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とある鬼人の戦記 4 会戦 1
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「全軍停止!」
「全軍停止、全軍停止」
復唱された命令がやまびこのように隊列に伝わって行く。それと同時に、伝令が命令を叫びながら、後方に駆けて行った。だが、大軍は簡単に進退できない。しばらくの間ゆるゆると動いていた軍勢は、ざわめきつつやがて停止した。
指揮官である老将ダハルマ卿は、街道沿いに畑が広がる平原を目前にして軍を停めた。自身はそのまま馬を進めると、少し先には西の山地からオーダ河に注ぐ小川が流れていた。小さな川だが、騎兵にとっては大きな障害となる。外堀代わりにするにはうってつけだった。
「ここに陣を張る、諸侯の代表と話して位置の調整を頼む。決まったら、陣の外周には荷車を並べて障壁とせよ。それと、作業の兵には水を汚さぬように、厠の位置に気を付けるよう重ねて伝えよ」
現役時代に率いていた兵なら言わずもがなの指示を、一々出さねばならない情けなさを感じてダハルマ卿は内心でため息をつく。こうして指示しないと、我先に良い場所を取ろうとし、自分たちのみの給水排水しか考えず、周りと度々諍いを起こす。平和に慣れ切った王国兵の練度の低さは如何ともしがたい。
彼が鍛えた兵は南部森林に張り付いたままで、後を任せた騎士は討伐軍への参加を拒否した。だがその判断を、ダハルマ卿は膝を打って称賛した。そういう男だからこそ後任を任せたのだ。ダハルマ卿か兵か、どちらかが健在であればクア藩国が国境を侵す事はない。南部の兵を内戦に投入したうえ、万が一にでも敗北すれば、南部は最悪の状況になるだろう。その代わりにダハルマ卿は技量も戦意も足りない、素人騎士を手駒としてこの戦いに臨まねばならない。治安維持と国境警備で戦い続けた歴戦の騎士でも、それは困難な戦いだった。
ダハルマ卿は齢六十を過ぎた老将である。日焼けした顔には皺が刻まれ、かつては黒錆のようだった青味がかった黒髪も既に半ば以上白くなっている程であった。だが、戦場で叩き上げた身体は年齢を感じさせぬほどしっかりしていた。兵も士官も皆甲冑を付けずに行軍しているが、一人ダハルマ卿のみは鎖帷子を纏っている。『普段から身に着けて、寝巻き代わりに使えるくらいに着慣れておけ』と、常日頃から言っていた事をこの歳になっても自ら実践している。騎士は常在戦場…が、彼の持論であった。
「諸侯の指揮官には、一燭時後に軍議と伝えよ。それから、陣が固まり次第そこの街道の橋の他に出撃用に仮橋をいくつかかけるよう命じよ。今日明日に開戦という事は無いから、これはさほど急がずとも良い」
「あの砦を抑えないのですか?」
腹心の従騎士グレイブスが、南西にかすかに見える崩れかけた城塞を指さした。
元々はツェンダフ領からの進軍を食い止めるために作られた城塞だが、ここの領主はツェンダフに組し、領主一族と騎士はツェンダフ領に合流している。砦は今はツェンダフ軍が抑えており、本来の役目とは逆に北から来る軍-討伐軍-を迎え撃つために盛んに補強を行っている。
「今はまだ造作も半ばですが、これ以上防備を固められたら抜くのが困難となります」
「それでいいのだ」
「え!?」
ツェンダフ領への入り口を抑える格好の位置にある砦を、ダハルマ卿は敵軍に譲るというのだ。
驚くグレイブスに、ダハルマ卿は意地悪そうに笑う。
