヤですが」
 「では、マレヤの子トネリよ、この娘を救うために頼みとできる者はおらぬか?」

 あっと、トネリは顔を上げる。
 女性の相続が制限されるこの国で、堂々と母姓を名乗る者は稀だ。しかも、母は盗人として蔑まれて死んだ。彼女の死を悼んでくれたのは、今までドルトンと商会の皆だけだった。
 だがこの老人は、盗人として打ち殺された最下層の女に、敬意を表してくれた。ただその一言で心が軽くなるのが判る。
 どんな些細な事でも、それがステレの心に届けば。僅かでも重荷を軽くできれば…。

 「ステレ様を知るのは商会長のみです。商会長に急使を出します」

 トネリの声に力が戻る。
 アルカレルもまた、多くの配下を従えていた時の気力を、再び奮い起こそうとしていた。

 「万が一宿で暴れれば騒ぎになる。この娘はこのまま屋敷で預かる。この眠りはいかほど保つ?」
 「一日は保つはずです」
 「ならばお主も休め、代わりはいるか?」
 「ステレ様の身の回りの世話のために、商会の娘が一人宿で待機しています」
 「好都合だ。宿には使いを出す、言付は書けるな?」
 「はい」

 その日のうちに宿を引き払い、アルカレルの屋敷に移った。屋敷から手紙を携えた、あるいは言葉を言付かった使者が商会への支店へと向かい、支店から更に使者が行き来を始める。

 そうして、王都から届いた商会長ドルトンの指示は『ロイツェルに向かえ』というものであった。
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