魔の森の鬼人の非日常

暁丸

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ロイツェル侯

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世界が暗い。黄昏時のように薄暗い。霧に包まれた世界が広がる。自分の足元すら見えない。

「お嬢様」
そう呼ばれて振り向くと、霧の向こうから大勢の男女が口々にそう呼んでくる。誰だろう、商会の皆ではない…霞んで誰一人顔が見えない。
…だけど判る
ステレはよろよろと後ずさった。

「お嬢」
別の方向から、男が名を呼んできた。商会の庭で聞こえた声だ…。霧に霞んで顔が見えない。
…だけど判る
ステレはどうにかして声から遠ざかろうとした。

「ステレ」
霧の向こうから、男女二人がそう呼んでくる。とても懐かしい声。だけど霞んで顔が見えない。
ステレは耳を塞ぎ、正体不明の影から必死に逃げだした。

誰だか判らない。
だけど判る。
皆、自分に様々なものをくれた人たちだ。
私のために死んだ人たちだ。
ごめんなさい。
私が我を通したから。
ごめんなさい。
思い出さなくちゃいけないのに、忘れちゃいけないのに、きっと私は耐えられないのです。



 ロイツェルは王国の東南、グリンドからは南にあたる。古来より河川交通と街道の交差する交通の要衝である。
 内戦の論功行賞により、この要地は流浪の王弟を支えて侯爵となった5人の一人、オーウェン・アルガが入った。とはいえ、普段は領地の運営は城代に任せて、通常は本人は王都に出仕している。

 ステレを乗せた馬車は、宿を避け野営をしながら街道を南下する。意識不明の客を連れ込んだりしたら、どんな噂が立つか判ったものではない。不自由と不便を忍んでの旅だが、元々が遍歴商人だから野営はお手の物だ。
 ステレはこの数日、眠ったまま一度も目覚めることは無かった。僅かに水を飲ませるほかは、トネリが魔法で体力を送り込んで保たせている。

 皇国からの街道も繋がる大きな街だから、ロイツェルにもドルトンの支店はある。だが、ドルトンが向かうよう指示したのは、支店ではなく、領主オーウェン卿の屋敷であった。支店には他の商会の監視が張り付いてるいる可能性があるからだ。
 要衝だけあって、この地の城は川沿いの断崖に建つ実戦的な要塞で、普段住むには全く不向きだった。管理人は置いているが、領主以下は市街の屋敷に住んでいる。
 屋敷への出入りを偽装するため、一行は街の郊外でアルガ家からの迎えの箱馬車に乗り換えた。荷馬車はそのままロイツェルの支店に向かうことになる。

 付き従ったトネリらと共に、ステレは屋敷の一室に落ち着いた。既に十分な指示が届いているらしく、屋敷の使用人は皆丁寧な態度で扱ってくれる。それに余計なことは一切聞かないし言わない。使用人から女中に至るまで、教育が行き届いていると判る。

 屋敷に到着してしばらくして、王都からの馬車が到着すると使用人から告げられた。先触れがあったらしい。
 トネリが車寄せに出ると、到着したアルガ家の紋章の入った馬車から、丁度ドルトンが降り立つ所だった。

 「会長、申し訳もございません」

 駆け寄ったトネリが跪いて謝罪しようとするのを、ドルトンが制止する。

 「待て、それは後だ」

 そういってドルトンが脇に退くと、馬車からもう一人、男が降り立った。

 「侯爵、まさか…」

 馬車から降り立ったのは、ロイツェル侯爵オーウェンその人だった。

 「驚くことではあるまい、ここは私の屋敷だぞ」

 生真面目な顔でそう言うオーウェン・アルガは、茶の髪を短く切りそろえた、いかにも武人という風情の男だった。事実、常に最前線で闘い続けながら、大した手傷を負ったことが無いという剛の者である。
 口数は少なく不愛想に見えるが、その実誠実で礼儀正しく物腰は丁寧と、王城の御婦人方の人気も高い。一年の大半は王都で政務に就いており、領地に帰るのは稀なことだと聞いていた。だからトネリも屋敷の部屋を貸してくれるだけだと思っていたのだ。

 「あ、いや、確かにそうでした。失礼いたしました」

 トネリは居住まいを正し、整列したアルガ家の使用人と共に礼を取った。

 「ドルトンに届いた急報を聞いて、王に許しを頂いて同行した。ステレは大切な戦友だからな」

 言うと、主を迎えた家令に帽子を渡し、二言三言指示を伝える。

 「閣下、どこか部屋をお借りできますか?、トネリ、まずはシュライサー様の屋敷であったことを、もう一度詳細に説明せよ」
 「は、はい」

 使用人の案内で、居心地よくしつらえられた部屋に落ち着くと、外出用の外套を脱いだオーウェンが入って来て席に着いた。
 ドルトンに促され、トネリは、アルカレルとステレのやり取りをできるだけ詳しく説明した。言葉のやり取りも、記憶の限り正確に思い出して伝える。
 そして、彼女の心に触れたこと、それが乾いて崩れ落ちそうになほど虚ろになっていることも。

 「何と言う事だ……」

 話を聞き終わったドルトンは天を仰ぐ。
 『アルカレルに会いたい』と言ったステレに感じた違和感は間違いでは無かった。もう少し慎重になるべきだった。

 「私の落ち度だ。ステレ様は、ご夫妻の死を乗り越えておられると思い込んでいた」
 「シュライサー様は、全てを思い出し、それでなお救われる道を探せと。ステレ様に関するシュライサー様の所見を手紙としてお預かりしております」
 「簡単に言ってくれる」