「作戦については、軍議で話そう。そんな事より斥候を出す準備を急がせよ、西の山地とオーダ河にも忘れず出せよ。西は山頂まで進出して、山向こうの谷も監視しろ。迂回奇襲などされてはたまらんからな」
設営を進める一方で、ダハルマ卿は幕僚に矢継ぎ早に指示を出す。ここはもう敵地に等しい、ようやく行軍が終わって一休み…などと呑気をしている諸将の兵が動くのを待っていたら、あっという間に寝首を掻かれてしまう。
「閣下、ツェンダフ領内に入っていた密偵が復命しております。いかがされますか」
「会おう」
「承知しました」
ダハルマ卿は、騎士物語に登場するが如き古風の人物ではあるが、実戦でも常勝の軍人である。情報を何より重視している。本陣の天幕が準備されるのももどかしく、設営の混乱から離れた場所に床几だけを用意し密偵からの報告を受けた。しかし、もたらされた情報は、ダハルマ卿を困惑させるものだった。
グリフは一切の兵権を手放し、配下の兵共々マーキス卿に譲渡したのだという。グリフが言い出した事ではなく、彼自身も最初は難色を示し怒りさえ見せたが、『数の上でも主力となるのはツェンダフ領軍であり、指揮権を一本化しなければならない』というマーキス卿に押し切られて渋々応じたというのだ。
これはダハルマ卿の予想外だった。マーキス卿はグリフを一軍の将として据え、郎党達はその指揮下として動くと考えていた。彼らこそが王国で最も実戦経験の豊富な兵であり、それを最大に活かす事になるからだ。
「一応、大将はグリフ殿下となっているが、総指揮はダイオス卿…実権はマーキス卿か…」
ダハルマ卿は、しばし無言で情報を整理していた。
この情報は真実だろうか…?。
確かに説得力はある。むしろ、指揮権は一本化するのが正しい。実際グリフは、亡命した際に指揮権を一本化するとして、食客を指揮官に据えてその下に自分の家臣を付けている。総指揮官とされるダイオス卿は長くツェンダフ領の将を務めてきた、堅実で信頼に足る指揮官のはずだ。そもそも、グリフは見出した人材を家臣にはせず、王城へ出仕させていた。
だが、それは家臣も食客も為人を知り尽くしていたからこそ出来る事だ。それに、今や彼自身が郎党の主として三年もの間生死を共にしてきた。それをいきなりツェンダフ領軍の指揮下に入れろと要求され、納得するとは思えない。また、同じくグリフの許を離れるよう命じられた兵も納得するとは思えないかった。事実、鬼人の剣士はこの処遇を不服として、自分はグリフの命しか受ける気はない…と言い残して出奔してしまったらしい。これはツェンダフ領軍の中に、鬼人への不信感を持つ騎士が少なくない事も理由だという。行先は判らないが、ツェンダフ領内にはもう居ない事は確かなようだった。このような戦力を低下させるのが明らかな策を取るだろうか?何かの策略の匂いがするのは確かだ。
では、この情報は偽装だろうか?。トップ二人の不仲を装って油断を誘い、かつ鬼人は出奔したのではなく、姿を消して自由に動ける兵力とした。…とすれば、狙いは総大将である自分の首…である可能性が高い。だが、それにも違和感がある。鬼人に奇襲させるつもりなら、不仲など装わずあたかも本隊にいるように装った方が良いだろう。それに、偽装だとしても鬼人を戦力として欠く事に変わりはない。鬼人は一人で只人一小隊並みの働きをするという。正面戦闘での数の不利を覆す切り札になりえる。決戦を目の前にして、その戦力を欠くような真似はいかにも不自然だ。これが偽装だとしたら、鬼人はどこかに隠れていて、その上で鬼人が自由行動をとる可能性がある…と思わせる事に意味があるということか?
「判断するには情報が足りんな。引き続き敵陣内を探る事は可能か?」
「警戒が厳しく、かなりの密偵が狩られておりますが…最善を尽くします」
「まずはご苦労だった、酒保が開き次第これを渡せ。一息入れたらまた頼むぞ」
「はっ!」
便宜を図るよう命じるメモを渡し、密偵を送り出すと入れ替わりに幕僚の一人が報告を持って来た。
「閣下、仮ですが天幕を用意しました。諸将も集まっております。また、行軍中に先行して出していた偵騎が戻りました。報告はどちらで受けますか」
「判った、軍議を始める。偵騎の報告はその場で聞こう」
(さて、虚か実か……いずれにしろ情報が欲しい…判断を誤ればあやつらの大半は屍で故郷に帰る事になる)
ダハルマ卿はため息交じりで立ち上がった。
率いる騎士たちは、敵を侮り既に勝ったつもりになっている者が多かった。しかも、主家の権威を傘に指揮官の命令に何かと反抗する連中を、どうにか指揮して勝利し無事に帰さねばならない。だが、ダハルマ卿の勘は、この戦いが一筋縄では行かないと感じ取っていた。
報告に来た幕僚が、そのまま立っている。まだ報告すべき事があるのだろうか。
「なんだ?」
「騎士たちが、早速不満を漏らしています。休む間も与えず、疲れ切って敵襲を受けたらどうするだのと…。総大将のご命令に反すれば、抗命の罪で斬られる事も有りうる…と押し切りましたが、問題無かったでしょうか」
兵だけではない。ダハルマ卿は引退するにあたり幕僚も兵と共に南部に残して来た。南部域防備の兵は、周辺の領地と王家からの補助、そして多くはダハルマ卿の私費で賄われていた。だが、指揮官だけでなく幕僚まで入れ替えたら、軍が機能するまでに相当の時間が掛かってしまう。そう考えたダハルマ卿は首脳部ごと軍を引き渡した。まさか、隠居した後でまた軍を率いる事になるなど、想像もしていなかった。そのため、この戦では兵と共に司令部の幹部も自分で鍛えなければならない。急遽抜擢した副官たちは、王都での準備期間と行軍の間(不慣れな連中のせいでずいぶん時間のかかった)に手ずから指導した。彼らは、急造にしてはよくやってくれてはいるが、主家の爵位を笠に着る騎士たちとダハルマ卿の間で板挟みになっている。騎士達は彼らの指揮官の命に従う姿勢を隠そうともしない。さすがにダハルマ卿にあからさまに反抗する騎士はいないが、幕僚に対しては『虎の威を狩って大きな顔をしている』…と見下しているのだ。自分たちのしている事がまさにそれである事に気づかず。
「それでよい。お前達幕僚の命令は儂の命令だ。明日からの演習でそれを徹底させよう」
(なるほど、確かに指揮権を一本化したくなるな。騎士連中はこの数日で、少しばかり厳しくしごく必要がありそうだ……)
我が身に降りかかれば、マーキス卿の判断も真実味を帯びて見えてくるではないか。
少なくとも今日明日の開戦は無くとも、それほど時間を掛ける訳にはいかない。その短い期間に最低でも司令部からの命令通りに進退する集団にしなければ、戦いにもならない。ダハルマ卿一人で全軍に指揮を出せる訳がないのだから。
ダハルマ卿は自分の足取りの重さを感じながら軍議の天幕へと向かって行った。
ダハルマ卿が着陣する少し前、迎え撃つツェンダフの軍勢は領境であるオーダ河を越え、橋を抑えるサリサリの砦に入っている。この河はかなりの大河で、上流域では皇国との国境にもなっている。サリサリの砦はほとんど橋と一体化した要塞で、通行税を徴収する関もかねていた。ツェンダフ側も橋のたもとは要塞になっており、二つの勢力が一つの要塞に同居するような奇妙な状況となっている。とはいえ、現状ではこの地の領主はツェンダフ側の味方に引き込んでおり、橋も要塞も最初から勢力下である。