 悪態を着いた所で思い直す。確かにアルカレルの言うことにも一理はある。ドルトンも、ステレには森を離れ人並みの暮らしをして欲しいと願っていたのだから。

 「ステレはどうか?」

 腕を組んだまま黙って聞いていたオーウェンが口を開いた。

 「眠りの魔法は切れているはずですが、目覚めません。魔法で体力を送り込んでいますが、このまま目覚めないとどれほど保つか…」
 「そうか……。会えるか?」
 「正気を無くしたまま目覚める危険もあります」
 「問題無い」

 言うや立ち上がり、ステレの眠る部屋に向かった。ドルトンが後を追い、トネリは慌てて先に立つと部屋の中の様子を伺ってからドアを開けた。

 ステレには、アルガ家の女中ではなく商会から来た娘が付いていた。急に目覚めて暴れる危険があったからだとトネリが説明する。
 オーウェンが何年かぶりに見るステレの顔は、思い出の中のままだった。女性にしては厳しい顔つきで、相も変わらず日に焼けている。眠り続けているのに、やつれているようには見えなかった。自分は、王都で文官の真似事をして随分と青白く鈍ってしまった。ステレが起きていたら笑われたに違いない……そう思えた。

 ほんの僅か、オーウェンの口許が緩む。手を伸ばすと、指先でステレの頬に触れた。

 「ステレ…眠り姫など、お前のガラでは無いだろう……」

 オーウェンがそう言った瞬間、今までどんな呼びかけにも反応しなかったステレがパッと両目を開いた。そのままに二度三度と瞬きをすると、がばりと起き上がり、傍らのオーウェンを見た。

 思わぬ事態に、後ずさったオーウェンとステレの間に、ドルトンとトネリが割って入る。

 「しまった、寝過ごしたか?すまん、オーウェン。交代しよう」

 だが、ステレは今の自分の状況の変化すら全く気にも留めていないようだった。部屋が変わったことも、自分が寝台に寝ていることも、オーウェンやドルトンが居ることも。
 ステレが見ているのはオーウェンだけだ。

 「どうした?」

 首を傾げるステレを見て、オーウェンは唐突に気が付いた。ステレが、鬼人でなく只人だった頃の姿に見えたのだ。これは流浪の途中に、二人で交代の見張りをした時のステレではないのか?。
 咄嗟に当時のやり取りを思い出す。

 「大丈夫だ、まだ交代まで間がある。時間になったら起こすからもう少し休んでおけ」

 あの頃のステレは、他の5人に力が及ばないのを引け目に感じていたのだろうか、寝る間も惜しむように、あらゆる仕事を引き受けて働いていた。無理をしているのは明らかだったが、ステレは仕事から外されることを何よりも嫌がった。だからオーウェンは、機会を見つけては、交代時間を誤魔化していたのだ。

 「そうか?……必ず起こせよ」

 オーウェンの記憶のままに、ステレは毛布を引き寄せ、再び眠りに落ちた。

 「これはいったい…」
 「今のは、旅の中でのやり取りだったが……」

 原因を探ろうと両手でステレの顔に触れていたトネリが、「あっ」と声を上げた。

 「ステレ様はおそらく夢を見ているのかと。それに、以前は今にも崩れそうでしたのに、僅かですが心の隙間が埋まっているように感じます」
 「夢?」
 「過去の出来事を夢で見ているということか?」
 「ずっと夢を見続けているようです」

 オーウェンは、先程聞いたアルカレルとステレのやり取りを思い返していた。ステレは忘れることで正気を保とうとしていた。それは、言われて見ると、放浪の旅の途中でも思い当たることがある。

 「……思い出したことを無かったことにしようと、夢の中で過去をやり直しをしている…とは考えられんか?旅の途中でも、時々ステレは記憶を欠落させていたように思う」
 「今は普通に会話をされているようにも見えましたが」
 「私以外は認識できないようだった。寝ボケているような状態だったのか……」
 「では、侯爵の声に反応して目覚めたのでしょうか?」
 「だが、こうして今私が声を上げていても、ステレは起きないな」
 「確かに……」

 その後、しばらくしてステレは目を覚まし、オーウェンと言葉を交わしてまた眠りに落ちた。やはり、周囲の事は全く目に入っていないようだった。オーウェンの言う通り「寝ボケている」という状態に近いように思える。
 そして、ステレが覚醒するのは、オーウェンと深く関わった事象のときに限られているように思えた。
 全ては推論に過ぎない。これが、ステレが救われる切っ掛けになるのか、それも判らない。

 腕を組んだまま長く思案していたオーウェンは、何事か決心して顔を上げた。

 「私が見る、しばらく二人にしてくれんか?」
 「しかし…」
 「あまり他人には知られたくない会話もある」
 「……承知しました」

 ドルトンは逡巡の末、承知した。今の様子を見る限り、ステレが暴れる心配は薄い。それに、あの旅路の記憶に立ち行って良いのは、同行していた者だけだ。そう感じたのだ。
 トネリや他の商会員を促すと、皆後ろ髪を引かれる思いで部屋を出る。それはドルトンも同じだった。音を通さぬように作られた重厚なドアが、音も無く閉じられた。
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