北から南に流れるオーダ河はこの近辺で西に蛇行し、河の西側を南北に延びる山脈と交差するように谷間を抜けて流れている。河を渡ると目の前直ぐに山地が連なっており、街道は山地に沿うように右へと曲がり、北へと河と並行するように伸びている。山と河に挟まれたこんな行き止まりに橋が造られたのは、戦略上の理由もさることながら何よりこの近辺のみ水深がやや浅くなっているためだった。それでも、架橋は長い年月と多くの犠牲者を出した難工事となったという。ここ以外に近辺に橋は無く、戦を前に近隣の川船はほとんど徴発されてツェンダフ領内に引き上げられている。軍勢が橋以外を使ってツェンダフ領内に進軍するのは困難であろう。
サリサリの砦を本陣としたツェンダフ軍は、更に歩兵を主体とした部隊を街道沿いに北に進出させると、丘の上の古い砦跡に入れた。ここには元々偵察の部隊が常駐しており、王国軍の動きを窺いながら防御強化工事を進めていた。
この砦は元々ツェンダフ領を警戒して作られたものだから、戦闘正面は南を想定している。それを北から進軍してくる討伐軍に向けるため、砦の東にある小さな丘にも陣地が築かれていた。そして、東西二つの丘の陣地を結んで堀が掘られ、土塁が掻き揚げられた。堀と土塁は南北に延びる街道を遮断している。東砦の先は河の流れに削られて急に落ち込み、湿地となっている。その先はオーダ河だから、騎兵や重装備の兵は身動きが取れない。西砦の先にはオーダ河の侵食の歴史を刻んだ河岸段丘の崖がいくつも残っており、そこから西は山地と森が連なっている。こちらも騎兵が自由に行動するには難しい地形である。つまりは、ツェンダフ領につながる細い回廊の入り口を東西二つの砦を結ぶ堀でふさぎ、回廊そのものを砦としたのである。
王国騎士は騎兵を主力としているため、大きな待機場所が必要になる。東西どちらの砦にも収容しきれるだけの規模はなかった。それに、西砦は段差が障害となり出撃しずらいし、逆に東砦は臨時砦のために防御が十分ではない。砦の防衛ラインから北は湿地が東よりに後退しているため、台地が広がっていた。王国軍の陣までは障害となるものはほとんど無く、騎兵は最大の力を発揮できるだろう。
「予想通りというべきか…動きませんでしたね」
城壁の上でメイガーが額に手をかざし、彼方を見つめながら言った。平原の向こうには、かすかに王国軍の旗印が林立しているのが見える。
「もしくは、誘われましたかな?」
「誘いが無くともここは確保する予定だった。一戦得したと思うことにしよう」
オーウェンが苦笑いしながら答える。二人とも、今はツェンダフ領軍の麾下として砦の防衛のために進出してきた。可能性は低いが、王国軍の妨害があるかもしれないと予測されたからである。案の定、王国軍はこちらの動きを静観しており、二人は交代する護衛の兵を残してサリサリ砦に戻るよう命じられている。相手は百戦錬磨のダハルマ卿である。こちらの動きは読まれていたに違いない。
「やはり、ダハルマ卿もこの平原での決戦を考えているのだろう。今のところ、予測を大きく外れていないが…さて、この先どう動くか…」
ツェンダフ軍も討伐軍も、この戦いには短期で決着をつけるつもりだった。
一見すれば、敵軍を狭い回廊に誘い込んでサリサリの砦に拠って迎撃するのがツェンダフ側の最上手に思える。この一戦に勝つだけならそうしただろう。だが、ツェンダフ側も持久戦を選択する事はできなかった。ダハルマ卿が無策で砦攻めなどするわけが無い。橋を挟んでの長期戦になる。この戦いは何より短期で決着を着けねばならない。そうでなければ勝ったとしても国内に大きな傷を残してしまうことになる。
ダハルマ卿が廃砦を攻略しようとせず平原を目の前にして陣を張ったのは、ツェンダフ側の主力をサリサリの砦から引き離すためである。彼も、ツェンダフ軍は短期に決着を着ける心づもりであると予想していた。だから、この廃砦をツェンダフ軍の出撃地点にするために、ダハルマ卿は砦を取らなかった。この砦をツェンダフ軍の出撃地点にするために、ツェンダフ軍は砦を確保する必要があった。両軍の構想は期せずして一致していた。
すなわち、この平原で雌雄を決する会戦が行われるのである。
「全軍停止、全軍停止」
復唱された命令がやまびこのように隊列に伝わって行く。それと同時に、伝令が命令を叫びながら、後方に駆けて行った。だが、大軍は簡単に進退できない。しばらくの間ゆるゆると動いていた軍勢は、ざわめきつつやがて停止した。
指揮官である老将ダハルマ卿は、街道沿いに畑が広がる平原を目前にして軍を停めた。自身はそのまま馬を進めると、少し先には西の山地からオーダ河に注ぐ小川が流れていた。小さな川だが、騎兵にとっては大きな障害となる。外堀代わりにするにはうってつけだった。
「ここに陣を張る、諸侯の代表と話して位置の調整を頼む。決まったら、陣の外周には荷車を並べて障壁とせよ。それと、作業の兵には水を汚さぬように、厠の位置に気を付けるよう重ねて伝えよ」
現役時代に率いていた兵なら言わずもがなの指示を、一々出さねばならない情けなさを感じてダハルマ卿は内心でため息をつく。こうして指示しないと、我先に良い場所を取ろうとし、自分たちのみの給水排水しか考えず、周りと度々諍いを起こす。平和に慣れ切った王国兵の練度の低さは如何ともしがたい。
彼が鍛えた兵は南部森林に張り付いたままで、後を任せた騎士は討伐軍への参加を拒否した。だがその判断を、ダハルマ卿は膝を打って称賛した。そういう男だからこそ後任を任せたのだ。ダハルマ卿か兵か、どちらかが健在であればクア藩国が国境を侵す事はない。南部の兵を内戦に投入したうえ、万が一にでも敗北すれば、南部は最悪の状況になるだろう。その代わりにダハルマ卿は技量も戦意も足りない、素人騎士を手駒としてこの戦いに臨まねばならない。治安維持と国境警備で戦い続けた歴戦の騎士でも、それは困難な戦いだった。
ダハルマ卿は齢六十を過ぎた老将である。日焼けした顔には皺が刻まれ、かつては黒錆のようだった青味がかった黒髪も既に半ば以上白くなっている程であった。だが、戦場で叩き上げた身体は年齢を感じさせぬほどしっかりしていた。兵も士官も皆甲冑を付けずに行軍しているが、一人ダハルマ卿のみは鎖帷子を纏っている。『普段から身に着けて、寝巻き代わりに使えるくらいに着慣れておけ』と、常日頃から言っていた事をこの歳になっても自ら実践している。騎士は常在戦場…が、彼の持論であった。
「諸侯の指揮官には、一燭時後に軍議と伝えよ。それから、陣が固まり次第そこの街道の橋の他に出撃用に仮橋をいくつかかけるよう命じよ。今日明日に開戦という事は無いから、これはさほど急がずとも良い」
「あの砦を抑えないのですか?」
腹心の従騎士グレイブスが、南西にかすかに見える崩れかけた城塞を指さした。
元々はツェンダフ領からの進軍を食い止めるために作られた城塞だが、ここの領主はツェンダフに組し、領主一族と騎士はツェンダフ領に合流している。砦は今はツェンダフ軍が抑えており、本来の役目とは逆に北から来る軍-討伐軍-を迎え撃つために盛んに補強を行っている。
「今はまだ造作も半ばですが、これ以上防備を固められたら抜くのが困難となります」
「それでいいのだ」
「え!?」
ツェンダフ領への入り口を抑える格好の位置にある砦を、ダハルマ卿は敵軍に譲るというのだ。
驚くグレイブスに、ダハルマ卿は意地悪そうに笑う。
「作戦については、軍議で話そう。そんな事より斥候を出す準備を急がせよ、西の山地とオーダ河にも忘れず出せよ。西は山頂まで進出して、山向こうの谷も監視しろ。迂回奇襲などされてはたまらんからな」
設営を進める一方で、ダハルマ卿は幕僚に矢継ぎ早に指示を出す。ここはもう敵地に等しい、ようやく行軍が終わって一休み…などと呑気をしている諸将の兵が動くのを待っていたら、あっという間に寝首を掻かれてしまう。
「閣下、ツェンダフ領内に入っていた密偵が復命しております。いかがされますか」
「会おう」
「承知しました」
ダハルマ卿は、騎士物語に登場するが如き古風の人物ではあるが、実戦でも常勝の軍人である。情報を何より重視している。本陣の天幕が準備されるのももどかしく、設営の混乱から離れた場所に床几だけを用意し密偵からの報告を受けた。しかし、もたらされた情報は、ダハルマ卿を困惑させるものだった。
グリフは一切の兵権を手放し、配下の兵共々マーキス卿に譲渡したのだという。グリフが言い出した事ではなく、彼自身も最初は難色を示し怒りさえ見せたが、『数の上でも主力となるのはツェンダフ領軍であり、指揮権を一本化しなければならない』というマーキス卿に押し切られて渋々応じたというのだ。
これはダハルマ卿の予想外だった。マーキス卿はグリフを一軍の将として据え、郎党達はその指揮下として動くと考えていた。彼らこそが王国で最も実戦経験の豊富な兵であり、それを最大に活かす事になるからだ。
「一応、大将はグリフ殿下となっているが、総指揮はダイオス卿…実権はマーキス卿か…」
ダハルマ卿は、しばし無言で情報を整理していた。
この情報は真実だろうか…?。
確かに説得力はある。むしろ、指揮権は一本化するのが正しい。実際グリフは、亡命した際に指揮権を一本化するとして、食客を指揮官に据えてその下に自分の家臣を付けている。総指揮官とされるダイオス卿は長くツェンダフ領の将を務めてきた、堅実で信頼に足る指揮官のはずだ。そもそも、グリフは見出した人材を家臣にはせず、王城へ出仕させていた。
だが、それは家臣も食客も為人を知り尽くしていたからこそ出来る事だ。それに、今や彼自身が郎党の主として三年もの間生死を共にしてきた。それをいきなりツェンダフ領軍の指揮下に入れろと要求され、納得するとは思えない。また、同じくグリフの許を離れるよう命じられた兵も納得するとは思えないかった。事実、鬼人の剣士はこの処遇を不服として、自分はグリフの命しか受ける気はない…と言い残して出奔してしまったらしい。これはツェンダフ領軍の中に、鬼人への不信感を持つ騎士が少なくない事も理由だという。行先は判らないが、ツェンダフ領内にはもう居ない事は確かなようだった。このような戦力を低下させるのが明らかな策を取るだろうか?何かの策略の匂いがするのは確かだ。
では、この情報は偽装だろうか?。トップ二人の不仲を装って油断を誘い、かつ鬼人は出奔したのではなく、姿を消して自由に動ける兵力とした。…とすれば、狙いは総大将である自分の首…である可能性が高い。だが、それにも違和感がある。鬼人に奇襲させるつもりなら、不仲など装わずあたかも本隊にいるように装った方が良いだろう。それに、偽装だとしても鬼人を戦力として欠く事に変わりはない。鬼人は一人で只人一小隊並みの働きをするという。正面戦闘での数の不利を覆す切り札になりえる。決戦を目の前にして、その戦力を欠くような真似はいかにも不自然だ。これが偽装だとしたら、鬼人はどこかに隠れていて、その上で鬼人が自由行動をとる可能性がある…と思わせる事に意味があるということか?
「判断するには情報が足りんな。引き続き敵陣内を探る事は可能か?」
「警戒が厳しく、かなりの密偵が狩られておりますが…最善を尽くします」
「まずはご苦労だった、酒保が開き次第これを渡せ。一息入れたらまた頼むぞ」
「はっ!」
便宜を図るよう命じるメモを渡し、密偵を送り出すと入れ替わりに幕僚の一人が報告を持って来た。
「閣下、仮ですが天幕を用意しました。諸将も集まっております。また、行軍中に先行して出していた偵騎が戻りました。報告はどちらで受けますか」
「判った、軍議を始める。偵騎の報告はその場で聞こう」
(さて、虚か実か……いずれにしろ情報が欲しい…判断を誤ればあやつらの大半は屍で故郷に帰る事になる)
ダハルマ卿はため息交じりで立ち上がった。
率いる騎士たちは、敵を侮り既に勝ったつもりになっている者が多かった。しかも、主家の権威を傘に指揮官の命令に何かと反抗する連中を、どうにか指揮して勝利し無事に帰さねばならない。だが、ダハルマ卿の勘は、この戦いが一筋縄では行かないと感じ取っていた。
報告に来た幕僚が、そのまま立っている。まだ報告すべき事があるのだろうか。
「なんだ?」
「騎士たちが、早速不満を漏らしています。休む間も与えず、疲れ切って敵襲を受けたらどうするだのと…。総大将のご命令に反すれば、抗命の罪で斬られる事も有りうる…と押し切りましたが、問題無かったでしょうか」
兵だけではない。ダハルマ卿は引退するにあたり幕僚も兵と共に南部に残して来た。南部域防備の兵は、周辺の領地と王家からの補助、そして多くはダハルマ卿の私費で賄われていた。だが、指揮官だけでなく幕僚まで入れ替えたら、軍が機能するまでに相当の時間が掛かってしまう。そう考えたダハルマ卿は首脳部ごと軍を引き渡した。まさか、隠居した後でまた軍を率いる事になるなど、想像もしていなかった。そのため、この戦では兵と共に司令部の幹部も自分で鍛えなければならない。急遽抜擢した副官たちは、王都での準備期間と行軍の間(不慣れな連中のせいでずいぶん時間のかかった)に手ずから指導した。彼らは、急造にしてはよくやってくれてはいるが、主家の爵位を笠に着る騎士たちとダハルマ卿の間で板挟みになっている。騎士達は彼らの指揮官の命に従う姿勢を隠そうともしない。さすがにダハルマ卿にあからさまに反抗する騎士はいないが、幕僚に対しては『虎の威を狩って大きな顔をしている』…と見下しているのだ。自分たちのしている事がまさにそれである事に気づかず。
「それでよい。お前達幕僚の命令は儂の命令だ。明日からの演習でそれを徹底させよう」
(なるほど、確かに指揮権を一本化したくなるな。騎士連中はこの数日で、少しばかり厳しくしごく必要がありそうだ……)
我が身に降りかかれば、マーキス卿の判断も真実味を帯びて見えてくるではないか。
少なくとも今日明日の開戦は無くとも、それほど時間を掛ける訳にはいかない。その短い期間に最低でも司令部からの命令通りに進退する集団にしなければ、戦いにもならない。ダハルマ卿一人で全軍に指揮を出せる訳がないのだから。
ダハルマ卿は自分の足取りの重さを感じながら軍議の天幕へと向かって行った。
ダハルマ卿が着陣する少し前、迎え撃つツェンダフの軍勢は領境であるオーダ河を越え、橋を抑えるサリサリの砦に入っている。この河はかなりの大河で、上流域では皇国との国境にもなっている。サリサリの砦はほとんど橋と一体化した要塞で、通行税を徴収する関もかねていた。ツェンダフ側も橋のたもとは要塞になっており、二つの勢力が一つの要塞に同居するような奇妙な状況となっている。とはいえ、現状ではこの地の領主はツェンダフ側の味方に引き込んでおり、橋も要塞も最初から勢力下である。
北から南に流れるオーダ河はこの近辺で西に蛇行し、河の西側を南北に延びる山脈と交差するように谷間を抜けて流れている。河を渡ると目の前直ぐに山地が連なっており、街道は山地に沿うように右へと曲がり、北へと河と並行するように伸びている。山と河に挟まれたこんな行き止まりに橋が造られたのは、戦略上の理由もさることながら何よりこの近辺のみ水深がやや浅くなっているためだった。それでも、架橋は長い年月と多くの犠牲者を出した難工事となったという。ここ以外に近辺に橋は無く、戦を前に近隣の川船はほとんど徴発されてツェンダフ領内に引き上げられている。軍勢が橋以外を使ってツェンダフ領内に進軍するのは困難であろう。
サリサリの砦を本陣としたツェンダフ軍は、更に歩兵を主体とした部隊を街道沿いに北に進出させると、丘の上の古い砦跡に入れた。ここには元々偵察の部隊が常駐しており、王国軍の動きを窺いながら防御強化工事を進めていた。
この砦は元々ツェンダフ領を警戒して作られたものだから、戦闘正面は南を想定している。それを北から進軍してくる討伐軍に向けるため、砦の東にある小さな丘にも陣地が築かれていた。そして、東西二つの丘の陣地を結んで堀が掘られ、土塁が掻き揚げられた。堀と土塁は南北に延びる街道を遮断している。東砦の先は河の流れに削られて急に落ち込み、湿地となっている。その先はオーダ河だから、騎兵や重装備の兵は身動きが取れない。西砦の先にはオーダ河の侵食の歴史を刻んだ河岸段丘の崖がいくつも残っており、そこから西は山地と森が連なっている。こちらも騎兵が自由に行動するには難しい地形である。つまりは、ツェンダフ領につながる細い回廊の入り口を東西二つの砦を結ぶ堀でふさぎ、回廊そのものを砦としたのである。
王国騎士は騎兵を主力としているため、大きな待機場所が必要になる。東西どちらの砦にも収容しきれるだけの規模はなかった。それに、西砦は段差が障害となり出撃しずらいし、逆に東砦は臨時砦のために防御が十分ではない。砦の防衛ラインから北は湿地が東よりに後退しているため、台地が広がっていた。王国軍の陣までは障害となるものはほとんど無く、騎兵は最大の力を発揮できるだろう。
「予想通りというべきか…動きませんでしたね」
城壁の上でメイガーが額に手をかざし、彼方を見つめながら言った。平原の向こうには、かすかに王国軍の旗印が林立しているのが見える。
「もしくは、誘われましたかな?」
「誘いが無くともここは確保する予定だった。一戦得したと思うことにしよう」
オーウェンが苦笑いしながら答える。二人とも、今はツェンダフ領軍の麾下として砦の防衛のために進出してきた。可能性は低いが、王国軍の妨害があるかもしれないと予測されたからである。案の定、王国軍はこちらの動きを静観しており、二人は交代する護衛の兵を残してサリサリ砦に戻るよう命じられている。相手は百戦錬磨のダハルマ卿である。こちらの動きは読まれていたに違いない。
「やはり、ダハルマ卿もこの平原での決戦を考えているのだろう。今のところ、予測を大きく外れていないが…さて、この先どう動くか…」
ツェンダフ軍も討伐軍も、この戦いには短期で決着をつけるつもりだった。
一見すれば、敵軍を狭い回廊に誘い込んでサリサリの砦に拠って迎撃するのがツェンダフ側の最上手に思える。この一戦に勝つだけならそうしただろう。だが、ツェンダフ側も持久戦を選択する事はできなかった。ダハルマ卿が無策で砦攻めなどするわけが無い。橋を挟んでの長期戦になる。この戦いは何より短期で決着を着けねばならない。そうでなければ勝ったとしても国内に大きな傷を残してしまうことになる。
ダハルマ卿が廃砦を攻略しようとせず平原を目の前にして陣を張ったのは、ツェンダフ側の主力をサリサリの砦から引き離すためである。彼も、ツェンダフ軍は短期に決着を着ける心づもりであると予想していた。だから、この廃砦をツェンダフ軍の出撃地点にするために、ダハルマ卿は砦を取らなかった。この砦をツェンダフ軍の出撃地点にするために、ツェンダフ軍は砦を確保する必要があった。両軍の構想は期せずして一致していた。
すなわち、この平原で雌雄を決する会戦が行われるのである。
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今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
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#ヒラ俺
この度ついに完結しました。
1年以上書き続けた作品です。
途中迷走してました……。
今までありがとうございました!
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追記:2025/09/20
再編、あるいは続編を書くか迷ってます。
もし気になる方は、
コメント頂けるとするかもしれないです。
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